鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

随想13.量子論の出現で、聖句の物理学的理解が飛躍

2016年12月30日 | 随想





物理学における量子論(量子物理学、量子力学ともいう)の出現はかなり革命的な出来事なようです。

従来のニュートン物理学はもちろん、

相対性理論のアインシュタイン物理学さえも、古典物理学に含めらることが多くなっていて、

いまや現代物理学は量子論だけ、という状況のようです。





<物質の根源は波動か>

量子論は、全ての物質の根源は波動(というエネルギー)だと明かしました。

それまで、物質を構成する究極要素は粒子というツブツブのものだとみられてきました。

原子、それを構成する、陽子、中性子、電子がそれです。

さらにそれはクオークというもう一段と微小な粒子で構成されているとされてきました。



+++

ところが量子物理学は、それらをまとめて素粒子といい、

その根源要素は波動であることを見出したのです。


ちなみに、このあたりをより詳細に言うと「粒子でもあり波動でもある」ことを明かした~となります。


実際、光子などは、粒子の現象と波動の現象との両方を現すことが、実験で確かめられています。




<根底は波動と解する>


だがそう聞くと、我々の良識は「どちらがより根底的か」という疑問を自然に抱きます。

鹿嶋のイメージでは、波動の方が根底的です。

粒子は波動の凝集体というイメージになります。

なぜなら、波動も凝集すると、一つのツブツブのような様相を示すだろうし、粒子の感触を与えるとも理解できるからです。


<意識も物質もともに波動で出来ている>


量子論では、どちらが根底的かまでいう必要がなく、そのままにしているようですが、鹿嶋は敢えて、波動と解します。

そうすると、聖書の記述には物理学的理解が可能になるところが突然増えてきます。

まず、人の意識と物質とが同一盤上に並んでくれます。


意識活動が波動であることは前からわかっていました。

だが、その波動が物質の根底のものでもあるとなれば、意識(波動)が物質化したり、物質に直接影響を与えるというのはごく自然なこととなるのです。


+++


たとえば、世上「思いは現実化する」とか、「イメージは現実化する」といいますよね。

こういう言葉が、コンサルタント諸氏のご高説による不思議現象でなくなります。

神秘面が少なくなるのですね。



なぜなら、ここで「現実化」とは「物質化」をいっています。

「思い」は波動であり、波動がその一形態である物質の様相を現すのは、物理的に起きうる自然なこととなるのです。





<アインシュタインの大発見>

相対性理論の創始者、アインシュタインは「エネルギーと物質とは相互変換関係にある」ことを明かしました。

彼は、「物質はエネルギーの一形態である」ともいったそうです。


だがこれもまた、素粒子の根底が波動である、ということからしたら、ごくごく当たり前のこととなるでしょう。

だって、エネルギーは波動なんですから。

その波動がたまたま凝縮して粒子(いわゆる物質)になったり、その凝集が解けて波動そのものになったりするのは、なにも不思議でないのですから。




<アインシュタインは死ぬまで量子論に反対していった>

余談ですが、そのアインシュタインは生涯、量子論に反対し続けたそうです。

+++

彼と論争した量子論の旗手ボーアは、次のような所論を展開しました~。


たとえば物質を波動ととらえると、粒子がもたらすような明確な結果を予想することは出来なくなります。

波動は互いに干渉し合いますから、動きの結果に漠然としたものが含まれてきます。

さらに、それを認識するとき、認識者は波動を出しますから、これがまた観測結果のあり方に影響します。

~だからボーアは、物質(量子)の動きは、確率でしか予測できない、といいました。




アインシュタインはこれに噛みついた。

「確率でしか認識できないなんて、神はそんなサイコロを振って決めるしかないように世界を造ってはいない!」


彼はエネルギーと物質との相互変換における量的関係も、簡明な数式で示しました。

E = M X C2 (Eはエネルギー。Mは物質の質量。 Cは光の速度。 2はCにかかる2乗の2)がそれです。

このように明確に示せるように世界は出来ていると,彼は信じ切っていたのです。


+++

だが、彼の死後、量子論の理論に実証されたものが出てきました。

量子論は、現代物理学となりました。

やはり人間はみな「時代の子」なのでしょうか。

アインシュタインのような天才でも、それを超えることは出来なかった、ということなのでしょうか。


  

<イエスの言葉は霊であり、また、いのち>

話を戻します。

量子論でもって物理的に理解しやすくなる聖句を一つあげてみます。

「わたしが諸君に話したことば霊であり、またいのちです」
    (ヨハネによる福音書、6章63節)

愛弟子のヨハネが記録した、イエスの言葉です。

これは理性的に解するには、なかなか難しい教えですね。

だか、波動論ではこうなります。


+++

言葉は意識波動の凝集体であり、霊もまた、見えない意識体であり波動体です。

どちらも波動であり、エネルギーです。


さらに、創造神から放射される波動エネルギーは、物資を循環運動させる力を持った「命エネルギー」です。

聖書ではこれを短く、いのち、と言っています。

だから「イエスの言葉は霊であり、また、いのち」となるのです。

このようにして、このイエスの言葉は、物理学的に理解できてきます。




<イエスの言葉を吟味瞑想していると>


余談です。

イエスの言葉は、聖書には沢山記されています。

これらがみなそういうエネルギー体であるならば、それを吟味し、抱き、瞑想していると、ある時驚異の力を現すはずです。

そういう論理になります。

(それ故でしょうか、米国の聖書には、イエスの言葉だけが赤字で印刷されているものがあります)

今回はここまでにしておきましょう。

量子論による聖句解読の話は、もう少し続けましょう。


 (随想13.量子論の出現で、聖句の物理学的理解が飛躍 ・・・ 完)







コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

随想12.イエスの血は「いのちエネルギー」の液状体?

2016年12月26日 | 随想






随想8で、鹿嶋は人間の血を考えました。

それは「いのちエネルギー」を霊から受け取り、身体の諸器官に循環運動をもたらす機能を持つ、と考えました。


こんどは「イエスの血」を考えましょう。
 
難しそうだけどね。

---


 「人の子」となって現れたイエスの身体には、人間のように血が流れています。

だが、この血は人間の血とは異なるものという論理が、聖書から読み解けます。





<ロゴス(言葉)が人となった>


まず、イエスの身体全体がどういうものかを考えましょう。

それについてはヨハネ伝の1章が述べています。

イエスは言葉(原文のギリシャ語、ロゴスを当面「言葉」としておきます)が人となった存在だという。

すると、イエスの身体も言葉から出来ていることになります。

「言葉は人となって我々の間に住まわれた」というヨハネ伝の聖句(1章14節)はそれを述べています。





<人間の体は土の塵から造られた>

他方、人間の身体がどうか、は「創世記」(2章7節)に記されています。

アダムの身体が「土の塵によって創られた」と記されている。

(そこに「いのちの霊」をふき入れられたのが、アダムということになっています)

その人間の身体に、血が流れているわけです。

鹿嶋は随想8で、その血が「いのちエネルギー」を含み、身体を循環して諸器官に「いのち」を配布している、と仮説したのでした。

その「いのち」が諸器官に循環運動をさせている、と解したのでした。

---

ところがイエスの身体は、塵でなく、創造神のことば(ロゴス)から出来ています。

「私の言葉は霊であり、またいのちです」というイエスの言葉が示すように、創造神の言葉は、霊です。

イエスの身体は霊なのです。


+++

余談ですが、ですからイエスが復活するときには、その身体がそのまま復活します。

それ故、弟子たちは、復活したイエスにあったとき、その手の釘あとの穴や、脇腹の槍の刺し傷を見ることになります。

 
他方、人間の身体は土ですから、死んだら崩壊消滅してしまいます。

復活するときには、人間の場合は、その霊が身体になるのです。







<霊が霊に対応する>


話を戻します。

イエスの身体は霊ですから、それは人間の霊に対応し得ます。

そこでイエスの身体の死は、霊の死となり、それは人間の霊の死の代償になり得ます。

これがイエスが十字架刑死して、人間の霊の死を代償するという構図を形成します。





<いのちの液状体>

さて、そういうイエスの身体を流れている血も、人間とは違うはずです。

これについて鹿嶋はまた大胆な仮説を立てましょう。

「イエスの血はいのちエネルギーそのものが液体化したもの」というのがそれです。





<イエスの血の効能>

さあ、そうすると、様々な推論が可能になります。


第一にイエスの血は、罪を相殺してしまいます。

罪は死のエネルギーをもっています。

罪の報酬は死、というのはそれをいっています。


+++


死のエネルギーとは、いのちのマイナスのエネルギーです。

対してイエスの血は、いのちのプラスエネルギーの液状化したものです。


このいのちエネルギーは、死のエネルギーに負けてしまうことはありません。

「闇は光に打ち勝たなかった」(ヨハネ伝、1章5節)はそれを言っています。

この血の持つプラスのいのちエネルギーは、死のエネルギーを相殺してしまうのです。


---

第二に、イエスの血は悪霊を追い出します。

イエスの血が、いのちエネルギーの液状体であるならば、

悪霊は、自らのエネルギーである、死のエネルギーが相殺されるのを恐れ、
逃げるのです。

また、イエスの血には創造神の権威もともなっています。

それは悪霊には恐ろしいものとなります。

ですからイエスの血の権威を人間が宣言すると、悪霊は逃げて出て行くことになります。

---

第三は、イエスの血は、契約の確証力を持ちます。

これについては、前述しました。

その血の権威を確信する人は、その契約(約束)の中に平安を得て定住できるようになります。 





このように、イエスの血には、その契約の言葉を確証する以外にも、さまざまな効能が考えられます。

それはおかしなことではありません。

そもそも、聖書は「いのち方程式の本」ともいえる性格を持っています。

だから、いのち凝集体である「イエスの血」が様々な働きをするのは自然なことでもあるのでしょう。


(随想12.イエスの血は「いのちエネルギー」の液状体?  ・・・・完)












コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする