クリスマスですね。
今から2010年ほど前、エルサレム近くのベツレヘムという町に、
一人の男の子が生まれました。
この子の親は旅行中でした。
宿屋の部屋が満杯で、馬小屋に泊めてもらいました。
そこでマリアから生まれたのがイエスでした。
この方は、33年ほどの生涯の内に、多くの遺産を人類社会に残しました。
人類全体を対象とする愛もその一つです。
人間も愛の感情を持ちます。
だが、その対象は家族であったり、地域社会であったり、母国であったり、
とにかく範囲が限定されていました。
それらは、他の集団との闘争の姿勢を内包するものです。
自分の愛する集団を守るために不可避的にそうなるのです。
イエスはそこへ、人類全体に対する愛を導入していきました。
この方は、人類を分け隔てなく本気で愛しました。
この愛が広がることによって、人類は、始めて分け隔てのない幸福社会を
本格的にイメージ出来るようになったのです。
それによって、世界が少しずつ住みよくなってきました。
この愛がなかったら、世界は今も、闘争心と憎しみとで充ちたものだったでしょう。
このイエスをこの世に送ってくださった創造主に向かって、
感謝を込めた「ありがとう」を繰り返しましょう。
今、臨時版で考え続けているスモールグループも、イエスの教えを個々人が深く学ぶために、
自然に出来ていった学びのシステムです。
教えが深淵広大なものですから、その方法でしか習得できなかったのです。
イエスの教えがなかったらこの方式は本格的に形成されることはなかったものです。
イエスに感謝しつつ、このシステムの持つ効用をよく認識しましょう。
では、そのスモールグループの考察を続けましょう。
<犬山市の試み>
SG(スモールグループ)方式を学校教育の場に取り入れている例もあるようです。
報道によれば、愛知県犬山市の公立小学校でそれが行われています。
おそらく教育委員会の同意をも得た、市を挙げての取り組みでしょう。
ここでは近くの机の生徒が四人のグループを作ります。
一人用の四つの机を、前後左右の生徒が動かして、一つのテーブルにします。
それを四人で囲んで、グループ討議の中で学習をしていました。
それを「学びあい」と呼んでいるそうです。
グループ編成は、前後左右の机による、と決まっているそうです。
だが、クラスの並びを変えますので、その結果、グループメンバーも変わることになります。
ここでは、ですから、ネクストステップの知的興味レベルによるグループ編成はされていません。
みんな一緒にしてガラガラポンで分けるのです。
公立学校の限界でしょうか。
生徒たちが、劣等感や優越感に落ち込むのを警戒しているのでしょう。
だが、その結果でしょうが、教える生徒と教えられる生徒とが
グループの中で固定しがちにも見えました。
この点は、春平太の理想イメージとは異なっています。
<統一テストを拒否>
もう一つ大きな特徴。
この教育システムを取っている犬山市では、統一テストを拒否しているそうです。
全国レベルの統一テストがあるのでしょうか。
文科省が主催しているのでしょうか。
とにかく、それには参加しない。
生徒個々人をバラバラにして学力評価するのが、SG方式にはあわないのかもしれません。
<親が支援に回る>
そういう試みをするというのは子供の教育に抜群に熱心だからでしょう。
犬山市では、それを反映して親による子供の教育支援活動も盛んなようです。
子供が帰宅すると、親が子供の勉強状態に関する情報収集をする。
学校参観も熱心にする、等々です。
<方法が浅薄>
だが、春平太はこの方法は浅薄だとみています。
親がなすべき最大の支援は、
「大人の親自体がSGでもってものごとを学び知る活動をすること」です。
家庭で親がそういう学びの意識波動を自ら放射していることが、
最大の支援になるのです。
また、この活動で、親自身がネクストステップの知識を吸収できた時の
あの知性の躍動感、高揚感を体験できるでしょう。
SG活動で生じやすい感情的問題も体験的できるでしょう。
SG編成の問題、メンバー移動の問題など、皆体験できる。
そういう体験を大人がしているということが、最大の支援につながるのです。
<まず大人がSG方式を>
聖書を素材にした聖句主義によるSG方式が日本を救う唯一の組織運営方法だ
という一理由もそこにあります。
これで大人が変わるのです。
そうすれば、子供の教育方法も全国的に変わっていくのです。
その学びの素材として、ベストなものといったら、春平太の経験では聖書です。
けれども素材がどうしても聖書でなければならない、ということはありません。
仏教書、哲学書、文芸書、基本的にはお好きなものなんでもいいです。
とにかく、まず大人が、スモールグループ方式で学びをする状況が普及すればいいのです。