鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.262『創主を知らせるのは私(イエス)だけだよ』(15章21節)

2009年07月29日 | ヨハネ伝解読


イエスのインストラクションは、どんどん奥義に入っていきます。
今回の聖句はこれです。

BGMは今回もmariさんのこれを使わせていただきます。

http://aiai.hukinotou.com/

(クリックして最小化し、もう一つエクスプローラ画面を開いて
春平太チャーチを開くとBGMのある状態で読むことが出来ます)


                    
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
「(私の名の故に世の人々が諸君を迫害するのは)私をこの世に遣わした方を知らないからだよ」
(15章21節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                    


21節には、前回示したものに加えて上記の聖句も記されています。

ここで「イエスをこの世に送った方」とは万物の創造者です。これは聖書思想の鉄則です。
で、今回の聖句は、前回の「イエスの名の故に世の人々が弟子たちを迫害することになる」ことの
さらにその理由を述べるところです。
「それは創造主を知らないからだ」という。

 世の人々が創主を知らないのはどうしてでしょうか。
一つの理由は、万物の創造者というのは、
時間的にも空間的にも無限なる霊的存在だということでしょう。

霊的存在は目に見えないが故に認知が困難ですが、
加えてそれが空間的に無限な広がりを持った存在だということになりますと、
認知はさらに困難になります。
我々は無限者をイメージすることが困難です。
通常我々がイメージできる姿というのは、有限なまとまりを持った実体(entity)で、それは形を持っています。
ところが空間的に無限な広がりをもった存在はいわゆる形をもたないのです。

(それを形あるものでもって示そうとするのがいわゆる偶像です。
だから創主は自分を形あるものに刻むこと、それを拝むことを戒めるのですね)



                    

 こういうと、
「いや、旧約聖書では創造主は主(日本語の聖書では太字で書かれている。
文語文訳の聖書ではエホバと書かれている)として、
アブラハムやモーセに現れているではないか。
ユダヤ人たちは旧約聖書の民だから、創造主を知っていることになるのではないか」
と思われる方もいるでしょう。

 けれども、このチャーチの「“エホバ”の奥義」というカテゴリーに書きましたように、
この存在は実は天使なのでして、ユダヤ人たちは実は創造主を見ていないことになるのです。

イエスが~

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「だれも創造主を見たものはないよ。ただ創主から出たものだけが父を見たのだよ」
(ヨハネによる福音書、6章46節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

~というのはそれを意味しています。

「創造主から出たもの」とはイエスと聖霊です。
イエスと聖霊以外には父を見ていない、ということは、
ユダヤ人たちも見ていないことになるわけです。


                    

<創主を見る唯一の方法>

では、人間は創造主を見ることは絶対に出来ないのか、というと、そうではない。
イエスを通して、という方法がイエスのいるその時点には与えられていることになります。
だから、イエスは「私をみたものは父をみたものです」(14章9節)というわけです。

ところがユダヤ人たちは、そのイエスを通して父なる創主を見よう(認知しよう)とはいたしません。
見なければ知ることも出来ない。
だから「私をこの世に使わした方(創造主)を彼らはしらない」ということになります。


                    

ユダヤ人たちは、創造主を乞い求める民です。
もしイエスが創造主と一つであり、創造主だと知れば、
イエスを愛し弟子たちの言葉をも受け入れたでしょう。
だが、実際には彼らは、
旧約聖書に自分たちの先祖に現れたと記されているエホバが、創主だと解していました。
だからイエスを憎みます。
そしてイエスから得た言葉を宣教する弟子たちをも憎み、迫害することになるんだよ、
とイエス(本日の聖句)は言っているわけです。


                    




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Vol.261『私の名の故に迫害してくるからね』(15章21節)

2009年07月23日 | ヨハネ伝解読
「最後の晩餐」におけるイエスのインストラクションは、まだまだ続きます。
今回の聖句はこれです。

BGMは今回もmariさんのこれを感謝して使わせていただきます。

http://aiai.hukinotou.com/

(クリックして最小化し、もう一つエクスプローラ画面を開いて
春平太チャーチを開くとBGMのある状態で読むことが出来ます)

                    
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=
 「だけど彼ら(世の人々)はそれらのこと(迫害)を諸君に、私の名のゆえに行うんだよ」(15章21節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                    


 前回イエスは、「弟子たちの伝道が成果を上げると、世の人々は諸君を迫害し始めるからね」
とインストラクションしました。
 イエスが主人で弟子たちは従者に当たり、
「世の人々は主人の言葉を心に受け入れないから、従者の言葉をも受容しないで、迫害してくる」と教え、
弟子たちが迫害されるのは主人であるイエスの故であって、
憎まれる原因は主であるイエスにあるのだよ、と教示しました。

今回は、そのイエスを憎むさらに根源的な理由をおしえておくところです。
それは「イエスの名」にあるとイエスは教示します。


                    

ここはとても意味深く、すべての解読を書き始めると長いものになります。
本格的な対処は第17章で行うことにして、
ここではその前段階として「名」というものに関する認識論を一般的に考えておこうと思います。


<「名」の認識上の働き>

名というものは、我々の認識上、大きな役割を果たしています。

たとえば、「金(gold)」という名詞を考えましょう。
これを聞くと我々は、その名で呼ばれる一群の物質を想像します。
「黄色の光輝ある金属で、重くて柔らかくで、延性および展性に富み、空気中でも錆びず、
普通の酸に侵されず、王水に溶ける物質」といった定義ができるような物質です。

だがわれわれは、金という名がなくても、その種の物質をある程度は認知することが出来ます。
そうした特徴を持った物質を心にイメージすることでもって、時々は認知するでしょう。

けれどもそうした様式での認知では、その内容は変動しやすく、漠然さがつきまといます。
人々相互の意思交信が不便で、認知は個人レベルに留まり、ときとともに風化もしていくでしょう。

ところがこれに、短く「金」という名を与えますと、我々の認知は明確で固定的なものとなります。
対象の全体を指す、この短い呼び名があると、人々の間での「思い」のやりとりが容易になります。
互いに吟味しあって、その定義をより包括的、論理的に改善していくことも出来ます。
金という呼び名が存在することによって、それによって認識する対象が明確で固定的なものとして浮上するのです。


                    

<人の名も同じ>

 人の名についても同じです。
2000年前に新しい福音を宣教したユダヤの若者のことを
「ナザレ出身のユダヤ人で、病人を癒したりする奇跡をたくさん行って、
意味深い教えをして、弟子を従えて宣教して・・・」という様式で、
名前なしで認知することも出来ます。
だが、その場合も、このままではその内容は流動的で、時とともに風化するでしょう。

ところがこの人の「全体を一気に思うことのできる」簡明な名が出現すると、
人々相互の間での「思い」の交信や吟味が容易になり、意味内容も改善して行かれます。

名は、或る対象の明確で固定的な認知に不可欠な存在となり、
人々は、その対象を思うのにまず名を想起するようになります。
そしてそのことが、その対象を認知することと、名を認知することとが
大きく重なっていく状況にも最終的には繋がっていきます。
それを端的に言うと、イエスを認知するというのは、その名を認知することともなる。
この方を憎むということは、その名を憎むということにもなります。


                     

<栃木の裕次郎>

 でもこの話には、次のような疑問が自然に湧きます。
つまり、「イエスが活躍した当時には、イエスという名は沢山の人に付けられていた。
イエスの名の故に迫害されるというのなら、他のイエスさんもその使用人も
みな迫害される道理になるのではないか」という疑問が。

確かに当時、イエスの名を付けられた男子は沢山いたようです。
そこでかのイエスも、始めは「ナザレのイエス」と区別して呼ばれていました。

けれども、時と共に、「ナザレの」という修飾語は要らなくなります。
かのイエスが多くの人に知られると、もう「イエス」といえば彼を指すのが通常になるからです。

それに並行して、他のイエスさんは、もうイエスだけでは通用しなくなっていきます。
鹿嶋は、こういう現象を「オーバーシャドウ効果」と呼んでいます。

+++

日本でも昭和30年代に、石原裕次郎という歌手兼映画俳優が日本全国で爆発的に有名になりました。
もちろん当時日本には、裕次郎という名を親に付けられた若者が沢山いました。
けれどもこの俳優の故に、他の裕次郎さんはもう裕次郎だけでは通用しなくなりました。
で、栃木の裕次郎とか、宇都宮の裕次郎とか、益子村の裕次郎とかいうことによってしか、
当人を指すことが出来なくなった。
石原裕次郎によってオーバーシャドウ効果を及ぼされたわけです。


                     

<イエスと呼ばれるようになるだろう>

ルカによる福音書の1章30~31節に次の聖句があります。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 「すると御使いがいった。『こわがることはない。マリヤ。あなたは創造主から恵みを受けたのです。
ご覧なさい。あなたはみごもって男の子を産みます。名をイエスとつけなさい』」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ここでの「名をイエスとつけなさい」はギリシャ語の原語からすると誤訳なようです。
正しくは「名をイエスと呼ばれるようになるだろう」という未来形のニュアンスを持った聖句だと、
原典を吟味した人が教えてくれました。
(どうしてこう書かれているのかについては難しいが、とにかく原語はそうだということでした)

ではなぜ翻訳された全ての聖書~英語、フランス語、日本語を問わず~こんなかけ離れた言葉にしているのか。
理由は、いま述べた人の世の性向~オーバーシャドウ効果~に思いが至らなかったことにあると、
鹿嶋は考えています。

「名をイエスと呼ばれるようになるだろう」では何を言っているかわからなかった。
そこでエイッと「名をイエスとつけなさい」にしたのでしょう。

(聖書には他にも、意味がわからないが故に「造ったと推察できる訳」があります。
それについては、その都度指摘することにしましょう)

だが、オーバーシャドウ効果を援用すると、原典での御使いは
「イエスという名の人間が沢山いる中で、イエスという名だけで呼べば彼だとわかる存在に将来なる」
といっていることになる。

他のイエスさんは、みな栃木の裕次郎、宇都宮の裕次郎みたいになってしまう、
そういうイエスになるよ、とこの御使いは預言していることになります。

もちろん、そこには、「だからイエスと名付けなさい」というニュアンスも含まれてないとは言えないので、
まあ翻訳がまるまる百パーセントの間違いとも言えないでしょう。
けれどもかなりのパーセントでの誤訳であることには間違いありません。
訳者は困っちゃってそうしたのだ、と鹿嶋は解しています。


                    

<蛇足>

個人の覚え書き的蛇足です。
この心理効果論がすっかり気に入ってくれている私のゼミでの教え子がいます。
現在都内のミッションスクール系大学の教授をしていいますが、
彼が、学会で私の口からこの効果をいわせようとして、
研究報告する私に一生懸命誘導質問をしてくれたことがありました。
私がなかなかそれに気付かなかったので、後で、苦情を言いました。

もうひとつこれもゼミナールでの話。
かつて現役3年生にこの効果を講じていた時に、いさめられたこともありました。
「外国の学者の理論を言う時には、ちゃんとその人の名前を言ってください。
自分が造ったといってるように聞こえますよ!」と。

これホントの話です。
ゼミで学生にいさめられたのは後にも先にもはじめてなことと、
非常に強い口調で、怒ったように言ったこととで、今も記憶に残っています。

この理論は、ブランド理論への有益な知識になるのですが、
日本の学者への評価姿勢はこの程度で、今も基本的に代わっておりません。
そんなわけで、今もこの効果論は、無視されたままにありますが、
そんな世的なことはこのチャーチではどうでもよく、聖句吟味に役立てば十分です。
オーバーシャドウ効果の故に、修飾語なしのイエスは、かのイエス一人だけにしか通用しないものとなる。
かのキリストの決定的な、文字通りの固有名詞となるのですね。

(で、これがどうして「名の故に迫害してくる」ことにつながるのか?
これについては、17章でつなげてみますね)


                    


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Vol.260『次いで迫害が始まるからね』(15章18~20節)

2009年07月19日 | ヨハネ伝解読
しばらくぶりの更新です。
イエスのインストラクションは続きますが、本日は一転して厳しい話になります。

BGMは今回もmariさんのこれです。

http://aiai.hukinotou.com/

(クリックして最小化し、もう一つエクスプローラ画面を開いて
春平太チャーチを開くとBGMのある状態で読むことが出来ます)


                    
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=聖句=
  「もしこの世が諸君を憎んだら、世は先に私を憎んだということを知っておくんだよ。
 諸君が世に属していたら、世は諸君を愛するはずだ。
だが、諸君は世のものではない。わたしが世から(天の側に)選び出したものだ。
だから、世は諸君を憎むんだよ。
従者は主人以上のものではない、と私が言った言葉を覚えておくんだよ。
世の人々が私(主人)を迫害したら諸君をも迫害する。
もしも彼らが私の言葉を心に保ったら、諸君の言葉も保つんだけどね」
(15章18~20節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                    


前節までイエスは、弟子たちの伝道は必ず実を結ぶと述べてきました。
つまるところ弟子たちの努力によってそうなるのではなく、
父なる創主がそうなさるというのですから、もう絶対です。
だから諸君はとにかく割れないで一つにまとまっていなさいよ、と命じました。

楽しいなぁ、嬉しいなぁ~。
弟子たちの伝道によって産まれる新弟子は、最後の最後まで働く弟子となる。
その種の新弟子がどんどん出来たら、教団も大きくなって世の人々に尊敬されるようになる。
弟子たちはその上に立って君臨する大幹部となって、左うちわの生活が送れる夢もある。
結構ずくめです。

<一転迫害が始まるよ>

ところがイエスはここで一転して厳しい話に入ります。
そうなったら次に、世の人々はかならず弟子たちを迫害するというのです。
「ヨハネ伝解読」今回はその部分です。


                    


それは又きついじゃないの、どうしてそんなになっちゃうのか。
ここには聖書思想の大原則であるところの、「天と世との絶対的対立関係」が位置しています。

「聖書の空間図式」をご覧下さい。
これが出来上がるストーリーはこれまでも述べましたが、次のごとくです。
創造主は無限空間である自らの懐の内に、自己の王国「天(国)」をつくって
「みずからの名」をおき、御子イエスをその相続人とします。
そして無数の天使を造り、その名を賛美させます。

ところがある天使長が反逆する。
「俺も王国が欲しい、賛美して欲しい」とその天の一角でもって
配下の天使たちに自分の名を賛美させ始めます。

<暗闇の牢屋:宇宙>

そこでイエスは天の一カ所に暗闇の空間を作り、他の天使長たちに命じて
彼らをそこに追い落とし閉じ込めてしまいます。
かくしてそこは、反逆した天使たちを閉じ込めた牢屋になるのです。
そして反逆した天地長は変質して悪魔となり、配下の天使たちは「天の諸々の悪霊」となります。

悪魔はその牢屋の中の牢名主的な存在として、牢屋を支配します。
で、この牢屋が実は天文学で言う宇宙にあたるというのが、聖書の論理構造です。
そしてこの宇宙の中に創主は地球を造り、その地上に人間を造るという構図です。
旧約聖書の創世記の記述はそこから始まっています。

ですから宇宙の中のことは、当面牢名主である悪魔に支配権があります。
「この世」とは、その地上のことをいっていまして、そこもまた宇宙(牢屋)の中にありますから、
この世は基本的に、悪魔の影響下にあることになります。
世の人々の意識も、実はそうなっているのだ、というのが聖書の基本思想です。


                    

<理屈抜きの憎悪>

 「人の子」となったイエスは、そういう「世」に「天の論理」をもって天国からきたという構図です。
彼はこの世に天の論理(義)を持ってきて弟子たちに受容させ、
その弟子たちの伝道によってそれを受け入れる人々の輪がこれから広がっていく。
牢名主・悪魔(世)にとってこれが本性上気持ちのいいものであるはずがありません。
もう本能的に、理屈抜きに、憎み迫害することになる。

『諸君が世に属していたら、世は諸君を愛するはずだ。
だが、諸君は世のものではない。わたしが世から(天の側に)選び出したものだ。
だから、世は諸君を憎むんだよ』はそれをいっています。

世に属していない、ということは天に属しているということです。
聖書では二者択一でして、そのどちらでもないというグレーゾーンはありませんから、
世は必ず弟子たちを憎むことになります。


また「諸君たちに向けられる憎しみは、根底的にわたし(イエス)に対するものなのだよ」
とイエスは言います。

そして「諸君は私に従うものだから、次いで諸君を必ず憎むことになっていくのだ」と。

本日の聖句『もしこの世が諸君を憎んだら、世は先に私を憎んだということを知っておくんだよ』
というのはそれを言っています。

ですから『もしも彼らが私の言葉を心に保ったら、諸君の言葉も保つんだけどね』
の意味はもう明らかですよね。
「そうした中でも、諸君の言葉を受け入れるものもでるが、
その人々はまず私(イエス)の言葉を受け入れてそうするんだよ」ということです。


                    


 天の論理と悪魔に染まった世の論理とは、根本的に対立関係にある。
それ故に、世はイエスを根本的に憎むように出来てしまっている。
この原理を背景に、イエスは弟子たちに福音伝道をした後に起きることを
前もってインストラクションしています。

これで弟子たちは、その場になってオタオタすることがないでしょう。
この世では状況理解は最大の精神鎮静剤、癒し剤になるのでしょうか。
イエスのインストラクションは、先の先まで周到ですね。


                    



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