
こんにちわ。
「キリスト教の正しい学び方」、本日も進めて参りましょう。
キリスト教の最大にして根底的なテーマは福音です。
その福音への信仰内容は、人によって差があります。
ここで、教理統一派と聖句自由吟味派との福音信仰の違いを見ておこうと思います。
二つの教会のその面での違いを浮上させておくのは、歴史考察に有効だと思えるのです。

<福音とは>
福音とは、~
「イエスの名が、創造神の子で救い主の名だと信じれば、霊にいのちエネルギーが充電される」
~という知らせです。
確認のために、その福音の神髄を述べた聖句を、示しておきましょう。
一つは、『ヨハネ伝』冒頭部分の聖句です。

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「・・・この方〈イエス)を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、
創造神の子供とされる特権を(イエスは)お与えになった」
(ヨハネによる福音書、1章12節)
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「霊にいのちエネルギーが充電されると、自動的に創造神の子になる」というのは、聖書の鉄則です。
だから、これは、福音を述べた聖句となるのです。
~もう一つ、これも『ヨハネ伝』の中の聖句です。
こちらは最後の「締めくくり」というか「あとがき」のような位置にある聖句です。

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「この書(ヨハネが書いている福音書)には書かれていないが、まだほかの多くのしるし(奇跡)をも、イエスは弟子たちの前で行われた。
しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが創造神の子キリスト(救い主)であることを、あなた方が信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである」
(ヨハネによる福音書、20章30~31節)
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『ヨハネ伝』は、イエス最愛の弟子、ヨハネが書いたイエスの伝記です。
ヨハネは、自分の「イエス伝」の冒頭と最後の締めくくりを、福音の神髄でサンドウィッチしているのです。

<「信じる」とは「肯定的に認識する」こと>
少し説明を加えましょう。
ここで「信じる」とは、前述しましたように、「肯定的に認識すること」です。
「イエスを信じる」というのは、「イエスを肯定的に認識する」ということになります。
そして、「肯定的に認識」すれば、人はその対象のイメージを心の内に受け入れ、保ちます。
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「信じない」というのは、「否定的に認識する」ということです。
「否定的に認識」すれば、人はその対象のイメージを心から閉め出します。
「イエスを信じない」というのは、「イエスのイメージを心から閉め出し、心に保たない」ということになります。

<どちらの教会員も、福音は信じている>
福音メッセージ(よき知らせ)は、イエスの口から出たものです。
このメッセージについては、教理統一教会の会員も、自由吟味教会の会員も共に信じて心の内に保っています。
それは人間個々人の幸福に、ずばり直接かかわるメッセージだからです。
教理統一教会では、教団本部からその解釈が正統教理として発せられ、信徒はそれを受け入れ、心中に保ちます。
+++
それはよくわかる話ですが、自由吟味派の教会員については、少し説明が要ります。
彼らは、全てのメッセージを聖句そのものに照らし合わせて、吟味します。
その際、福音メッセージもまた吟味します。
そのことから、彼らは吟味する前には信じていないだろうと想像をすることも出来ます。
だが、実際にはそうではありません。
福音は、自分の幸福にずばり直接関わっている基底メッセージです。
生きる人間にとって、これは、聖書の中の言葉(聖句)のなかでも、根底のものです。
自由吟味者も、やはりこれは、出発点から、まずは肯定的に認識して(信じて)かかります。
でないと、実際の話、他の関連聖句を力強く吟味していく意欲は起きないし、一時的にその気になったとしても持続しないのです。
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たしかに、聖書の中で真理を、自由吟味でもって探求していくのも、喜びのある活動です。
「知」の欲求が満たされるというのは、本当に楽しいことです。
それをスモールグループでもって助け合いながら進めていくのも楽しいことです。
その活動の中で得られる相互共感と友情も、 大きな喜びになります。
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けれども、自由吟味者はその活動を、殺戮される危険と常時背中合わせにありながら、やり続けたのです。
それには、福音への確信が大きくあずかっていたはずです。
たとえ肉体は殺されても、自分の霊は、活力を持って永遠に存続する。
福音を信じていることによって、「いのち」を得て永続する。
このことを確信することで、心にわき上がる勇気と開放感がもたらす力は大きかったはずです。

<吟味は確信を深める>
自由吟味者は、福音を肯定したうえで、その背景にある論理体系を吟味検討して見出していきます。
すると、彼らの福音信頼には「知性」が加わります。
信頼感覚に「知」の筋道が入る。
世に言う「理論武装」というのは、そういうことでしょうが、それを通して彼らの福音への認識は深まったでしょう。
それは、彼らが、殺戮される危険に常時おかれながらも、動じることなく自由吟味活動を続けられた大きな原因だったと思われます。

<聖句吟味の一事例>
ただし、彼らが抱く「知」の論理体系には、ひとりひとりに特有な個性的な部分が含められています。
個人の聖書解釈自由の原則の上で、各々が自ら納得できる聖句解釈を求めていくからそうなるのです。
そうしたなかで、筆者が考えてきた論理を、一例として示してみましょう。
これまで述べてきた知識を援用しながらやってみます。














(以下は理屈で、長くなります。ここからの、このハウスマークで囲まれた部分は、飛ばしてもいいです)

<肉体に霊が入っている>
福音の論理を理解するには、まず聖書の人間構造観を知ることが必要です。
聖書では、人間は「肉体に霊が入っている」という構造になっているという認識です。
肉体は、我々が肉眼で見ている身体です。
聖書では、その中に霊体ともいうべき、霊が入っているとする。
それが人間の意識の本体だという認識です。

<霊の意識は「潜在意識」に相当>
霊は意識体です。
それは肉体の中に入っている間は、その人の深いところの意識を形成します。
フロイトの深層心理学でいうと、潜在意識を形成しているといえるかもしれません。

<霊はいのちで充電されうる>
また、霊は「いのち」を吸収・蓄積できます。
聖書でいう「いのち」はエネルギーのような概念です。
このエネルギーは、まるで、電池に充電されるかのように、人の霊に吸収・充電され得ます。
これについては、霊を充電式乾電池のように、そして、「いのち」を電気エネルギーのように考えるとイメージしやすいでしょう。

<「いのち」は霊に喜びの意識を形成する>
いのちで充電された霊は、活力を持った「活霊」になります。
すると霊の意識は、メリハリのきいたハッキリしたものになる。
+++
また霊がその状態にある時、人は深い喜びに満たされます。
自らの霊にいのちというエネルギーが充電されると、その人の意識の深いところに、 深い喜びが形成されるのです。
+++
他方、この充電がなされてない霊は「死霊」です。
それは活力なく、意識は弱々しく、ボ~としていて、鬱状態にあります。

<いのち充電されるには>
では、いのち充電されるにはどうしたらいいか。
その方法は簡単で、「イエスの名が、創造神の子で人間を救う方の名、だと信じること」これだけです。
福音とは、このことを知らせる「よき知らせ」というわけです。

<ソシュール「記号論」の発見>
次に、「名」についても考えておきます。
イエスの名を例にとりましょう。
「名」は、「イ・エ・ス」という音や文字による信号でできていますが、それだけでない。
それが持つ「意味」もセットとしてもっているものです。
意味とは、たとえば、「創造神の子」「救い主」「いのちを与える方」といった事柄です。
+++
そのことを明らかにしたのは、哲学者ソシュールです。
彼は、名というものが、「単に物事を指し示す信号であるだけでなく、その意味をもセットでもちあわせている実体」であることを、明らかにしました。
この認識論を、日本では記号論というのですが、彼はこの仕事によって「記号論」の元祖とされています。
彼はフランス人で、信号を「シニファン」といい、意味を「シニフィエ」と、フランス語でいっています。

<イエスとは「イエスの名」>
これを援用してイエスという名を考えましょう。
イエスの名も、音や文字によって示される信号だけでなっているのではない。
その信号に連なっている意味をも、潜在的にセットで持ち合わせている。
~ということになります。
われわれは、イエスをその顔や姿や髪型や着物などで想像することが出来ます。
伝記に記された様々な事柄から色んなイメージを心に描くことが出来ます。
だが、それらは多様で「まとまり」をもちません。
他の人々と明確に区分する境界線をもちません。
だから、人は実際には、漠然としかその全体像がイメージできません。
+++
他方、イエスという名には、その全てが含まれているのです。
これには、イエスに関するエッセンスが、最も効率的に凝縮されているのです。
創造神のひとり子、人間を救う方、等々の意味もすべて凝集されている。
凝聚されて、「まとまり」をもっている。
そしてそのイメージは、「イ・エ・ス」という信号によって、他の人々と、明確に区分されています。
+++
だから、「イエスを肯定的に認識する」のも「イエスの名」を肯定的に認識するのが断然効率的だということとなります。
福音において「イエスの名を信じる」とされているのは、そういう認識構造上の理由があるのです。

<「名」もまた量子>
もう少し行きましょう。
こんどは、前述した量子力学(量子論)の知識を援用しますよ。
量子論は、陽子や中性子や電子や光子の実体は、量子という運動体であることを明かしました。
量子は波動の塊のようなイメージのものです。
それは運動体であり、波動を発しています。
+++
「名」(という記号)もまた量子でできています。
名はその「信号」によって、人の知覚に影響を与え続けています。
たとえば、紙に黒インクで書かれた「イエス」という文字は、その信号を放射し続けています。
そうやって人の認知エネルギーを誘発する活動を常時続けています。
「名」はそういう力をもっている実体なのです。
また名は、その「意味」によって、受信者に意味をイメージさせます。
そういう精神エネルギーのかかる仕事を誘発する働きをも、し続けています。
~このような力、エネルギーを「名」は放射しているのです。

<受け入れた心の中で効力を発揮>
すると、イエスの名は、それを肯定的に受け入れた人の心の中で、その効力を発揮し続けることになります。
言い換えれば、その名を信じると、それは、その人の中で量子的な力を放射し続けるのです。

<いのちは霊のエネルギー>
福音の言葉である「イエスの御名によっていのちを得る」の「いのち」についても、考えておきましょう。
前述したように聖書では、それは一種のエネルギーのような概念になっています。
+++
他方、イエスの名を肯定的に認識して受け入れると、その人の心を構成する霊は変化します。
その変化した霊に、 「いのちエネルギー」は、吸収・充電される、と考えたらどうでしょうか。
~すると、上記の「イエスの御名によっていのちを得る」という聖句は、論理的に理解できてきます。
イエスを受け入れた霊は~その霊は~いのちを得て、活き活きした「活霊」になるというわけです。

<生まれたままの霊は「死霊」>
実はこの論理の背景には、聖書特有の前提思想があります。
人の霊にかんする思想です。
人はその霊が「いのちエネルギー」による充電が不全な状態で生まれてくる、という認識が聖書にはあるのです。
+++
人間は「オギャー」と生まれたとき、すでに、その霊が不完全充電状態にある、というのです。
その後、歳とっていく過程で、自然放電もあるでしょう。
だから人の霊は、自然なままでは、不完全充電状態にある、というのです。
+++
不完全充電の霊は、いうなれば「死霊」です。
これは前述の「活霊」というのに対比している用語です。
生まれたままでは、人の霊はみな死霊なのです。
福音の論理には、そういう認識が背景にあります。

<霊とコンピューター>
さらに進みましょう。
人間は肉体が生きている間は、「自分の霊が死霊である」という自覚がありません。
(霊があるという自覚もありません。 実はうっすらとは霊感で感じているのですが・・・)
この論理は、人の意識活動をコンピューターになぞらえてみると、理解しやすいです。
やってみましょう。

<生きてる間は霊は肉体と協働している>
肉体が生きている間は、霊は身体の中にあります。
そして脳神経系と協働して人の意識活動を形成しています。
+++
このときの霊と脳神経との関係が、コンピューターに対応させてイメージできるのです。
たとえば、こんな風にです~。
霊はハードディスクです。
そこには意識情報が収納され・蓄積されています。
+++
脳神経系は、ランダムメモリーとモニターとキーボードのようです。
人間が思考活動をするとき、脳はまず霊(ハードディスク)から意識内容(データ)を、とりだします。
そしてそれを顕在意識領域(ランダムメモリー)に広げます。
次に、頭脳は、その意識内容をハッキリ認識できるようにします。
この作業が、モニターに映して映像化するのに、対応しています。
そして、人はモニターを見ながら、意志の力でその内容に操作を加えます。
これが、キーボードでの打ち込みに対応しています。
この作業が終わると、脳はその加工された情報内容を霊(ハードディスク)に収納するわけです。

<肉体と協働している間は、霊の自覚は困難>
このように、肉体の中にある間には、人の霊は脳神経系と協働していると考えられます。
そして、それなりに機能を果たしています。
脳神経系に動かされて、受け身で機能を果たしているわけです。
だが、脳神経系と協働している間は、人は自分の霊がほとんど自覚できません。
従って、自分の霊が、脳神経系に動かされているだけで、実は活力の欠けた死霊であることをも、よく自覚できません。

<肉体を抜け出ると死霊も自らを自覚>
けれども肉体を抜け出ると、霊は自分を自覚し始めます。
死霊は自分が死霊であることを自覚し始める。
自分に活力がないことを自覚する。
活力がないので、もうこれといった行動ができないことも自覚するのです。
そこでただ「ボ~」として空中を漂っているしかありません。
この世の地表に「ぼ~」として存続することもあるでしょう。
一般に「地縛霊」という名で感知されているのは、こういう霊なのかもしれません。

<活霊は元気状態なまま>
他方、イエスの名を心に受け入れた人の霊はどうか。
福音によれば、その霊は「いのち」を充電されています。
そして「活霊」になっています。
+++
こちらの霊には生命力があります。
それは肉体を抜け出ても、活力のある状態でいます。
ちなみに、聖書の思想では、この霊は、パラダイスというところにいくことになっています。
パラダイスはもともとは聖書用語ですが、その意味は聖書にも説明されておりません。
「活霊が天国に入るまでの間、休むところ」とも想像できますが、よくわかりません、
おそらく、天使に導かれていく、と推察されますが、直接そう書かれた聖句は聖書にはありません。

<生きていて信じるものは、死ぬことがない>
おまけです。
今述べたような神学論理は、イエスの次の言葉~難解なこの言葉~の意味も理解させてくれます。

・・・・・・・・・・・・・
「生きていてわたし(イエス)を信じるものは、死ぬことがありません」
(ヨハネによる福音書、11勝25節)
・・・・・・・・・・・・・

~がそれです。
ここで、「生きていて」というのは「肉体が生きている間に」という意味です。
「死ぬことがない」は、霊が「自分が死んだ」と自覚することがない、と理解できます。
+++
これもまた、死霊を対比させるとその意味がハッキリしてきます。
前述のように人は肉体が生きている間は、自分の霊を自覚できません。
だが、肉体を離れ、脳神経系と協働できなくなると、その霊は自分を自覚できるようになる。
死霊の場合は、「自分がエネルギーの欠けた、死んだ状態である」ということを自覚します。
つまり、「死」を自覚するのです。
それが上記聖句での「死ぬこと」の意味になります。
+++
他方、肉体が生きている内にイエスの名を信じた人の霊は、すでにその時点で活霊になっています。
すると、肉体を抜け出ても、活霊のままということになります。
つまり、信じた人の霊は、もう、肉体を離れても、「生きている感覚のまま」なのです。
「自分は死んでいる」という自覚をすることがない。
+++
「たとえ死んでも生きる」は、そのように理解できます。
(ここまでは、当分、スキップしていいところです)















以上長々と論理の一例を述べてきました。
だが、福音の言葉それ自体は短いです。
「イエスの名が、創造神の子で救い主の名だと信じれば、霊にいのちエネルギーが充電される」
~という知らせ。
それだけですからね。
自由吟味活動者の場合は、それに、たとえば上記のような理屈をつなぎ合わせているわけです。
様々な聖句と照らし合わせて、それをしている。
これはまあ、外部の人から見ると、馬鹿な「理屈遊び」をしてるようにみえます。
だが、米国南部の自由吟味教会では、こうした議論を、毎週礼拝前に行っています。
数人毎のスモールグループに分かれて、その後の全体礼拝と同じ時間をかけて、やっています。

<幼子のように>
そしてここで、大切なことがあります。
それは~
そういう論理体系がないと、福音の言葉の効力はなくなる、というようなことは、ない
~ということです。
短い福音の言葉を抱くだけでいい。
いや、イエスの名を肯定的に認識するだけでもいい。
(そこに福音の神髄はすべて凝聚されているのだから)
それで、霊にいのちエネルギーが充電される効果は得られる~といいう論理に聖書ではなっているのです。
+++
すると、この効果は、幼子にも発揮されることになります。
幼子には、短い福音の言葉の背景にある、聖書的、神学的な意味など理解することは出来ませんよね。
だが、それでいいというのです。
彼らが「神の子イエス様~、救い主イエス様~」と信じると、それだけで「いのちエネルギー」は彼らの霊の内に充電されていくことになる。
それが聖書の論理です。
+++
それだけではありません。
この幼子のような信頼が、最も霊に「いのち}充電を受けやすいという論理も聖書にはあります。
イエスの次の言葉はそれを示唆しています。

・・・・・・・・・・・
「・・・子供のように神の国を受け入れるものでなければ、決して神の国に入ることは出来ません」
(ルカによる福音書、18章17節)
・・・・・・・・・・・・・・

詳しい説明は省きますが、ここで「神の国(店の創造主王国)に入る」というのは、霊が充電されたことに伴って自動的に起きる、将来の出来事です。
+++
だったら、福音(よき知らせ)の効力は教理統一教会の信徒にも実現するのではないか?
そのとおりです。
福音(よきメッセージ)は、教理統一教会でも効力を発揮するのです。

<究極的には五十歩百歩>
これにはおそらく、次のような真理が込められているでしょう~。
そもそも、吟味・検討を深めていくからといって、人間が福音の奥義を極めつくすような事態は起きません。
人間の、認識力には限界があるのです。
だから、創造神の目からすれば、聖句吟味者の信頼は、つまるところは、「幼子の信頼」と五十歩百歩なのです。
そこでさきほどの~
・・・・・・・・・・・
「・・・子供のように神の国を受け入れるものでなければ・・・・」
(ルカによる福音書、18章17節)
・・・・・・・・・・・・・・
~となるわけです。
(ここで信仰者の読者の方のために、讃美歌を一曲入れておきますね)

<自由吟味者の利点>
では、自由吟味者の活動は、全く無駄なのか?
そうでもなさそうです。
各々が自由吟味をして自分の神学論理体系を抱くことには、次のような利益はあるでしょう~。
① 福音への信頼感が深くなる。
② 外部者の攻撃に対する、精神力が強くなる。
③ 人に福音を教える力が豊かになる。
④ 同志の間での、コミュニケーション力が高くなる。
~こんなところでしょうか。
今回はこれまでにしておきましょう。
(Vol.25 教理統一主義者と自自由吟味者の福音信仰の違い 完)
