鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

ネクタイもしない牧師

2006年05月31日 | キリスト教活動の歴史
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前回と同じ教会、名前はハンターストリート・バプティストチャーチです。
なんの記念日だったか忘れましたが、子供に本をプレゼントしています。
一人一人名前を読み上げて、写真の左手の方に集まっている子供が呼ばれた順に出てきていました。

後ろに座っているのは、コワイヤです。
コワイヤというのは怖い顔の人という意味ではなく、聖歌隊のことです。

+++

本を授与しているのはこの教会のなんと主管牧師です。
彼はいつもこういう服装で礼拝に登場し、説教します。
スーツもネクタイも身につけません。
ニットのスポーツシャツでやるときもあります。

それでいて、教会員は4000人近くいて、かつ毎月50人以上の新入会員が新しく参加していました。やってくるのは大半が若い人でした。

米国の教会では、ほとんどが乗用車で礼拝に来ます。
その駐車場は広大で、クルマを止めたところから教会堂まで、参会者を電気自動車で運んでいました。ディズニーランドとおなじ、車両を繋いでムカデのような姿になっているクルマですね。

+++

バプティスト教会はスモールグループでの聖書研究を礼拝前にしますから、たくさんの小部屋が必要です。だから4千人というメンバーは異例で、ハンターストリート・バプティスト教会の名は、アラバマ州でもかなり有名でした。

牧師の名前はバディ・グレイ。
彼は独自な政策を大胆に実行していく牧師でした。

礼拝でのカジュアルスタイルの服装もその一つでしょう。
前回示した洗礼を授ける人の服装と同じく、彼のウエアは万人祭司主義というバプティスト教会の鉄則を強い意志で表明しているようにも見えます。

+++

彼は、説教が始まる直前までは、一般信徒の座席に座って一緒に手をあげて讃美などしています。牧師だかなんだか、全くわからない。で、説教の時になるとさっと壇上にのぼって語り始めます。

司会者がもったいぶって説教を導入するということもありません。
司会者など置かないのです。

プロテスタントの教会でも、説教時まで牧師が壇上の椅子に仏頂面して座っている風景が多いですよね。カトリックでもないのにローブなんて着ちゃってね。で、司会者が重々しく「本日の聖書箇所」などを読んだ後に、説教者が登場する~~バディ牧師はこういうのを一切排除していました。

他にも彼は独自な政策を打っていました。
また、おいおい機会を得て紹介しますね。


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信徒による浸礼

2006年05月30日 | キリスト教活動の歴史

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 もう一つ、別のバプティスト教会での洗礼風景です。
この教会では、洗礼槽が講壇に向かって右手の方向の、高い位置にありました。
礼拝出席者が右上方の壁を見上げると、そこに洗礼の場面が見えるという風景ですね。

大きな教会でしたので洗礼槽が遠くて、ズーム写真がぼやけていますが、ここでは洗礼を授ける人が槽の外側に立っているのがわかると思います。前回の教会では、洗礼を授ける人も、水の中に入って立っていました。

<万人祭司の鉄則>

また、ここでは洗礼を授ける人が、シャツにネクタイという、普通のビジネスマンスタイルでした。いわゆる牧師でなく、一般信徒のようでした。聞くところでは執事さん(教会の運営を司る一般信徒)だろうということでした。

牧師の資格を持っていなくても、洗礼を授けていいのか、と思いますが、バプティスト教会では、いいことになっています。この教派では、牧師などの教職者と一般信徒との間に権威の差は基本的にない、というのが鉄則になってます。これを英語では~~

   "Priesthood of All Believers"

~~といいます。「信徒は皆聖職身分を持つ」といった意味でしょうか。もっと簡単に言えば「信徒は皆聖職者」といったところです。

<これがないと教理主義に流れていく>

日本語ではこれをちょっと格好つけて~~

     「万人祭司(ばんにんさいし)」

~~などと訳しています。要するに、一般信徒と聖職者(司祭、祭司、牧師といった聖職を職業とするもの)との間に、身分や権威の差などコンポン的にはないんだ、という原則です。

この原理がないと、「個々人の聖書解釈の自由」というバプティスト教会の大鉄則が崩れていくのです。だってそうでしょう。聖職者の権威が上にあれば、この階級の人々の解釈は、一般信徒よりワンランク上、ということになります。

そうすれば彼らの聖書解釈も、創り主よりワンランク上の啓示(インスピレーション)を与えられているんだからやっぱりアリガタイもんだろう、ということになります。そうしたら彼らの解釈を正統と受け入れることになります。


 ア~リガァタヤ、アリガタヤ・・・これすなわち教理です。

するともう信徒は、聖句に直接当たって考えるということをしなくなりますよね。代わりに教団の聖職者から降りてくる教理を学習することになる。だって、正しい解釈が決まっているのなら、聖句を考えたって意味が薄くなりますから。

<祖先は殉教の歴史を・・>

 バプティスト教会信徒の信頼(信仰)上の祖先は、イエスの弟子たちの教会時代から、万人祭司の鉄則を延々と守り続けてきました。ひたむきな努力が近代になって信仰自由の原則が憲法で認められるまで続いた。

 その間、彼らの原則を容認しない教団から殺戮を含めた迫害を受け続けてきました。彼らの信仰上の祖先の歴史は、すさまじい殉教の歴史でもあります。その事実は今日までのところ、覆いを掛けられてきていますが、いつか明かされるときが来るでしょう。

 そう考えるとビジネスシャツにネクタイで洗礼を授ける姿は、この教派が守り通してきた鉄則を強い意志と共に表明しているようにも見えてきます。

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水のバプティスマ(洗礼)

2006年05月29日 | キリスト教活動の歴史
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この教会で行われたバプティスマ(洗礼)です。

洗礼には大きく分けて二つの方式があります。
一つは水滴を受洗者の額に2~3滴垂らす方式です。
これを滴礼(てきれい)ともいいます。

もう一つは、海や川あるいは水槽に入って受洗者の全身を水に沈めてから出すという方式。これは浸礼ともいわれます。

バプティスト教会は浸礼をします。
聖書に記されているバプティスマ(洗礼)は水に沈める方式だった可能性が高いです。彼らは聖句主義者ですから、それに則ってかたくなに浸礼方式を守っているわけです。

+++

なお、バプティストという名前は、次のようにして出来たようです。
彼らは欧州で初めは、アナ・バプティストと呼ばれていました。
アナというのは、「再び」という意味で、アナバプティストは「再洗礼派」とも訳されてきました。

どうしてそう呼ばれたかと言いますと、彼らは浸礼以外の方式でバプティスマを受けた人が、彼らの仲間に加わりたいと希望してくるときには、浸礼でもって洗礼をやり直した、つまり再び洗礼をしたからです。

昔は、川や海岸でやりましたから、おおやけの目に付きます。
で、それを見た人々は、「あれは再洗礼だ」「奴らは再洗礼派だ、アナバプティストだ」と言いました。

+++

これがニックネームになって、最初はアナ・バプティストと呼ばれていました。
しかし、みんながそう呼ぶようになりますと、もう、アナという接頭語をつけてなくてもなに言っているかわかるようになるわけです。

そこで自然にアナがとれていって、バプティストと呼ばれるようになってきたようです。人間はモノを認知するとき、簡便なものを求める性向をもちますからね。

+++

この教会では、講壇の真後ろの高いところに、大きな浸礼水槽が設置されていました。礼拝に出席している信徒は、正面に浸礼を見ることが出来るわけです。礼拝の直前にこれをして、礼拝を行っていました。

教会の名前は、ベスタビア・ヒルズ・バプティストチャーチでした。


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聖句に支えられた慈愛教育

2006年05月28日 | キリスト教活動の歴史
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子供をスモールグループに分けて、貧しい子供たちへのプレゼント袋を造らせています。

前回の聖句は、この部屋のホワイトボードに書かれ、表示されていたモノでした。(写真の向かって右側の列に座っている女の子たちの背中の後方に置かれていたと記憶しています)

子供は色紙を型紙に沿って切り、それらを組み合わせて簡単な人形を作ります。簡単な縫い物も造ります。四角い色紙に言葉を記します。それらを飴やガムと共に袋に入れ、プレゼント袋にする。

こうして貧しき者に慈愛を注ぐことを学んでいました。大人の教会員が彼らの学びをたすけています。サザンの教会は、ホントに教育熱心です。常に教育の場面が観られる。日本流に言ったら教育マニアという言葉がぴったりでしょう。

+++

こうした活動は、日本でもできるし、所々でしているのではないかと思います。
貧しい人にモノを与えることは、人をすがすがしい気持にします。

ただ、それだけですと、その場の気持的、情緒的体験で終わります。
情緒は時と共に流れ去ります。

このサザンバプティスト教会では、聖句をかかげ、その意味を子供なりに解釈させながら行います。そうすると、慈愛の精神が言葉によって支えられ、定着するわけです。この言葉を彼らは成長する中で目にし続けていきますから。

+++

こうした活動がほとんどのバプティスト教会でなされますと、この地域には安定的な慈愛心の育った人間の層が厚くなります。こうした風土に接した外部者はそれを特徴的に感じます。

 そこから「サザンホスピタリティ(南部の親切)」という言葉ができあがりました。それは教会の人に特に顕著で、春平太もそれに周期的に接し、お世話になり、忘れられないものとなっています。

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貧しき人を慈しむ者は

2006年05月28日 | キリスト教活動の歴史
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 これは別のバプティスト教会での写真です。
 ホワイトボードに、箴言14章21節の聖句が書いてあります。

 「貧しき人に慈悲深い者は(創主に)福を与えられます」

 小さな漫画が添えられていますね。
文字の書き方からしても、子供に向けたメッセージなようですね。

 はたして、なんのためのものでしょうか?
 次回に種を明かしますね。



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日曜学校教師準備室

2006年05月26日 | キリスト教活動の歴史


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 先回提示しましたリーダー会議がもたれていた部屋の入り口にかけられていた看板です。

 月曜日の10時から11時までは、サンディースクール教師が準備をするためにリザーブされていることを示しています。
サンディースクールとは、主として子供のための日曜学校です。

そこで教える教師(教会員のボランティアー)たちは、諸資料、道具などを個々に取りそろえ、会議し準備するわけです。

+++

写真の下部には、前回の写真でのスモールグループバイブルスタディのリーダー会議が日曜日夕方に使用するよう予約されているという看板がでています。リーダーがティーチャーとなっていますね。

前回の写真に見えている部屋に続いて、もう一部屋が奥にあります。

サザンバプティストの教会は、全般的に教育活動が盛んなようです。この教会も学校みたいでもありました。教師の準備作業も半端じゃないんですね。それを通じて担当のリーダーも成長していくんでしょう。


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スモールグループリーダー会議

2006年05月24日 | キリスト教活動の歴史
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 朝の礼拝前にバイブルスタディをするスモールグループをリードするために、リーダたちが事前にしているリーダー会議。
ご紹介している同じ教会のものです。

 聖句探求主義をとるサザンバプティストの教会は、バイブルスタディをいのちにしています。そこで礼拝前に、礼拝と同じ時間を取ってスモールグループを形成し、聖句解読の案をもちよって討議するのです。

 スモールグループにはリーダーを必ずおきます。これには例外がありません。選ばれたリーダーたちは事前に集まって会議します。この教会では取りあげるテーマを毎週共通にしていました。

 リーダーたちは、該当聖句について、どのような解読があり得るかなどへの見解を呈示しあっています。その他にも、新しい参加者が来たときにどのようにして緊張を解いてあげたらいいか、若い人の場合は、他の教会から移ってきた人の場合は、等々を、互いの経験を呈示しながら知恵を探ります。

+++

 写真は経験豊かなシニアーリーダーたちの会議です。より若い世代のリーダーは、社会の現役ですから、別の時間に集まったり、ぶっつけ本番で会をリードしたりしていたようです。シニアーの彼らは、日曜日の夕拝前に次週のバイブルスタディの準備として一時間討議します。それから夕拝にでるわけです。中央で会議をリードしている比較的若い男性は、副牧師です。


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夕拝後の子供ミュージカル

2006年05月22日 | キリスト教活動の歴史
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同じ「ハフマンバプティストチャーチ」夕拝後の、子供ミュージカルです。

音楽は「ユニバーサルランゲッジ(世界共通語)」といいます。
世界人類全てが、単調の和音を聞けば、悲しげでメランコリーな気持になります。長調の和音を聞けば、前向きで、明るく積極的な気分になります。これは人類共通なんですね。

+++

ミュージカルは、通常の演劇でのセリフに音楽の要素を組み入れていると思ったらいいのではないでしょうか。

音楽だけでは、伝えるメッセージが情緒的で、言葉のような論理的明晰さに欠けます。

けれども、言葉で論理だけを伝えられていると、人は飽きやすいです。
この飽きそうだなあ、という頃に、セリフを音楽に乗せて語らせる。

音楽によって加味された情緒に飽きそうな頃に、さっと、普通のセリフに切り替える。そして、最後の大団円では全員舞台に登場して劇のテーマを合唱する。

~~これがミュージカルの妙ではないでしょうか。

<小学校教育でも>


サザンバプティストの教会では、ミュージカルを子供に演じさせることによって、自己表現の意欲、技法を身につけさせようとする例が多いようです。

この地域の小学校でも、ミュージカルによる教育がしばしばなされます。父兄が参観しますので、親子のコミュニケーションにも役立っているようです。

でもこれはバプティスト教会の知恵を学校が取り入れたのでしょう。
このほかにも、バプティスト教会の教育の知恵が学校に(大学院にすら)取り入れられている例があります。おいおいご紹介出来るかと思います。


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シニア教会員のミュージカル合唱

2006年05月21日 | キリスト教活動の歴史
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 前回写真で紹介したミュージカルの最後に、全員が劇物語のテーマを歌っています。
ハーモニーも見事で、サザンバプティスト地域は“芸どころ”かと思わせます。
日本の沖縄のように。

 教会名は、ハフマンバプティストチャーチ。ダウンタウンのビジネス街に近い教会で、メンバーみずからがブルーカラーチャーチといっていました。

でも、みんな知的で、聖書を信頼し、生涯聖書を調べ続け、聖書によく通じていました。
教会の老人たちは、みな満ち足りて仕合わせそうな顔をしていました。



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サザンバプティスト教会夕拝でのシニアミュージカル

2006年05月21日 | キリスト教活動の歴史
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「ヨハネ伝」11章25節の聖句の解読が、一段落しましたので、世界の福音事情紹介に転じてみましょう。

これは米国南部アラバマ州のバプティスト教会。
この教会では日曜日が一日中教会デーになっていました。
朝はスモールグループのバイブルスタディをし、その後で礼拝をします。
昼食を各グループや自宅でとったりして午後は静養します。

そして夕方に再び教会に来て夕拝をするのです。
その後、ゴスペルシンガーを呼んでコンサートをしたり、教会メンバーによるミュージカルを上演することもあります。

写真は、シニア(年配者)によるミュージカルの一場面です。
よく練習されていて、セリフも歌唱も素人離れしていました。
福音を伝道してもてんで受け付けない婦人について「どうしたら伝えられるんだろうねぇ」と二人の女性が知恵を出し合っている場面です。

右後方にかすかに見えているのは、コーラス担当の老人たちです。
ストーリーが展開する中で、彼らは周期的に立ち上がって歌います。

左上方に見えている映像は、大型スクリーンに映された舞台の状況です。


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Vol.148『ニッポンキリスト教は避けて通る』(11章)

2006年05月20日 | ヨハネ伝解読

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
 「私はよみがえりです、いのちです。私を信じる者はたとえ死んでも生きるのです。
また、生きていて私を信じる者は死ぬことはありません」(11章25節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


ここ11章25節に対して日本のキリスト教会ではどうでしょうか?
 概して言いますと、飛ばしていますね。何もいわずに避けている。

 理由は簡単です。
日本の教会は、まだ、聖書の教えの中で霊という存在を本格的に認識しようとするに至っていないのです。

<ニッポン教会では霊認識が漠然>

 霊が認識されねば、人間をおもに肉体で見ることになります。
肉体で見たら、「(イエスを信じたら)死んでも生きる」というのは
何いってるかわからなくなりますもんね。

 もちろん、日本の教会一般にも多少は霊的な意識はありますよ。「死んだら魂が天国に行かれる」といった程度は。
だが、肉体が生きている間のことについては、霊はほとんど意識されていない。
霊がどういう影響を与え続けているのか、という意識は少ないです。

 これでは、浄土仏教など他の宗教と同じですよね。
「死んだらいいところに行けるのではないか・・・」
という漠然たる期待を与える程度のものは、他にもたくさんあります。
ニッポンキリスト教の霊意識は概してこれと同じ状況にあります。


                    


<だからやたら「愛」が叫ばれる>

 その結果また、聖書の教えの最重要キーワードは霊でなく「愛」ということになっています。
さらに愛が最重要要素ですから、最も悪いのは「愛がない」ということになる。
さらにすすんで、この「愛がない」ということを指す言葉として「自己中心性!」というのが登場いたします。

 そして、これが罪の概念に挿入され、罪の主たる中身となるのです。
かくして「罪とは自己中心的なこと」である、というあっと驚く論理が
ニッポンキリスト教では出てまいります。

 これが、ニッポンの教会では「驚くべき」ことでなく普通のこと、正常なこととして行われているんですね。
これ自体が驚くべきことなのですが・・・。我が国の教会ではあくことなく
「愛、愛・・・」と信徒に訴求しています。

 だもんだから、もう信徒は道徳的な要求に追い立てられることになる。
あるいは、自分で自分を追い立てることになる。
日本の教会人に平安がない、表情が萎縮している、振る舞いが演技的である、という理由は、そこにあります。

 そんな集団(教会)に一般人は参加したいという気持ちになるでしょうか?
 なりませんよね。これが我が国でクリスチャン人口比率は0.5%ということの主原因です。


                    




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Vol.147『旧約の教えを信じた人だけか?』(11章)

2006年05月19日 | ヨハネ伝解読
 「セカンドチャンス」論に対しては、反論もあります。「ペテロによる第一の手紙」が示唆するセカンドチャンスを全く否定するのではないのですが、「それは旧約時代に旧約の教えを信じていた人の霊だけに与えられているんだ」と考えるのです。

見解の根拠は次のごとくです。
 
~~旧約の教えとは、救い主が現れるという約束を含んでいる。その救い主とは、後に明かされるようにイエスのことである。だから、旧約の教えを信頼していたというのはイエスを信じていたことに通じている。

~~けれども、イエスを信頼して救われるという約束が効力を発揮するのは、イエスが十字架にかけられて血を流してからである。それまでは、旧約時代の人の霊はすべて死んでいる。イエスの血によってその霊は活きることになるのだ~~と。

「ヨハネによる福音書」の11章25節の聖句は、旧訳聖書を信じた人についてだけを言っているのだ~~というのですね。


+++

 それも一つの論理ですね。けれども、ヨハネ伝のこの聖句が当てはまる対象がそうした人たちだということになると、なにやら不公平な感じもしませんか。

 旧約時代のユダヤ人であっても、旧約聖書への信頼を持てなかった人たちはたくさんいたでしょう。下層の貧しい人々には、旧約聖書の教えに触れる機会も多くなかったのではないでしょうか。これは皆ダメということになります。

 でもユダヤ人は、旧約のメッセージを知る可能性があったからまだいい方でしょう。過去の他の民族はそうでないんですね。旧約時代には聖書のメッセージはユダヤ民族だけに与えられていたんだから、他民族は「知る」チャンスすら与えられていない。

 それでもってある時「ハイそれまでよ、あなたには救いのチャンスはありません」というのでは、「そんな殺生な・・」ということになるのではないでしょうか。

 公平、というのは正義の一つですもんね。創造主は正義な方である、ということからいきますと、どうなりますかね。「いや、それでいい、それが創造主の計画なのだ!」と突っぱねる見解もありますけどね。春平太はなにかすっきりしないなあ。

<結論めいたことは言わないが>

 で、春平太君、君は結局どう解するんだ・・・となりますと、答えは、「結論めいたことは言わない」です。読者各々が考えて、自分のレベルに応じた見解をお持ち下さることを期待します。

 どう結論しても、地獄に堕ちることはありません。ここまで考えるに至ったと言うことは、イエスの教えを信頼してのことでしょう。イエスの教えに真理があると期待している。そして、その信頼感が、「罪許される(救いを得る)」必要にして十分条件です。だからみんな許されているんです。

 それについては春平太は結論的に言います。だってそうでなかったら、聖書解読なんて、怖くて出来ませんからね。そのことと「真理は人を自由にする」という聖句とからして、春平太は「イエスに信頼する」時点で、罪は許されている、というのが正しい聖書解読だと思っています。

<聖書を自由に解釈する習慣はまだまだ>

 それでも心が動揺する人は、次のことを知ったらいいでしょう。

 キリスト教は長い間カトリック教団に支配されてきました。中でも、5世紀から16世紀までの1200年間は、完全支配でした。

 この教団の僧侶をめざす人は、聖書を読まないことはなかったのですが、学び初めの時だけでした。最初にラテン語の聖書にざっと眼を通すだけ。以後は、カトリック教理(カトリックが正統とする聖書解釈)を学び続けるという修行様式でした。

 彼らに聖書解釈の自由はなかった。既成の解釈(教理)を学習するだけ。セカンドチャンスはあるかどうか、など考えることも許されなかった。口に出したら宗教裁判です。そういう特殊な状況ですから、聖書をコンポンから考えてみるという生活はありませんでした。

 この点は、ルター派もカルヴァン派も同じでした。彼らの宗教改革の重点は、教皇(法王)をイエスの代理人とする制度への抗議にあったのでして、聖書を自由に解釈させろ、という運動では全くなかった。ルター派教会も、カルヴァン派教会も聖句主義者を迫害してきました。

 彼らは共にカトリックの中で育った人で、その運動は基本的にカトリック教団の改革運動でした。で、できあがったルター派教会もカルヴァン派教会も、相変わらずの教理主義教会でした。それは今日も変わりません。

 いまでも教理主義教会は世の中の大半を占めています。だから、今日でも多くの人々の意識は教理主義から抜け出ていないのです。聖書解釈の自由に慣れていない。だから教わった解釈と違った解読を聞くと、反射的に動転する。それだけのことです。それを悟ったら、少しは精神も自由になるでしょう。

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Vol.146『死霊も死後イエスを信じれば活きる?』(11章)

2006年05月18日 | ヨハネ伝解読


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
 「私はよみがえりです、いのちです。
私を信じる者はたとえ死んでも生きるのです。
また、生きていて私を信じる者は死ぬことはありません」(11章25節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


 今回は、前の文「肉体を離れて、かつ、死んでいる霊でもイエスを信じればその霊は活きる」
を考えましょう。これはどういうことか?

 霊が死ぬというのは、肉体が生きている間に、イエスを信頼しなかったことによって生じる結果です。
聖書の論理ではそうなりますよね。

 死んだ霊は死霊です。
一旦死霊となった霊が、肉体を抜けた後にでも、イエスを信頼する(それによって活きる)ことが出来る、
という解釈に前回なりました。

 こういう解読を、聖書の他の聖句は支持しているでしょうか? 

<ペテロ第一の手紙>

 これに関して、直接「信頼して活きることが出来る」とか
「出来ない」とか表明している聖句を春平太は知りません。
だが聖書には、それに関連した記述をした部分があります。
「ペテロによる第一の手紙」下記の聖句がそれです。

 「キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。
それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、
私たちを創主のみもとに導くためでした。」(ペテロによる第一の手紙、3章18節)

 「その霊において、キリストはとらわれの霊たちのところに行って
みことばを宣べられたのです。」(同上、3章19節)

 「昔、ノアの時代に、箱船が造られていた間、創主が忍耐しておられたときに、
従わなかった霊たちのことです。
わずか8人の人々が、この箱船の中で、水を通ってすくわれたのです。」
(同上、3章20節)

 この聖句はこういうことを示しています。

 1.ノアの大洪水で死んだ人類(創り主の言葉を信頼しなかった)の霊は
「とらわれの霊」として何処かにとらわれていた。

 2.イエスは、十字架にかかって、その肉体が殺された後、
そのとらわれの霊たちのところにいって福音を宣べ伝えた。

~~これは現代の多くのクリスチャンにとってびっくりではないでしょうか。
でも聖書にはそう書いてあるんですね。
ペテロがここで、聖霊の感化を受けて書いているとすれば、
それは真理として受け取るべきとなるでしょう。

 イエスが死者の霊に対して福音を宣べ伝えることがある
ーーーこの記述は、「死霊も福音を受け入れてその霊を活霊に転ずることがありうる」
ということを示唆しています。

 その可能性がないならば、全知であるイエスの霊は死霊に福音をのべ伝えるというようなことはしないでしょう。
上記の聖句からするとどうも可能性はありそうです。
生前にイエスを信頼しなかった人の霊にも「セカンドチャンス」はあると、
聖書は言っているようなんですね。

<死霊の意識は鬱状態>

 なお、肉体を離れた後に霊が活きている活霊の状態と、
死んでいる死霊の状態とはどう違うでしょうか。
  
 これは推測ですけれど、聖書の思想では人間の意識の本体は霊である、ということになっています。
霊の状態で当人の意識は決まるわけです。
 おそらく活霊の意識は、命エネルギーに充ちた活き活きした快適な状態にあるのではないでしょうかね。
対して死霊は、憂鬱で力のない鬱的な状態にあるのではないかと思います。

 すると「活きていて私(イエス)を信じるものに死はありません」というのは
「肉体が死んでその霊が肉体から出ても、意識の本体としての霊は鬱感覚を経験することがない」
ということになるのでは、と思われます。

 逆に、肉体を離れて死霊になった霊は、たとえ後に活霊になるとしても、
それまでの間は、鬱状態を体験することになるのでしょうか。
それくらいの苦痛は味わってもらうよ、ということかな・・・。



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Vol.145『信じないで死んだ人の霊もイエスを信じたら生きる?』(11章)

2006年05月16日 | ヨハネ伝解読
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
 「私はよみがえりです、いのちです。私を信じる者はたとえ死んでも生きるのです。また、生きていて私を信じる者は死ぬことはありません」(11章25節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


今回も聖句は同じですよ。
 これまでの考察を振り返りましょう。
 「私はよみがえりです、いのちです。私を信じる者はたとえ死んでも生きるのです」の聖句について、考えられるケースは次の四つでしたね。

①「(肉体は)死んでも、(肉体は)生きる」
②「(肉体は)死んでも、(霊は)生きる」
③「(霊は)死んでも、(肉体は)生きる」
④「(霊は)死んでも、(霊は)生きる」

 そのうちで、①と③はありえない、ことがまず前々回でわかりました。
 次に、②もありえない、と前回にわかりました。

 だったら、残るは最後のケース④だけだ。これでいきますと、④は~~
 
「わたし(イエス)はよみがえりです、いのちです。たとえあなたの霊が死んでも、私を信じればその霊は活きます」

     ~~という解読になります。

 そしてそうなると「また、生きていて私を信じる者は死ぬことはありません」は~~

 「また霊が生きていて私を信じる者は、死ぬことがありません」

              ~~ということになります。

+++

④の後に付け加わる文、「また生きていて・・・」の文については問題ないでしょう。生前にイエスを信頼するとその霊は死なない、というのは聖書の鉄則です。ですから「また、霊が生きていて・・・」という場合、この人は生前にイエスを信頼してるわけです。
そうしたら、霊は活き続けるわけですよね。

 問題はその前の④の文でしょうね。
 これは④「(霊は)死んでも、(霊は)生きる」といっている。
上記の「また、生きていて私を信じるものは・・・」が肉体が生きている間に信頼することを言っていますので、こちがは肉体が生きている間にイエスを信頼しなかった人の霊について言っていることになるでしょう。信頼しないで肉体が死んだので、肉体を離れたその霊は死んだ状態にあるわけです。

そしてその状況でもイエスを信じたら、その霊は活きる、と④は言っていることになる。これはなんだ? 大多数のクリスチャンにとって、これは普通のことではないでしょう。

そんなこと言ったら、牧師さんに叱られはしないか?
「そんな解釈は異端だ!」とね。
 これもまた、大変なことですね。
これについては次回に考えましょう。

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Vol.144『たとえ「霊は死んでも」というのか?』(11章)

2006年05月15日 | ヨハネ伝解読


 本日の聖句は、前回の聖句に、もう一つ文を付け加えたものです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
 「私はよみがえりです、いのちです。私を信じる者はたとえ死んでも生きるのです。また、生きていて私を信じる者は死ぬことはありません」(11章25節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

~~前回までの聖句で、考えられるケースは次の四つでした。

①「(肉体は)死んでも、(肉体は)生きる」
②「(肉体は)死んでも、(霊は)生きる」
③「(霊は)死んでも、(肉体は)生きる」
④「(霊は)死んでも、(霊は)生きる」

 そのうちで、①と③はありえない、と前回結論しました。

 今回は②と④について考える回です。

 前回に「たとえ死んでも生きる」のうちの、「生きる」の主語は、霊であろうことはほぼ明らかになりました。残るは前半です。ここで「たとえ死んでも」の「死んでも」の主語は何でしょうか?

<肉体は死んでも、の場合は?>

 主語となる可能性のあるのは、肉体と霊との二つだけです。まず「肉体」から行きましょうか。②ですね。

 ②「私(イエス)を信じる者は、たとえ肉体は死んでも霊は生きる」

~~これはいいなぁ~。イエスを信じる者は「たとえ肉体は死んで崩壊しても、霊はいのちエネルギーが充電されて活きるのだ」というのは聖書の鉄則ですからね。

<たとえ霊は死んでも、の場合は?>

 では「たとえ死んでも」の「死んでも」の主語が「霊」の場合はどうでしょうか? ④ですね。

 ④「私(イエス)を信じる者は、たとえ霊は死んでも霊は活きる」

~~こちらはなんだか不自然な感じですね。
 「霊が死んでも例は生きる」ってなんなんだ。

 どうも「たとえ死んでも」の対象は「肉体」でキマリな感じです。

<後に続く文を考慮に入れると・・・>

 確かにそうです。
 ですけれども、この聖句には次に続く言葉があるんですね。

 「また、生きていて私を信じるものは、死ぬことがありません」(25節)
 
 これを加えて、全体の文脈から聖句を観ると、話は変わってきそうです。 

+++

もう一度②を検討しましょう。
 このケースでは~~

 ②「私(イエス)を信じるものは、たとえ肉体が死んでも、霊は生きる」

                    ~~でしたよね。

この場合当人は肉体が死ぬ前にイエスを信じていることになっていますよね。で、イエスを信頼すると霊は生きるのですから、この人の霊は生前から活きているわけです。だから、肉体が死んで霊がそれを脱いでも、霊は生きたままである~~論理的にも自然なことです。

 ではありますが、この場合、後に付け加えた文はどうなるかと考えましょう。
前の②がそういう解釈ですと、後の~~

「また、生きていて私(イエス)を信じる者は死ぬことはありません」(11章25節)

~~は、「また、“肉体が”生きていて私を信じる者は(霊が)死ぬことがない」となりますよね。

 するとこれって、霊に関しては②と全く同じこと言っているんじゃありません?②は「生前にイエスを信じている状況」について言ってるのですから、それは霊が活きている状況ですよね。

 だから、
「肉体が死んで霊がそれを脱いでも霊は生きている」ことを言ってるんだ。同じですよね。

 ②のケースを採用すると、②とその後に付け加えた文とが同じ内容を言ってることになる。それが「また」という接続詞でつなぎ合わされていることになります。

 こんなことはおかしいですよね。同じ意味のことを「また、」という接続詞でわざわざつないでいうなんてナンセンスだ。②でいくと全体の文脈では筋が通らない結果になるのです。

 言い換えれば、②は、それだけだったらとても座りがよく完結するのですが、後の文とつなげてみると、「あり得ない」解読になるんですね。

 さあそうなるともう可能性のあるケースは④だけになりました。ホントに④でいいのか? 次回に考えることにしましょう。
 
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