鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.247『とにかく私につながっているんだよ』(15章4~5節)

2008年12月29日 | ヨハネ伝解読


しばらく、スモールグループのことについて語らせていただきました。
「ヨハネ伝解読」の中でやってきましたが、新しいカテゴリーをもうけました。
名前は「スモールグループが世界を救う」としました。
7回の話をその中に納めました。
今後もスモールグループに関する話は、そのカテゴリーの中で行うことにします。


                    


さて、ヨハネ伝に戻ります。
久しぶりに、ヨハネの伝えるイエスに会える。
嬉しいことです。


                    


前回、1~2節は、イエスの周囲にやってくる人々一般についてのことでした。
そして3節になると、12弟子への限定版の話になりました。
今回、4節もそれが続きます。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
「私につながっていなさい。そうすれば、私は諸君とつながっていましょう。
枝はブドウの木につながっていなければ、自分だけで実を結ぶことが出来ません。
そのように、諸君も私につながっていなければ実を結ぶことは出来ません。」
(15章4節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


                    


これも12弟子~もちろんイスカリオテのユダを除いてですが~だけに向けた話です。

「君たちはすでに、イエスの言葉を抱いているからきよいのだ。
あとは私(イエス)につながっているだけが肝心となるんだよ」というところです。

「君たちが私につながっていれば、自分もその繋がりを切らないで、つながっているよ」
とイエスは弟子たちに約束しています。

そして、イエスはそれをたとえ話で繰り返します。


「枝はブドウの幹につながってなかったら実を結べないだろ? 
諸君だって同じことなんだよ」と。

「つながっていなさい」と言っておいて、
それをブドウの木と枝と実でもって目に見えるように繰り返しています。


                    


指導者を育てる時に、必ず教えるべきことがあるといいます。
その一つに「大切なことは繰り返せ」というのがあるそうです。

イエスは「自分につながっていなさい」ということを繰り返し語っています。

よほど大切なことだからでしょう。

弟子たちはこうされることによって「イエスにつながることが鍵」ということを、
徐々に肝に銘じていったでしょう。


                    




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<臨時版>7 「愛知県犬山市のSG教育」

2008年12月26日 | スモールグループが世界を救う
クリスマスですね。

今から2010年ほど前、エルサレム近くのベツレヘムという町に、
一人の男の子が生まれました。

この子の親は旅行中でした。
宿屋の部屋が満杯で、馬小屋に泊めてもらいました。
そこでマリアから生まれたのがイエスでした。

この方は、33年ほどの生涯の内に、多くの遺産を人類社会に残しました。
人類全体を対象とする愛もその一つです。

人間も愛の感情を持ちます。
だが、その対象は家族であったり、地域社会であったり、母国であったり、
とにかく範囲が限定されていました。

それらは、他の集団との闘争の姿勢を内包するものです。
自分の愛する集団を守るために不可避的にそうなるのです。


                    


イエスはそこへ、人類全体に対する愛を導入していきました。
この方は、人類を分け隔てなく本気で愛しました。
この愛が広がることによって、人類は、始めて分け隔てのない幸福社会を
本格的にイメージ出来るようになったのです。

それによって、世界が少しずつ住みよくなってきました。
この愛がなかったら、世界は今も、闘争心と憎しみとで充ちたものだったでしょう。

このイエスをこの世に送ってくださった創造主に向かって、
感謝を込めた「ありがとう」を繰り返しましょう。


                    


今、臨時版で考え続けているスモールグループも、イエスの教えを個々人が深く学ぶために、
自然に出来ていった学びのシステムです。
教えが深淵広大なものですから、その方法でしか習得できなかったのです。
イエスの教えがなかったらこの方式は本格的に形成されることはなかったものです。

イエスに感謝しつつ、このシステムの持つ効用をよく認識しましょう。
では、そのスモールグループの考察を続けましょう。


                    

<犬山市の試み>

SG(スモールグループ)方式を学校教育の場に取り入れている例もあるようです。
報道によれば、愛知県犬山市の公立小学校でそれが行われています。
おそらく教育委員会の同意をも得た、市を挙げての取り組みでしょう。


                    

ここでは近くの机の生徒が四人のグループを作ります。
一人用の四つの机を、前後左右の生徒が動かして、一つのテーブルにします。

それを四人で囲んで、グループ討議の中で学習をしていました。
それを「学びあい」と呼んでいるそうです。


                    


グループ編成は、前後左右の机による、と決まっているそうです。
だが、クラスの並びを変えますので、その結果、グループメンバーも変わることになります。

ここでは、ですから、ネクストステップの知的興味レベルによるグループ編成はされていません。
みんな一緒にしてガラガラポンで分けるのです。

公立学校の限界でしょうか。
生徒たちが、劣等感や優越感に落ち込むのを警戒しているのでしょう。

だが、その結果でしょうが、教える生徒と教えられる生徒とが
グループの中で固定しがちにも見えました。
この点は、春平太の理想イメージとは異なっています。


                    


<統一テストを拒否>

もう一つ大きな特徴。
この教育システムを取っている犬山市では、統一テストを拒否しているそうです。

全国レベルの統一テストがあるのでしょうか。
文科省が主催しているのでしょうか。
とにかく、それには参加しない。
生徒個々人をバラバラにして学力評価するのが、SG方式にはあわないのかもしれません。


                    


<親が支援に回る>

そういう試みをするというのは子供の教育に抜群に熱心だからでしょう。
犬山市では、それを反映して親による子供の教育支援活動も盛んなようです。

子供が帰宅すると、親が子供の勉強状態に関する情報収集をする。
学校参観も熱心にする、等々です。

                    


<方法が浅薄>

だが、春平太はこの方法は浅薄だとみています。
親がなすべき最大の支援は、
「大人の親自体がSGでもってものごとを学び知る活動をすること」です。

家庭で親がそういう学びの意識波動を自ら放射していることが、
最大の支援になるのです。

また、この活動で、親自身がネクストステップの知識を吸収できた時の
あの知性の躍動感、高揚感を体験できるでしょう。

SG活動で生じやすい感情的問題も体験的できるでしょう。
SG編成の問題、メンバー移動の問題など、皆体験できる。
そういう体験を大人がしているということが、最大の支援につながるのです。


                    


<まず大人がSG方式を>

聖書を素材にした聖句主義によるSG方式が日本を救う唯一の組織運営方法だ
という一理由もそこにあります。

これで大人が変わるのです。
そうすれば、子供の教育方法も全国的に変わっていくのです。

その学びの素材として、ベストなものといったら、春平太の経験では聖書です。
けれども素材がどうしても聖書でなければならない、ということはありません。
仏教書、哲学書、文芸書、基本的にはお好きなものなんでもいいです。
とにかく、まず大人が、スモールグループ方式で学びをする状況が普及すればいいのです。


                     




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<臨時版>6 「小グループに分け複数のテキストで」

2008年12月24日 | スモールグループが世界を救う

具体的に小・中・高校でスモールグループメソッドをどう実施したらいいでしょうか?
春平太は、次のようなイメージを抱いています。


                    


<カラッとした姿勢を作る>

例えば、数学の時間で考えます。
得意、不得意な生徒がいるでしょう。

各々、自分のレベルと思うグループに分かれるのです。
そのとき、劣等感や優越感を持たないで、カラッと分かれるようにすします。

「数学で低レベルの人が、図工、音楽、体育で高レベルのグループに属することなど、いくらでも起きる」
「みんなそれぞれに得意があるのだからカラッと割り切って自分のグループを選べ」
と教師は説くべきです。

そして、グループメンバーの新陳代謝はありにするのです。


                    

<一人はずれた生徒に対処する>

時には、最低レベルのグループにもついていかれずに、一人はずれる生徒も出るかもしれません。
あるいは、最高レベルのグループより一人飛び抜けている生徒も出るかもしれない。

そのときこそ、教師の出番です。
教師は、彼の相手をし、彼が自分のレベルからネクストナレッジを求めるようにするのです。
それも教師の腕です。


                    


<文科省は複数のテキストを供給する>

文部科学省は、複数にレベルに応じられるテキストを認定します。
生徒が机と椅子を動かして、グループをつくります。
そのとき、各グループが、自分のレベルにあったテキストを選べるようにします。

複数レベルに対応できるテキストは、次のように作ります。
教科書レベルの知識が消化できないグループのためのテキストには、
その前段階の知識を層のように重ねます。

どんどん昔やった基礎に戻っていかれるようにします。
高校の代数のテキストには、中学の知識にももどれるように素材を付加します。
あるものは小学校レベルにも戻れるように知識を付加しておきます。

数字を文字で示す考え方、分数の考え方から、かけ算割り算の考え方、
最終的にはひと~つ、ふた~つと数えた自然数にまでも戻れるように、
素材の層を構成しておきます。


                    

<余力のあるグループには>

テキストレベルを消化して知力の余るグループには、
さらに進んだ知識をも展望できるようにしておきます。

高校一年の代数の本に、順列、組み合わせの考え方を付加します。
あるいは、確率、統計、微分、積分からさらには偏微分の考え方をも
のぞき見られるものを作ります。

それらの導入知識も付加しておくのです。
数に関する哲学というか思想を一般的に述べたものも付加します。
こういうテキストを複数作って、学校に供給するのです。


                    


<リーダーを選ぶ>

各グループはみんなで学びます。
語り合いながら学びます。

教師はリーダーを選びます。
彼に学びをリードさせます。
時には、リーダーも交代させます。

互選したいというグループにはそうさせます。
教師は、グループからの要望に応じて、コメントをしながら、各グループを回ります。


                    

<滅びの途を回避するために>

春平太の理想クラス状態イメージはこのようなものです。
これが実行された時、日本の生徒の知性は躍動を開始すると確信します。

日本が滅びを回避できる道はここにあると思います。


                    



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<臨時版>5 「日本の学校で起きている知性の悲劇」

2008年12月17日 | スモールグループが世界を救う
スモールグループメソッドをとらないと、学校では悲劇が起きることになります。
今現に、日本の学校の至る所でそれが起きています。

小・中・高等学校では、4~50人のクラスを編成して授業をしています。
少ないところでも30人はいるでしょう。
そこで一つの教科書でもって授業をしているわけです。


                    


<教科書がネクストステップでない生徒が多い>

その方式ですと、教科書が提供している知識レベルが
自分の求める知的レベルよりも遙かに上方にある、という生徒は必ず出ます。

(もちろん、ぴったりの生徒も出ますし、遙か下方にある生徒も出るでしょう)


彼らにとっては、教科書の知識はネクストステップの知識になりません。
だから知性が躍動するものになりえません。
また、消化できるものでもありません。

その状態で、週日の大半の時間割を過ごすのを余儀なくされているのです。
こういう状態で教室に座り続けていることは、いかに苦痛なことでしょうか?
目の前でやられていることが、自分の知性では消化できないのです。

だから彼らは、後ろの席でトランプをします。
授業と関係ない雑談に興じます。
携帯メールを打ちます。

これが学級崩壊です。
だが彼らにとって、これらは苦痛から逃れる方法なのです。


                    


<文科省審議会の喜劇>

この苦痛、この心理を、文部科学省の人々、とりわけ審議会の先生方はわかっているでしょうか?
いないでしょう。

なぜなら、審議会の先生方は教科書レベルをクリアーできた人だけで構成されていますから。
だから偉い先生となって、審議会に招聘されているのですから。


                    

これが悲劇を生んでいます。

先生方は、「自分の頭で考えさせねば・・」などと提案します。
だけど、よく考えてください。
自分の頭で考えることが出来るのは、教科書レベルの知識がクリアーできた時だけですよ。
教室で「自分の頭で考える」ということは、教科書の次のレベルのこと、
ネクストステップのことを考えるということですよ。

クリアーできた人は、その次の思考をすることが出来ます。
だけど、クリアーできない人はそんなこと出来るわけないじゃないですか。

黒板に教師が書いていることを、理解しようとするだけで精一杯。
それでもいつもわからないことが残る。
これでは自分の頭で考えるなど、できませんよ。

彼らは、そういう状態で毎日教室に座らされている結果、
もう思考しないように習慣づけられてしまいます。
ですから思考するという意欲さえ失っているのです。



                    


<大学でも学級崩壊が>

春平太自身は、なんとか教科書レベルをクリアーする側に属してきました。
だが、クリアーできない側の人々の気持ちが例外的にわかります。
なぜなら、いま、大学で教職をしていて、そういう若者に教室で直面していますから。

春平太の働く学校も、いつのまにか、高校生活までを学級崩壊の中で送ってきた
若者が加わってくるようになっているのです。
もちろん、知的好奇心などなくなっています。

では、どうして大学に来るの?
親が行ってくれというから来ているのです。

そういう学生は、大教室のマスプロ授業ですと、後ろの席に陣取ります。
そして、みんなでわいわい雑談します。
仲間内で、通路を行ったり来たりします。

好きな本を読みます。
メールをします。
教壇で何がなされているかなど、眼中にない。

これ、高校までの学級崩壊そのものです。
高校までそうしてきていて、学校とはそういうところだと思い込んでしまっているのです。
だから、大学でもそれをするのです。

春平太は、それを見るごとに怒りと涙を禁じ得ません。
文科省と高校までの学校関係者は本気で愛情を持って仕事をしていない。
その裏に見え隠れする自己保身の姿勢に怒りを感じます。

また同時に、このままでは日本という国は滅びるのでは・・・と、いつも思います。


                    


<スモールグループだけが>

一人の教師が、この多数に対処することは、残念でなりませんが不可能です。
だが、ゼミナールという少数のクラスがあります。

もちろんスモールグループメソッドをとります。
せめてそこではなんとかしようとします。

今やゼミナールに来る学生も、なんと大半は、自分の頭で考えることなど出来なくなっています。
そこで、春平太は待ちます。

求めない知識は何も提供しない。
どんな低レベルからでもいい、彼らがネクストステップの知識を求め始めるまで、
待って待って待ちます。

4月の新学期から、春学期がほとんど終わるまで、その状態ですごすことも起きます。
でもそうしていると、夏休みの合宿の頃には、なんと自分の頭で考え、問いかけることを始めるのです。

この時、スモールグループが効果を発揮します。
そして、一旦その呼吸を体験すると、彼らの知性は躍動を開始するのです。


                    

でも、ゼミでもってそうなりうる学生は、学校全体からしたらほんの少数です。
だから、文科省は早く目を覚まさないといけないのです。

スモールグループメソッドしか救う方法がないことに、早く目覚めねばならないのです。


                    



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<臨時版>4 「学校教育の極意」

2008年12月07日 | スモールグループが世界を救う
自由思考を許すスモールグループメソッドは、教育の極意をも秘めています。
今回はこれを、具体的に学校教育の場でもって考えてみましょう。


                    


教育の意味は「教え育てること」ですよね。
これは他者が、教えられる立場の人間に何かの行為をすることです。

何のために?

主たる目的は生徒・学生の知性を伸ばすことでしょう。
感性を豊かにすることもありますけど、第1は知性の活動を向上さすことでしょう。


                    

だが、考えてみましょう。
知性とは精神の活動の一つです。
生徒は自分でなく他者です。

人間は、他人の精神活動の中に直接手を突っ込んで、これを引っ張り上げたりすることなど出来ません。
知性が伸びるには、当人の中で、知性が躍動するようになるしかないのです。


                    

では、学校側には何が出来るのか?
生徒・学生が知性躍動体験をしやすい状況を作る。
基盤はこの一点にしかありません。


                    


そして前回にも書きましたように、人間の精神のなかで知的躍動が起きるのは、
「自分の今の時点の知的レベルから自然に生じる疑問、知識への欲求が充足された時」のみです。
この機会を与え、それを増やすのが、他者である教育する側に出来る唯一のことです。

ある時点での知識レベルがどんなに低い子供でも、この知的躍動を体験すると、
あとは持続的に知的レベルを上げていきます。
そしてその精神状況は、学校時代だけでなく、生涯を通して続くのです。


                    


<欲する知識を表明しやすい状況をつくる>


その精神活動が出来るに必要な状況を整備するのが教育の秘訣です。
状況の第1は、「生徒個々人が自分の欲する知識を表明しやすい」ということです。

表明してくれないと、教育する側はどんな知識でもって応じたらいいか知り得ないのです。


                    


<対話のタイミングで対応知識を提供する>

第2は、「ある一人が欲する知識を表明したら、それに対話のタイミングでもって、
それに応じる知識を提示すること」です。

この提供者が教師だけである必要は全くありません。生徒のスモールグループの中でのやりとりで
他の生徒から知識が提供されたらもっといいです。

その時教師は嬉しく見ていればいいのです。
教師のメンツがつぶされた、などという気持ちになる人は、教師として不適な性格の人です。


<過剰よりも過小な知識を投げ込む>

提供する知識は、欲するものだけであることが必要です。
教育する側は、ここぞとばかりにどんどん知識を与えたくなるものですが、それはいけません。

過剰な知識を提示するよりも、むしろ、若干不足な知識を提供する方がいいのです。
神髄は、「子供に知的躍動の快感を体験させることにある」からです。
これを体験したら、人間は、さらなる知的快感を求めて、旺盛に知性を働かせ始めるのです。


                    



<北欧諸国の学力が世界一なのは>

キリスト教活動における聖句主義方式は、
それを可能にする方式はスモールグループによる聖句吟味にあることを、
2000年の歴史を通して教えてくれました。

そして、この方式は、聖句だけでなく、あらゆる知識の吟味に通用する秘宝なのです。

昨今、国際的に、日本の生徒の学力が低下して、
代わりに北欧諸国の生徒の学力が世界のトップランクを占めていることが、話題になっています。


                    


実は、この北欧は、スモールグループによる聖句主義活動の土壌が広く深く根付いている地域なのです。

なぜかといいますと、聖句主義活動は歴史を通して教理主義活動をする教団から迫害を受け続けてきました。
欧州の中心部は教理主義の代表格であるカトリック教団から、捉えられ処刑されたりしました。

そこで、聖句主義者はアルプスやピレネー山脈、
あるいはスイス地方の山間に逃れて住み、聖句吟味活動を続行しました。
この人たちがまた、北欧地域に移住したことは想像に難くありません。


                    


フィンランド、スウェーデン、ノルウェーなどは、欧州中世においては北の果てで、全くの辺地でした。
特に冬の寒さが厳しいです。

スウェーデンでも、3月においても、その底冷えの仕方は日本人などには尋常ではありません。
今のように暖房設備が整っていない時代における、冬の生活はどんなに過酷だったでしょうか。

彼らはこれらの地域にも大量に移住したにちがいありません。


                    


欧州中心部の山間地域に住んだ聖句主義者たちは、周期的にカトリックの軍隊に摘発され、
破壊と殺戮をされました。

だが、北欧地域はイタリア、スペインなどからもとても遠いですし、冬の極寒もありますから、
カトリック教団を軍隊を送ることが困難だったのではないでしょうか。
この地での、聖句主義者迫害、殺戮の記録は、春平太はあまり目にしておりません。


                    


だが聖句主義の土壌は、この地域の人々の活動様式に見ることが出来ますし、
学校での教育方式に明確に現れています。

生徒個々人の求める知識を大切にしますし、
教室には聖句主義のスモールグループ方式が如実に反映しています。
そしてこれが北欧の生徒の、学力が世界一になっていることの秘訣なのです。


                    





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