鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

一年間ありがとう

2005年12月31日 | 「考える宗教」へ

~~大晦日の夜になりました。
 今年も残り2~3時間となりました。

 みなさん、1年間おつきあい有り難うございました。


                

 年の終わりに近くになってSAITOHさんから、コメントをいただけるようになりました。まるで、鹿嶋と漫才コンビを組んでいるかのように、合いの手を入れてくださいました。

 今回も、もう一つのコメントをここに再録し、鹿嶋の見解を追加させていただきます。こうやって、話を深めることが出来るのを、SAITOHさんのおかげと感謝しています。



                  


 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この世での幸福 (SAITOH) 2005-12-30 09:21:40

「創り主は人間を、この世での生活においても幸せにしたいと願っている」ことへの信頼があった方がよいというご指摘、ありがとうございました。

 このごろは、ややもすると、「この世」の価値観や欲望を否定するような聖書の言葉にとらわれがちでしたが、


                  



~~こういう言葉も、「これに反したら罰して痛めつける」というのが創り主の意図ではない。「これはしない方が幸せを崩されないんだよ」というのが真意なんですね。人間の「この世の」生活も幸福にしたいという創主の意図への信頼があると、そういう解読になるんですねぇ。


                  


 まず第一に、「この世」でしっかり地に足をつけた生活を、創り主が望んでおられるということを忘れてはいけませんね。


~~つまるところはそうなるかも知れませんが、このあたりが通常の道徳教とちがって、聖書はひと味深いです。

                  


「まず第一に」創り主が人間に望んでおられるのは、やはり、「死後の永遠の幸福」を確保、確認することなんですね。その確信がないと、実は、「この世での」限られた期間の生活が、その意識のベースにおいて不安にさいなまれ続けることになります。

 死んだ後の幸福への確信があってはじめて、生きている今への幸福の精神的基盤が確保される。だからイエスは言うわけです・・・

 「まず(第一に)、天の創主王国とその義を求めなさい。そうすればこの世で必要なものは、添えて与えられます」(マタイによる福音書、6章33節)

                  


 「天の創り主の王国とその義を求める」というのは、肉体を脱ぎ捨てて霊となった自分の「永遠の」幸福を求める、ということですからね。そしてその確信を得ることが、実は、いまの「この世での生活の」幸福を確保するベースになっているんですね。

 聖書ではこの世の幸福は「二番目に大事なこととせよ」と教えているんですね。そうすれば、この世の生活の幸福は、死後の幸福よりも先に「一番目にやってくるよ」というんですね。


                  


 その信頼感がないと、ただの読書感想文に終わってしまうおそれがありますし、何よりもモチベーションを維持できない気がします。


~~この信頼感を持って、聖書を自由に読んでいくと、信頼感はますます深まっていきます。

 みなさん、新しい年も、この信頼感をいっそう深めて、安心して生きていきましょう。


                 

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コメント6・「教典を自由に読もう」

2005年12月29日 | 「考える宗教」へ

~~~SAITOHさんからのコメントをもう一つ。

Vol.27「知識を造る国とコピー(輸入)する国」に下さったものです。
これについては、文章の途中に鹿嶋のコメントを入れてみます。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

もっと自由に、自分で読もう。 (SAITOH)

2005-12-23 23:45:19

場違いながら、仏教のお経について考えていました。
案外、参考になるかとも思いますので、投稿します。

 かつては、それこそ山のように多くの種類の仏教経典が、日本にもたらされてきましたが、現代でも生きた信仰を伴っているといえるのは、法華経と浄土三部経とがまず挙げられると思います。 

 これらに共通しているのは、特定の宗派の教えや教学よりも、まず経典そのものが、それ自体で全国に広く浸透し、唱えられ、書かれ(写経)、信仰されてきたという点です。

~~SAITOHさんは、仏教にお詳しいですね。

 それに対して、たとえば華厳経という経典などは、内容的にはすばらしいのですが、中国華厳宗の教学を取り入れることが先に立ってしまうという事情があり、経典そのものを味わうよりも、華厳宗の教えを学ぶために読まれることが多かった。

 そのため、残念なことに、お経が日本に根をおろしたとはいえません。

~~やっぱりそうですか。どこでも同じですね。

もっとも華厳の教えは日本文化に影響を与えてはいますけれども。

~~「文化」にはね。これもキリスト教と同じですね。

 
 今では、華厳経を揃って読もうとすると大変苦労するぐらいです。法華経と浄土三部経とは、ともに岩波文庫に納められ、しかも、あの岩波で品切れになることもなく、今日でも着実に版を重ねている! というのにです。


                            


 ひるがえって、聖書はどうかといいますと、もちろん、ただの本として日本に伝わったわけがなく、キリスト教の聖典として来たわけです。

 そうすると、聖書に興味を持ち、真理に近づこうと考える人は、まず、自分勝手に解釈してはいけない、正統なキリスト教の教義を学んで、それに則って解釈しようと考える。

~~絶対に正しい解釈があると疑いもなく思うから、怖くて自分の頭で考えられなくなってしまうんですね。ニッポン人だなあ・・。


 ところで、どんな教派の教えにしても、その歴史的、地理的な経緯があるのですから、ひとつの解釈に過ぎないと言えるはずなのですが、まじめで信仰を求める人ほど、絶対的な解釈を求めてしまう。

~~また、そういう人が多かったんですねえ、日本でキリスト教をやる人は・・・。


 その挙句、キリスト教や聖書そのものに疑心暗鬼、失望したり、

~~こういうHPってありますよねぇ・・・。

逆に、特定の教義にのめり込み、他を全く認めないような硬直した態度をとるようになったりします。 

~~まるで、なんとか神学大学のこと言ってるみたい・・・。


                     


もっと自由に聖書を読み、自分で自由に考え、判断するという姿勢を学ばないといけない。そうでないと精神が圧殺されてしまう。

  あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする
  (ヨハネ福音書8:32)

 深く知れば知るほど精神が解放されていくのでなければ、なんのための福音なのか全くわかりません。 

~~そうだ! そうだ!  


 様々なキリスト教会や諸団体の動向に左右されることなく、自らの信ずるところに従って、聖句探求を続けて行く人たちが増えてくれば、世の中変わるのではないでしょうか。


~~よく言ってくださいました。こうなった人が幸福になり、これが広がった国が、世界をリードする知的先進国かつ軍事的先進国になったんだよね。

 日本にこの方法が広がるには、どういう手順が踏まれることが必用でしょうかねえ。みなさん、知恵をくれませんか?


                   

+++

 幸いなことに、日本のキリスト教人口は約1%しかないそうなので、個人がどのように読み解釈しても、それに対して国家的な圧力がかかったり、世間の風当たりを強く受けたりする羽目にはなりにくいはずです。

 考えようによっては、キリスト教が国教である国や、特定の教派が国民の大多数を占める国よりも、恵まれた環境にいるのかもしれませんね。 なんだか元気がでてきました。
 
~~ う~ん、強烈だなあ・・。  


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コメント5・「推理小説を解読するように」

2005年12月28日 | 「考える宗教」へ

~~SAITOHさんからは、とても考えさせられるコメントをいくつかいただいています。今回、少し前ですが、Vol.5「聖句に不明瞭なところがあるから“解読“が出る」についていただいたものを、掲載させていただきます。

コメントの後に、ご意見に関する鹿嶋の見解も述べさせていただきます。


                  




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聖句の探求とは (SAITOH) 2005-11-27 21:52:18

春平太先生

聖句を探求する姿勢、方法を明確にしていただきありがとうございます。

前提として、聖書という書物全体に、創造主の発信したメッセージが織り込まれているという「信頼」がなければならないということがよくわかりました。

「信仰」というより、むしろ、日本語だと「信頼」の方が近いという指摘も納得できます。

わたしは、もう一歩進んで、創造主への「信頼」はもちろんなのですが、すべてを、大いなる仮説と考える姿勢もあるのかなと考えています。 
聖書には、創り主の発信したメッセージが詰まっているという仮説に立って、それの検証を進める態度です。

つまり、聖句の探求は、仮説を立証するための検証作業ということになります。
不完全な形で随所に埋め込まれている聖句を、聖書のあちこちをひっくり返しながら拾って、つき合わせて、創り主の伝えようと
したメッセージ、真理の全体をつかもうと試みる作業ですね。

なにやら、思考実験とも、論理思考トレーニングとも、壮大な推理小説を読むようなイメージともいえるでしょうか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

                  



~~鹿嶋は心情的にはもう一つの信頼感があるといいと考えています。

それは「創り主は人間を、この世での生活においても幸せにしたいと願っている」ことへの信頼です。

 その意図は創世記のはじめのところ、アダムとイブを造るところに明示されています。かれらを住まわせたエデンの庭園を楽園に造ったのですから。この庭園はこの世での生活の場ですから。

 ここに呪いを入れたのは、創り主ではなく悪魔だと聖書は記しています。そして二人はルールに沿って苦難の世に出されるのですが、それ以降においても創り主は人間を幸せにするように、ルールの中で出来ることをしています。

 イエスは病の苦しみから人を解放し、飢えたものには食べ物を出現させて与えています。そのイエスがすなわち父なる創り主の具現体だというのですから、創り主は人をこの世でも幸福にしようという仕事をしているわけです。

                


 この世で、人の幸福のためにいことをしてあげる人がいます。その人がクリスチャンでなくてもこれは「創り主の仕事をお手伝いしていること」にもなりそうです。

 「人を幸せにするように働くと、自分にもいいことがある」というこの世での経験知識があります。これはクリスチャンでない人でも経験することです。それも「創り主の仕事のお手伝いをしたことへのご褒美」だとも解せます。聖書的には、天使が褒美を与えるように動くことになるでしょうか。

                


~~ともあれ、メッセージを送る存在が、人間をこの世でも幸福にしたいという意図に満ちている。そのことへの信頼感が、人間の聖句探求のモチベーションを大きく左右すると鹿嶋は考えています。

 SAITOHさん、いいコメントを、ありがとうございました。
             
               



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Vol.30「中国を知ると北朝鮮もわかってくる」

2005年12月27日 | 「考える宗教」へ


 文化・知識の製造国と輸入国との、知識に対する姿勢の対照~~これからみていくと北朝鮮の現状も、改めてわかってくるのではないでしょうか。


                  



 中国も北朝鮮もロシアから共産主義活動を入れたわけです。活動には思想、理念がふくまれています。

 でも、中国は根底のところで道具主義でしたね。
だから、もっと使えるとみる方式があったら、あっさり共産主義方式を脱ぎ捨てた。

 ところが北朝鮮は今も共産原理主義にしがみついています。全く逆なことになっています。

 これはこの方式を絶対真理、絶対法則として吸収したからではないでしょうか。こういう習性は指導者だけでないですからね。民族全体の意識がそれを絶対法則として受け入れますから。


                



 (実は、北朝鮮の場合、もうひとつあります。この絶対則が意識に深く入っていき、その底のところで染み込んでしてしまった、ということがある。これは朝鮮民族に特有の、もう一つの精神的習性ですけれど、これについては後に機会があれば考えましょう。同じ文化知識輸入国である日本と違う点として・・・)

         (続きます)

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Vol.29「中国人を好かない日本ビジネスマン」

2005年12月25日 | 「考える宗教」へ

 中国人の理念道具主義は、彼らのビジネス流儀を理解する鍵でもあります。


 中国人とは、気質上どうしても肌合いが会わない、という日本人はたくさんいるようです。ビジネスマンにも多いです。商売上ではつきあうけれど、あのむき出しの現実主義・ゼニゲバぶりには人間的にはつきあいきれない~~こう感じている。

 でも、理念道具主義ではごく自然にそうなるんですね。

 人間誰でもゼニ金は欲しい。社会経済的利得は欲しい。それは日本人でも同じです。でも、それを求める行動をむき出しにせず、それに潤いのカバーをかけてくれるものがある。それが、もうちょっと理想主義的な、人道経営とか言ったようなロマンチックな理念なんですね。


                  


 ところが中国人には、そんなものは道具だという意識が日本人より遙かに強いんですね。もちろん「先義後利」(先に、人のためとかの正しきことをしていれば、後に利益は入ってくるものだ)とか言った儒教的な理念はありますよ。だが、それも道具です。だから、ビジネスでも現実的な物質追求が日本人よりよりむき出しになりやすい。

 こういう風に理解してあげたら、彼らへの嫌悪感は多少とも軽減するんではないでしょうかね。理解は精神的苦痛を和らげる妙薬になりますから・・・。

   (続きます)
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Vol.28「中国は道具主義だ!」

2005年12月24日 | 「考える宗教」へ

~~鹿嶋春平太です。

 メリークリスマス!
 みなさま、よきクリスマスと新年をお過ごし下さいますように。


                       


~~斉藤さん、とても考えさせられるコメントありがとうございました。
後にまた、ここにコピーして皆様に読みやすいものにさせて下さい。

 読みやすいといえば、背景をクリスマスのテンプレートにしましたら、読みづらくなりました。それで新しいものに変えてみました。いかがですか?


                  


~~さて、中国と日本、朝鮮との文化意識の比較を続けます。


 前回申しましたことにたいして、ご批判があるかも知れませんね。
 「ここには日本知識人に多い自虐趣味がある!」と。

 最近の流行ですからね。そういう批判は・・・。
実際、戦後日本の知識人として論壇でおしゃべりする人にはその色彩が濃厚でしたしね。マルクス思想をつかって、ただ批判のための批判を繰り返していた。学問の世界でもそれがあって、「批判経営学」なんてのもありましたしね。

+++

 鹿嶋にはそういう意図はありません。
 知識コピー国になったのは、日本民族が知的に怠惰だったからだ、とかそういうことはほとんどありません。歴史というのはそういう風に展開するのです。たまたま、ある国が先進的に文化知識を造ります。すると、隣国はそういう風になるのです。それが一番実用のために効率がいいから。

 そうして結果的にコピー文化の習性が出来ていったにすぎないのです。
 そして、この循環を断ち切る方法もあります。後に機会があればお話しします。


                


 さて前回申しましたことを、もう少し意味深にいうとこうなるのではないでしょうか。人類の歴史では、文化知識を造る国とそれを輸入する国とが出来ます。これはもう、どうしようもない法則のようなものだと思えます。だって、一方が造れば、近隣の国は便利だから、自分で造らずに輸入してしまいますからね。

 そして、造った国ではその知識を蓋然的なものだと自覚している。ところが輸入した国ではそれを100パーセントの絶対法則だとして吸収していく傾向が大きい~~そんなことを申しました。


                  


 鹿嶋の知る中国研究者に、中国への短期訪問をもう20回ちかくしている人がいます。一緒に現地視察を続けていたとき、彼は突然こんなことを叫びました。

 「中国人には、理念とか思想というのは道具にすぎない、この民族は道具主義だ!」

    ~~~耐えきれなくなったかのように、憤然として声を上げました。

 この絶叫ぶりに、彼の長年の観察で蓄積されていった深く強い確信と情念を鹿嶋は感じました。同時に鹿嶋の心にも思い当たることが浮かんできました。

 たとえば今中国は自由市場制度を普及させて経済発展を実現していますよね。その行動様式は資本主義そのものですね。

 でもこの国はついこの間まで共産主義国だったのですよね。毛沢東思想、マルクス思想をかかげてやっていた。それでもって、文化大革命なんてのもやって、たくさんの知識人たちをリンチにかけて、殺したりさえしました。それほど入れ込んでいたわけです。

 だがそのほとぼりも冷めないような短い時期に、こういう理念・思想はあっさり脱ぎ捨ててしまった。そういう信じがたいようなことをやってきています。そしてこの国の人々にはいまや日本以上にドライな資本主義的行動が目立ちます。


                  


 で、少し調べてみますと、毛沢東にとっても共産主義思想は根底のところでは道具だったのでは、というにおいがしてきました。中国の労働者や農民たちをまとめる道具。まとめるには、これが一意番使えそう、という手段ですね。

 中国は第二次世界大戦が終了するまで、西欧列強や日本に浸食され続けていました。あの大きな国で、国民がバラバラでした。これをまとめないことには、外国を追い出すことも、国家の独立もなにもありませんでした。

 政治リーダーになる人は、みな愛国心情の強い人です。若き魯迅も孫文もそうでした。若き毛沢東も、まず願ったのは、中国を外国列強の浸食から救いたい、ということだったでしょう。彼らを追い出して独立国家にしたい、と切望したにちがいありません。

 彼は、若い頃、図書館に職を得たと聞きます。働きながら本が読めるからです。それで、その図書館の本をみんな読んだ、という。その結果として彼は、農民や労働者をまとめるには共産主義思想が一番有効だ、と考えたのではないでしょうか。

 もちろん、勉強したり運動している過程で本人もその思想に入れ込んでいくでしょう。その価値観にも唯物史観にも惚れ込んでいくでしょう。けれども人の心理というのは、層をなしています。意識の底のところでは、道具主義だったのではないでしょうか。


                  


 マルクス思想には、歴史必然の発展法則というのが入っています。史的唯物論というそうですけどね、これは人類の歴史では、全世界は共産社会に収束する。泣いても笑ってもそうなる。100パーセントそうなる・・という理論です。理論といっても、これは絶対法則です。

 だけど、毛沢東は風水オリジナルな国の人です。このあたりは、軽くやり過ごしていたんではないでしょうか。

 まあ、彼は共産主義思想の人として死にはしましたけれどね。外観的には骨の髄まで共産主義の人でしたけどね。

 けれども、その後継者たちが本質を現していきました。トウ小平さんが政治的に浮上して自由市場政策を提唱した。その彼が失脚したり殺されたりしないで、主張が阻止されないで通っていった。そういうところに、道具主義の民族気質が現れていったのではないでしょうか。

 なんと彼は、こんなことも言ったんですね~~

 「白い猫も、黒い猫もネズミを捕るのはいい猫だ」
 
 ~~道具主義そのものですね。理念・思想道具主義・・・。
 経済が発展するなら、共産主義方式だって、資本主義方式だっていいじゃないか、というんですから。


                    


 しかし、こういう姿勢が中国人に「大人(たいじん)」の風格をもたらす源になっているかも知れませんね。「理念なんてものは所詮道具なのだ」と達観して縛られない、という姿勢が彼らに、日本人にも朝鮮人にもない精神的余裕をもたらしているのかも知れません。

         (続きます)
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Vol.27「知識を造る国とコピー(輸入)する国」

2005年12月23日 | 「考える宗教」へ


~~鹿嶋春平太です。
 日本全国、雪ですねえ~。

 前回、自然を経験的に考えて出来た蓋然的知恵から、全く別の性格の理論が枝分かれして出てくる様を示しました。
本来蓋然的な知恵だったものから絶対法則、絶対真理が出現するんですね。
かくして、本来一種類だった知識が、二種類に多様化します。

 この二つは、中国というう一つの国の中にも生じます。
しかし、これを中国と日本、あるいは、中国と朝鮮といった国で比較すると面白いことに気づきます。


                  


 中国は、風水の知識を造った国です。オリジナルな国。
対して、日本や朝鮮はそれを輸入してコピーした国です。

 そして、オリジナルな国では、この知識は蓋然的な知恵であると意識する人が、思想的なベースを形成します。
絶対的な真理・法則と受け取る人もいますけれど、そういう人も結構多いですけれども、
そういう意識はその国の基盤を形成することはないようです。

 対して、日本や朝鮮などの輸入国では逆になるように思われます。
つまり、中国の知恵、風水の知恵が、絶対的な法則として輸入されコピーされる傾向が大きいのです。

 風水が最初に先進国の文化として入りますと、絶対法則が風水に対する意識のベースになります。
これが文化を創った国と、それを輸入する国との意識の対照です。


                  

 どうしてこうなるんでしょうねえ。たぶんこういうことでしょう。

 経験的に出来た知識文化の発祥地では、それが造られていった過程の感触が残っていくんですね。
その地の人民たちには、知識と共に、それが経験的に考えられていった過程の情報もまた、残像として残るわけです。

 ところが、輸入する国の人民にはそういう情報はありません。
結果として出来た文化知識だけを「価値ある知識」として受けとるわけです。

+++

 昔は、中国は遙か彼方の遠い国でしたからね。
今のように、ジェット機で1~2時間でいかれるようなところでなかった。
日本の場合は、海の遙か彼方の夢の先進国でした。

 そこへ空海、最澄といった頭のいい人が選ばれて遊学しました。
こういう人の持ってくる出来合いの知識の一つが、風水などの知識文化でした。
これはもう、日本や朝鮮などの人々にとって別物になります。
現地の中国の人々にとってのものとはかけ離れた状態で、光り輝きますよね。

 結論だけの知識が光り輝く。もう、絶対法則的になる可能性は圧倒的に大きいですよね。

 また、絶対法則的に受け止めますと、その国ではさらにそれを純化させようとする力が働きます。
知識文化の輸入国では、それをそのまま利用するだけでなく、更に展開して洗練させようとします。
それを絶対法則の前提でやろうとしますから、さらに純化させることになるんですね。

 韓国での儒教思想は、本家本元の中国のそれよりも、遙かに純化されたものになって国民に深く浸透しています。
現在、中国人は儒教思想を軽く受け止めている傾向が大きいように見受けられます。
対して、韓国人は非常にまじめに深く受容しています。
それが日常の考え方にも、かなり色濃く反映している様がよくみられます。



                  


<知識に縛られる>

 すると、日本や朝鮮などでは特異なことがおきます。
 第一に、そういう輸入国ではその知識に縛られるようになります。

 もちろん、使いもします。けれども、それを超えて、それに束縛されるようにもなっていくんですね。
絶対の真理・法則ですから、もうそれに沿わなければならない。
ここに意識の重点をおいて、それでもって自分を縛っていくようになるんです。

 第二に、それに「恐れ」の気持ちが増し加わっていきます。
風水ではそれに従うべきとする根拠が、鬼とかカミサマとかの怖い行動ですよね。
その結果、文化輸入国の人民は、多かれ少なかれ恐怖で萎縮しつつ従うことになりますよね。

 また、その鬼とかカミサマとかは経験的に認識できないものです。
そんなところでそんなものが働くだろうか、と思っても、「そうでない」と反証することは不可能なものです。
だから、「まあ、万一そうなるといけないから(怖いから)、従っていこうか」ということになるんですね。

 ここから「触らぬカミに祟りなし」というかの有名な格言が生まれます。

 第三に、人々に、文化知識というものは、なぞってコピーして習得するものだという通念が形成されます。
 絶対的な法則・ルールですからね。人間の工夫や探求を超えたものですからね。
人々はただただそれを「なぞる」だけというようになります。
それが「作法」となり、既成の「文化をなぞる」という風習を形成します。


                  



 もちろん、それをもうひとつ洗練させたり、修正したり、
あるいはその上にさらに理論を追加して「屋上屋を重ねる」などというのもします。
けれども、意識の基盤にあるのはできあがったもののコピーです。

 初歩的な、素朴な体験知識をもとにして、自分の知恵でオリジナルなものを造っていくというスタンスはありません。

 その結果、「なぞって」素早くものを習得するという能力は高くなります。
またこういうのが一番評価されたりします。その性格は今も東京大学に代表的に表れています。

 だが、その反面、国民は出発点から知識を形作っていく、という精神活動をしなくなります。
これがその国民の独創性を減殺していきます。

          (続きます)

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Vol.26「非経験な領域の根拠が加わって絶対論理に」

2005年12月22日 | 「考える宗教」へ


~~鹿嶋春平太です。
 前回、本来は蓋然論理(100パーセント未満の確率でもって言えるもの)であった知識が絶対法則(100パーセント妥当するというもの)の知識に転化してしまう傾向が、人間社会にはあるといいました。


                           


 絶対の法則になりますと、それは神秘的な彩りを持ってきます。すると、人は往々にしてそれに神秘的な根拠を付け加えるようです。

 そもそも「鬼門」という名称がすでにそういう雰囲気を持っていますよね。鬼の門ですから。家の東北の方が気には、鬼がいる。その鬼が入ってくる門となる、という意味でしょうからね。

 で、その鬼というのは、目に見えないし手で触ることも出来ないですよね。一般の人々が経験的に認知できる存在ではありません。いわば非経験の領域の存在でして、哲学者ポパー流に言えば、それが存在するといわれてもそれを「反証することが不可能」なものですね。見えないんだから証明も出来ないだけでなく、そんなものは存在しないということを経験的に証明することも出来ないわけです。
 
 この点、風水の「気」とは決定的な違いがあります。気というのは、一般の人が感知できるものなのです。経験可能な範囲のものです。つまり、経験科学の認識対象に含めていいものなのですね。

<さらに絶対論理として展開する>

 中国の風水ではどうだか知りませんが、日本では、鬼門に加えて裏鬼門ということも言われます。家の東北の角から対角線を引いた、その反対側の角です。つまり、南西の角、これを裏鬼門という。

 そして、そこでは、炊事場とかトイレとか、汚い水が流れるような設備を設置してはならない、といいます。なぜかというと、そこにはカミサマがいるから、だそうです。そのカミサマにトイレの水とか、汚いものをかけるようになる。神様は必ず怒って不幸をもたらす、といいます。

 鹿嶋の聞いたところですけどね。他の論理を述べる人もいるかもしれません。まあ、いるでしょうね。


                  

いずれにせよ、こうなると、かつて蓋然的論理、経験的知恵であった方角論が、いつのまにか絶対の法則に化し、その上にさらなる絶対論理を造って乗せていることになりますね。これを「屋上屋を重ねる」といいます。

       (続きます)

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Vol.25「慨然論理と絶対法則」

2005年12月21日 | 「考える宗教」へ


 鹿嶋春平太です。
 前回、風水の知識は人間が観察によって得た経験を一般化したものだと申しました。


                  


 こういう知恵は100パーセント当てはまる絶対的な法則にはなりえません。
同じようなことに関する経験でも、人間が経験出来る回数は限られています。
だから、この世でこれから起きることすべてに当てはまるということは言えないのですね。

 たとえば、三角形を100個書きます。その各々の内角の大きさを測って合計します。
そうしたらみんな2直角、180度だったとします。
人間はそれから、「三角形の内角の和は180度である」という一般的な理屈を造ることが出来ます。

 でも、それは、101個目も “必ず”そうなる、ということを確証できる理論ではありません。
言えるのは「たぶんそうなるだろう」ということだけです。102個目についても同じです。
根本的には、「概してそうなるだろうが、最終的にはやってみなければわからない」のです。
人間が観察から得た知識にはどこまでいってもそういう性格がつきまといます。

 こう言うのを蓋然(慨然)性とか慨然論理とか申します。
「蓋」も「概」も「おおむね」と言う意味ですから、まあ「おおむねそういえるだろう」という理屈という意味です。
おおむね、つまり「確率」です。
まあ、70パーセントくらいはそううなるだろうから、止めといたほうがいいよ、というような知恵です。


                  

中国で出来た「風水」の玄関の位置に関する理論もそうです。
「概してそうなりやすいですから鬼門(東北の方角)に玄関を作るのは避けなさいよ」という知恵です。
確率の意識をベースにした知恵なのであって、言ってみれば
「まあ、7~8割くらいはそういうことになりそうですから鬼門の玄関は避けなさいよ」というようなものです。

 確率でも100パーセントではない。
 100パーセントなら、絶対法則になります。


<絶対法則化の傾向が出る>

 ところが、人間には100%当てはまる法則が欲しいという心理があるんですね。
絶対の真理が欲しいという。
誰しもこれへのあこがれもっておりますが、この気質がとてもつよい人がいる。

 こういう人は最初は蓋然的な論理であった、そういう知恵を、絶対法則にしてしまおうとする。
蓋然的な論理、知恵を絶対法則に受け取ってしまう。
生来、絶対法則が好きなんですね。




                  


そこで“人間の知恵も” ほとんど絶対法則として受け取ってしまう。

 たとえば、玄関を鬼門(東北)の方角に作らないほうがいいよ、という知恵。
これを絶対法則に受け取りますと、「作ってはならない」となります。
どうして?~~と聞くと、その家には「必ず」不吉(不幸)が起きるから、となります。
必ずですから、100パーセントです。絶対法則です。

 こういう人々の勢力が主流になることが人間社会にはよくあるのではないでしょうか。
いや、これは「よくある」といって程度をこえて、
人類社会にほとんど周期的に起きる出来事なようにも鹿嶋にはみえます。


         (続きます)



                    

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Vol.24「風水は本来は科学的な知識」

2005年12月20日 | 「考える宗教」へ

「ゼロ百」意識をもう少し考えてましょう。
          
 物事を「ゼロか百か」で考える性向は人間誰しもある程度はもっているようです。ですけど、同じ人間でもこの性向には人によって、そして民族によっても大小があるようです。そして、民族で見ますと、日本人にはその傾向が比較的大きいようです。これからそのあたりについて、いろんな角度から考えてみます。



                  


<中国の「風水(ふうすい)」>

 鹿嶋はこのところ中国に接触する機会が増えてきています。中国で社会事象を調べていましたら、この国でなされることには「風水」が意外に考慮されていることに気づきました。都市開発にもそれは入っているようです。

+++

 たとえば、都市には広場があります。貧しさなどの歴史的事情で作れなかった都市では、再開発のチャンスに作ります。上海の世紀広場などはその例なようです。

 どうして広場をつくりたがるかと言いますと、どうも、風水の気の流れを考慮しているようです。都市の街路を自然の気、人々の気が流れている。それが集まって気のエネルギーが渦巻く。人々はそこに来ることによってエネルギーを吸収できる。そういう空間が欲しい、ということなようです。

 広場は、そこにつながってくる街路よりほんの少し低めに土地をならして作ることが多い、と教えてくれた人もいました。そうすると気が流れ込んできやすい、ということでしょうか。鹿嶋は確かめていませんが、上海の世紀広場はそうだといっていました。高低はともかくとして、北京の天安門広場も気の流れを考慮して位置が決められ、広さが決められたうえで作られているそうです。


                  

 中国の風水は、後に易経(易学)の一環として、易学として取り入れられその一部となりました。日本にも易学として輸入されました。日本では、家の建築などにそれは大きな影響を与えました。今でも与えています。

 代表の一つは鬼門の教えでしょうね。鬼門とは方角の東北を指します。家を建てるとき、設計士や建築会社は必ずと言っていいほど、「玄関は鬼門に位置づけないように」と言います。

 家は通常四角い形で敷地の上に建てられますよね。その場合、玄関は東北の角位置に作らない方がいい、作ると不吉なことが起きる、というのですね。で、どこがいいかというと東南の位置が一番いいそうです。

 これは日本では易経の教えとして、受け取られていますが、そもそもは中国の風水の知恵です。


                  


<根暗とネアカ>

 中国の風水はそもそもはとても科学的だったようです。
 たとえば「気」という名で呼ばれているもの、これは目に見えません。けれどもほとんどの人々が感知できるものです。

 よく人を根暗(ねくら)とか根明(ねあか)といいますね。これはその人の皮膚とか姿形とかの物的なものについていっているのではありませんよね。そういう物的な肉体の周囲に醸し出されている何かを認知してのことです。

 雰囲気といってもいいかもしれません。そういう「気」です。それが暗い感じの人を根暗という。明るい感じの人をネアカといっていますよね。

 それにどうして「根」という語がつくかと言いますと、それによって、何かその人の根っこのようなもの、核心のようなものを言おうとしているからでしょう。なにか根本のところが暗い。それが身体の表に醸し出されている。

 それが多くの人に感知できるものですから、みんなの共通語として流布するわけですね。内容が感知できなかったら、なに言ってるかわからなかったら、その言葉は途中で風化して消えてしまいます。

 「気」というものは、そういう実体だから、その流れや、勢い、明るさ、暗さを人間に重要だと考える。その結果、明るいそれが集まり、渦巻く場所を作ろう、そこをみんなが集まるようにしよう。こう考えて広場が設計されるわけです。

 ともあれ、みんなが同じように認知できるもの、これをベースにいろんな法則的なものを見つけ出そうとする、これすなわち、科学です。風水は、その出発点においては、とても科学的なのです。


                  


<鬼門を避ける経験科学的根拠>

 家の主要な入り口(玄関)を鬼門に作らない方がいい、というのも、出発点ではとても科学的です。気の流れを考えている。

 東北の方角は太陽の光が当たりにくい場所で、朝のひとときをのぞいては暗いです。また、中国の多くの地域では、湿気も多いし、この方角は比較的寒いですよね。

 で、こういう方角に玄関を作ると、秋冬には入り口から寒い空気が入ってきやすいです。これは「陰気」という気に通じています。来客もこういうところから入るのは好みませんよね。だから、東北の位置に家に出入りする場所を作らない方がいい、というのは科学的な知恵なのですね。

+++

 この考え方でいきますと、好ましいのは、逆の太陽光線が当たりやすい位置となるでしょう。その一番の場所が東南なのですね。南は太陽が当たりやすい方角です。それが「陽気」という気につながっている。

 そして、東と西を比べますと、朝のさわやかな陽光があたるのは東となります。西は夕日ですから、午後から夕方に日が当たりやすいですよね。そして、午後の光は朝日のようなさわやかささ、すっきりした "切れ”のよさがないですよね。

 結局、経験的にも東南が一番となります。そこに出入り口を置きなさい。そうすれば多くの来客がきやすいし、それによって家も栄えやすいですよ~~こういうことになります。とっても経験科学的です。

(続きます)

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Vol.23「サリン事件も“ゼロ百”から」

2005年12月20日 | 「考える宗教」へ

 ~~みなさん、しばらくお休みいただきました。
鹿嶋です。
 もう少し「百ゼロ思考」「ゼロ百」意識に関する考察を続けます。


              



日本人の「ゼロ百」意識はサリン事件の原因にもなっています。
 これを起こしたオウム教団には、いわゆるエリート大学生、大学院生がたくさん働いていて話題になりましたね。頭のいい若者がどうしてこんな宗教教団に誘引されたか、ともみんな不思議に思いました。

+++

 だが、ここにも「ゼロ百」意識が働いているのです。
 日本人一般の戦後の宗教意識はほぼ完全な「百ゼロ」ないしは「ゼロ百」思考でした。
 霊的な事実などあるはずがない、とゼロで考えていました。

 これは合理的な考え方ではありません。
 見えないものが存在するかしないかは、見えないからわからないわけです。
わからなければ、見えない存在があるかないかは合理的には五分五分でしょう。
存在しない確率は50%です。
 彼らは学校でそういう論理を学んでいるはずです。

 なのに、霊的な事象に関しては確率をゼロに見積もってしまう。
 そうなる理由は、宗教に関しては「ゼロ百」意識が心の底にあるからでしょう。

 +++

 その状態で若者たちは、教団に接触して若干の霊的体験をさせられた。
 彼らは当初、ゼロ状態で耐えます。
 そんなこと起きないはずなのに・・・と。

 しかし、耐えられなくなると一気に百にいってしまった。
 ゼロ百は、途中がないので、ゼロでなくなると突然、百にコロンといってしまうのです。

                   

 ああいう教団に入っていたら、時々「変だなぁ~」ということにも出会うでしょう。
 でも、その体験を踏まえて変化することが出来ません。
 「ゼロ百」では、百でなくなるということはゼロになってしまうことになります。
 心理的にそこまでは行かれないので、若者たちの意識はまた百に戻ってそこに留まることになります。

 それで、多くの殺人犯罪を犯すまでいってしまいました。

 「ゼロ百」意識は日本人の宗教的純朴の原因になっています。
 それがあるからどんなに学問をしても、宗教意識は成熟していくことがないのです。
 
 これへの対策は、その「ゼロ百」意識を自覚することです。
 そうしたら始めて、変わっていく可能性、成熟する可能性が生じます。


                    
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来週には

2005年12月13日 | 「考える宗教」へ

~~鹿嶋です。
みいこさんより、ご心配のコメントをいただきました。

・・・・・・・・・・・
寒い日が続きますが (みいこ) 2005-12-13 19:38:55

最近、更新ありませんが風邪でもひかれてないですか?
お体に気を付けて
またブログの更新を楽しみにしています
・・・・・・・・・・・

~~このところ多忙になり、更新が出来ませんでした。
来週には出来るようになることを期待しています。
お待ち下されば幸いです。

 鹿嶋春平太



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Vol. 21 「百ゼロ思考」

2005年12月07日 | 「考える宗教」へ



 聖書はかくも素晴らしい討究素材であり知力向上教材なのに、信仰者になっても聖句の門に踏み込まない人が内村、新渡戸らの例外を除けばほぼ皆無なのはどうしてでしょうか。今日からは、どうして日本人はそうなるか、を考えましょう。


                   


 実は門前均しをする人にも、門の入り口で「こんな本には真理はないよ」と叫んでいる人にも、両者に共通したものがあるのです。

 それは、ものごとを100%とゼロ%とで考える習性です。英語ではこれを「オール・オア・ナッシング」の考え方と言いますから、鹿嶋は日本語の名前を付けましょう。

 曰く・・・・「百ゼロ思考」
 でも、日本語の語感としては「ゼロ百」の方がいいかな? まあ、両方使うことにしましょう。

+++

 日本人には歴史的に、この思考方式に縛られる人が多いのです。この考え方の対極にあるのは、「確率思考」です。ものごとを、百かゼロかで考えるのでなく、何パーセントかと可能性を考える考え方です。

 宗教分野ではとりわけ、この「百ゼロ思考」にひとは縛られやすいです。そこにはみえない世界の論理が含まれていますし、この論理が中核になっていますからね、宗教では。

 だから「お前は信じるのか信じないのか」と問う。あるいは自分に対しても「私は信じようか信じないでおこうか」と自問する。そうなりやすいです、宗教では。

 だけど、この分野にだって確率思考は出来ますよ。みえない世界の論理に対してその「確からしさ」を問うということは可能です。あるいは洗礼を授けられて「あなたは信仰者です。おめでとう、おめでとう」といわれても、「いまこの論理に対する私の信頼感は何パーセントくらいかなあ・・・」と考えることは出来る。

+++

 聖書という書物が「創主からの真理のメッセージを記した本」といわれても、「人間が文字で記録したのだから、100%それを記録出来てることはないだろうな・・・」とか「人間が受信したんだからまあ、その何パーセントかを含んでいるだろうなあ・・・」と考えることは出来ます。

 こういうと「不信仰者!」とか「異端!」とかいう金切り声がニッポンキリスト教の方から飛び出しそうですが、まあ、好きなようになさればいいでしょう。だけどあなたと私との違いは、信仰者、不信仰者という「百ゼロ」の違いではありませんよ。


                    


 あなたと同様に私も、聖書という書物に信頼を置いているのです。同じ信頼者ですよ。ただ、あなたの思考法が「百ゼロ方式」であって、私が「確率方式」であるだけですよ~~鹿嶋はそう考えています。

(続きます)


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Vol.20 「国も企業もスモールグループ制で強くなる」

2005年12月06日 | 「考える宗教」へ




<歴史が示すもの>

 スモールグループの聖書討議方式が盛んになる地域では、
人民の知的レベルが急上昇し、精神も活性化するようです。


                              



 学問芸術の花が開き、発明発見が相次ぎ、国力も上昇し、結局最強の国となる。
18世紀の英国であり、20世紀以降の米国がそれであるようにみえます。

 どの国でも、活力があって強い国になりたいでしょう。
人類もそういう社会にあこがれるでしょう。
その秘訣は技術的には、意外に簡単だったようです。
それは、スモールグループでの聖書討議会が自然に作り上げていくようです。

<QCサークルもスモールグループ活動>

日本企業のQCサークルは、スモールグループ活動の「もの作り版」です。

職場のもの作りの場に、米国南部の聖書探求方法を援用したものだとみることができます。
それによって、日本の企業人に知的活力が成長することを理解できます。

 実は、トヨタ方式の力の源もここにあります。
だから従業員の知的活力世界一の企業になったのですね。

 だけどこういう機会は、トヨタという会社に入った人だけに与えられますよね。
またテーマが自動車生産作業に関わることに限られます。社会のみんなに、ということにはなりません。


                  


 聖書のテーマは、生きとし生けるものみんなにとって基本問題であるモノです。
人間なぜ生きるか? 自分はどうしてここにいるか? 死んだらどうなるのか? 
みんながエンジョイしうるのはやはり、聖書サークルでしょうね。

       (続きます)

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Vol. 19 「聖書以上の素材はなさそう」

2005年12月05日 | 「考える宗教」へ
~~「鹿嶋春平太チャーチ」にようこそ。

 一つの殻、一つの解釈に結果的に閉じこもってしまうことにならないで、
かつ、互いに他者の見解に対する意見を双方向的にやりとりできるには、
6人ぐらいの小グループが最適である~~前回、そう申しました。


                          

 ではそのときに素材とすべき最適な書物は何か?
 それは聖書だろうと鹿嶋は判断しています。

 毎回、色んな角度から見解を取り交わせるには、そういう検討が可能になるには、
そういう条件を持った素材としての本が必要です。
そして、一つの本の多くの部分で、解釈が様々に出て、
しかも、それらが似たようなものでなく、互いが驚くほどに予想外で、
かつ、各々にもっともな筋が通るものであることが必要です。

 鹿嶋にはそういう書物は、聖書以外にみあたらないのです。

 この書物をスモールグループで討議しあう。
一つの正しい解釈を得ることを目的としないで、結論めいたことに至らないままで会を閉じる。
そういう知恵のものに、自由に討議する場を持つ。

 ~~これが人間の知性を活性化する最高の方法であって、
これ以上に人の知性を活性化する方法はないように感じます。


(続きます)

                     

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