鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.25  教理統一主義者と自自由吟味者の福音信仰の違い

2016年04月27日 | キリスト教の正しい学び方





こんにちわ。

「キリスト教の正しい学び方」、本日も進めて参りましょう。

キリスト教の最大にして根底的なテーマは福音です。

その福音への信仰内容は、人によって差があります。

ここで、教理統一派と聖句自由吟味派との福音信仰の違いを見ておこうと思います。

二つの教会のその面での違いを浮上させておくのは、歴史考察に有効だと思えるのです。






<福音とは>

福音とは、~

「イエスの名が、創造神の子で救い主の名だと信じれば、霊にいのちエネルギーが充電される」

~という知らせです。

確認のために、その福音の神髄を述べた聖句を、示しておきましょう。

一つは、『ヨハネ伝』冒頭部分の聖句です。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「・・・この方〈イエス)を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、
創造神の子供とされる特権を(イエスは)お与えになった」
  
(ヨハネによる福音書、1章12節)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




「霊にいのちエネルギーが充電されると、自動的に創造神の子になる」というのは、聖書の鉄則です。

だから、これは、福音を述べた聖句となるのです。

~もう一つ、これも『ヨハネ伝』の中の聖句です。

こちらは最後の「締めくくり」というか「あとがき」のような位置にある聖句です。




・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「この書(ヨハネが書いている福音書)には書かれていないが、まだほかの多くのしるし(奇跡)をも、イエスは弟子たちの前で行われた。

しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが創造神の子キリスト(救い主)であることを、あなた方が信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである」

(ヨハネによる福音書、20章30~31節)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




『ヨハネ伝』は、イエス最愛の弟子、ヨハネが書いたイエスの伝記です。

ヨハネは、自分の「イエス伝」の冒頭と最後の締めくくりを、福音の神髄でサンドウィッチしているのです。







<「信じる」とは「肯定的に認識する」こと>


少し説明を加えましょう。

ここで「信じる」とは、前述しましたように、「肯定的に認識すること」です。

「イエスを信じる」というのは、「イエスを肯定的に認識する」ということになります。

そして、「肯定的に認識」すれば、人はその対象のイメージを心の内に受け入れ、保ちます。


+++

「信じない」というのは、「否定的に認識する」ということです。

「否定的に認識」すれば、人はその対象のイメージを心から閉め出します。

「イエスを信じない」というのは、「イエスのイメージを心から閉め出し、心に保たない」ということになります。




<どちらの教会員も、福音は信じている>

福音メッセージ(よき知らせ)は、イエスの口から出たものです。

このメッセージについては、教理統一教会の会員も、自由吟味教会の会員も共に信じて心の内に保っています。

それは人間個々人の幸福に、ずばり直接かかわるメッセージだからです。

教理統一教会では、教団本部からその解釈が正統教理として発せられ、信徒はそれを受け入れ、心中に保ちます。


+++

それはよくわかる話ですが、自由吟味派の教会員については、少し説明が要ります。

彼らは、全てのメッセージを聖句そのものに照らし合わせて、吟味します。

その際、福音メッセージもまた吟味します。

そのことから、彼らは吟味する前には信じていないだろうと想像をすることも出来ます。

だが、実際にはそうではありません。

福音は、自分の幸福にずばり直接関わっている基底メッセージです。

生きる人間にとって、これは、聖書の中の言葉(聖句)のなかでも、根底のものです。

自由吟味者も、やはりこれは、出発点から、まずは肯定的に認識して(信じて)かかります。

でないと、実際の話、他の関連聖句を力強く吟味していく意欲は起きないし、一時的にその気になったとしても持続しないのです。


+++

たしかに、聖書の中で真理を、自由吟味でもって探求していくのも、喜びのある活動です。

「知」の欲求が満たされるというのは、本当に楽しいことです。

それをスモールグループでもって助け合いながら進めていくのも楽しいことです。

その活動の中で得られる相互共感と友情も、 大きな喜びになります。


+++

けれども、自由吟味者はその活動を、殺戮される危険と常時背中合わせにありながら、やり続けたのです。

それには、福音への確信が大きくあずかっていたはずです。


たとえ肉体は殺されても、自分の霊は、活力を持って永遠に存続する。

福音を信じていることによって、「いのち」を得て永続する。

このことを確信することで、心にわき上がる勇気と開放感がもたらす力は大きかったはずです。





<吟味は確信を深める>


自由吟味者は、福音を肯定したうえで、その背景にある論理体系を吟味検討して見出していきます。

すると、彼らの福音信頼には「知性」が加わります。

信頼感覚に「知」の筋道が入る。

世に言う「理論武装」というのは、そういうことでしょうが、それを通して彼らの福音への認識は深まったでしょう。

それは、彼らが、殺戮される危険に常時おかれながらも、動じることなく自由吟味活動を続けられた大きな原因だったと思われます。





<聖句吟味の一事例>


ただし、彼らが抱く「知」の論理体系には、ひとりひとりに特有な個性的な部分が含められています。

個人の聖書解釈自由の原則の上で、各々が自ら納得できる聖句解釈を求めていくからそうなるのです。

そうしたなかで、筆者が考えてきた論理を、一例として示してみましょう。

これまで述べてきた知識を援用しながらやってみます。








  

(以下は理屈で、長くなります。ここからの、このハウスマークで囲まれた部分は、飛ばしてもいいです)






<肉体に霊が入っている>


福音の論理を理解するには、まず聖書の人間構造観を知ることが必要です。

聖書では、人間は「肉体に霊が入っている」という構造になっているという認識です。

肉体は、我々が肉眼で見ている身体です。

聖書では、その中に霊体ともいうべき、霊が入っているとする。

それが人間の意識の本体だという認識です。




<霊の意識は「潜在意識」に相当>


霊は意識体です。

それは肉体の中に入っている間は、その人の深いところの意識を形成します。

フロイトの深層心理学でいうと、潜在意識を形成しているといえるかもしれません。




<霊はいのちで充電されうる>


また、霊は「いのち」を吸収・蓄積できます。

聖書でいう「いのち」はエネルギーのような概念です。

このエネルギーは、まるで、電池に充電されるかのように、人の霊に吸収・充電され得ます。

これについては、霊を充電式乾電池のように、そして、「いのち」を電気エネルギーのように考えるとイメージしやすいでしょう。





<「いのち」は霊に喜びの意識を形成する>


いのちで充電された霊は、活力を持った「活霊」になります。

すると霊の意識は、メリハリのきいたハッキリしたものになる。

+++

また霊がその状態にある時、人は深い喜びに満たされます。

自らの霊にいのちというエネルギーが充電されると、その人の意識の深いところに、 深い喜びが形成されるのです。

+++

他方、この充電がなされてない霊は「死霊」です。

それは活力なく、意識は弱々しく、ボ~としていて、鬱状態にあります。






<いのち充電されるには>

では、いのち充電されるにはどうしたらいいか。

その方法は簡単で、「イエスの名が、創造神の子で人間を救う方の名、だと信じること」これだけです。

福音とは、このことを知らせる「よき知らせ」というわけです。






<ソシュール「記号論」の発見>


次に、「名」についても考えておきます。

イエスの名を例にとりましょう。

「名」は、「イ・エ・ス」という音や文字による信号でできていますが、それだけでない。

それが持つ「意味」もセットとしてもっているものです。

意味とは、たとえば、「創造神の子」「救い主」「いのちを与える方」といった事柄です。


+++


そのことを明らかにしたのは、哲学者ソシュールです。

彼は、名というものが、「単に物事を指し示す信号であるだけでなく、その意味をもセットでもちあわせている実体」であることを、明らかにしました。

この認識論を、日本では記号論というのですが、彼はこの仕事によって「記号論」の元祖とされています。

彼はフランス人で、信号を「シニファン」といい、意味を「シニフィエ」と、フランス語でいっています。




<イエスとは「イエスの名」>


これを援用してイエスという名を考えましょう。

イエスの名も、音や文字によって示される信号だけでなっているのではない。

その信号に連なっている意味をも、潜在的にセットで持ち合わせている。

~ということになります。


われわれは、イエスをその顔や姿や髪型や着物などで想像することが出来ます。

伝記に記された様々な事柄から色んなイメージを心に描くことが出来ます。

だが、それらは多様で「まとまり」をもちません。

他の人々と明確に区分する境界線をもちません。

だから、人は実際には、漠然としかその全体像がイメージできません。


+++

他方、イエスという名には、その全てが含まれているのです。

これには、イエスに関するエッセンスが、最も効率的に凝縮されているのです。

創造神のひとり子、人間を救う方、等々の意味もすべて凝集されている。

凝聚されて、「まとまり」をもっている。


そしてそのイメージは、「イ・エ・ス」という信号によって、他の人々と、明確に区分されています。


+++


だから、「イエスを肯定的に認識する」のも「イエスの名」を肯定的に認識するのが断然効率的だということとなります。

福音において「イエスの名を信じる」とされているのは、そういう認識構造上の理由があるのです。






<「名」もまた量子>



もう少し行きましょう。

こんどは、前述した量子力学(量子論)の知識を援用しますよ。


量子論は、陽子や中性子や電子や光子の実体は、量子という運動体であることを明かしました。


量子は波動の塊のようなイメージのものです。

それは運動体であり、波動を発しています。


+++

「名」(という記号)もまた量子でできています。

名はその「信号」によって、人の知覚に影響を与え続けています。

たとえば、紙に黒インクで書かれた「イエス」という文字は、その信号を放射し続けています。


そうやって人の認知エネルギーを誘発する活動を常時続けています。


「名」はそういう力をもっている実体なのです。


また名は、その「意味」によって、受信者に意味をイメージさせます。

そういう精神エネルギーのかかる仕事を誘発する働きをも、し続けています。


~このような力、エネルギーを「名」は放射しているのです。






<受け入れた心の中で効力を発揮>


すると、イエスの名は、それを肯定的に受け入れた人の心の中で、その効力を発揮し続けることになります。

言い換えれば、その名を信じると、それは、その人の中で量子的な力を放射し続けるのです。






<いのちは霊のエネルギー>


福音の言葉である「イエスの御名によっていのちを得る」の「いのち」についても、考えておきましょう。

前述したように聖書では、それは一種のエネルギーのような概念になっています。


+++


他方、イエスの名を肯定的に認識して受け入れると、その人の心を構成する霊は変化します。

その変化した霊に、 「いのちエネルギー」は、吸収・充電される、と考えたらどうでしょうか。


~すると、上記の「イエスの御名によっていのちを得る」という聖句は、論理的に理解できてきます。


イエスを受け入れた霊は~その霊は~いのちを得て、活き活きした「活霊」になるというわけです。







<生まれたままの霊は「死霊」>


実はこの論理の背景には、聖書特有の前提思想があります。


人の霊にかんする思想です。


人はその霊が「いのちエネルギー」による充電が不全な状態で生まれてくる、という認識が聖書にはあるのです。


+++


人間は「オギャー」と生まれたとき、すでに、その霊が不完全充電状態にある、というのです。


その後、歳とっていく過程で、自然放電もあるでしょう。


だから人の霊は、自然なままでは、不完全充電状態にある、というのです。


+++


不完全充電の霊は、いうなれば「死霊」です。

これは前述の「活霊」というのに対比している用語です。


生まれたままでは、人の霊はみな死霊なのです。

福音の論理には、そういう認識が背景にあります。





<霊とコンピューター>


さらに進みましょう。


人間は肉体が生きている間は、「自分の霊が死霊である」という自覚がありません。

(霊があるという自覚もありません。 実はうっすらとは霊感で感じているのですが・・・)


この論理は、人の意識活動をコンピューターになぞらえてみると、理解しやすいです。

やってみましょう。






<生きてる間は霊は肉体と協働している>


肉体が生きている間は、霊は身体の中にあります。

そして脳神経系と協働して人の意識活動を形成しています。


+++


このときの霊と脳神経との関係が、コンピューターに対応させてイメージできるのです。

たとえば、こんな風にです~。


霊はハードディスクです。

そこには意識情報が収納され・蓄積されています。

+++


脳神経系は、ランダムメモリーとモニターとキーボードのようです。


人間が思考活動をするとき、脳はまず霊(ハードディスク)から意識内容(データ)を、とりだします。

そしてそれを顕在意識領域(ランダムメモリー)に広げます。


次に、頭脳は、その意識内容をハッキリ認識できるようにします。

この作業が、モニターに映して映像化するのに、対応しています。



そして、人はモニターを見ながら、意志の力でその内容に操作を加えます。

これが、キーボードでの打ち込みに対応しています。


この作業が終わると、脳はその加工された情報内容を霊(ハードディスク)に収納するわけです。





<肉体と協働している間は、霊の自覚は困難>


このように、肉体の中にある間には、人の霊は脳神経系と協働していると考えられます。

そして、それなりに機能を果たしています。

脳神経系に動かされて、受け身で機能を果たしているわけです。


だが、脳神経系と協働している間は、人は自分の霊がほとんど自覚できません。

従って、自分の霊が、脳神経系に動かされているだけで、実は活力の欠けた死霊であることをも、よく自覚できません。




<肉体を抜け出ると死霊も自らを自覚>


けれども肉体を抜け出ると、霊は自分を自覚し始めます。


死霊は自分が死霊であることを自覚し始める。

自分に活力がないことを自覚する。

活力がないので、もうこれといった行動ができないことも自覚するのです。



そこでただ「ボ~」として空中を漂っているしかありません。

この世の地表に「ぼ~」として存続することもあるでしょう。

一般に「地縛霊」という名で感知されているのは、こういう霊なのかもしれません。





<活霊は元気状態なまま>


他方、イエスの名を心に受け入れた人の霊はどうか。


福音によれば、その霊は「いのち」を充電されています。

そして「活霊」になっています。


+++


こちらの霊には生命力があります。

それは肉体を抜け出ても、活力のある状態でいます。


ちなみに、聖書の思想では、この霊は、パラダイスというところにいくことになっています。

パラダイスはもともとは聖書用語ですが、その意味は聖書にも説明されておりません。


「活霊が天国に入るまでの間、休むところ」とも想像できますが、よくわかりません、


おそらく、天使に導かれていく、と推察されますが、直接そう書かれた聖句は聖書にはありません。






<生きていて信じるものは、死ぬことがない>


おまけです。


今述べたような神学論理は、イエスの次の言葉~難解なこの言葉~の意味も理解させてくれます。



・・・・・・・・・・・・・
「生きていてわたし(イエス)を信じるものは、死ぬことがありません」
(ヨハネによる福音書、11勝25節)
・・・・・・・・・・・・・



~がそれです。


ここで、「生きていて」というのは「肉体が生きている間に」という意味です。

「死ぬことがない」は、霊が「自分が死んだ」と自覚することがない、と理解できます。


+++

これもまた、死霊を対比させるとその意味がハッキリしてきます。

前述のように人は肉体が生きている間は、自分の霊を自覚できません。

だが、肉体を離れ、脳神経系と協働できなくなると、その霊は自分を自覚できるようになる。


死霊の場合は、「自分がエネルギーの欠けた、死んだ状態である」ということを自覚します。

つまり、「死」を自覚するのです。

それが上記聖句での「死ぬこと」の意味になります。


+++


他方、肉体が生きている内にイエスの名を信じた人の霊は、すでにその時点で活霊になっています。

すると、肉体を抜け出ても、活霊のままということになります。


つまり、信じた人の霊は、もう、肉体を離れても、「生きている感覚のまま」なのです。

「自分は死んでいる」という自覚をすることがない。


+++


「たとえ死んでも生きる」は、そのように理解できます。




(ここまでは、当分、スキップしていいところです)

  















以上長々と論理の一例を述べてきました。


だが、福音の言葉それ自体は短いです。

「イエスの名が、創造神の子で救い主の名だと信じれば、霊にいのちエネルギーが充電される」

~という知らせ。

それだけですからね。


自由吟味活動者の場合は、それに、たとえば上記のような理屈をつなぎ合わせているわけです。

様々な聖句と照らし合わせて、それをしている。



これはまあ、外部の人から見ると、馬鹿な「理屈遊び」をしてるようにみえます。


だが、米国南部の自由吟味教会では、こうした議論を、毎週礼拝前に行っています。

数人毎のスモールグループに分かれて、その後の全体礼拝と同じ時間をかけて、やっています。






<幼子のように>


そしてここで、大切なことがあります。

それは~

そういう論理体系がないと、福音の言葉の効力はなくなる、というようなことは、ない

~ということです。


短い福音の言葉を抱くだけでいい。

いや、イエスの名を肯定的に認識するだけでもいい。

(そこに福音の神髄はすべて凝聚されているのだから)

それで、霊にいのちエネルギーが充電される効果は得られる~といいう論理に聖書ではなっているのです。


+++


すると、この効果は、幼子にも発揮されることになります。

幼子には、短い福音の言葉の背景にある、聖書的、神学的な意味など理解することは出来ませんよね。

だが、それでいいというのです。


彼らが「神の子イエス様~、救い主イエス様~」と信じると、それだけで「いのちエネルギー」は彼らの霊の内に充電されていくことになる。


それが聖書の論理です。


+++


それだけではありません。


この幼子のような信頼が、最も霊に「いのち}充電を受けやすいという論理も聖書にはあります。

イエスの次の言葉はそれを示唆しています。




・・・・・・・・・・・
「・・・子供のように神の国を受け入れるものでなければ、決して神の国に入ることは出来ません」

  (ルカによる福音書、18章17節)
・・・・・・・・・・・・・・





詳しい説明は省きますが、ここで「神の国(店の創造主王国)に入る」というのは、霊が充電されたことに伴って自動的に起きる、将来の出来事です。


+++

だったら、福音(よき知らせ)の効力は教理統一教会の信徒にも実現するのではないか?

そのとおりです。

福音(よきメッセージ)は、教理統一教会でも効力を発揮するのです。






<究極的には五十歩百歩>


これにはおそらく、次のような真理が込められているでしょう~。


そもそも、吟味・検討を深めていくからといって、人間が福音の奥義を極めつくすような事態は起きません。

人間の、認識力には限界があるのです。


だから、創造神の目からすれば、聖句吟味者の信頼は、つまるところは、「幼子の信頼」と五十歩百歩なのです。


そこでさきほどの~


・・・・・・・・・・・
「・・・子供のように神の国を受け入れるものでなければ・・・・」

  (ルカによる福音書、18章17節)
・・・・・・・・・・・・・・


~となるわけです。


(ここで信仰者の読者の方のために、讃美歌を一曲入れておきますね)








<自由吟味者の利点>


では、自由吟味者の活動は、全く無駄なのか?

そうでもなさそうです。

各々が自由吟味をして自分の神学論理体系を抱くことには、次のような利益はあるでしょう~。


① 福音への信頼感が深くなる。

② 外部者の攻撃に対する、精神力が強くなる。

③ 人に福音を教える力が豊かになる。

④ 同志の間での、コミュニケーション力が高くなる。


~こんなところでしょうか。


今回はこれまでにしておきましょう。





(Vol.25  教理統一主義者と自自由吟味者の福音信仰の違い    完)









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Vol.24  幼児洗礼法で自由吟味者を攻撃する

2016年04月18日 | キリスト教の正しい学び方





こんにちわ。

「キリスト教の正しい学び方」・・・今回も進めて参りましょう。

今回は、教理統一教団が聖句自由吟味者に、すさまじい攻撃を加え始めた様を示します。

それについて、読者に前もってお願いしておきたいことがあります。




<正典聖書の編集は大きな功績>

筆者の歴史記述から、「鹿嶋は教理統一派への敵意を抱いている」という先入観をもたないようにしていただきたいのです。

この教派は、自由吟味派の活動に対して貢献もしています。

たとえば正統聖書の編集がそれです。


筆者はそれを認めています。

歴史は単純ではないのです。




+++

旧約聖書には紀元前にすでに大々的な編集作業が加えられました。

だが、新約聖書の編集はキリスト教界に求められた大課題でした。

まず、イエスに関して書かれた伝記が複数あります。

その教えを解説した数多くの手紙があります。

ヨハネという愛弟子に延々と見せられた、幻の記録もあります。


+++

それらはみな手写しで写本され、用いられていました。

残っていたのはみな写本でした。

手書きの写本には、中身の文章にばらつきがあります。


それらの文書から、信頼すべきものを選び出して編集するというのは、大仕事なのです。


+++


教理統一教団は、国教になると、それを成し遂げました。

彼等は、最終吟味を繰り返し、最終決定をするために、公会議を開催しました。

公会議は全欧州の司教が一堂に会しておこなう大がかりな会議です。

こうした活動は、教理統一教団でなければ、できません。



この教団には、強大な資金力がありました。

聖職に専業するプロが形成する人的資源もありました。

そして彼らを一体として動かせる組織力もあった。

ピラミッド型の管理組織がそれでした。

+++

教団は、395年に正典聖書を完成しました。

正典からもれたものも「外典」としてまとめて遺しました。

自由吟味者の聖句探究活動も、この聖書の存在によって大いに助けられていったはずです。





<歴史は単純ではない>


歴史は単純ではないのです。

確かに教理統一者は、自由吟味者を悲惨な目にあわせてきました。

だが、よくみると、その原因の大半は、相手を理解できないことにありそうです。

+++

個々人に聖句の自由吟味を許しても、教会員の聖句解釈がばらばらにならない、ということを教理統一活動者たち理解できませんでした。

そんな方式の集団からは、無政府主義者がどんどん埋まれてしまうとしか、考えることができなかった。

無理もない。

自由吟味活動を経験したことのない、一般の人間の知性はそんなものです。

筆者はそれらも含めて事実としてとらえ、できうる限り客観的に歴史を記述していこうと思っています。






<惨劇の開始>

さて本題に入ります。

キリスト教の教理統一派は、国家権力を背景にして、全欧州のキリスト教活動の統一に向かいました。

自らの教会が正統とする教理を全人民が受容し、教会のポリシーに従ってくれることを期待したのです。

だが、これに自由吟味原則で活動する人々は従いませんでした。

両者は根底において対極的だったので、これはもうどうしょうもありませんでした。





<正統教理があったら自由吟味活動は成り立たない>

教理統一教団は、教会本部でプロが作成した教団教理を唯一正統なものとします。

他方、聖句自由吟味者はそういう教理を認めないことに活動の基盤を置いています。

一つの解釈(教理)を正統としたら、もう個々人が聖書を吟味することなど無意味になってしまう。

自由吟味活動が成り立たなくなるのです。





<幼児洗礼法を制定する>

だが、国教会は自己の教理一色に全人民を染め上げようとせずにはおられませんでした。

彼らには国家権力があります。

法律を作成し、施行する権力もあります。

AD400年代に入ると、彼等は幼児洗礼法を公布しました(416年)。

+++

幼児洗礼とは「子供が生まれたらすぐに洗礼をほどこす」行為です。

洗礼とはバプテスマの邦訳語です。

聖書では、「イエスの名が救い主の名であると信じた者を、水に沈めて浮かび上がらせる行為」となります。

これは浸礼といわれることもあります。

+++

国教会となった教理統一教団は、この儀式を国内のすべての新生児にさずけることを、法律でもって人民に義務づけたのです。

彼らは、赤子用に、滴礼(てきれい)という略式の洗礼でもって、これを実施させようとした。

滴礼とは、額に水を垂らす方式でおこなう洗礼です。




<違反者は処刑とする>


だが自由吟味者たちはこれにも従いませんでした。

「生まれたての赤ん坊が、どうやって、イエスを救い主と信じるんだよ!」となりますからね。

だが教理統一教団はそこで引き下がることはありませんでした。

10年後の426年、今度は「幼児洗礼を行わない親は処刑する」との法令を追加しました。




<殺戮の歴史が始まる>

ついに、凄惨な血の歴史が始まりました。

教理統一教団は国家の軍隊を用いて自由吟味活動者の居住地を襲いました。

彼らを逮捕し、殺していきました。

自由吟味者は、ピレネーやアルプスの山々の谷間に、あるいはスイスの僻地にのがれて活動を続けました。

軍隊はそれを探索・発見してまたとらえ、殺すを繰り返しました。

これが1200年の長きにわたって延々と続きました。




<北欧地域にも多数が逃れたはず>

ところで、自由吟味者の避難地について、筆者には、もう一つの直感認識があります。

個人的ですが、確信を持っています。

+++

自由吟味者は、今でいう北欧地域にも多く逃れたと思うのです。

今の国家でいうと、デンマーク、スウェ~デン,ノルウェー、フィンランドなどの地域ですね。

筆者はこの地を旅して住民との直接会話を試みました。

機会の許す限り、交わりもしました。

そして、この地が教理統一教団の攻撃を逃れた聖句自由吟味者の地となったことを、感触しました。

旧き絵画などにもその痕跡がありました。




<当時は極寒の遠隔地だった>


当時としてはこの地は、教理統一教団の本拠地、イタリー、フランス、スペインからは、非常な遠隔地でした。

中世当時には、はるかなる異郷の地、地の果てだったといってもいいでしょう。

おまけに、この地の冬の底冷えは尋常ではありません。

日本人がクルマで自由旅行をし、所々で下車して市民と交わるには、三月の下旬だって、背中にホカロン張らないと辛いですよ。

+++

また、この地は北の海に面しています。

この地の先住民には海賊の伝統があります。

自由吟味者たちは、万一攻められたとしても、その技術の助けを得て海に逃れることができたでしょう。

そんなわけで、国教側の軍隊も、この地までは侵攻しなかった。

そうに違いないと筆者は確信しています。




<学校教育の手法もそれを示唆>

また、現代のこの地の学校教育法もそれを示唆しています。

ここでの方式は聖句自由吟味方式の形態そのものなのです。

+++

教科書などにある既成知識を生徒の吟味対象とする。

スモールグループを形成させて、そこに投げ込む。

メンバーはそれについて話し合う。

吟味をしている内に、知識は生徒の心の内で活きたものとなる。

+++

北欧諸国の学校生徒の知力が卓越して高いことは、いまや他国にもよく知られています。

世界から多くの参観者が来訪しています。

この知的成果も聖句自由吟味方式の援用で産み出されるものなのです。




<実証資料は価値あるものだが>

筆者はこの地が、自由吟味者の「逃れの街」だったと確信しています。

残念ながら、それらを示す「正式の」、いわゆる歴史資料を筆者はまだ見つけておりません。

殺戮の惨劇を示す「公式の」文書資料ももちあわせておりません。

けれども考えてみれば、それはなくてもいいのです。

国教会の軍隊はここまでは侵攻してこなかった(と推定できる)のですから。

侵攻がなければ攻撃もなく、攻撃がなければ、殺戮も、その記録もないのが当然なのですから。

+++

そもそも、聖句自由吟味者たちがこの地に逃れてきたという記録もありません。

そんな痕跡を残すような逃げ方を彼らはしないのです。

(これは、後年の自由吟味者についてもおなじです。

欧州大陸から英国に移住する際にもそうです。

また、英国からアメリカ大陸に移住する際にも、彼らは少人数に分かれて、目立たないように移住しているのです)




<実証「主義」は知性の堕落を生む>

そんなわけで、いわゆる公式の歴史資料など残るはずがなく、筆者の手元にもありません。

けれども、かといって、直感的実感を積み重ねてできてきた筆者の推察を、筆者はここで隠すわけにはいきません。

実証資料を軽視しているのではありません。

それは歴史認識には貴重なものです。

資料による実証は、大切なのです。

けれども、実証「主義」というのは、筆者にはいただけません。

それは歴史研究者の想像力を殺ぎ、彼らの思考を幼稚にしてしまうからです。


今回は、ここまでにしておきましょう。


(Vol.24  幼児洗礼法で自由吟味者を攻撃する  完)













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Vol.23 「国教」の規制力は「神イメージ」が左右する

2016年04月11日 | キリスト教の正しい学び方






こんにちわ。

「キリスト教の正しい学び方」・・・今回も進めて参りましょう。

しばらく、西欧中世史に入るための、予備知識を述べてきました。

これから、実際の歴史考察に入りましょう。





<教理統一教会、ローマ国教となる>

コンスタンティヌス大帝がなくなると、教理統一方式の教会は、自らの教団を国教にする工作を推し進めました。

そして、ついに、AD392に、国教の地位を得ました。

+++


それによって、教理統一教団は、強大な世的権力を手にしました。

そのことを的確に認識するには、国教なるものを、基礎から考えておくことが必要です。

まず、言葉の意味を吟味しましょう。

+++


国教というのは、為政者(国家権力者)が「わが国家はこの宗教で行く」と定めた宗教です。

それ以外の宗教活動は、禁止です。

しかし人間というのは、こと宗教に関しては、禁止されていても様々な活動をやらかすものです。

ですから国教勢力側は、現実には、他宗教の活動を規制する仕事を続けることになります。


    

<二つの神イメージ>


そしてその際、その規制運動の強さは、国教となった宗教が、いかなる神イメージを心に抱いているかによって異なってきます。

それを考えるには、筆者がこれまでにのべてきた「神イメージ」の概念が役だちます。


その図をここでも再掲示しましょう。










<在物神>


在物神とは、「もののなかに存在するとイメージされる神」です。

図の右側のゾーンには、在物神イメージを誘う、様々な物質が記されています。


在物神を拝する宗教が国教とされる場合、その規制運動はさほど厳格なものにはなり得ません。

なぜなら、在物神イメージは根底的に「感慨からなるもの」で漠然としているからです。

+++

つまり、信仰者はもののなかにその神が存在するとイメージします。

そして礼拝するそのときに、神を認識した感慨を抱きます。


礼拝時にその感慨を味わったら、もう神を認識した気持ちになってほぼ満足です。

その感慨の神がどんなものであるかを、言葉〈理念)にして考えていくことはありません。


そして礼拝が終われば、感慨は消えていきます。

従って、在物神信仰者の神イメージは、漠然とした状態のものなのです。

+++

そういう「神」イメージでは、他の神々のイメージとの境界線を明確に引くことができません。

違いの区分線は、神イメージが明確に「理念化」していることによって可能になる。

理念というのは、人の心の中で、強力に働くものなのです。

在物神崇拝の国教では、他との区分が詳細におこなえない。

だから、他宗教への規制も持続しがたいのです。





<創造神>


創造神という神イメージは、そうではない。

それはまず人間の理念に導入されるものです。

その理念を抱いていると、事後的に、実感という感慨が得られていくようになる。

そういう神イメージです。

+++

創造神という神のイメージは、もともと人間の自然の感覚にはないものです。

外部から注入されることによって、はじめて人の心に明確に存在することになるものです。

+++

キリスト教の場合には、それは、霊的メッセージの受信記録として人間社会に導入されています。

まず、古代のイスラエル民族の中に超霊感者たちが周期的に出ました。

その彼らが受信したメッセージの中に、創造神の理念はありました。

ちなみに、彼らは後に預言者と呼ばれるようになっていきます。


+++

メッセージの発信者は、自らを、万物の創造神だと名乗りました。

そして、メッセージを与えた。


霊感者たちは、それを創造神からのメッセージと「信じて」記録した。

こうやって、創造神の神イメージは、人類社会に「外から」導入されてきたのです。




<創造神イメージには諸理念が連なっている>


だから創造神という神イメージには、明確に理念があります。

筋道があり理屈があります。

+++

たとえば、それは、「時間的空間的に無限者」である、というがごとくです。

他に、自分以外の万物を「言葉を発することによって創造した」、という属性も理念です。

「自らの内から、ひとり子と聖霊が出る」というのも理念です。

そのひとり子が、「自らを信じた人間を救う」というのも理念です。

「救う」とは、「人間の死後の霊を活き活きした状態に保ち、死後の審判で天国に迎え入れる」という意味です。

これもまた理念です。

+++

そういう、様々な理念がこの神イメージには繋がって、壮大な理念体を構成しているのです。


+++

これらの理念によって、人間は、この神を、他の神々のイメージと区別することが出来ます。

創造神を奉じる国家宗教は、みずからと他の神を拝する宗教を詳細に区分出来ます。

すると規制も詳細にできるようになり、取り締まり活動も持続するのです。






<戦前日本の国家神道の事例>


これを戦前の日本における国家宗教と比べてみましょう。

維新政府は日本の国家宗教を神道と定めました。

++++

神社の建物の中に内在しているとイメージできる神を、国家の神として礼拝することにした。

そして、神道以外の宗教活動を禁止しました。

その対策の一つが、廃仏毀釈でした。

廃仏毀釈とは、仏教を排斥し、寺や仏像などを壊す運動です。

+++

昭和の戦時が近づいていた時代には、大本教や天理教が崇拝する宗教器物を破壊しました。

だがその攻撃は荒々しく、短期的なものでした。

神道が奉じる在物神の神イメージがはっきりしないので、規制担当者にも、他宗教との区別の基準がよくわからなかった。

だから、規制行動は持続しません。

その結果、国家神道の最盛期だった昭和の戦時中であっても、人々は寺で葬式などの儀式をやっていました。





<西欧中世の国教は規制力が強力>



これが西欧史となると事態は異なってきます。

キリスト教が奉ずる創造神のイメージは、理念が構成しています。

創造神とそれに繋がる諸理念でもって、他の宗教、さらには、思想一般との区分でさえ明確に出来ます。

+++

それでもって、裁きの基準を詳細に作成することもできる。

中世に国家権力を得た教理統一教団は、異端審問裁判所というのを創設するところまでいきました。

そこで、人々の思想や言動を裁くといいうところまで、いってしまうことができました。

+++



ガリレオもジャンヌダルクもここでもって裁判にかけられています。

ガリレオは特定の住宅での蟄居の身となり、そこで生涯を終えています。

ジャンヌダルクは、死刑の判決を受け処刑されています。

+++

以上のように、国教と一口に言っても、それが人民に及ぼす規制力には差があることを知っておかねばなりません。

その奉ずる神が、創造神か在物神かによって、雲泥とも言える差異が生じる。

西欧史を正しく認識するには、この知識は必須なのです。





<幼稚な宗教知識>


それに関連する余談を一つのべて終わりましょう。

日本では、「西欧人は一神教で、ひっつの神しか認めないから独善的でかたくなだ。日本人は多神教で、他者の神を認め合うから寛容で柔軟だ」といった論議がまことしやかになされています。

知識人とされている人々も、ほとんどうちそろって、この種の見解を述べている。

+++

だが、これは表皮的な社会認識です。


拝される神が多数になるのは、在物神を信仰する社会では自然な帰結です。

あちこちの山や川、大木や巨岩、様々な彫像、死んだ先祖の骨などに各々神をイメージしていたら、神が多くなるのは当たり前なことだ。

文化特性というものは、そういう深層的なところでとらえないと、的確な社会分析の用具になりえません。


日本人も、「一神教・対・多神教」といったレベルの文化認識から、もう卒業せねばなりません。



今回はこれまでとしましょう。



(Vol.23 「国教」の規制力は「神イメージ」が左右する   完)







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Vol.22 自由精神の許容度が成長社会の鍵

2016年04月06日 | キリスト教の正しい学び方





こんにちわ。

「キリスト教の正しい学び方」・・・今回も進めて参りましょう。

前回、初代教会で始まった聖句自由吟味活動は、「世界を知りたい」がための探求活動であることを示しました。

そして、それがどのような認識構造をもっているかを、科学の認識方法と照らし合わせながら、お話ししました。

今回は、その自由吟味活動が、人間の知的成長、国家社会の強さ、などにどのように関係しているかを考えましょう。






<「社会」は人が組み合わさった人間集団>


まず、人間が生きている場である、「社会」を、基本から考えましょう。

人間は、肉体を持って生まれます。

肉体には食物を与えねばならない。

外敵の攻撃からも守らねばなりません。

+++


人間はその活動を一人ですることも出来ます。

だが、複数が集まって、共同でなす方がはるか効率がいいです。

そこで、自然に集団を形成することになります。

+++

集団として食料を生産し、食欲を満たし身体を保全するには、相互に争いが起きないようにルールを定めることが必要になります。

また、それを持続させるには、全体を監視し、ルールを破った人には懲罰を与えねばならない。

そういう仕事が必要になりますが、集団の全員がそれをするわけにはいきません。

みんながこれをすると、食物の生産活動をする人などがいなくなってしまうからです。

そこでこれを主たる業務として担当する人が現れます。

これが統治者(統率者)です。

+++

彼がうまく働くと、集団全体が一人の人間の身体のように、一体性をもちます。

(その際、統治者は人間の身体の中の頭脳のような役割を果たします)

このような一体性をもつと、集団は「社会」になります。

社会とは、人々が有機的に組み合わさって一体性をなして動いている人間集団なのです。

東京渋谷のハチ公前に、群れている人々の集団とは違います。




<身体保全が出発動因>

社会は、このように、食欲の充足と身体の保全を出発動機として出来る人間集団です。

ここで、用語を簡素化しておきましょう。

食べるのも基本的には身体の保全のためです。

外敵からの防衛も身体保全のためです。

そこで両者をひっくるめて「身体保全」の行動とも呼べることにしましょう。

+++

この言葉を使うと、社会は「成員が身体保全を出発動機として形成した集団」となります。

この初心動機は、以後も社会の基底で働き続けます。

全ての成員の心底に、身体保全の動機が働き続ける。

そしてそれが「全員の総意」となって社会意識を形成します。





<統治者は社会の一体性を促進しようとする>


そうしたなかで、成員は各々自分の分担する役割を果たして暮らします。

果たしながら、それが、よりよくなされるようになることを期待します。

これも「社会の総意」になる。

そしてその「総意としての期待」は統治者にも働きます。

統治者の主業務は、社会の一体性の維持です。

彼は社会の総意を受け、社会の一体性をより高度に実現しようと志します。


+++

社会には、ルールに反する行為をしてしまう人間も常時出続けます。

統治者はこの行為を、できうる限り少なくしようとします。

ところが、そう願うほど、ルール違反者が大きく気に触ってきます。

だから、統治者は、多かれ少なかれ、ルール違反人間に対して神経症的になっていきます。

そこで、ルールをより緻密にしたりして、人々の自由勝手な振る舞いを、出来うるかぎり制御しようとしていきます。





<身体保全を得ると精神自由の欲求が増す>

ところがここで問題が生じます。

人間心理においては、一定の身体保全が得られると、精神の自由への欲求上昇が起きるのです。

その自由精神は、自分の分担する仕事への創意工夫に向かい、改善となって実ることもあります。

だが、他の様々な面でも人は自由意志の発露を欲していきます。





<統治者の自由精神にたいする二つの姿勢>


これに対する統治者の姿勢は、二つに分かれます。

一つは、自己の心中にある統制本能を押さえつつ、社会の一体性を損なわない限りに、自由精神の発露を許容していく姿勢です。

するとその社会では、精神文化は多様化し、洗練もされていきます。

各人の分担する仕事も改善され、向上していきます。

+++

第二は、自由意志を制約していく姿勢です。

この場合、統治者は、自由精神を発露した行為の、ルールに抵触する面が気に触ってならないことが多い。

それに耐えられずに、統率行為に入るのです。

が、ともあれこの姿勢から出る諸政策は、人民の自由精神を萎えさせます。

そして、社会の活力は衰退していきます。





<国家社会、唐の盛衰>

古代・中世の国家社会の歴史を見ますと、「許容から統制へ」という動きが多く見られます。

そしてこれは為政者の交代によるところが大きいようです。

たとえば、中国の唐の時代、初代・高祖から五代皇帝までは自由精神と文化の多様性に対しておおらかでした。

その舞台となったのが都の長安でした。

長安は当時世界最大の100万の人口をもち、開かれた国際都市として、東西の商品、文化、宗教を許容していました。

中国には昔から儒教がありましたが、その上に、仏教もネストリウス派のキリスト教(景教)も自由な活動が許容され、大発展しました。

+++

ところが六代皇帝・玄宗は、突然、国粋主義に走って、儒教以外の全ての宗教を禁じ、宗教者を大弾圧し追放しました。

思想統制は、人民の間に恐怖を生み、それが他の様々な面での制約を産んでいきます。

官警による捜査、摘発や人民の相互監視によって国民は萎縮し、社会の連携活動がなくなってしまいます。

すると社会の各部門で次々に機能不全が起きる。

こうして、唐は突然崩壊に向かいました。

+++

歴史物語では、玄宗が楊貴妃に入れあげて、統治業務を忘れたことが、唐という国家が崩壊した原因とされています。

だが、それはまさにお話です。

玄宗が突然、自由精神禁止の政策を打ったのが真の原因です。






<室町幕府の盛衰>

同じようなことが日本の室町幕府においても起きています。

開祖尊氏から三代将軍義満までは、室町将軍は、気宇壮大な自由人でした。

彼らは自由精神許容の政策をとりました。

+++

ところが四代将軍・義持は、真逆に転じました。

彼は、三代将軍義満を非難し、義満の居所であった北山御殿を、跡形もなく破壊・消滅させてしまいました。

天皇の御所以上に豪華に創ったといわれた御殿を完全破壊した。

彼の神経には、義満将軍の自由奔放な資質が表れた北山御殿が耐えられなかったようです。

おそらく、義満という人がまぶしかったのでしょう。

そして突然精神統制政策に転じました。

これを機に、室町幕府も室町国家社会も絵のように転落に向かいます。





<統制好きな統治者を押しとどめることは出来ない>


古代・中世国家社会での自由精神政策の真逆転換は、気質の真逆な統治者による政権交代によっておきることが多いようです。

気質にかかわらず、統治者というものは、統治権力をもっています。

だから統制気質の強い統治者による抑制政策は、人民の自由精神を発露したいという願望に打ち勝ってしまいます。

それによって、人民の精神と「知」の活動は、萎縮していきます。

自由精神抑制政策は、監視の強化と処罰の頻発によって恐怖政治に繋がります。

人々は精神が萎縮して、従来のレベルの仕事もなしえなくなっていきます。

こうして、社会のあらゆる部門で機能不全が起きる。

国家社会から一体性が薄れ、国家も弱体化します。


+++


こうした場合、アウトサイダー的な統治能力者が現れ、従来の統治権を奪取するのが一般的です。

彼は、新しい体制の国家社会を始めます。

しかし、これもまた、前政権と同じ過程ををたどることになるわけです。

まさに、「歴史は繰り返す」です。






<西欧では例外的な動きがある>

さて、ここから話は本筋に迫っていきます。

この「繰り返す歴史」に当てはまらない、例外的な状況が古代の西欧社会でスタートしたのです。

ここには、抑圧されても、脅されても、仲間が殺されても「自由精神を捨てきれない」人々が大量に出現していたのです。

その精神を彼らの心に生み出したのは「世界を知りたい」という強烈な探究心、知的欲求でした。

これを中核にしたライフスタイル(生き様)を、彼らは、この世での自らの「肉体生命以上に価値あるもの」としていました。


+++

この探究は、自由意志を働かせて行わないことには、できません。

そこで彼らは「世界を探求していくに不可欠な手段」として、精神の自由をまもろうとしました。

強固に守り続けた。

統治者の強烈な統制活動に従順になり得なかった。

その彼らの存在が、西欧史を独特な人類史にしていくのです。



    


<聖書を貫徹する人間思想>

ここで聖書の話をさしはさみます。

聖書には~

 「人間は自由意志を持つようにして創られた」
  
  ~と直接書かれてはいません。

そういう聖句はみあたらないです。

+++

けれども、聖書にはその人間思想が一貫して流れています。

たとえばイエスが弟子に教えを述べるとき、常時、自由意志を保持させた状態でのべています。

信じさせようとして、脅しや強制の言葉を投げかけたりは、いっせつしていません。

イエスを裏切ることになるイスカリオテのユダに対してもそうです。

最後まで彼を自由意志で行動させています。

+++

けれども、かといって、筆者は聖書のその思想を、人間の「精神自由志向の強さ」の論拠にはいたしません。


聖書の思想を根拠にしないで、率直に現時点での人間事象を見ます。

すると、「人間は自由意志を発揮できる状態に置かれるほど、その知性も身体もよく成長する」という事実が見えてくるのです。

筆者は40年の教育稼業をとおして、それを観察してきました。

+++

また、過去の歴史事実をも眺めてきました。

すると、「人民の知力が大きく成長することが、国家社会が強国になるカギ」であることも見えてきました。

そしてその知力成長のカギは、「人民の自由精神を、社会の一体性が崩れない限りで最大化するシステム」にあることも浮上してきた。

そうした経験認識に立って、自由精神の視点から、西欧史を観察しようとするのです。





<教理統制活動と自由吟味活動>

その視点に立つと、キリスト教活動にも二つの類型が浮上します。

① 聖句の自由吟味を通して「世界探求」をする活動と、

② 正統教理によって「人々を統制していこう」という活動とがそれです。

それを代表する教派、教団の具体的な名称は、読者はこれまでの話で想像がつくと思います。

だが、具体的な名は、間違った教科書や専門書や社会通念による手垢でまみれています。

それによる認識の「ゆがみ」を避けるために、筆者はこれから一般的な名称を使うことにします。



① は「教理統制活動」とします。

② は「自由吟味活動」とします。


どうしても必要ということがない限りそうする所存です。







これで終わります。

前回紹介した天才哲学者ベルグソンは、宗教教団が進む、静的宗教化の道を必然的なものとして示しました。
(『道徳と宗教の二源泉』)

そして、それが社会に与える、憂うべき動向を警告しました。

だが警告はしても、これをストップさせる手段、その打開策を示すことは、彼はできなかった。

「聖句自由吟味方式のキリスト教活動」を知らなかったからです。

筆者はこれから、その活動を視野に入れて、進もうと思っています。

最終的には打開策をも示せるといいですけどね・・・。










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Vol.21 聖句自由吟味方式の認識構造

2016年04月01日 | キリスト教の正しい学び方






こんにちわ。

「キリスト教の正しい学び方」今日も続けて参りましょう。

今回の「認識構造論」は本邦初公開です。

文章が十分に練られているとはまだ言えませんが、以下に示してみます。


+++

先回、カトリック方式の教会の信徒は小中学生的であると申しました。

対して、聖句自由吟味方式の教会員は学者的であり、教会は学会的だといいました。

学者は、学問研究をする人です。

+++

では、学問とは何でしょうか?

漢字では「学び問う」と書きます。

要するに、様々なことを学び、かつ、問いかける(質問する)営み、ということでしょう。

英語はどうかとみると、ラーニング(learning)で、これも色々学ぶという意味です。

+++

だが今日ではそれは一つの限定的な方法による認識行為をさしています。

江戸時代までは、日本の学問は、中国の儒教に沿った学びでした。

「論語」を主とした学びで、その中心は「人間の心の修め方」にありました。

心のあり方は、行動にも繋がりますので、「正しき行為を造ること」が学びの主たる目的でした。




<今の学問は「科学」のこと>

だが、日本は明治維新を契機に、学問を西欧方式に転換しました。

西欧では、科学(サイエンス)という方法での学びをしていました。


科学は人間の営む認識方法の一つです。

それは「認識対象を人間の五感で経験認識出来るものに限定する」という特徴を持っています。

その認識対象が自然現象であれば自然科学となります。

物理学や化学はその代表です。

対象が人間社会の事象であれば社会科学となります。

経済学や法学はその代表例です。

+++

学問とは今の日本ではそういう科学と同じ意味を持っているのです。

小・中学校などで「学問知識を学ぶ」とは、「科学の認識方法で得られた知識を学ぶ」、という意味です。





<まず科学の認識構造から>

いま述べたように、科学が認識対象にするのは、五感で経験認識できる実在のみです。

科学は五感主義的な姿勢を明確にもっているのです。

だが、このように範囲が限定されていても、その対象である実在は多様性に充ちて混沌としています。




人間はこれをまず感性でそのまま、直感的に受信します。

(感触としては、ハートにドシンと受信します)

(下の図を見てください)











この直感受信した内容もまた混沌としています。

だからそのままでは、理解(筋道だった認識)が出来ません。




<理論模型で理解する>


そこで科学者は、人間に与えられた理性という能力を用いて、それを論理的に認識しようとします。

これを単純な形で見るために、模型を造ります。

子供がジャンボジェット機を理解しようとして、プラモデルを組み立てますよね。

これと同じことを科学者はするのです。



模型は英語ではモデルです。

プラモデルの「モデル」ですね。

これがいわゆる「理論」です。

だからそれは理論モデルともいわれます。

+++

人はこの模型の眼鏡をかけて、それを通して対象実在を理解しようといたします。

科学の認識方法には、対象を五感経験可能な範囲に限定する、というだけでなく、「それを筋道立てて理解(認識)しよう」という特徴も有ります。





<市場価格は需給を調整>


さてここで、科学における模型〈理論)と対象実在との関係をみておきましょう。

たとえば、経済学(経済科学)には市場に関する次のような模型(理論)があります。

市場の価格には、供給量と需要量との相互関係を調整する機能がある、というのです。

どういうことかといと、たとえば、供給量が足りなくなると、市場価格は上がります。


なぜ?

その財貨が足りくなると、買い手は競ってそれを入手しようします。

そこで、多少高くても手に入れようとする。

売り手はそれを見て、高めの価格を提示します。

買い手はそれを受け入れます。

こうやって、市場価格は上昇するのです。


+++

ところが価格が上昇するとすると、「ならばオレもその商品を売ってもうけよう」という人が現れてきます。

その結果、供給量は増える。

こういう風に価格は需給量を調整するというわけです。

+++

もう少し行きましょう。

その「おれも売ろう、おれも売ろう」という、集団の勢いが余って、供給量がオーバーしたとします。

そうなると、価格は下がります。

すると、「それならもう造って売ることや~めた」という人が現れます。

そして、供給量は減る。


こういう風に価格は需給量を両者が一致するように、調整してくれる。

これが市場価格の模型であり理論です。





<理論模型から「はみ出す」事象>


ところが、現実実在は多様です。

この模型に当てはまらない現象も現れるのですね。


+++

たとえば、最近、石油の原油価格が急低下しましたね。

模型に従えば、供給量は減るはずです。

ところが南米の産油国では、逆に供給がふえるという事態が現れました。

これらの国では原油価格の低下によって、国家の歳入が急減しました。

そこで、もっと原油を売って従来の歳入額をとりもどをうと、原油を増産することになったのです。

これって、理論模型と逆の現象ですね。


+++

現実実在は多様性に満ちています。

模型から「はみだす事象」も現すのです。


+++

でも、かといって模型など何の役にも立たない、というわけではない。

南米産油国での現象は、模型があれば、それから「はずれた現象」として、とらえることができます。

つまり、それもまた模型との比較をして、ある程度論理的に理解できることになります。

+++

模型がなければ、ただ、多様な現象がある、という認識しか出来ません。

それでは意識は混とんとしてしまいます。

模型があればそれによって、やはり筋道だった理解が可能になるのです。

また、そうした現象をも含めて説明できるように、模型を修正しようという方向も出てきます。


+++

理論模型は単純で大まかなものです。

けれども繰り返しますが、われわれは、これでもって、混沌とした現実実在をある程度筋道だてて認識することができるわけです。






<聖書が対象とする世界の理解の仕方>


以上が科学の認識方法です。

聖書が対象とする世界の認識方法でも、「その型」は同じです。

+++

もちろん、聖書が対象とするのは、科学が対象とする世界よりも、はるか広大で深遠な世界です。

科学の対象は「五感で認識出来る世界(物質界)」ですが、聖書では霊界も含めた、全存在界ですからね。

だからまた、科学の対象よりもはるかに多様で混沌とした実在世界ではあるのですが、これも型としては科学と同じ方法をとっているのです。





<聖句は第一次理論模型>


聖書の中の言葉、すなわち聖句は、科学の理論模型に対応しています。

こうきいて聖書を開いてみたらビックリでしょうね。

「聖句が模型に当たる」というのに違和感を感じる人は多いでしょうね。

+++

だが、聖句は言葉で出来ています。

言葉は、混沌とした対象実在そのものではない。

言葉は筋道だった概念でできていて、やはり人が頭の中に描く模型です。

+++

それを組み合わせて出来ている文章もまた、筋道を持った理論模型です。

聖句は、科学に対比すると模型に相当するものなのです。

これは第一次理論模型として理解しておきましょう。


+++

ただし、この模型は預言者と呼ばれた超霊感者、・・・こういう特殊な人間によって作られています。

彼らはそれを、幻を見て書いている。

その幻を、万物の創造神からのものと「信じて」書いています。

この点、独特ですが、預言者もやはり人間です。.

その面で言えば、聖句はやはり人間が作った理論模型なのです。





<聖句の理論模型は超複雑>


話を戻します。

けれども、聖句は科学の理論模型のように簡明ですっきりしたものではありません。

この言葉群自体が、まだまだ、多様性にみちている。

(だから牧師さんによって、いろんな解釈が出てきます)

そこでこの聖句を、もう一つ簡素に整理しようという試みが出てきます。

聖書が対象とする実在を筋道立てて認識しようとして、そういう動きが出るのです。

その作業が神学です。






<神学理論は第二次理論模型>


神学(theology)というのは、聖書の言葉(聖句)に内在する論理体系を取り出す作業なのです。

この理論模型ができると、人間の頭は、やっと容易に聖句を理解できるようになります。

+++

ちなみに、この作業を平たくいったのが、聖書解釈です。

牧師さんは、説教で、この解釈を述べるのです。

解釈は解読ともいいます。

また、出来上がった解釈を教理(creed,または doctrine)ともいいます。

これはいうなれば、第二次理論模型です。





<カトリックは統一教理を供給>

カトリック教会では、この教理を本部で統一教理として造ります。

そしてそれを正統な解釈として、一般教職者や信徒に与えます。

カトリックではそれで終わりです。





<初代方式教会の第二次模型作りは個性的になる>



他方、初代方式の教会では、この作業はもっと進展します。

まず、信徒は神学理論を、個々人の解釈によって心に抱こうとします。

初代教会方式では、それができるように個々の信徒に、解釈の自由を与えているのす。

+++

実際に自己の解読を得ようと本腰入れて試みると、解釈者個々人は、自分が人生で得た体験情報と照らし合わせながらそれをすることになります。

自分の生活体験とつなげての解釈が、当人の最も納得できる解読になるのです。

彼らはそれを、スモールグループにもちよって相互に吟味しあいます。

それによって個人的なバイアス(偏向)は修正されます。

同時に、彼らは他者の生活体験と思考法を相互に知り合うようにもなっていきます。

そうやって彼らは、自ら神学作業をするわけです。





<旧約をイエスの比喩表現として解釈>

自由吟味者には、さらに先の活動も準備されています。

それは、第二次模型づくりを「イエスを知ろう」という方向に推し進めるという作業です

どういうことかというと・・・・・。


+++

新約聖書はイエスの伝記などを通して、イエスという方を説明しています。

旧約聖書には、イエスという名は一度も出てきません。

だが、その旧約もまた、イエスを比喩で述べていると解読できる箇所を多く含めています。

イエスにも「旧約聖書は私のことを述べた書物」という主旨の言葉があります。
(ヨハネによる福音書,5章39節)


+++

「なに?!」ですね。

名さえ現れてないのに、イエスをのべているとはどういうことか。

もし述べているとなればそれは、比喩(たとえ)という方法でもってしているしかないでしょう。

すると聖句解読は、そういうたとえ(比喩)を探求して解読するという作業が主眼になるでしょう。


+++


これを推し進めてみます。

すると、なんと、そういう解読が可能になる聖句が聖書では見つかり続けるのです。

それだけではない。

従来、何を言っているか不明だった聖句も、イエスのことを述べているという視点から解読すると、パラリと解けてしまうことが起きるのです。


+++

これは鮮烈な体験です。

こういう経験を続けていくと、解読者には「イエスは、この世に現れる前から、旧約聖書で証言されている」という認識が濃くなってきます。

旧約の最初の著者であるモーセは、イエスより1500年前に現れた預言者(超霊感者)です。

その彼に始まって、彼に続く20人以上の預言者たちが、将来出現するイエスを証言する幻を受けていたことになる。

それに気付くと、イエスに関する認識は、新約聖書によるだけの状態から、一段と深まります。

イエスは単なる新しい教えをした教祖なのではない、と実感できてくるのです。



+++


そしてここまで進むと、解読者の心には見えない霊界の実態を確かに認識したという確信が、感動と共にわき上がります。

このあたりは、筆者はなぜかわかりません。

けれども、そういう気持ちになる。

だが、なぜかわからないので、経験知識をベースにして理由を説明することは筆者には出来ません。

そこで、ここは聖句での繋がりだけを示しておきましょう。

+++

聖書にはイエスの「諸君はわたしを通して創造神を知ることができる」という旨の言葉があります。

「知る」とは、霊感出来る、体感できることをいうのでしょう。

万物を創った創造神を霊感できる。

さすればその「意図」も感知できるでしょう。

すると、それまで心にあった被造界の断片的が、あらたなつながりをもって見えてくるのでしょう。

こうして、世界認識はさらに上昇しはじめるのです。

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その状況はテレビ受像器をはじめて創った制作者を知ったのに似ているでしょう。

制作者という人物を知ると、テレビを作るに際しての彼の意図が見えてくる。

すると、様々な部品の間の微妙なつながりが新たに見えてきて、テレビの新しい全体像が浮上してきます。

それに似ていると思われる。

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今少し広くいうと、その「本質」が見え始めたことになる。

聖句自由吟味者の世界探究でいえば、「全世界」の本質です。

これが見え始めるのが「第三段階」です。

なんかこれは、多くの読者には「禅問答のような話」になるかもしれませんね。






<第四段階は「しるし」>


ところがさらに第四の段階もあるのです。

第三次模型の認識が進むと、癒しなどの ”しるし” が現れることがある。



それらは平たくいえば、奇跡ですが、聖書では”しるし”と表現されています。

この言葉には、五感で認知できる証拠、というニュアンスも含まれています。

これは理論模型というより、現象の体験ですね。

だから、第四次理論模型というより、第四段階の認識といったところでしょうか。


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実際のところ、ここまでくる人は、さほど多くはありません。

けれどもこういう人は、いつの時代にも存在してきました。

戦後では、キャサリン・クールマン(故人)、オーラル・ロバーツ(故人)、ベニー・ヒン(現役)らがそれです。

ベニー・ヒンもさすがに歳とってきましたが、すると、今度はジョセファット・カジマという若手が現れました。

前の三人は米国人ですが、カジマはアフリカ(タンザニア)人です。

また、これらの有名どころだけでなく、大小様々な「しるし」が現れる人は、数多く出ています。


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自らに ” しるし ” が現れた人の確信は、揺るぎないものになります。

筆者はそれを観察して知るのみですが、とても深そうです。

それだけではありません。

これを観察するdけでも、聖書に述べられたイエスと創造神への確信は深化します。






<個人の信仰で語っている?>

ところで、こういう話を聞くと、「この筆者は個人的な信仰を交えて書いているのでは?」という印象を抱く人も出るでしょうね。

でも、そうではありません。

筆者は、客観的な、対象に距離を置いたスタンスを保持しながら、これを書いています。

もし信仰を交えて書くのなら、この「しるし」の話はこうなるでしょう。

聖書には、この「しるし」事象を約束したイエスの言葉も、記録されています。


「信じるものには次のしるしが伴います。 すなわち私の名によって悪霊を追い出し・・・・
病人に手を置けば癒されます」 (マルコによる福音書:16章17~18節)


信仰(聖句への信頼)を交えて論じるならば、こうした聖句を根拠にすることになります。

「ほら、イエスのこの約束の言葉が実現したよ・・・」といったごとくにです。


筆者はそういう話し方はしません。

みずからの、観察とわずかながらの体験をふまえて述べているのです。





<聖句自由吟味の進路は深い>


話を戻しましょう。

上記のような段階を進むには、聖句自由吟味の原則に立つことが不可欠です。

自由意志をはたらかせられる環境にないと、こうした探究はできない。

本部から与えられた「正統」教理に、(恐怖心をもって)従っていたのでは、そもそも聖句探究という試みは起きえないのです。





<スモールグループの効力>

話は長くなりましたが、もう一つ、ここでスモールグループの効力を述べておきましょう。

自由吟味を進める際には、個々の解釈を吟味し合うスモールグループ活動は驚異的な効力をもってきます。

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聖句自由吟味者は、まず、みずから聖句に接近します。

その際、先人の成果である神学理論も用いますが、とにかくまずは個人探究です。

彼等は、複数の視角から聖句を照らします。

それがすなわち、吟味なのです。

吟味をすると、聖句は当人の意識の中で立体化してきます。

自由吟味者は、みずからそれを行います。

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だが、人間個々人は、一時点に一つの視点からしか聖句を見ることはできません。

複数の視覚から見るには、一定の時間をおいて一呼吸して、別の視点に立ち直さないといけません。

これは精神力も時間おエネルギーもかかる作業です。


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ところが、数人のグループに入ると、その吟味の効率は飛躍します。

複数の人は、各々独自な視点から見ることが多いからです。

彼らが自らの解読を出し合うと、結果的にほとんど同時に、複数の視点から聖句を吟味することになります。

これによって聖句は参加者個々人の意識の中で、短時間に立体化します。

立体化すると、聖句は活き活きと動き出すのです。




<最適人数は経験則から>

このスモールグループの最適人数には、経験則があります。

それは数人であることが経験上確かめられてきています。

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実際、それ以上多くなると、相互の視点を明確に認識し合うことが難しくなります。

また、それ以下になると、聖句を照らす視点が少なくなります。

初代教会で取られた方式は、最適な方式なのです。

この方式は、今日においても、米国南部の自由吟味教会で実施されています。




<動的宗教の大集団>


以上で初代教会方式の活動説明は一段落です。

しかし、こういう活動を宗教活動というべきでしょうかね。

探求対象は宗教経典(聖書)ですが、メンバーは自らの「知」の深化を目指して自由吟味してますからね。

これはむしろ、学問活動というべきではないでしょうか。


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がともあれ、そういう特異な活動に注力する人々が、ローマ帝国支配下の全欧州に、まず、先行的に、大量に存在したのです。

もし人数を総計すれば、大集団です。

だが、それでもこの集団はベルグソンのいう動的宗教の状態を保った。

静的宗教の教団にはなりませんでした。


+++

この集団が、スモールグループの連携体だったことが大きかったでしょう。

彼等は、全員が草の根的に地表に張り付いていました。


通常の静的宗教のように、ピラミッド的な管理組織が社会の中でそびえ立つということがなかった。

だから、国家社会の統治者も、この集団を社会安定要素のひとつとして取り込む必要を感じなかったのでしょう。




<水と油>


これはもうカトリック教会とは、多くの点で水と油になるでしょうね。

カトリックは典型的な静的宗教です。

教団はその目立つ体質の故に、帝国政庁より迫害を受けてきました。

たが、その後国家社会に吸引されて公認宗教となりました。


次いで、唯一国教の地位を得た。

国家権力の一部を手中に収めました。

こうして、カトリック教団は、自らのキリスト教方式に、他のすべての宗教活動を統合しようとしていきます。


+++

この活動は猛烈味を帯びていきます。

教団は、聖句自由吟味活動を赦せませんでした。

この審理内容は、人間集団理として、ここで少し詳細に見ておく必要があります。




<現世対応的な体質>

これまでに示したように、後にカトリック方式となる教会運営の新方式は、聖書を読まない大衆信徒への対処策として考案されました。

当初これを考案した人たちは、初代教会方式を知っています。

だから彼らは、これが当座の現実的対応策の面を持っていることを知っていたでしょう。

その意味での新方式の限界をもわかっていたでしょう。

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だが、この方式を取ったら、集団は猛烈な速度で成長しました。

職業僧侶を神学校で育成する必要に立たされました。

それにつれて、事態は変わっていったと思われます。





<神学生は自由吟味者に敵意を抱いていく>


神学校に入ってくる若者は、教団の唯一教理を正統な真理として学びます。

白紙の状態でそれを学びます。

すると彼らは、これこそが正しい方式だと思い込みます。

特別な洞察力に恵まれた天才を除けば、人間の知性というのは、こんなものです。

それは、かなり自然な成り行きとして進行したでしょう。


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彼らの目には、解釈自由で活動する初代教会方式の人々を、「真理は一つ」を放棄している連中とも映じてきました。

そこで、初代方式の教会を、無政府主義者の集まりであり、その育成機関と認識した。

短絡的な行為ですが、通常の人間の知恵とはそんなものです。

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カトリック方式教会の若者たちは、自由吟味活動者をかなり早期から非難、攻撃し始めています。

読者は意外に思われるでしょうが、世界史の教科書にアウグスチヌスという神学者が大々的に紹介されていますよね。

彼は後に現れるトーマス・アクィナスとならんで大スター扱いです。

だが聖句自由吟味者の残した資料には、かれは、自由吟味教会攻撃の急先鋒者だったと記録されています。







筆者はこれ以後、欧州の中世史に入ります。

そこでは、読者が西欧史の教科書にみることのなかった歴史事実を記していきます。

それは読者を驚かすことになるでしょうが、筆者はそれらを単なる事実の羅列として示すことを避けようと思っています。


そういうものは歴史理解ではなく、単なるレポートです。

現代、そうしたレポート的なものを論文とする風習が一般化してしまっていますが、それは読むものを退屈させます。


筆者はこれらの事実の「理解を」していただくために、二つのキリスト教活動方式についてあらかじめ詳細に、考察したのです。

今回は、ここまでにしましょう。


〈Vol.21 聖句自由吟味方式の認識構造  完)












コメント (2)
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