鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

指導者は福音の「全体像」をもつべき

2018年01月30日 | 政治見識のための政治学





前回、「聖書に書かれてない御言葉が天にあるのでは」、とか、「それは神語(かみご)で書かれているのでは」とか、申しました。

するとこんな意見も出るのではないでしょうか~

そんな重箱の隅をほじくり返すような考察をするのは、そもそも価値があることなのか。

そんな思考に入っていくと、一般の人々に福音の核心を放念させるのではないか。

イエスの十字架死による贖罪を力強く繰り返すべきではないか。

~などなど。






<指導者は全体像を>

それはある意味、正解だと思います。

鹿嶋は、こういう思考は、特殊な立場の人にのみ価値あるのではないかと思っています。

いってみれば「指導者」の立場にある人々です。

具体的には、信徒や伝道者の群れを指導する立場にある人でして、

教会の主管牧師とか神学者がそれではないかと思います。





この人々はやはり、福音の「全体像」をもっているべきだと思うのです。

伝道は教会の伝道師だけでなく、一般信徒も行います。

クリスチャンはみな伝道者でもありますからね。

彼らは、とにかく「イエスの十字架死があなたの罪の代償になる」と伝え、
その人の霊感を聖霊が開いてくれるのを待てばいい。

昔ナザレ村に生まれた一青年が「創造神の子」で人類の「助け主」だなんて、
日常的感覚では受容できません。

だが、霊感が開けば、それが「本当だ」と感じられる。
聖霊が働いて感じたら、それを心に保つを助ける、というのが伝道者の主たる仕事です。





ところが伝道者は、上記のような細部の問題に首を突っ込んでいると、
福音伝道のエネルギーを消耗しがちになるのですね。

そんなとき、指導者は、助け船を出せることが必要だと思うのです。

一定の理解を提示して納得させる。
そういう人物が、信徒の群れの中には、最低限一人は指導者として存在していることが必委です。







<パウロの「第三の天」>

実際、聖書に記されていない、神語(かみご)のような言葉の存在は聖書にそのまま出ていますよ。

パウロの「コリント人への第二の手紙」にこんな聖句があります。
これも少し長いけど、引用してみましょう。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「・・・私は主の幻と啓示のことを話しましょう。
私はキリストにある一人の人を知っています。
この人は14年前に~

 肉体のままあであったか、私は知りません、
肉体を離れてであったか、それも知りません。

創造神はご存じです

~第三の天にまで引き上げられました。

私はこの人が~
 
 それが肉体のままであったか、肉体を離れてであったかは知りません。
創造神はご存じです。

~パラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていない、
口に出すことの出来ないことばを聞いたことを知っています。・・・」

(「コリント人への第二の手紙」12章1-4節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


(引用終わり)

ここで、パウロが「一人の人」といっているのは彼自身のことです。

彼は一つには、コリント教会の信徒たちに神秘主義が流行するのをさけるために、
こういう書き方をしているのかもしれませんね。




<幽体離脱かペアー量子体か>

また、「それが肉体のままであったか、肉体を離れてであったかは知りません」というところは~
 今の心霊科学用語をもちいると幽体離脱(ゆうたいりだつ:霊が一時的に身体を抜け出ること)となりそうなところです。

他方、このブログで紹介してきた量子論の知識を用いると、「パウロのペアー量子体が天に引き上げられた」と解することも可能です。

いずれにせよ、パウロは「人間には語ることを許されていない、
口に出すことの出来ないことばを聞いた」とはっきりいっています。

これなんて、神語っぽいよね。

がとにかく、これほど直裁的に言われると、信徒の中には、これは一体どういうことだと考え込む人も出るでしょうからね。

やはりこれを福音の全体像の中に納めて説明できる指導者は、いてくれるとありがたいではないでしょうか。

そこで次回に、これも収納した福音の全体像、鹿嶋の自由解釈による全体像をのべてみましょうか。

さて、どうなることやら・・・。





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少年イエスの聖書知識と天にある「神語」

2018年01月28日 | 政治見識のための政治学





前回~、

イエスは「御言葉が人になって」この世に来た存在である。
だからイエスは(学ばなくても)御言葉を次々に流出さすことができる

~と申しました。

これを感情的に受け入れがたい人は、仮説と考えてもいいでしょう。

とにかくこの考え方で進みます。





<少年イエスの驚異的な聖書知識>


イエスの人間離れした聖句知識のありさまを示す一例が、「ルカ伝」2章にも記されています。

イエスの住んだナザレ村の人々は、毎年こぞって「過越の祭」の時期にエルサレム詣でをする習慣になっていました。

イエスが12才の年にもエルサレム詣では在ったのですが、その際に事件が起きた。

帰途、一日の道のりを来たとき、両親はイエスがいないことに気付いたのです。

親族や知人の中を三日間探し回ったがみつからない。

とうとうエルサレムまで戻ると、なんと神殿の広場でイエスが教師たちの真ん中に座って議論していたのです。


その時~


・・・・・・・・・・・・・・・・
 「聞いている人はみな、イエスの知恵と答えに驚いていた」(「ルカ伝、3:46)
・・・・・・・・・・・・・・・・


~とあります。


+++

ここで少年イエスを取り巻いていた「教師」とはユダヤ教の教師僧侶でしょう。

そしてこの時代、長時間の議論の対象になるのは聖句以外にあり得ないでしょう。


ユダヤ教の教師は聖書(旧約)のプロです。

イエスはその彼らと何日も聖句を議論していた。

そして、聞いている人々が彼の知恵に驚いた、とルカは記しているのです。


・・・この事件もまた、イエスの聖書知識が飛び抜けていたことを示すのではないでしょうか。






イエスはその後、両親と一緒にナザレに帰り、「両親に仕えた」(「ルカ伝」2:51)とあります。

父親に従っての大工の仕事をしていたのでしょう。

そういう境遇の中での12才の少年が、ユダヤ教のプロの聖書教師の真ん中に立って議論をし、

その知恵で人々を驚かす、などという事態は普通には起きえないでしょう。

単に頭が良くて聖書が好きだった、というだけで起きることはない。

+++

この事件もまた、「彼の中にすでに御言葉が体現されていた」という理由を浮上させるのです。

神秘的ではありますが「それ以外の現実的理由」は、鹿嶋の心には出現しません。





<御言葉は先に天にあった?>

そこでこの「ヨハネ伝」1:14 の聖句に今一歩深く踏み込んでみましょう。

まず「言葉が御子イエスとなって世に来た」としますと、次のことが言えそうだ。

つまり、その言葉はイエスに体現される時点では、「この世」ではなく「創造神の懐」というか、広くいえば「天」にすでにあった、と。

あったから、人となり得るのですからね。

存在してなかったら、なりようがない。

それが道理ですよね。





<父のもとで見たことを話しているんだよ>


また、イエスのこういう言葉もあります。



・・・・・・・・・・・・・・・
「私は父(創造神)のもとで見たことを話しています」(「ヨハネ伝」8:38)
・・・・・・・・・・・・・・・



ここで「見たこと」とは、光景もあるかも知れませんが、主に「言葉(文字)」でしょう。

父(創造神)のもとにはすでに書かれた言葉があったのです。

それをみて御子イエスは、そのままこの世で語っていることになります。



すると福音書の著者たちの仕事はどういう風景になるか?

彼らは、御子のその言葉を福音書に書き留めているという構図になります。





<人間には読めない文字で>


つまり、繰り返しますが、天に先に言葉(文字)があるのです。

おそらくそれは人間には理解できない、いってみれば「神語(かみご)」とでもいうべき言葉で書かれているでしょう。

その一部を御子イエスは人間の言葉である、アラム語やヘブライ語(ギリシャ語でも?)で語った。

そして、福音書の著者たちはそれを直に聞いたり、取材したりして記録した、ということになります。






<旧約の言葉も先に天に存在?>


だったら旧約聖書の言葉も先に天にあった、と考えられませんか?

そのすでにあった言葉のうちの一定部分を、創造神(エホバ神)はイスラエル人の超霊感者(預言者」)に啓示した。


(余談ですが、こうなると、エホバ神(天使)が自分で考えたことをイスラエルの預言者たちに啓示したのではないことになりますね。

すると歴史のすべてが父なる創造神の意志で動く、という聖書の全体像に適合して、すっきりします)



ともあれ、そのある部分は映像で、そして、ある部分は言葉(ヘブル語)でもって示した。


超預言者たちは、それを創造神からのメッセージと信じて受信し記録しました。

イスラエル民族は、それをやはり創造神からのメッセージと信じて保存した。

それが旧約聖書だった~ということになるでしょう。


+++


イマジネーションはまだまだ続きます。

しかしこういう聞き慣れない話に、読者がこれ以上ついてこられるには、一呼吸置く必要があるでしょうね。


今回はこれまでにします。

(続きます)













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弟子は聖句をどう暗記できたか?

2018年01月27日 | 政治見識のための政治学



前回までで、イエスは弟子たちに休む間もなく講義し続けたことを、我々は知りました。

旅の途中でも、宿泊所に着いても教え続けた。





<弟子たちはどうやって聖句を?>

でも、こんな疑問も生じます。

イエス無きあと、弟子たちは、イエスから学んだ教えを伝道しています。

その際、旧約聖書の聖句をふんだんに持ち出してその解読を語っているんですね。

そこで、彼らはどうやって旧約の聖句を暗記する程に身につけたのか、という疑問が生じるわけです。





<聖書を持ち歩くのは不可能だった>


彼らは聖句を書いた書物(聖書)を持ち運んで旅をしていたのでしょうか?

そんなこと出来ないでしょう。

当時は活版印刷術もありません。

だから今の我々が手にしているような、全巻を一冊にコンパクトにまとめた聖書はありません。


この時代には、羊皮紙(羊の皮をなめしてつないだもの)に聖句を書いて、それを巻物にしていた。

両端に木の棒をくっつけて、それに左右から羊皮紙をぐるぐる巻いて読んでいました。

創世記から最初の五冊を「モーセ五書」とか、トーラとか呼ばれることもありました。

その概念が拡大して、旧約の書物全体をトーラということもありました。


+++

がとにかく、この巻物は縦の長さが50センチくらいもある、大きなものでした。

これに、旧約聖書の全体を書きしるすとなれば、書物は膨大な量になりました。

弟子たちが引用しているのは、モーセ五書だけではありませんからね。

もしこの巻物全部をもって旅をするとなれば、弟子たち全員は巻物を抱えて旅をすることになる。

聖書の記述から、そういう光景は思い浮かびません。




<イエスの口から全聖句が出た!>


ではどうやって聖句に触れたか。

結論から言えば、聖句はすべてイエスの口から出たでしょう。

イエスの中に、すべての聖書が収納されていた。

イエスはそれを、必要に応じて次々に口に出して解説した。

弟子たちはそれを、スポンジに水が染み込むが如くに吸収したのではないでしょうか。

彼らの聖書を知りたいといい情熱は、半端じゃないですからね。

その心に個々の聖句は、イエスが解き明かす解読と共に、染み込んでいったと考えられます。

+++

だけど、そうすると、こういう疑問が湧いてくるでしょう。

イエスはどうやってそれらの聖句を身につけたか?

常識的な答えは、「幼少時より聖書を読みまくったことによる」・・・でしょう。

だが、それもありえないと思えます。

幼少時より聖書全巻を読めるような環境は彼にはなかった。

成長すれば、父親の大工の仕事を手伝っています。

聖書の全巻を読みまくることによって、すべての聖句を暗記することは出来なかったでしょう。

弟子たちにすらすらと口述できるようにはならなかったでしょう。






<言葉が人となった方>

ではどうして?


理由は「ヨハネ伝」1章の聖句以外にあり得ないと思われます。



・・・・・・・・・・・・
「ことばは人となって、わたしたちの間に住まわれた」
(「ヨハネ伝」1章14節)
・・・・・・・・・・・・



つまり、「イエスご自身が聖句で出来ていたから」という理由以外にありえなかった。

全身、これ御言葉ですから、弟子たちに向かって聖句がどんどん流れ出した、ということになりそうなのです。





<「信者」の説明だ!>

わ~ぁ、大変。

この理由を目にして、シュリンクする(顔が引きつる)読者は多いんではないでしょうか。

鹿嶋春平太って知的なジェスチャーをとっているが、こんな神秘的な理由を平気で持ち出すとは。

やっぱり彼は「信者」なのだ。これは「宗教なのだ!」・・・と。

注意しないと、戦前に天皇現人神宗教を信じさせられて自爆攻撃に誘導された特攻隊の若者のようになるぞ。

くわばらくわばら・・・もう、このブログからは離れよう~という人も。





<宗教思考(神学)に神秘はつきもの>

たしかにこの理由は「神秘的」ですね。

だけど、宗教の思考(神学)には神秘要素はつきものですよ。

神秘が全くなくなったら、それは「科学」の論述と同じになりますよ。

神秘は出来るだけ少なくすべきでしょうが、神学から排除すべきものではありません。

排除すべきは神秘ではなく、神秘主義です。

つまり、理屈抜きに神秘なものを上位の究極の実在としてもってくるのは、排除すべきだ。


次回には、「言葉が人となられた方」という神秘的な要素の、論理的根拠を考えましょう。








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宿泊所でも教え続けた

2018年01月24日 | 政治見識のための政治学





前回の続きです。

イエスが教え続けたのは、徒歩移動中だけではないようです。

宿泊所についても、即座に教え始めた。

そう推定させる出来事が、新約聖書の『ルカ伝』10章に記されています。

だが、その前に、イエスの支援者のことを考え、想像しておきましょう。


   


<金持ちの支援者も多かった>

イエスの一行は野宿もしましたが、金持ちの家に宿泊することも少なくありませんでした。

イエスをサポートする金持ちは多かったのです。

+++

最初の動機が、「こういう人とは近しくなっておこう」というケースもあったでしょうね。

この人は、三年半に渡って人の病をただちに癒やし続けたのですよ。

子どもが死んでも生き返らせてくれるのですよ。

「この人とは頼み事をしやすい状態に自らをおこう」と、金持ちならほとんどが思うでしょう。

鹿嶋がその時代の金持ちだったとしても、最初はそういう動機が働いて支援者になったと思いますよ。




<アリマタヤのヨセフ>

だが、自己利益を主動機にするような支援は長続きはしません。

やはり、イエスの教えに打たれ、受容して賛同者にもならねばならない。

そういう金持ちは結構聖書に出ていますよ。

+++

イエスが十字架刑死したのち、その死体を受け取らせてくれと、ローマの総督に願い出た人が「ヨハネ伝」の終盤に記録されています。

名は「アリマタヤのヨセフ」と記されている。

彼もその一人で、聖書には~

「イエスの弟子ではあったが、ユダヤ人を恐れてそのことを隠していた」
(「ヨハネ伝」19:38)

~とあります。

体制側の人だったからでしょう。

+++

彼は死体を受け取った後、入手してあった新しい墓に葬ったようです。

聖句では~


・・・・・・・・・・・・・
「イエスが十字架に付けられた場所に園があって、そこには、まだ誰も葬られていない新しい墓があった・・・」(「ヨハネ伝」19:41)
・・・・・・・・・・・・・


~とあります。

アリマタヤのヨセフがあらかじめ入手していたものでしょうね。

持ち主でもないのに、そこにあったお墓に勝手に葬ることなど、出来ませんからね。

この墓は、岩山を横にくりぬいて作った一室になっていた。

入り口を大きな岩盤を転がして塞ぐようになっていました。

そんなものを、普段から保有している、というのは金持ちでないと出来ないことです。





<ニコデモも最後まで支援者だった>




また、そこに~



・・・・・・・・・・・・・・・・・
「没薬(もつやく)とアロエを混ぜたものをおよそ30キログラムばかり持ってきた」(「ヨハネ伝」19:39)
・・・・・・・・・・・・・・・・・


~という人も来ます。

ニコデモです。

聖書を読む人にはおなじみのユダヤ教の指導者(高僧)ですね。


+++

彼は前々からイエスに傾倒していました。

この人が、夜闇に紛れてイエスの所に質問に来る場面が「ヨハネ伝」の3章に記されています。

彼はまた、議会でイエスが不利にならないような発言をしたりして、ひそかにイエス支援をしています。

その彼が、この葬りの時にも、没薬や香料、亜麻布をもって登場した、とヨハネは記しています。

+++

当時のユダヤ教の高僧といえば、みな、資産家ですよ。

彼もイエス支援者の一人でした。






<「最後の晩餐」の場と「マルコの部屋」の提供者>


城郭都市、エルサレムの内部にも支援者はいましたよ。

イエスが「過越の祭」の日にいわゆる「最後の晩餐」をした、とあります。


エルサレムには、その部屋と食物を提供した人もいたのです。

また、イエスが殺されて復活した後、弟子たち200人以上が一堂に会して祈っていた部屋は「マルコの部屋」とされています。

こんな大きな部屋を提供した人もエルサレムにはいた。

資産家に決まってますよね。

彼らは立場上、身分を隠して支援しますが、こういう金持ちは、ガリラヤ、サマリア、エルサレムなど、イスラエルの全土にいたのです。





<マルタとマリアという姉妹>


さてそれで「ルカ伝」10章です。

ここにはエルサレムから徒歩1時間ほどの所にいたイエス支援者の話が出てきます。

マルタ(姉としておこう)マリア(妹としておこう)という、資産家の娘です。


+++

そこでもイエスは到着後、ただちに教えを述べています。

待ちわびていた近所の人々は、すぐイエスを取り囲んで教えを乞うたでしょう。

妹のマリアはその中に混じって教えを聞いていました。

+++

姉マルタは、人々をもてなすために家事にいそしんでいました。

だが、彼女はついにイエスに訴えました。

「妹も、手伝うように言ってください!」と。

これに対するイエスの応答は有名です。

「マルタ、人生で大切なことは、そんなに多くないんだよ。マリアはそのままにさせておきなさい」





~でも、こんな疑問が生じませんか。

イエスは何を無責任なことを言ってるのか。

イエスのいうように姉もイエスの講義を聴き始めたらどうなるか。

一行をもてなす食事が出来あがらなくなってしまうのではないか~と。


+++

~けれども、現実はそうならないでしょうね。

近所の他の女性たちがマルタの意図した食事を作り始めたでしょう。

また、マルタがマリアと、講義が一段落してから作ることもできますしね。

少し待ってもらうだけのことです。


現実はそんなものです。






<宿泊所についてもイエスは語り続けた>


が、ともあれ本題です。

これなど、イエスが、支援者の家についても常に聖句解読をレッスンしていたことを示唆しているのです。

イエスは、旅をしながらも、支援者の家に於いても、常に聖句を教え続けました。

唇の休まることはなかった。

弟子たちが、宿泊所でも、学びまた、議論していたこともこの事件から推察できます。

まあ、想像できない人は、ゲートボールしてた、スマホしてた、トランプしてた、世間話してた、など、なんでもイメージしてください。









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イエスの弟子たちは聖句学習集団だった

2018年01月22日 | 政治見識のための政治学






『使徒行伝』からは、ペテロやステパノだけでなく、他の弟子たちも聖句を語って伝導していることもうかがえます。

次の聖句はそれを示す一つです。



・・・・・・・・・・・・・・・

「(迫害者だったパウロたちによってエルサレムから)散らされた人たちは、御言葉を宣べ伝えながら、巡り歩いた」
(『使徒行伝』8:4)
・・・・・・・・・・・・・・・




でも、一体、彼らはどうやって聖句に精通していったのでしょうか。

すべてイエスのレッスンによると思われます。





<公生涯の大半は宣教旅行>


イエスの3年半の公生涯の大半は宣教旅行でした。

彼が引き連れた一団は、12人の使徒だけではなかった。
彼らを囲んでさらに70人の弟子がいました。

この総勢が、徒歩で宣教旅行をしました。

旅の途中にある村々に入り、イエスは聖句解読を中心にした宣教を行いました。

彼はその正しさを、偉跡(病の癒しなどの奇跡)で証拠しつつ語りました。






<村では弟子たちも聖書を教えた>



その間、他の大勢の弟子たちはどうしていたでしょうね。

ただ突っ立って待っていたとは考えにくい。

暇つぶしにゲームに興じていたとも考えにくいです。

当時、ゲートボールもスマホもないしね。

+++

おそらく彼らも手分けして、集まってきた村の人々に福音を伝えたでしょう。

彼らはみな、聖句を提示しつつ、その解釈を教えたでしょう。




<みんなイエスから聖書を学びながら歩いた>


では、その知識はどこでどうやって得たか?

徒歩旅行の間に、でしょう。


+++


弟子たちの生活時間は、村に入っての伝道以外には、ほとんどが旅でした。

当時、クルマもありませんので、徒歩旅行です。

+++

弟子たちはその際、軍隊のように、黙々と整列行進していたのではないでしょう。

おそらくイエスを囲んで歩きながら、あるものたちはイエスに近づき、聖句の質問をしてたりしたでしょう。

弟子たちは、結果的に、小グループ毎に順繰りに、聖句の解読レッスンを受ける形になったでしょう。

80人もの弟子たち全員が一度に、歩きながらイエスを取り巻いて話を聞くことは出来ませんからね。




<思い思いに近づき質問した>


レッスンを受けたグループは、イエスから離れて、それについて互いに議論したでしょう。

イエスの講義を検討し、吟味し合ったろした。


+++

すると別の弟子たちがまた小グループで、イエスに近づき質問したりしたででしょう。

こうやって次々に弟子たちは、小グループを形成して、イエスの薫陶を受けたでしょう。


+++

ではイエスは結局、しゃべりっぱなしで歩いていたか?

唇の休まるときはなかったか。

そうだったと思います。

イエスは教え続けて歩いていたのです。









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ステパノ執事、聖書解説して殺されていく

2018年01月20日 | 政治見識のための政治学





話を戻します。

『使徒行伝』には、ペテロだけではなく、他の弟子たちも聖句に詳しかったとうかがわせる聖句が結構あります。

ステパノ執事の殉教物語にも、それは示されています。





初代教会が出来ていくとき、11使徒は7人の執事を選んでリーダーに加えます。

ステパノはその一人です。

彼は伝道中に、回心するまえのパウロの率いるユダヤ教の一団に逮捕されます。

(パウロはこの後、クリスチャンになり、大車輪の伝道活動をするんですけどね。

この時はユダヤ教チームの迫害リーダーです)







ステパノはユダヤ教徒の議会に引き出され、偽証を含めた告発をされます。

で、大祭司に「そのとおりか」と尋ねられると、突然、自説を証言し始めるのですが、

その際~、

アブラハムから始めて、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセ、ヨシュア、ダビデ、ソロモンに至るまでの旧約聖書の物語をとうとうと語っています。

それが驚異的に詳しいんだなぁ~。。


聖句もどんどん引用している。どうやって暗記したんだろう。






その上で彼は~、

「・・・あなたがたは、先祖たちと同様に、いつも聖霊に逆らっているのです。

あなたがたの先祖が迫害しなかった預言者がだれかあったでしょうか。

彼らは、正しい方がこられることを前もって宣べた人たちを殺したが、

いまはあなたがたが、この正しい方を来られることを、前もって宣べた人たちを殺すものとなりました。

あなたがたは、御使いたちによって定められた律法を受けたが、それを守ったことはありません」

~とカマします。

(『使徒行伝』7:51-3)



これではもうユダヤ教指導者は怒り狂いますよね。

彼らは、ステパノを町の外に追い出します。

そして、石打でもって殺してしまいます。


~ステパノ事件は、そういう物語ですけどね。






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「世」では色んな形態の教会が成り立っている

2018年01月18日 | 政治見識のための政治学






前回、長い聖句(ペテロの聖句解説)を引用しました。

慣れない方には、退屈で気詰まりだったでしょう。

今回は、少し脇道に入って、現実の「教会の様々な姿」とでもいうべき話をします。





<「世」には色んな姿(階層)の教会がある>


鹿嶋は、「キリスト教の核心は”神は言葉”という教え」だという見解で話を進めています。

けれども、この世にある実際の教会は様々な形をとっています。





<「マルコ伝」15章から目を離さない教会>


① まず「核心をストレートに志向している教会」から。


 この教会では、「言葉(創造神)が心に留まるように人間がすれば、

その言葉(の波動)が被造物に影響を与えて、力を発揮することを理想として活動します。

  
 具体的には、「マルコ伝」の最終章での聖句に記されている状況を理想と心得、
それに向かってストレートに活動します。

・・・となると、ここでもまた聖句を提示しないわけにはいかないなあ。

ごめんなさい。 なるべく短くして引用しますからね~。




・・・・・・・・・・・・・

(「マルコ伝」 15:15-19 からの引用)


「それからイエス(復活して現れた)は、11人の使徒にこう言われた。
 
『全世界に出て行き、すべての造られたものに、福音を宣べ伝えなさい。

信じてバプテスマを受ける者は救われます。

信じない者は罪に定められます。

信じる人々にはつぎのようなしるしが伴います。

すなわち、私の名によって

悪霊を追い出し、

新しい言葉を語り、

蛇をもつかみ、

たとえ毒を飲んでも害を受けず、

また、病人に手を置けば病人は癒やされます』


(引用終わり)


・・・・・・・・・・・・・・





~この理想から目を離さないで活動するのが、「核心を体現する教会」です。






<「隣人愛」の教会>


~しかし、そこまで行かないところを主眼にして活動する人の群れも、教会として成り立ちます。

聖書には様々な思想が含まれているからね。

それほどに、底が深い書物なのです。


② その代表が、「愛の教会」ですね。

「(隣人愛などの)愛」を活動の主眼とした教会です。





<善きサマリア人となろう!>


イエスの教えに「善きサマリア人」の話が出てきます。

強盗に襲われ大けがをし、かつ、身ぐるみはがれたイスラエス人が道に横たわっていた。

同胞たるイスラエルの知識人は、関わらないようにと、道の反対側を通り過ぎた。

これを異邦人であるサマリア人の旅行者が哀れんだ。

彼は、傷の手当てをし、宿屋に運び、主人に「このお金で手当を続けてやってくれ、

足りない分は旅の帰りに立ち寄って私が支払うから」といって

旅を続けた~という物語です。


+++


それを話してイエスはこう教えます。

このどちらが、襲われた人の「よき隣人」か?

諸君もこのサマリア人のような、よき隣人となりなさい~と。


+++

こういう「愛を主目標として活動する」人々の群れも、教会として成り立っていきます。

実際、この「愛主眼の教会」は、日本にはとても多いです。

みんなそれで、きちんと教会として運営され、存続しています。






<倫理道徳教会>


かと思うと、倫理道徳の教えと実践を主眼に群れを形成する教会もあります。

③「道徳倫理教会」ですね。


聖書という書物は、もの凄く深い、多層的な書物なのです。

ルーク唐沢が「生命現象の書」というくらいに、その内容は膨大で層をなしています。


+++

旧約聖書に『箴言』という書物があります。

これなど、道徳の教えを沢山含んでいる。

とりようによっては、倫理道徳の教科書だよ。

孔子様の『論語』と同質の教えをも持っているのが聖書なのです。


+++

で、そうした倫理道徳論をみんなで聖書から学ぶ群れも出来るのです。

人間には「宗教性」の心理が埋め込まれているからね。

倫理道徳にもある程度の神秘を感じるのです。

そこに「神様の意志」という根拠を付けて祈ったりすると、

もう結構キリスト教会らしく感じられるのだね。

この教会も日本には多いよ。





余談の余談です。

上記の②、③の教会や牧師は、上記ルーク氏の手にかかると、ボコボコだね。

若いからね。血気盛ん。

鹿嶋などは、もうそのエネルギーなく、「世」ではそうなるのだ~と悟りの境地です。

+++

以上、気分転換のための「脇道」でした。








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素っ頓狂なペテロが「ヨエル書」を解説するとは!

2018年01月17日 | 政治見識のための政治学






<「神は言葉」を踏まえて>


 前回、前々回と、キリスト教の核心は、万物の創造神は「言葉(ロゴス)」である~という教えだ、と述べました。

 これからそれを踏まえて、『バプテスト自由吟味者』に書き切れなかったことがらを埋めてみます。






この本の訳者解説で、鹿嶋は「初代教会では聖句自由解読と吟味が熱心になされていた」と書きました。

だが、その具体的な有様を述べる余地はありませんでした。

+++

キリスト教会が発祥する、まさにその時の教会員の聖句解読は具体的にどんな風だったでしょうか。

『ルカ伝』の著者ルカはその解読の事例を『使徒行伝』に詳細に記録してくれています。






<ペテロってそんなに知的だった?>


いまその一つをみてみましょう。

イエスの使徒のリーダー的存在だったペテロが語った聖句解読の記録です。

(こうしたルカの仕事には、本当に助けられます)






「使徒行伝」2章を開いてみましょう。

イエスが昇天したのち、エルサレムに留まっていた使徒とそれを取り巻く200人の信徒たちに、不思議な事件が起きました。

「聖霊のバプテスマ」としてよく知られた事件です。

もの凄い音がして、炎のようなものが各人の上に留まった。

すると、彼らはみな自分の知らない他国の言葉で語り出しました。

エルサレムの神殿には常時多くの参拝者が来ています。
彼らは近所の大部屋での轟音に驚いて駆けつけました。

そしてこの不思議な状況に面食らいます。

+++

すると、使徒のリーダー格ペテロが立ち上がりました。

彼はこの事態を、説明しはじめました。

旧約聖書の聖句を解き明かすことでもって、その解説をした。

ルカはそれを「使徒行伝」2章14節から36節までかけて、延々と記録しています。

聖書を読む習慣のない読者もおられるでしょうから、ここにその場面の聖句を書き写しましょう。

長いけどね。







ペテロは立ち上がって語り出しました~。


+++

~ユダヤの人々、ならびにエルサレムに住むすべての人々、あなたがたに知っていただきたいことがあります。

どうか、私の言葉に耳を貸してください。

いまは朝の九時ですから、あなた方の思っているように、この人たちは酒に酔っているのではありません。

これは預言者ヨエルによって前もって語られたことなのです~。

「創造神は言われる。

終わりの日に、私の霊を全ての人に注ぐ。

すると、あなた方の息子や娘は預言し、

青年は幻を見、

老人は夢を見る。

その日、わたしのしもべにも、はしためにも、私の霊を注ぐ。

すると彼らは預言する。

また、私は、上は天に不思議なわざを示し、

下は地にしるしを示す。

それは、血と火とを立ち上らせる煙である。

主の大いなる輝かしい日が来るまえに、

太陽はやみとなり、月は血に変わる。

しかし主の御名を呼ぶ者は、みな救われる」



・・・・・・・
(ペテロの語りはまだ続きます)
・・・・・・・


~イスラエルの人たち。このことばを聞いて下さい。

創造神はナザレ人イエスによって、あなた方の間で力あるわざと、

不思議なわざと、あかしの奇跡を行われました。

それらのことによって、創造神はこの方のあかしをされたのです。

これはあなたがた自身がご承知のことです。



あなた方は、創造神の定めた計画と、創造神の予知とによって引き渡されたこの方を、

不法な者の手によって、十字架に付けて殺しました。

しかし創造神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。

この方が死につながれていることなど、あり得ないからです。





ダビデはこの方についてこう言っています~。

「私はいつも自分の目の前に主を見ていた。

主は私が動かされないように、

私の右におられるからである。

それゆえ、私の心は楽しみ

私の心は大いに喜んだ。

さらに私の肉体も望みの中に休らう。

あなたは、私の魂をハデスに捨てておかず、

あなたの聖者が朽ち果てるのを、お許しにならない方である。

あなたは、私にいのちの道を知らせ

御顔を示して、私を喜びで満たして下さる」



・・・・・・・・・
(ペテロの演説はまだ続きますよ)
・・・・・・・・・



~兄弟たち。先祖ダビデについては、私はあなたがたに、確信を持っていうことが出来ます。

彼は死んで葬られ、その墓は今日までわたしたちのところにあります。

彼は預言者でしたから、創造神が彼の子孫の一人を彼の王位につかせると、誓って言われたことを知っていたのです。

それで、後のことを予見して、キリストの復活について

「彼はハデスに捨て置かれず、その肉体は朽ち果てない」

と語ったのです。





創造神はこのイエスをよみがえらせました。

私達はみな、そのことの証人です。

ですから、創造神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、

今あなたがたが見聞きしている聖霊をお注ぎになったのです。

ダビデは天に上ったわけではありません。

かれは自分でこう言っています~。





「主は私の主に言われた。

わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、

私の右の座に着いていなさい」

ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らねばなりません。

すなわち、創造神がいまや主ともキリストともされたこのイエスを、あなた方は十字架に付けたのです。

(以上「使徒行伝」2:14-36からの引用終わり)

+++

このペテロの聖書解読を聞いて、その日だけで、三千人が教会に新規参加した、とルカは記しています。






<福音書では「素っ頓狂で可愛いお弟子さん」>


これってよく見たら凄いことだよね。

だが鹿嶋はこれを「ああ、そうか・・・」と無感覚に読み過ごしてきました。


福音書の記述では、ペテロはこういう知性とはかけ離れた人物という印象だったからです。

鹿嶋の知る人々も、ペテロに対して素っ頓狂な言動の多い、三枚目的弟子という印象を抱いていました。


+++

だがイエスは後に、そうした彼に「私の羊を牧(ぼく)しなさい」と命じていくんだよね。

つまり、「これから出来ていく教会のトップ指導者となりなさい」と命じます。


何でだろう?・・・と思いました。

彼の、行動派で暖かい人柄がトップに適しているとイエスは判断したのかな。

~面食らいながらも、鹿嶋はそう受け取ってきました。


+++

繰り返しますが、福音書ではペテロは、とても上記に引用した聖句のように御言葉を次々に述べて、その解読を示すような人にはみえないのです。

そのペテロが、『ヨエル書』や『詩篇』の一節ををスラスラしゃべっているではありませんか!

しかもその解読もさえているように見える!

これは一体何なのだ!

+++

このような『使徒行伝』のシーンと、四福音書の諸場面とのイメージがつながらない。

鹿嶋は感情に整理がつきませんでした。

そこで素直に受け入れることが出来ず、とにかく読み飛ばしてきたのでした。



(続きます)











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イエスは昇天しても言葉は地上に残した

2018年01月15日 | 政治見識のための政治学






前回の続きです。





<昇天しても言葉は残す>



地上で教えた後、イエスは十字架死して、復活し、昇天しました。

復活して現れても、弟子たちに追加インストラクションして、昇天しました。


でも、地上に「言葉」は残しておきました。




<送られる聖霊が御言葉を保存し啓示する>



そしてイエスは昇天して創造神の右の座に着くと、地上に聖霊を送りました。

父(創造神)に願って聖霊を送ってもらった。

今度はその聖霊が、地上に残された言葉を保存し、その真意を人間の霊感に啓示するのです。

だから、イエスは昇天するまえに弟子たちに、「聖霊を受けよ・・・」と息を吹きかけていきました。





<聖霊のバプテスマ>


そして、あるとき轟音と共に、弟子たちのうちに聖霊が入ります。

有名な「聖霊のバプテスマ」です。(「使徒行伝」2章)

その聖霊が、御言葉の真意を説き続けるのです。

イエスの~

「 もしわたしが(天の御国に)いけば、わたしは助け主(聖霊)をあなたがたのところにつかわします。

その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にそのあやまりを認めさせます。

罪についてというのは、彼らが私を信じない(アクセプトしない)からです。

また、義についてというのは、わたしが父のもとに行き、あなた方がもはや私を見なくなるからです。

さばきについてとは、この世の支配者が裁かれたからです」

(ヨハネ16:7-11)

~はその真骨頂をいった言葉です。






しかし、そのままではわかりにくい聖句ですね。

鹿嶋の自由吟味を示しておきます。


+++

まず「罪についてというのは、彼らが私を信じない(アクセプトしない)からです」~から。

人々は肉体による罪を恐れますが、それは、本当の罪の比喩です。

本当の罪とは、「イエスを信じないこと」にあるのですが、人々はそれを知らないでいます。

だが聖霊が来ると、そのことを意識波動を送ってでもって人の霊に実感させ、悟らせるる~というのです。





次に「義についてというのは、わたしが父のもとに行き、あなた方がもはや私を見なくなるからです」~はどうか。

これなんか、難しいですね。 やってみましょう。


・・・まず、この世におられるとき、イエスは義を自ら体現しておられました。

だが、それを人々は気付かなかった。

だから、「イエスが天に行かれてこの世には義は無い」ことも人々は気付かない。

だが聖霊が来ると、そのことを意識波動でもって実感させる。

そしてまた、聖霊は、もはや「イエスの功労によるグレースを受けて」義になるしかない、ことを悟らせるだろう。

~というのが鹿嶋の解読です。






最後の「さばきについてとは、この世の支配者が裁かれたからです」~はどうか。

・・・それはこうでしょう。

 ~さばきの本質はこの世の君(悪魔)がさばかれることだ。

悪魔は最初から偽り者であり殺人者である。神の敵である。

さばきを受ける存在は、あなたではなく、別にいる。

だからあなたは恐れている必要はないのだ。

~以上のことを聖霊は、やはり意識波動を送って実感させる、というのです。



聖霊が来ると、悟らせてもらえることの、鹿嶋自由解釈は以上です。







<霊感を広げながら>



ただし、人間は、その聖霊の啓示を受信するための新しい課題を与えられます。

霊感を広げ、育成し続けることがそれです。

その点が、イエスが自ら地上にいて人の姿で、直接語ってくれた状況とは違います。

上記の事柄は、みな、霊感が広がることによって受信可能となるのです。





我々が肉眼で認識する光の波長は、すべての波長の内のごく一部です。

それは七色のスペクトルをもっているといいます。
それらが一つに集まると白く明るい光になるといいます。

だがその波長のレンジは、全体の光波長からしたらごくわずかです。

その全体の光を受信するには、肉眼を超えた認識機能が必要です。

光という物理的存在についてもそうです。

聖書で明かされているのは、物理的世界を超えた、霊ワールドです。

これは霊感を広げて、霊感によって認識する以外にありません。





聖霊が送ってくれる意識波動についても同じです。

「霊感」の拡大と向上が、鍵になる。

それが、イエス昇天後の御言葉の受信と自由吟味との鍵となるのです。

そのために、祈りと聖句を抱いての瞑想は一層重要になります。



+++

そうした構造変化はありますが、「神は言葉である」という核心は、一貫して変わりません。

昇天後もイエスはキリスト教の核心が守られるようにしていったのです。










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余生を正しいキリスト教史理解に

2018年01月13日 | 政治見識のための政治学





暮れから新年にかけて、キリスト教に関するテレビ番組が放映されていました。

「天正少年使節」「支倉常長のローマ使節」
「戦国徳川期でのキリシタン迫害」「天草四郎をかかげた島原の乱」

             ~といったようなテーマでの番組です。





でも、そのすべてに「何か、いまひとつよくわからない」という気分がつきまとう人がいるのではないでしょうか。

それは正常な感情です。

わからない真因は、キリスト教活動に関する基礎的知識の欠如にあります。

だが、日本の視聴者の多くは、「まあ、キリスト教とはそういうよくわからないもの」との悟りと諦めが、ミックスした気分でやりすごしているでしょうね。

ゲストコメンテーター先生もみな同じです。

ぜ~んぜん、わかってない。




たとえば、これらの番組にはみな、「イエズス会」というなが出てきていました。

どうもこの会派の宣教師が活動主体となっているようは気もしないではない。

だけど、そのイエズス会というのはなにか?

キリスト教の代名詞のような気もする。

だが、結局よくわからない。

~そういう人がほとんどでしょう。






<「バプテスト自由吟味者」の解説への解説を>



鹿嶋は、この問題に正面から対処してみようと思うようになりました。


それは、このほど出した『バプテスト自由吟味者』の訳者解説に、さらに、解説をくわえることによってのみ、可能になります。




この本の解説への追加説明を、一つ一つ、根気よくする以外に方法はないのです。

それによって、この日本、いや、世界の懸案の問題を解決しようと思います。





報われることの少ない、労力のいる仕事です。

だけど、鹿嶋はそれを試みようと思うのです。


これまでに社会は、鹿嶋の人生に、それを研究する時間と資金を与えてくれました。

その社会への恩返しとして、お礼として、試みようと思うのです。





<キリスト教の核心、から>


話はキリスト教の核心とはなにか? ~から始めねばなりません。

いまや、キリスト教といっても、色んな教え、色んな活動があるのです。

それらが層をなしているよかのようにみえます。

あるいは、たとえは悪いかも知れません、キリスト教の教えは十二単を着た人間(あえて女性といわない)の姿にもたとえられます。


核心とはそれらの衣装のなかにある身体そのものです。


それは何か?

わかれば、それではどういう衣装を歴史に中で着せられてきたいるか、も見えてくるでしょう。

とにかくまず、核心を結論的に述べねばなりません。


  

<愛弟子ヨハネが核心を書いている>


キリスト教の核心は、「ヨハネによる福音書」(ヨハネ伝)に現れています。

ヨハネはイエスが最も愛した弟子です。
彼にはイエスは後に、幻で延々とメッセージを託してもいます(その記録が「黙示録})




<神は言葉である>


核心は、万物の創造神は「言葉(ロゴス)」である~という教えです

父なる創造神自身は、人間に自らを現しはしません。


創造神の御子が言葉になって、被造界に現れるのです。


「言葉は人となって私達の間に住まわれた」(ヨハネ伝1:14)という聖句を軽く読み飛ばしてはなりません。

御子イエスの身体は、「言葉(神の言葉)が身体になったもの」、という思想なのです。

+++


他方、人間の身体は、土の塵によって創られている、と旧約聖書にあります。(「創世記」2:7)

だから、たとえば御子イエスが十字架死して三日目に復活するまでの間に、その身体は腐ることがなかった、ということになっています。

御子の復活もそうです。

後に実現される「人間の復活」は、その霊が復活の身体に転化します。

だが御子の場合は、身体に入っている霊が身体になるのではない。

御子の身体(言葉)がそのまま復活の身体になる、という論理になっているのです。





<神の言葉は波動を持って働く>


ビックリする人も多いでしょうね。

もう、ついて行けない、と思う人も・・・。

だが、まだありますよ。



御子から出る言葉そのものは、霊というサブスタンス(実体)なのです。

これは、波動をもって働きます。

「私の言葉は霊であり、またいのちである」(「ヨハネ伝」6:63)

~はそれを言っています。





御子の言葉の中に住まえば弟子になる


そしてその言葉を人間が心にアクセプトして(受け入れて)その言葉の中に、自らの意識が住まうようになると、新局面が開けます。

その人は、その御子の弟子となるのです。

すると真理がわかり、その真理がこの人を自由にします。(「ヨハネ伝」8:32)





御言葉が内住すれば願いは実現!



次に、御子のその言葉が人の意識の中に常住するようになると、さらに凄いことが起きる。

その人間の願うことは、みな実現されるのです。

後に、その人が御子の言葉を「地の果てまで」伝えに出ます。

そのときには、その言葉が癒しなどの偉跡を現すようになる。

そうやって聞く人々に、伝えた言葉が真理だと、御子の言葉(の波動)が証明する、というのです。


<私の身体を食べよ・・・>


だから、御子はいうのです。

「私の血を飲み、肉を食べよ」と。

御子の血は「いのちエネルギー」でできています。 肉は創造神の言葉で出来ています。


だからこれは「私の言葉を、肉体が食べ物を食べるように、諸君の心にアクセプトしなさい」という意味になります。


+++

だがこのことは、さすがに、イエスを追ってきた大衆にはわからりませんでした。

「この人の血を飲み、肉を食べるなんて、そんな残酷なことなどとても出来ない」と彼らは去って行きました。

(「ヨハネ伝」6:51-6)



だが、イエスは、核心を一貫して示していきます。

十字架にかかる直前の「最後の晩餐」でも、葡萄酒とパンを取り出します。

そして「これでもって私が、私の血(いのちエネルギー)を飲み、肉(言葉)を食べなさい、といったことを、集まる毎に思い出すようにしなさい」、~と遺言していきました。




・・・むずかしいねぇ。

お気持ちわかりますよ。 難しいよねえ・・。


だけど、このように「御子(創造神)は創造神の言葉であり、これをアクセプトせよということが教えの核心になる」ことは、まず、暗記しておかねばなりません。


+++

でないと、たとえば、「初代教会の人々が、なぜ聖句(聖書の言葉)を直接吟味し味わい続けたか」が納得できなくなる。

100年ものあいだ、この活動だけを何故一貫して続けたかが、追体験できなくなるのです。

+++


彼らにとって、「創造神とは御子の言葉」だったのです。

「その創造神を味わい知るには、その言葉を自由に吟味することが必要」だったのです。

誰にも制約されずに、自分の人生体験とも照らし合わせながら、聖霊に導かれながら味わうことが不可欠だった。


すると、その言葉は、個々人の中で波動を発して、驚くべき喜びと、神の力とを体験させてくれたのです。


~「創造神は言葉」・・・これがキリスト教の核心なのです。








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SF的理念か無か

2018年01月12日 | 政治見識のための政治学




これまでの話を読んで、笑ってしまった方もおられるかもしれませんね。
「この人、ホントに知識人か?」
「鹿嶋春平太って、変人と違うか?」




<サムシングかナッシングか、と言う問題>

だが、これは理念を持つか、無理念か、と言う問題です。

SF的だろうが、空想科学的であろうが、一つの空間理念をもつのと
何も持たないか、と言う問題です。

+++

かっこ悪いと言って、何も持たなかったら、聖書の物語を
その中に位置づける全体観をなしで、読むことになります。

すると、すべての物語相互の関係を位置づけることが出来なくなる。
ここの話を個々バラバラに読むことになります。




<体系的思考が育たない>

これは知性にとても悪いことです。
SF的だろうが、その理念の中に個々の物語を暫定的にでも
位置づけながら読むときの、意識の働きを想像してください。

この状態が、いかに、精神の広がりを造り、体系的、論理的思考を作り出すか。

いかに知的な恩恵をもたらすか。

+++

だが、それが納得できても、いざやるとなると、出来ない人が日本には圧倒的に多いです。

日本人は、なにか新しい世界観を提示されると、「これは正しいだろうか」と
反射的に思ってしまうのです。
 



<学校教育の後遺症>

学校での教育が原因です。
教科書知識を「これが正しいものだぞ」と先生に与えられ続けたことによる
後遺症が大きいのです。

だから、知識を暫定的なものとしてもてない。
怖くて持てない。

ましてやそれを自由吟味するなどできない。

これ大変なことなんですけど、事実です。

+++

鹿嶋が『バプテスト自由吟味者』で紹介した、聖句自由吟味活動が
いかに貴重なことかが、このことからもわかります。

自由吟味活動は、いまの日本に、宝石のように価値あるモノなのです。

これを実践する、具体的な手順を真剣に考えねばなりませんね。






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反乱天使、宇宙で悪魔に変質

2018年01月11日 | 政治見識のための政治学





物語は、前回の続きです。


反乱天使長とその配下の天使たちは、暗闇の牢獄(宇宙)に閉じ込められ、
変質を開始します。

そしてついには、悪魔(サタン)になるのです。




<いのちエネルギー>

そのプロセスは聖書の論理をつなぎ合わせると、こうなります~。

本来被造霊は、創造神から放射される「いのち」というエネルギーを
吸収充電して生きていく存在です。

吸収できるには、自己の意識波動を創造神にの波動に共鳴する状態に置くことが必要だ。
聖書ではそういう思想になっています。

人間も同じです。

いのちエネルギーを吸収すれば元気いっぱいの活霊になり、
吸収不全になれば、活力がなくなって死霊になっていきます。

+++

ところが反乱天使は、創造神の意識波動と真逆な、敵対心の意識波動を持ってしまいました。
こうなると、もう、充電不全どころに留まらず、マイナスのいのちエネルギーをもった被造霊となります。

こうして死霊どころでなく、それを通り過ぎた霊的存在、悪魔に変質するのです。

それに応じて、配下の天使たちも悪霊に変質します。




<「世」の君>

これが悪魔と悪霊で、彼らは暗闇(宇宙)のなかに出現するのです。

悪魔の配下天使への支配権は存続します。

暗闇はこの反乱天使たちを閉じ込めた牢獄です。


そこで、悪魔はいわば「牢名主」となります。

その後、創造神は、この宇宙の中に、人間を作ります。
だから後に人間が言う「この世」はこの宇宙の中の空間となります。

悪魔は、その世界での君主です。

そこで後にこの世に現れるイエスは、悪魔を「世の君」と言っています。

「君」とは君主のことです。

+++

以上が、聖書の「創世記」に記述されている事件の前段階の事態です。

この知識を背景にして、旧約聖書の物語は理解していく必要があるのです。





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天の御国で反乱が発生

2018年01月09日 | 政治見識のための政治学





2018年、明けました。

年末から新年にかけて、風邪をこじらせて、奈良(家内の実家)で寝ていました。
天理教の運営する「いこい病院」にいくと、インフルエンザではないと診断されました。

一安心しましたが、レントゲンでは肺に若干の炎症がみられた。

肺炎に進展してはまずいと、抗生物質を二種類処方されました。

やっと、熱が下がって、愛知の自宅に帰宅しています。

それで、間が空いてしまいましたが、天国の話を続けます。

前回、御国(天の創造神王国)に天使がつくられた話でしたね。





<天使の形態と性質>

天使の形態はどうイメージしたらいいでしょうか。

霊だから様々に変容できるはずです。
だが、通常もどるところの原型というものが考えられるでしょう。

それは我々人間のような姿とイメージするのが好都合です。
かつ、それが聖書の解読に障害になることはなさそうです。

で、そう想定しましょう。

~つまり、人間のような形のボディがあって、頭が一つあって、
手と足が二本ずつついている。
顔には目が二つ、中央には鼻がひとつあって、その下には口がある~等々とイメージするのです。




<背中に羽根はついていない>

ただし聖画などでは、天使はよく、この人間の形で背中に大きな羽根がついているように描いていますよね。

それは、人間と「同じように考えすぎて」のことでしょう。

つまり、天使は霊だけの存在なのですが、肉体をも持つとイメージしてしまうのです。
すると、空中を自由に移動するには、羽根がいることになるでしょう。

そこで人間に羽根を付けて描いているわけです。

+++

だけど、天使は、人間のような肉体を持たない霊だけの存在で、霊は物質のような重量を持たないので、羽根などなくても空中を移動できるのですね。

この機会に、天使は霊的な存在であることと、霊は重量を持たないことを
明確に認識しておきましょう。





<ドラマが始まる>


物語は動きます。

その天使の中に、とびきり見目麗しく、かつ、活知と知識に満ちたように創られた天使長がいました。

彼の職分は、配下の天使たちを指揮して、創造神の名を賛美することでした。

だが彼はあるとき、エホバ天使、つまり、創造神の暫定的な名を持つ神として振る舞っている
全権天使をうらやみました。
 
妬み心、羨望の意識をもったのです。

+++

余談です。

このねたみが心に湧き上がる、というのが被造物である人間や天使の特徴です。

つまり、天使や人間は自由意志をもつように創られていくのですが、そのなかに羨望する、「ねたむ」という心理も発露するようにできているのですね。

これは大きなテーマです。 別述します。



<自分も神のように・・・>

ともかく、この天使長は、自分もエホバ神のように賛美されたいと切望し、天の御国の一角で、配下の天使たちに自分を賛美させ始めました。

自分が神として賛美される「自分のワールド」を創造神の王国の中に造ったわけですね。

+++

すると、エホバ神を賛美する存在がいなくなってしまって、天国の秩序は乱れてしまいます。

そこで、エホバ神は、戦の天使軍団の長であるミカエルに命じて、反乱天使の一団を暗闇の空間に追い落としてしまいます。

この暗闇が、後に人間が造られる空間であるところの、宇宙です。

ああ、これででやっと<聖書の空間理念>の図の全体像が対応しましたね。





今回はここまでにしておきましょう。





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