鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.216『経営哲学での雰囲気実体』(14章11節)

2008年03月24日 | ヨハネ伝解読
イメージセットと雰囲気実体との関係を、 経営哲学という世的なものについても、考えておきましょう。
聖句は前回と同じです。

                    

 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
 「わたしの言葉は霊であり、またいのちです」
(ヨハネによる福音書、6章63節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

                    


経営哲学は経営理念ともいわれますが、それは言葉で記録されています。
それは読むものの脳神経系に、一定のイメージセットを形成します。
そこから新しい言葉が紡ぎ出され、それが人間の行動や思考に一定の方向性、
志向性を与えます。

イエスの「右の頬を打たれたら、左の頬を差し出せ」から
「人間には自己犠牲の精神が必要」とか「愛と奉仕の精神が必要」
とかいう教訓がとりだされるがごとくです。

それはまた、社員の行動や思考を規制し、縛りを与えるところまでも行きます。
方向性を与えるというのは、そういう性質を持っています。

イメージセットだけですと、そういうことにもなります。


                    


<雰囲気実体が加わると>

だが、そのイメージセットを契機として生成する雰囲気実体が心にあると、
事態は異なってきます。

経営哲学の雰囲気実体は、すぐれてそれを語った人の雰囲気、人格感を
核心としています。

例えば、京セラの経営哲学は、ほとんどが稲盛和夫さんの心から出たものでして、
その雰囲気実体は稲盛氏の人格感覚を核心にしています。

パナソニック(松下電器)社に関してもそうです。
その経営哲学の雰囲気実体の核心は松下幸之助氏の人格感です。


                    


その人格感を雰囲気実体として意識の中に生成させ得た人には、次のことが悟られます。

すなわち、稲盛氏も松下氏も、その経営哲学を案出するに際しては、「自由」な精神でもって思考していたということが。

融通無碍、自由自在な精神状態の中で、それは案出されています。
その「ある時点での成果」が経営理念として言葉に定着されているに
すぎないのです。
これを思考している当人の心では、その思想はまだまだ展開し、
発展する余地をもっています。

~~稲盛、松下氏の雰囲気実体を心に生成させ得た人には
そういうことがわかってきます。
そして、それがわかった人は、経営哲学の「言葉」に縛られない。
遺された哲学理念の言葉から、行為に志向性を得ながらも、
それでいて自由な境地を維持しています。

経営哲学の真の理解は、こういう状況によってのみ成立するのです。
昨今、経営哲学の重要性が声高く叫ばれるようになってきましたが、
企業人たるもの、このことを深く悟るべきです。
そうでないと、経営理念として表示される言葉が、
社員を縛っていくことになります。

すると彼らは萎縮し、企業もまた自在の精神を失っていくのです。

                    

パナソニック社の中村現会長が社長に就任して大なたを振るう以前の
松下電器はまさにそうでした。
この病にかかってどうにもならなくなっていました。


                    


<企業哲学を相続する人とは>

 企業の哲学を真に受け継ぐ人は、雰囲気実体を心に生成させ得る
認知構造を心に持つ人です。
そして、そういう精神資質を持って生まれる人は、そう多くはないようです。
これは人類の歴史を通して、常に起きる事態であるように思います。


トヨタ社では、企業哲学は豊田佐吉翁の心に抱かれたものであって、
その実体感覚はほとんど佐吉翁の人格雰囲気そのものです。

この会社では、それを真に受け継ぐ少数者が継続して社内に出現してきました。
また、この種の人は、常に人事関係の中枢に位置づけられてきました。
人事担当取締とかのポストにですね。

この少数者が、人の配置を基本的にプランニングしてきました。
自分の後継者と判断した人は、やはり、人事担当の中枢に育て上げました。
同時に彼は、佐吉哲学の伝道者の役割も果たしました。

これが今日のトヨタの強さの源泉です。
キリスト教活動に携わる人も、これからよく学ぶべきでしょう。


                    




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Vol.215『パーソナルな交わりが可能になるには』(14~17章解読の基底知識・4)

2008年03月12日 | ヨハネ伝解読



 前回、イエス信頼の基盤になるのは霊(雰囲気)としてのイエスの実体であって、
これを心に生成させることが肝要と申しました。

 ただし、実体の生成にはその契機が必要です。

 その契機になるのはイエスの姿を描写する造形物でもない。
音楽でもありません。
(音楽などは実体感覚を生成さす助成要因になります)

聖書ではそれはイエスの口から出た言葉です。



                    


聖書にはイエスの言葉がたくさん記録されています。
原理的にはそのどれであっても、イエスの雰囲気実体を
心に醸成させる契機になります。

                    
                    
「右の頬を打たれたら、左を差し出せ」でも
「互いに愛し合いなさい」でも
「隣人を自分と同じように愛しなさい」でも
「まずあなたの創造主を心を込めて愛しなさい」でも
「求めなさい、さすれば与えられます」でも
「わたしはよみがえりです、いのちです」でもいい。

 自分をむち打ち、十字架に釘付けし、十字架を立て上げ、あざけり、
自分の着ていた着物の所有権の行く先を、さいころ振って決めている
兵士たちに関して祈ったイエスの言葉~

「父よ彼らを許してください。彼らは自分が何をしているのかわからないのです」

~でもいい。

                    


 なんでもいいです。どれを契機にしても、じっくり待てばイエスに
近似的な実体が心に醸成されてきます。

だが実際には、それらを組み合わせた複合的なイメージセットであれば、
実体(霊)感覚は格段に生成しやすくなります。
そこで我々は多くのイエスの言葉を心に収めることになります。

が、ともあれ言葉が契機となって、実体が生じるには「間(ま)」が必要です。
これによって実体感が醸成されてきます。

そして、一旦生成したら、手応えをもってイエスを信頼することができます。
生成した実体(霊)であるイエスと交信することもできます。

 これが信仰(信頼)の核心です。
 かくのごとく聖句は、実体感覚が得られるまで、
じっくり吟味し味わうことを必要とする言葉でもあります。


                        


<道徳・教訓・人生の知恵キリスト教>

 この認識論は、日本的キリスト教が生成する構造をも明かしてくれます。
我が国では、道徳キリスト教、教訓キリスト教、人生の知恵キリスト教
などが頻発してきました。

 これらは、言葉が形成するイメージセットから「原理原則」や「教訓」を
抽出したりそこから演繹したりします。

そしてそれを究極の教えと思いこみます。

こうしたことは、雰囲気実体が心に生成する前に、イエス(の教え)を
知ったと思いこむことによって生じるのです。


                    

 たとえば~~

「右の頬を打たれたら、左の頬を差し出せ」から
「人間には自己犠牲の精神が必要」とか
「愛と奉仕の精神が必要」とかいう道徳訓をとりだします。

 そして、それに自分の行動を沿わせることが信仰だと考えてしまいます。
ところがそれをすることによって人はどんどん萎縮していきます。
だって、この道徳律でもっていつも自分を裁くことになるのですから。
(もちろんそれで人をも裁くことになります)

 さらに、それをできないことが「罪」だと解してしまう。
その感覚で「神様、私たちは罪人です・・」なんて祈ってる姿を
礼拝でよくみかけます。
こういう人は、祈っていてどんどん創造主から身を引いて遠ざかっていきます。


                    


「求めよ、さらば与えられん」から、「何事もあきらめてはならない」とか
「事をなす前には強く願望することが必要」とかいった人生訓をとりだす。
これも同じです。

こうして現世目標の達成に至る心が信仰だと思う。
こちらはまあ比較的明るいのですが、やはりこれができなければ、
「罪人(つみびと)」ということになるでしょう。

 こちらの方向に進むと「宗教は人を萎縮させる」とか、
「狂わせる」とかいわれる事態になります。


                    


 でも、人間はこういう方向に行きやすいです。
 こういう動向に対して、最近、周期的に言われるようになった
米国発の言葉があります。

「キリスト教は教訓ではない。道徳でもない。処世の知恵でもない」と。
それは「イエスキリストとの個人的な交わりである」と。

このイエスとの「個人的な交わり」ができるためには、
イエスという実体が心に生成していることが必要です。

それで初めて交わりが可能になるのですね。
かくのごとくイエスの実体(霊)感覚は決定的な役割を果たすのであります。



                    


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Vol.214『言葉を契機に醸成される霊』(14~17章解読の基底知識・3)

2008年03月08日 | ヨハネ伝解読



 前回に論じてきました人間の認識構造と実体に関する理屈は、
聖句を把握していくときの鍵になります。そ
こで、改めて別の言い方でもってここにまとめておきましょう。


                     



この認識論は、簡明に示すと次のようになります。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「信号」 → 「イメージ(断片の)セット」 → 「霊的実体(霊)」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

                    



 すなわち、俳句の言葉にせよ、聖句にせよ、
それらは人間にとってはまず、言葉という一つの信号です。
信号には他にもあって、絵画、彫刻、建築など造形物もそうです。
音楽もまた信号です。

 我々がそれを受信すると、イメージ断片が意識に形成されます。
それら断片の一組がイメージセットとなってわれわれの心に
「意味ある意識」を形成します。


                    


 ただしこれは、脳神経系に形成される意識です。
 人間の心には、もう一つの意識(体)が生成(醸成)することがあります。

 それが実体意識です。
この意識がある時、我々の心には一つの「実体」そのものが生成しています。
その実体は、一つの全体的雰囲気として(オーラといってもいいかもしれない)
自覚されます。

 哲学者ベルグソンは、実体(実在)は雰囲気として認識される、と言っています。

示唆的な言葉ですが、何を示唆するか?
「明確な輪郭をもった実体が、認識されるときには雰囲気として認識される、
ということではない」と鹿嶋は考えます。

そうではなく「明確な輪郭をもった存在も、その本質は雰囲気という気ではないか」
だと思うのです。

 実体は本質的に雰囲気として存在するもの、というのは聖書の論理に沿っています。
その雰囲気が聖書での「霊」に当たるのです。
そして霊が雰囲気であるのなら、それが雰囲気としてのみ認識されるのは自然なこと、となります。


                    


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
 「わたしの言葉は霊であり、またいのちです」(ヨハネによる福音書、6章63節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


                    


は、その認識論のなかで把握しておかねばなりません。

 この場合、信号は言葉です。その信号~

「私(イエス)の言葉は霊であり、またいのちです」

~は一定のイメージ断片を形成します。

 「イエス」「言葉」「霊」「いのち」~それらは論理的にはつながらない。
だけどそれぞれがイメージ断片を形成します。

そしてそれらは集合してイメージセットになって、ひとつの意識を形成します。

 だが、それだけではまだ「霊」は生成しておりません。
このイメージセットを契機にして一つの全体的な雰囲気が心の底から
立ち上ってきたとき、その雰囲気が実体としての霊なのです。
そしてそれが実体感覚を形成してくれるのです。


                    

 その雰囲気とは何か。
それはイエスです。
それが実体としてのイエスなのです。

イエスの言葉を契機にして、われわれの心には
霊(雰囲気)としてのイエスが醸成されるのです。

幻想ではない。
それは実在としてのイエスの実体、イエスの霊です。
それが我々人間の心の中に生成しうるのです。


                    

+++

 考えてみましょう。
  たとえば、「イエスを信じる」と言いますね。

けれど、イエスの姿は、もう地上にありません。
顔も、髪形もありません(不思議なことに、聖書にはイエスの外観を記述した言葉は一つもありません)。
今の私たちにとって、信じる対象としてのイエスというのは、何でしょうか。

信じるからには、実在としてのイエスを感知したいですよね。
感知できなかったら信じよと言うのは無理ですよね。

 では、その「感知できる実体」としてのイエスとはどんなものでしょうか。
それがいま述べてきた「霊イエス」なのです。
我々はそれを心に醸成し、感知することができるのです。
そうして実体感覚を得ることができるのです。

それを感触しての「信じる(信頼する)」ならしっかりした信頼意識になるでしょう。

 次回にはそれを、さらに具体的に考えてみましょう。


                    


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