鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.108 「13章 バージニア、先駆ける」(9) ~終戦後日本からの追体験~

2012年03月30日 | 「幸せ社会の編成原理」

             
      


ここで「政教分離原則を実現したら聖句主義者への信頼が急増した」という事象の
追体験理解をしておきましょう。

我々日本人には終戦直後の状況が手がかりになります。

戦時中わが国の人民は軍部という管理階層体制の極の様な組織に組みこまれ、
言論・思想の強烈な制圧下で暮らしました。
この種の政策を実施するには、特高警察や思想憲兵が必須です。
人民は彼らにおびえながら暮らしました。

敗戦はそのすべてを取り払う一大イベントでした。人民は突然自由に解き放たれた。
物資は相変わらず不足していましたが、それらを自由市場(闇市)で調達し合う生活には
精神の躍動がありました。

筆者は4歳でしたが、大人たちが見せた輝きはじけるような精神躍動の感触は
今もかすかに残っています。
同時に人々は言論・思想を自由にしておいても、社会がばらばらになることがないとも知りました。

+++

バージニア州民にも、これに似た自由と精神躍動が実現したのではないでしょうか。
それまでイギリスの国教制度のもとで二重三重に受けていた「思い」の統制から
突然解き放されたのです。その快適さはいかばかりだったでしょうか。

それでいて社会の安定性は予想外に保たれていた。
そのことも確認し、州民の聖句主義者たちへの信頼は一挙に高まったのではないでしょうか。
      
+++
      
以後バージニア州議会はバプテスト聖句主義者による主導を信頼して受け入れるようになりました。
その結果、政教分離が成った1785年以降、聖句主義者の行動はほぼバージニア州の行動
とみていい状態になった。

これは重要な変化です。
これによってバイブリシストは「バージニア州として」米国全体のなかで行動することが
出来るようになったのです。
言い換えれば、バージニア州議会の衣装を着ての活動が可能になった。

これが彼らの国家作りを飛躍的に楽にしました。
実際彼らはこのコスチュームでもって  アメリカ国家の仕組み作りを先導していきます。

この認識がアメリカという国の体質を感知する鍵になります。
そしてこれもやはり聖句主義史に無知であれば全然見えない事実です。
       


     
      
             (次回から14章に入ります)







     
     

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Vol.107 「13章 バージニア、先駆ける」(8) ~第二の政教分離州へ~

2012年03月30日 | 「幸せ社会の編成原理」

                 
       


だがバプテスト聖句主義者たちは、あきらめの代わりに「ひたむき」という美徳を持っていました。
彼らはバージニア州議会に「宗教活動は政治活動と完全に分離すべきで、
宗教は宗教としてやっていくべき」と訴えた嘆願書を
「田舎詩人の謙虚な願い」と題した詩を添えて提出しました。

詩のなかのフレーズのいくつかはこうなっていました~
      
       ・・・・・
        「自由」は全政策の基盤、全人の主眼。
         全愛国者の心を満たすもの。
     
       ・・・・
        もう無益な仕事に時を費やすな。
         われらを縛る鎖を磨く仕事に。
     
        ワシントン将軍の言葉を思い起こそう。
         「我らの国は自由であり続けるべき」を。
     
        我らの吐く息、吸う息が自由を熱望している。
         平等な自由を、さもなくば死を与えよ!
     
        思うがままの祈りと、思うがままの探求をさせたまえ。
         間違えば当人の責任とさせたまえ。
     
         ・・・・・・
     
        バプテスト聖句主義者たちは当時単独では州の最大会派になりつつあったと推定できます。
少なくとも1789年には圧倒的な最大会派だったことが確認されています。

だが他の会派はこぞって宗教税支持でした。バイブリシストは孤立無援でした。

+++

けれども天の差配か、そこに強力な助っ人が準備されていました。
マディソンとジェファーソンです。

前述のようにマディソンは「フェデラリスト」という連載で、
中央集権政府でなく、州の独立性も担保した連邦政府の構想を展開していた才筆で、
当時米国の最高の知性でした。

後にワシントンの大統領就任演説の草稿も、彼が書いてあげています。

ニューヨーク(1789~1790)からフィラデルフィア(1790~1800)へと移った合衆国首都が、
どの州に含まれることもない独立都市としてワシントンDCに設計されていったのも
彼の案によります。

ジェファーソンは以前聖句主義者が法定に引き出された裁判を傍聴したことがありました。
彼らがその信じるところを述べるのを聞いた時点で「バプテスト聖句主義者たちの言い分が正しい」
と判断していました。

彼も独立宣言を起草した知性の持ち主で、ワシントン初代大統領の国務長官を、
ジョン・アダムズ二代目大統領の副大統領を、そして自ら第三代大統領もつとめています。


      
聖句主義活動の経験がないと聖句主義者の主張はわからないという一般論は
彼らには当てはまらないのでしょうか。
こういう卓越した知性には、経験無くても論拠の本質的理解が可能なのでしょうか。
二人はバイブリシストの言い分を弁護しました。
宗教人と距離を置いた位置から説く彼らの政教分離必要論は、説得力がありました。

韻律をもった詩文も人々の情感を開くのに役だったのか、政教分離の思想を理解する人が
徐々に増えてきました。
一定数の長老派牧師や一般信徒が納得して支持に周りました。
すると流れが変わって、とうとうバプテスト聖句主義者の案がバージニア議会で承認されました。
時は1785年、2年後には憲法制定会議が始まろうとしている年でした。

この議決に応じて、言論を罰する法律はすべて廃棄されました。
そしてそれがまた副産物を生んだ。
一連の働きによってバプテスト聖句主義者への信頼が急増したのです。

その一方で政教分離をめぐるこの論争によって、パトリック・ヘンリーには
マディソンに対する感情的わだかまりが残った、といわれています。
がともあれこうして合衆国の憲法修正に先立ってバージニアに政教分離が確定したのです。
ロードアイランド州に次いでその約120年後に成立した政教分離の二番目の州です。

そしてここでも「先の者は後になり、後の者は先になる」というイエスの言葉が実現しました。
バージニアはロードアイランドに代わって聖句主義活動本部の役割を果たすようになったのです。

新たな本部州は人口、人材その他で旧本部州を遙かに凌駕する強大州でした。
だが新本部の誕生は旧本部があってこそ可能になったことです。
「鳶(とび)が鷹(たか)の子を産む」といいますが、ロードアイランドという鳶がバージニアという鷹を生んだのでした。

鷹は憲法制定会議の段取りとそこで提出する憲法草案の作成にとりかかりました。
そして二年後の1787年に開かれることになるその重大会議を主導することになっていくのでした。



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Vol.106 「13章 バージニア、先駆ける」(7) ~相手は動的宗教未体験者~

2012年03月29日 | 「幸せ社会の編成原理」

  

            
このことは18世紀末におけるバージニアのバプテスト聖句主義者にとっても同じでした。
ところがこうしたことを議論でもってわかってもらうのはとてつもなく困難です。
ノンバイブリシストには動的宗教の体験がないからです。

彼らは静的宗教の体験しかないので、キリスト教とはそういう儀式的なものだと思い込んでいる。
だから聖句主義者が問題としていることがなぜ問題なのか、そのことからして理解できないのです。

そこで本質的問題といっても「各人が出す宗教税のサポート先が選択できるかどうか」しか
彼らには見あたらない。
その結果「支える相手を自由選択できるからええやないの。何ガタガタ言うてはんの!」
となります。

ひと頃「ボタンの掛け違い」という言葉が流行りました。
両者が向き合ったときにはすでにボタンは掛け違っている。
バイブリシストの論点がノンバイブリシストに理解されるのはほとんど絶望的でした。

こういうとき人間はどうするか。
「もう自分たちは我が道を行く」「干渉しないでおくれ」「レット・イット・ビー」といくしかないでしょう。
実際、彼らの精神上の祖先も千年以上にわたってその道・その姿勢をとってきました。

+++

だがここはそうではいけない場面でした。
それでは祖先が見続けてきた悲願の夢の実現を放棄することになるのです。

で、彼らはどうしたか?
 なんとしてもわからせて、政教分離を州憲法の条文にし、確定しようとした。
信教自由国家を実現するために、まずバージニア州議会でそれを通そうとしたのです。

筆者はこの情熱、この意志力には驚嘆します。
アップル社の創業者スティーブ・ジョブズは「ステイ・フーリッシュ」とはいいましたが、
この馬鹿さ加減にはあきれかえる。

常識ある人なら「君たちはあきらめるということを知らないのか!」と怒鳴りつけるでしょう。
「あきらめというのは人間の大切な美徳なんだよ・・・」といさめる人もいるかも知れません。



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Vol.105 「13章 バージニア、先駆ける」(6) ~現代欧州教会の実状~

2012年03月29日 | 「幸せ社会の編成原理」

   

        
        

儀式化の進んだ静的宗教がどうなるかは、現代欧州に絵のようにみられます。
中心イベントである聖日(日曜)礼拝にも人々は飽きて参集しなくなるのです。

北欧諸国では土壌としては聖句主義が濃いのですが、歴史的事情があって
国家の宗教政策としてはルター派教会を国教としてやってきました。
だから教会は宗教税をとって政府が運営しています。

ノルウェーの大都会オスロの中心部に国営のルター派教会の礼拝堂があります。
政府の公式行事も行うような代表的教会堂です。
2002年の春に筆者がこの日曜礼拝に出てみたとき出席者は数名でした。

会堂は300人は入る広さです。その数名も、地方からオスロ観光に来た家族の風情でした。
驚異的な精神活力の衰退ぶりです。
会堂の入り口の手前にはオフィスがあって、そこには聖職者が手持ち無沙汰そうに
すわっていました。

スウェーデン、ストックホルムの中心地の教会でも同じでした。
筆者がインタビュー調査で訪問したストックホルム大学の教授は
「もう国教制度はなくそうと検討されている」といっていました。
ドイツも教会税制度を取っていて、礼拝の沈滞ぶりは同じでした。

カトリックでも司祭の生活は本部からの資金で支えられていて、
教会税で支えられているのと同様な経済条件です。
加えて礼拝の方式があらかじめ詳細に決められています。

パリの中心部(シテ島)に壮大なノートルダム大聖堂があります。
多くの観光客が立ち寄る名所です。
カトリックを代表する壮大な礼拝堂の一つで、ナポレオンの戴冠式もここで行われたという。

その日曜礼拝(ミサ)に出てみると、2000人も入る大会場に参集者は20名ほどが
前の方の席にパラパラッと座っているだけでした。

礼拝メッセージは説教者が前日までに霊感(感性)で受けたものを言葉にして語るときに
躍動するものになります。
それには説教者個々人の活動状態を根底から自由にしておくのが必須です。

話すべき聖句や話の内容を指示されるなど些細なことでも干渉されると、
人間の精神・知性活動というのはとたんに減退していくものなのです。

こうなったら、宗教活動は静的になってしまう。
宗教税制度にすると宗教心は法則のように躍動しなくなるのです。

沈滞を避けるには、政治と信教活動の分離は必須である。
それはバイブリシストたちの活動の「いのち」に関わる事柄でした。




     

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Vol.104 「13章 バージニア、先駆ける」(5) ~宗教税制と自由献金制~

2012年03月29日 | 「幸せ社会の編成原理」

  

      
       
以上の知識を踏まえて、宗教税でもって教会運営費を形成する制度の特質をみてみましょう。
宗教税制の対極は自由献金制ですので、これをイメージの一方において考えてみます。

バージニア州議会では、聖句主義教会以外のノンバイブリシスト教団は、
みな指定宗教税制案を支持しました。
つまりサポート対象を納税者が自由に指定できることを前提にした、宗教税制による
教会財政サポート案を支持したわけです。

けれども、対象を自由選択できようが出来なかろうが、資金が政府の強制力の助けを得て
徴収されることには変わりありません。
この方式ですと運営費用が安定的に形成できるのですが、それも強制力あってこそです。
他方、自由献金制では資金形成は不安定になりますが、集金に国家権力もつ
強制力の助けは受けません。

バイブリシストはそこに問題の本質をみていました。
強制力のお世話になれば、政府はその宗教が社会安定装置として社会に組み込まれてくれる
ことを期待します。
繰り返し述べてきたようにこれは社会集団というもののもつ本能ですから、いたしかたないのです。
       
州政府はたとえば活動様式の儀式化を求めるでしょう。
教義の道徳化も期待し、礼拝メッセージにも道徳的な話の拡大を望むでしょう。

「宗教活動は自由にします」との建前をいっても、「あまり突飛なことはしないでね」とも
いってくるでしょう。

さらに進んで聖職者に公務員としての職務規程を作って与えてくるかもしれない。
礼拝の手順に関しても一定のマニュアルを作成してくるかもしれない。
マニュアルにはたとえば、クリスマス礼拝のメッセージには、「ルカによる福音書」の
1章の全節を取り上げる、とかの示唆も記されるかもしれません。
当初はそうでなくても、時が進めばそうなるのが人間の「集団社会」なのです。

聖句吟味を活動の中心に置き、霊的・精神的ダイナミズムを保ち続けることをいのちとする
バイブリシストには、これは本質的な問題でした。



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Vol.103 「13章 バージニア、先駆ける」(4) ~静的宗教、動的宗教~

2012年03月29日 | 「幸せ社会の編成原理」

        
      
      
  ここで政教分離・政教一致を考えるのにとても役立つベルグソンの知恵を紹介しておきましょう。
        彼は宗教に動的宗教と静的宗教というユニークな概念を提供しています。
その思想を筆者流に要約するとこうなります。
     
       ~動的宗教は、大教団に成長する力を持った宗教が新しく切り開かれていくときに
典型的にみられる。
そのとき教祖は新しく霊感が開けて真理を激しく求めている。
信徒は教祖の新しい知識を学び、心が躍動している。そういう宗教が動的宗教である。

静的宗教は、信徒の心理が穏やかで静かな状態にある宗教である。
動的宗教の教団規模が拡大して大教団になるとそうなることが多い。
そこでは活動の儀式化が進み、礼拝も儀式的になる。

儀式というのは教えの内容を別の様式で表現したもの、言い換えれば喩えで表現したものである。
儀式化とはすなわち比喩化なのである。そして比喩化すれば教えは抽象化する。

儀式的・抽象的に示されると教えが漠然としか認識できなくなる。
すると信徒の精神躍動の度合いは低下し、宗教活動は静かになって静的宗教になるのである。

教えの道徳化、道徳的な話が多くなるのも宗教を静的にする要因である。
道徳は現世のものだからこれに重点をおけば霊的なこと、見えない領域のことに論及したり、
それを探究したりする姿勢は弱くなっていく。

ところが宗教的感動は霊的な意識から生まれる。それが宗教を動的にする。
だから道徳教になれば信徒の精神躍動度は低下し、この面からも宗教は静的になるのである。

人間の「社会」は静的宗教を求める。
社会は自己保全、自己存在の安定化を本能として求めている。
その安定化には静的宗教は役立つからである。

人民が儀式の中で穏やかな心でいてくれたら、集団の安定度は増す。
また道徳は既成の社会秩序を補強するから、宗教も道徳的であった方がいい。

社会は常時構成要素にそういう要求の力を及ぼすのであるから、
宗教も時と共に静的になっていくのである~と。

+++
      
もう少し具体的な説明を追加しましょう。

まず、「教えの道徳化」について。
前述の「十戒」を思い出してください。
十戒の戒めにはこの世の道徳と重ならないものと、重なるものとが含まれています。

「創造主以外を拝むな」などは重なりませんし、「盗むな」「殺すな」などは現世の道徳と重なります。
この重なる方だけにスポットライトを当てて説教をしていくと、
そのキリスト教は道徳教に化けていきます。
日本にはこの道徳キリスト教がものすごく多いです。

   
もうひとつ具体的な説明を。こんどは動的宗教についてです。

イエスが行ったのは、「ユダヤ教の動的宗教化」でした。
ユダヤ教の教典である旧約聖書をイエスは「自分のことを比喩で示した書物」と教えました。
そしてその比喩表現の本当のところ・真意を彼は説き明かしたのでした。

すると聞く者の心には抽象的な比喩表現の具体的な中身が浮上します。
理解は明確化し人々の精神は躍動した。つまり宗教の動的化というか動態化をしたのですね。

+++

聖句主義活動というのは、この解読による霊的躍動を続けようという活動でもあったわけです。
通常の宗教が静的宗教化していくなかで、例外的に動的宗教のままで維持しようという
活動でもあった。あるいは初代教会の初心のままでいこうという活動と言うことも出来ます。
      
~ともあれ人間の集団社会というものは、自己保全の本能をもっているのだから、
あらゆる構成要素を自己の安定装置にしていこうとしていく、というのがベルグソンの社会洞察です。
それからすれば、宗教についても社会安定装置として組み込まれるものとそうでないもの、
という概念が生まれるわけです。

そして彼が遺してくれたこの洞察は、指定宗教税制を考えるにとても役に立ってきます。

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Vol.102 「13章 バージニア、先駆ける」(3) ~信教自由、思想言論自由、政教分離の関係~

2012年03月29日 | 「幸せ社会の編成原理」

  

             
      

聖句主義者たちの行動を意味理解するには、ここで政教分離、信教自由そして思想言論自由
という三つの概念の関係を吟味しておくことが必要です。
  
政教分離は信教自由を実現するための物理的条件とでもいっていいでしょう。
これがなると政治権力は宗教活動に手を出すことが法的に出来なくなります。

政治権力は物的暴力手段(軍隊と警察)を合法的に用いることができる唯一の社会勢力です。
これからの統制がなくなれば宗教活動は大幅に自由になります。

それでも社会的・慣習的な制約や教団内部での「縛り」が自由を制約する可能性は残りますが、
政治からの統制に比べれば小さなものです。

また宗教活動は例外なく思想活動と、それを対外的に表明する言論活動を含んでいます。
そして政府が宗教面での「思い」を自由にしておいて他の活動面での「思い」を統制することは
現実には出来ません。
どちらも人間の思いであって、二つの領域の思いをいちいち区分することは
実質上不可能だからです。

そこで信教自由がなれば思想言論一般の自由もほぼ実現してしまいます。
ですから政教分離がなれば、他の二つはほぼドミノ倒しのように実現していくのです。

バイブリシストたちが政教分離を主張したにつけては、そうした理由がありました。



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Vol.101 「13章 バージニア、先駆ける」(2) ~ 指定宗教税案が浮上~

2012年03月29日 | 「幸せ社会の編成原理」

                    
       

十分の一宗教税制をなくしたら、信教自由への新たな障害が飛び出しました。
指定宗教税(Assessment)案がそれです。

  当時は、教会というものは政府が財政的に支えないと衰退していってしまう、
という考えが常識になっていました。
だから宗教税制がなくなったら人々に不安が訪れました。

それを反映して州議会に「では州内の教会をどうやって財政的に維持していくか」
という問題がもちあがりました。
そして聖公会をはじめとする人々は指定宗教税(Assessment)制を盛んに議論し始めたのです。

この税制案は結構よく考えられていて、まず全州民に十分の一宗教税の納付義務を課し、
同時にその税の使途を、自分が評価する教職者のために用ることを指定できるようにする、
という案でした。

その際、納税者は自分が所属する教会の聖職者に限定されることなく
サポートする聖職者を選べるもの、としていました。
なにやらタレントの人気投票みたいで、州民が楽しめそうな面もにおわせておりました。

+++

聖公会の聖職者はこれを熱狂的に主張しました。
長老派の聖職者団体は、是非この方式を通してくれとの嘆願書を出しました。

一般信徒はどうだったか。
「AKB48(の人気投票)やってるんじゃねぇ!」との声があがったかどうかは
定かではありませんが、彼らはこの案を嫌悪したと伝えられています。

だがこれは「選択できる」という自由の要素も満たしているようだし、
見た目では魅力たっぷりの案でもありました。
パトリック・ヘンリー、リチャード・リーといった雄弁家はこの案を弁護しました。
後の州最高裁長官ジョン・マーシャルも支持したし、なんと、かのジョージ・ワシントンも
この時点では賛成の姿勢だったといいます。

だがバプテスト聖句主義者にはこれは「一難去ってまた一難」でした。
ほとんどみんながこの案を支持する中で、彼らだけは反対しました。
そして政府と宗教の完全分離を主張したのです。



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Vol.100 「13章 バージニア、先駆ける」(1) ~ 宗教税を撤廃させる~

2012年03月29日 | 「幸せ社会の編成原理」

  
      
 

この章では、バージニアが諸州に先んじて大変身を遂げ、遂にロードアイランドに次ぐ
信教自由州になるまでを示します。
      
独立戦争に勝利すればバイブリシストにとって残る核心課題は、
国家に憲法を制定して法治国家にすることと、
その中に信教自由の条項を確定して聖句吟味活動の自由を不動のものとすることでした。

この活動はバージニア州が大きく主導しています。
そして主導できるようになったバージニア州議会は、
実は聖句主義者が主導するようになった州議会でした。

それを知るとアメリカの憲法制定も信教自由もバイブリシストが作り上げた面が
極めて大きいことがわかります。
これからの話は憲法制定前にバージニアで起きたことの話です。
     
      +++
      
バージニアに突入した聖句主義者が、正規バプテストではなく分離派バプテストだったことは
前述しました。
彼らが伝統あるジェントルマン聖句主義者ではなく「燃えるバプテスト」だったこと、
これも前述しました。

独立戦争に勝利して独立国となるのも、憲法も成立させ立憲国となるのも、
バイブリシストには信教自由に向けての三段跳びの「ワン、ツー」ステップでした。
だから戦争中であろうと信教自由のために出来ることは彼らは実現させていきました。

1775年に独立戦争が開始された時すでに、彼らはバージニア州議会で
大規模会派を形成していました。
そして米国が独立宣言した1776年における最初の共和制議会で、「偶像礼拝を犯罪とする」
と定めた王領植民地時代からの法令を廃止させました。

聖句主義者たちが偶像礼拝を肯定したわけではありません。
これは文句なく反聖書的な行動であると彼らもしていましたが、権力でもって強制的に
禁止することを問題としたのです。
宗教行動は個々人の自主的な意志によってなされるべき、という信教自由の鉄則を
実現させたわけです。
独立戦争のさなか、改革気運盛んな中での改革でした。

彼らは他にも、聖句的には当然とされることを強制的に守らせる制度を廃止する努力を
続けました。
「聖なる創造神、三位一体、キリスト教の基本教義」これらを否定する者には
強力な罰則が定められていました。
初犯の場合はすべての公職から解雇され、重犯になると、訴訟権を没収し、
財産に関する保護・管理・執行権と遺産相続権を取り上げた上、三年間の投獄となっていました。
この制度の廃止には時間がかかり1785年にやっと実現しました。

信教自由を実現するための大障害は、教会税制度でした。
バージニアは王領植民地でしたので、英国国教だったアングリカンチャーチ
(英国国教会、聖公会)を支えるための十分の一教会税(所得の10分の一を納税する)
の支払いを人民は課せられていました。

この改正は難航し、年々継続審議を繰り返しましたがついに1779年に廃止にもちこみました。
議会の最大会派が聖公会会員であるなかで、議会外部からの廃止運動の助けを得ての
実現でした。



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Vol.99「12章 独立戦争の種を仕込む」(6)~戦争を開始し独立を宣言~

2012年03月25日 | 「幸せ社会の編成原理」

      
     

1775年4月19日、植民地民兵隊と英本国軍との戦いが勃発しました。
ボストンの北西方向にあるレキシントンとコンコードでの戦いです。
レキシントン・コンコードの戦い(Battles of Lexington and Concord)と言われています。
     

 

(レキシントンの戦い)

     
この戦でアメリカ独立戦争の火ぶたは実質上切られていましたが、公式の独立戦争開始は
もう少し後とされています。
6月14日に第二次大陸会議において正規軍(大陸軍)の設立が承認された時が
公式の開戦時だそうです。
      
この大陸会議は1775年5月10日に開始され、1781年3月1日までの期間中
開催状態が維持されました。

開戦の翌年の1776年7月4日に大陸会議は植民地の英本国からの独立を宣言しました。
バージニア州のトーマス・ジェファソン(後の第三代大統領)が宣言書を起草しました。

大陸軍の総司令官はジョージ・ワシントン(後に初代大統領となる)で、
彼もまたバージニア州の人でした。

戦場はボストン、ニューヨーク、ニュージャージー、サラトガ、ヨークタウンへと広がり
1783年まで続きました。




(ヨークタウンの戦いで降伏する英国将軍コーンウォリス)


だが1781年、ヨークタウンの戦いでアメリカ軍が英国軍に勝利したとき勝敗は実質上決していた
といわれています。
      
植民地軍は勝利したのです。
      

(次回から13章に入ります)


~26,27日は所用のため、更新が少なくなると思います~



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Vol.98「12章 独立戦争の種を仕込む」(5)~聖句主義者即座に大陸会議承認を声明~

2012年03月25日 | 「幸せ社会の編成原理」

  


印紙条例の十年後の1774年が独立戦争勃発の前年になります。
この年の9月5日から、植民地で初の大陸会議(First Continental Congress)が
開催されました。

連邦政府の前身です。
場所はフィラデルフィアのカーペンターズ会館でした。

会議は一ヶ月半、10月26日まで延々と続きました。
北米13植民地中の12議会から送られた56名の代表が議論を重ねました。

主要議題は、本国が課してきている「耐え難い法律(Intolerable Acts)」への対策でした。
会議は英国製品ボイコットなどの決議をし、第二次大陸会議を1775年5月10日から
開くことを決めました。

こういう会議開催の根回しは誰がしたか。
これまた直接的資料は筆者の手元にはありません。

だが会議開始の8日後、バプテスト教会ウォーレン連合会がこれを承認する声明を
速やかに出しています。
連合会はそこで、「大陸会議を植民地最高裁判所のようなものと理解する」との旨を宣言しています。

すると他のバプテスト連盟もこれに続いている。
一連の速やかな動きはバプテスト聖句主義者のプロデュース努力を示唆しています。

+++

教会連合会の声明は、米国では第二次世界大戦まではものすごい権威と影響力を
持ってきていました。
大戦中にもラジオを通してなされる連合会牧師の主張には、
大統領演説に匹敵する指導力があったといいます。

それを懐かしむ老人が米国に今日もいます。
現代日本でいえば、5大新聞と主要テレビ局が同一の論調を一斉に発信する以上の影響力
と思っていいかもしれません。

時は風雲急を告げました。







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Vol.97「12章 独立戦争の種を仕込む」(4)~印紙条例廃止運動が跳躍台に~

2012年03月25日 | 「幸せ社会の編成原理」

  
            
       

独立思想は植民地民衆に徐々に浸透していきました。
そして1765年に英本国が植民地に対して出した印紙条例が火に油を注ぎました。

これはイギリス本国が北アメリカの13植民地に出した法令で、証書・新聞・暦から
トランプにいたるまで,印刷物に印紙をはらせて税収を得ようというものです。

植民地側は「本国議会に代表を出してないのに課税はおかしい」と条例を廃止に追い込みました。
これで本国は植民地の行動を実質的にコントロールできなくなりました。
革命運動家はこれを独立気風加速の好機としました。

以後独立戦争が勃発するまでの10年間に、独立思想を訴求するビラやパンフレットが
爆発的に増えました。

それらの文書は創造的で活気に充ちた政治論争も誘発しました。
代議制政治や植民地同盟を論じた新聞論説もや小冊子も出た。
独立政府創出案を論じた文書が何百と発行されました。

そしてこれらは一般人民の意識をも急速に変化させていきました。

こういう思潮展開をバイブリシストは主導したのです。
これについても直接的に証拠づける資料はみあたりませんが、前述したとおり残るような
やり方をしていたら、本国政府の諜報員に察知され弾圧、粉砕されてしまったでしょう。

近代の人民革命が純粋な意味で自然発生することなどありえません。
もう成ったから言いますが、米国にいたとき筆者は南アフリカ人種差別の法律を全廃させる
闘争を仕込む作業を垣間見たことがあります。

革命は一定の人々がアンダーグラウンドで仕掛けてなるものなのです。



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Vol.96「12章 独立戦争の種を仕込む」(3)~劇場国家に独立思想を注入~

2012年03月25日 | 「幸せ社会の編成原理」

  
      
      

劇場国家のなかにいながら本国から独立しようという意識を強く持てる植民地人民は、
王家ドラマ以上に深く魅力ある世界観・人間観を詳細に抱いているものだけです。
そしてこの時代にこうしたイメージ世界を確固としてもてたのは聖句主義者をおいて
ほかにありませんでした。

彼らは独立思想を広める能力ももっていました。
植民地で本国からの独立をもくろむ情報活動をするのは国家反逆罪になります。
その中で思想を普及さすには、一定数の人々が全植民地空間に渡って地下で
草の根ネットワーク交信網を形成せねばなりません。
だがそうした交信網はすでに1200年間彼らは維持し続けていました。

さらにそれを通して配布する思想宣伝物作成のためにも優れた文書技術が必要です。
彼らはそのノウハウもアンダーグラウンドでの聖句吟味活動を通して培っていました。
これらがなかったら後の独立戦争において植民地軍兵士が25万名集まるような事態は
起きていなかったでしょう。

1764年にロードアイランド植民地で植民地連絡委員会
(Committee of Coresspondence)が開催されました。
ロードアイランドは前述のように聖句主義者の共和国です。
そこで掲げられた目的は「自由の精神を高めること」と、
「その諸手段を統合し一体化すること」でした。
これもバイブリシストならではのものです。
     
      +++
      
独立戦争の種を仕込んだのは、まぎれもなく聖句主義者たちだったのです。
かといってそれを明示する公式の実証資料はありません。
あたりまえのことで、そんなものが残るようなやり方をしてたら、運動はつぶされてしまったでしょう。

実証それ自体はとてもたいせつです。それは経験科学に確かさを増すための大切な手段です。
だが実証「主義」は少なくとも社会科学においては~おそらく自然科学でもそうでしょう~間違いです。
それは研究者の想像力と追体験力を萎縮させ劣化させてしまうのです。



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Vol.95「12章 独立戦争の種を仕込む」(2)~植民地も王家劇場国家の一部~

2012年03月25日 | 「幸せ社会の編成原理」

  

      
      
独立運動家は、まず植民地の人民に独立の理念を普及させねばなりませんでしたが、
これは並大抵のことではなかった。
ヘンリー8世からエリザベス女王、さらに後のビクトリア女王の治世の時代へと、
英国は繁栄の道を進んでいました。

余談ですがこれには聖句主義者の寄与したところまことに大きいものがありました。
バイブリスズムは国力隆盛の強力な推進源なのでして、
われわれは英国から後の米国への世界指導力の移動が、バイブリシストの居住地移動と
軌を一にしていることを見逃してはなりません。

がともあれ、英国はエリザベス時代には大国スペインの無敵艦隊を破り、
世界の海の制覇に踏み出し破竹の進撃を続けていました。
国民の王権への信頼も高く、それがアングロサクソン民族の愛国心と順法精神を高めていました。
     
      +++
      
その背景には英国王室のとった見事なアイデンティティ政策もありました。
当時の英国は、国全体が王家をヒーローとする劇場のようになっていました。
スターは王家のみであって、人民はこの情報だけを与えられてテレビドラマを見るかのように
一喜一憂していた。

アメリカ大陸植民地も心情的には本国の一部でした。
各地の広場や公共施設の前には、国王の銅像が建っていました。

教会におかれた祈祷書には、「国王にゴッド(創造神)の祝福がありますように」とのフレーズが
組み込んであって、人民がそれを毎週の礼拝時にとなえる仕掛けになっていました。
植民地人民も王家の人々を愛し、この人々の恩恵で自分たちは生活が出来ていると
信じ込んでいました。

欧州の王国は概してこういう国家アイデンティティ政策が巧みなのです。
互いに他国に隣接していることもあって、人心が国王に集結するように、
あらゆる事物を入念に仕掛けないと国家の一体性が弱まってしまう。
弱まると隣国が自国民を誘惑し始め、機を見て攻め込んでくるのですね。

英国ではこれがとてもうまくいっていて、アメリカ植民地の住民にも自分たちはロンドンや
シェークスピアを持つ王国の一員であるとの心情が潜在意識層に深く根付いていました。

独立などしたら英国国民としてのアイデンティティを失う。
そういう心理が彼らの心底によこたわっていました。

植民地におけるこの心理の広がりは、後の独立戦争における英国軍兵士数にも現れています。

英本国から来た兵士数が12,000名だったのに、
植民地住民でありながら英国側に属して戦った兵士は50,000名もいました。
彼らはトーリーとかロイヤリスト(王党派)という名で呼ばれていました。




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Vol.94「12章 独立戦争の種を仕込む」(1)~独立戦争とアメリカ革命~

2012年03月25日 | 「幸せ社会の編成原理」

  

      
      
この章では、バプテスト聖句主義者たちが独立戦争の種を仕込んでいく様と、
志ある非聖句主義者を運動に巻き込んで植民地軍を勝利に至らしめる過程を示します。
      
バージニア植民地で当初行われたような聖句主義阻止運動は、他のすべての植民地も行いました。
だが、いずれの地でも聖句主義者は迫害に耐え続け、教会を増やしていきました。

こうしてバプテスト聖句主義教会は全植民地的にも無視できない勢力になりました。
植民当初からしたら様変わりの事態です。

条件は満ちました。彼らは次の大目標に向かって足を踏み出します。
植民地の本国からの独立がそれです。

本国が植民地の独立を認めるなど夢にもありません。
戦によって勝ち取るほか無い。彼らは独立戦争の種を仕込んでいきました。
     
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アメリカ植民地の独立運動は日本では通常、独立戦争(War of Independence)と称されています。
だがアメリカではアメリカ革命(American Revolution)の語の方が一般的です。

独立運動というのは広範囲な活動によって成り立っています。
まず人民に独立の思想を普及させる。本国の監視をくぐって思想宣伝をするわけです。

機運が熟せば全植民地の連合政府を結成させる。
植民地が個々バラバラではことはおこなえないわけですからね。

そして武器を集めて軍隊を結成し戦をします。

アメリカ革命の語には、こうした一連の活動を総合的に見る視野が感じられます。
逆に運動のそうした本質が認識されていませんと、戦争にしか目が行かなくなります。

戦争は目立ちますからね。
日米のこうした呼称の違いは、あるいは両国民の政治的成熟度の差を
反映しているのかも知れません。



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