前回、「聖書に書かれてない御言葉が天にあるのでは」、とか、「それは神語(かみご)で書かれているのでは」とか、申しました。
するとこんな意見も出るのではないでしょうか~
そんな重箱の隅をほじくり返すような考察をするのは、そもそも価値があることなのか。
そんな思考に入っていくと、一般の人々に福音の核心を放念させるのではないか。
イエスの十字架死による贖罪を力強く繰り返すべきではないか。
~などなど。
<指導者は全体像を>
それはある意味、正解だと思います。
鹿嶋は、こういう思考は、特殊な立場の人にのみ価値あるのではないかと思っています。
いってみれば「指導者」の立場にある人々です。
具体的には、信徒や伝道者の群れを指導する立場にある人でして、
教会の主管牧師とか神学者がそれではないかと思います。
この人々はやはり、福音の「全体像」をもっているべきだと思うのです。
伝道は教会の伝道師だけでなく、一般信徒も行います。
クリスチャンはみな伝道者でもありますからね。
彼らは、とにかく「イエスの十字架死があなたの罪の代償になる」と伝え、
その人の霊感を聖霊が開いてくれるのを待てばいい。
昔ナザレ村に生まれた一青年が「創造神の子」で人類の「助け主」だなんて、
日常的感覚では受容できません。
だが、霊感が開けば、それが「本当だ」と感じられる。
聖霊が働いて感じたら、それを心に保つを助ける、というのが伝道者の主たる仕事です。
ところが伝道者は、上記のような細部の問題に首を突っ込んでいると、
福音伝道のエネルギーを消耗しがちになるのですね。
そんなとき、指導者は、助け船を出せることが必要だと思うのです。
一定の理解を提示して納得させる。
そういう人物が、信徒の群れの中には、最低限一人は指導者として存在していることが必委です。
<パウロの「第三の天」>
実際、聖書に記されていない、神語(かみご)のような言葉の存在は聖書にそのまま出ていますよ。
パウロの「コリント人への第二の手紙」にこんな聖句があります。
これも少し長いけど、引用してみましょう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「・・・私は主の幻と啓示のことを話しましょう。
私はキリストにある一人の人を知っています。
この人は14年前に~
肉体のままあであったか、私は知りません、
肉体を離れてであったか、それも知りません。
創造神はご存じです
~第三の天にまで引き上げられました。
私はこの人が~
それが肉体のままであったか、肉体を離れてであったかは知りません。
創造神はご存じです。
~パラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていない、
口に出すことの出来ないことばを聞いたことを知っています。・・・」
(「コリント人への第二の手紙」12章1-4節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(引用終わり)
ここで、パウロが「一人の人」といっているのは彼自身のことです。
彼は一つには、コリント教会の信徒たちに神秘主義が流行するのをさけるために、
こういう書き方をしているのかもしれませんね。
<幽体離脱かペアー量子体か>
また、「それが肉体のままであったか、肉体を離れてであったかは知りません」というところは~
今の心霊科学用語をもちいると幽体離脱(ゆうたいりだつ:霊が一時的に身体を抜け出ること)となりそうなところです。
他方、このブログで紹介してきた量子論の知識を用いると、「パウロのペアー量子体が天に引き上げられた」と解することも可能です。
いずれにせよ、パウロは「人間には語ることを許されていない、
口に出すことの出来ないことばを聞いた」とはっきりいっています。
これなんて、神語っぽいよね。
がとにかく、これほど直裁的に言われると、信徒の中には、これは一体どういうことだと考え込む人も出るでしょうからね。
やはりこれを福音の全体像の中に納めて説明できる指導者は、いてくれるとありがたいではないでしょうか。
そこで次回に、これも収納した福音の全体像、鹿嶋の自由解釈による全体像をのべてみましょうか。
さて、どうなることやら・・・。