鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

<イエスの血と「いのち」の力>(8)『放射能時代への聖書的打開策』

2011年09月16日 | イエスの血の権能

  3ヶ月以上も「聖書の歴史観」のまま更新をしませんでした。
不思議なことが起きたからです。
以前には更新しないでいると、アクセスする人がどんどん減少していきました。
ところが「聖書の歴史観」では、アクセス数が減らないのです。

放射能問題が深刻で、歴史観によって気持ちが救われるからでしょうか。
聖書の知恵は、やはり、こういう現実の問題に効力を現すべきなのか、と思えてきました。

そこで今回もまた、現実問題への打開の知恵を述べてみます。
放射能というものへの、聖書的打開策を書いてみます。

話が長くなりますが、切れ切れにすると読みづらいと思い、
一気に掲載してしまいます。
読者の皆様の方で、疲れたら中断したり翌日に回したりして、お読みください。
間違いの指摘、コメント、感想、歓迎です。

右上に「文字サイズ変更」機能があります。
クリックすると、文字が大きくなります。
疲れたら文字の大きさを変えたりしてみてください。
では始めます。

                    

<近代物理学の発見>

『創世記』の冒頭に出てくる創造主による「創造のわざ」は、従来「無から有を生じさせるわざ」と解されてきました。
 だが、近代物理学は、もう一つの理解も可能にしてくれます。
そこでは「エネルギーと物質は相互転換関係にある」ことが明かされました。

「物質はある状態になると、エネルギーに転化し、エネルギーもまた物質に転化しうる」というのがそれです。

 アインシュタインはその量的関係をも発見しました。
 E=MC2 がそれです(2は「Cの2乗」の2です。ソフトの都合で、Cの右上に小さくなってくれません)。
ここでEはエネルギー、Mは物質の質量(重さと考えていい)です。
そしてCは光の速度です。光速はこんなところにも関与してくるんですね。

  砕いていいますと、物質Mが全部エネルギーに転換すると、そのエネルギー量は、物質の質量に光の速度の二乗を掛けたものになる、という。

 この具体的なイメージはどうかというと、はたとえば1グラムの物質を全部エネルギーに転化させます。
するとそのエネルギーは地下からマグニチュード6の地震をおこせるほどの力だということです。
だとしたら、我々人間の身体は、どれほどのエネルギーに相当するのでしょうね。

 とにかく、エネルギーと物質が相互転換関係にあるだけでなく、こんな簡単な数量的関係にあったのですね。
驚きです。

                    

<聖書でのエネルギー概念>

 聖書での創造のわざも、この理論を援用すると新しく解釈できてきます。
創造主は「エネルギーを物質に転化させた」という風に理解するのです。
エネルギーは力でもありますから、目に見えません。だから「無」と考えることもありうるわけです。

 では、そのエネルギーとは聖書では何にあたるか。
聖書ではエネルギーに当たる概念は鹿嶋の見たところでは「いのち」しかありません。
そしてその「いのち」をエネルギーのような概念に解すると、聖書の多くの場所が論理的に解されてくる。
そういうことから鹿嶋はこれを敢えて「いのちエネルギー」と称してきました。
従来の鹿嶋の聖書本はすべてこれで通してきました。

 ただし春平太はこれまでの著書では、このエネルギーを「霊に充電されて霊を活性化する」という役割に主眼を置いて述べてきました。
今回は物質と相互転化する、物質に転化して物質を創るという面の役割に主眼を置いて考えています。
他にエネルギーの概念が聖書に見あたらない以上、いのちエネルギーにはそういう役割もあるとみることになるわけです。
 
 さてそうすると、『創世記』冒頭における創主(そうしゅ。つくりぬしとよんでもいい)の「創造のわざ」は
「いのちエネルギーを物質に転化させた」と筋立てることが出来ます。
もうすこし詳細にいうと、「創造主は自らイメージしたところにあわせて、いのちエネルギーを凝集させて、
物質に転化させた」ということになります。
「ひかりあれ!」の光も、光子(こうし)という素粒子(物質)であることが近代物理学では明らかになっています。
われわれは物質に当たって反射する光子を網膜で感知して物質を視覚(知覚)しています。
創造主はいのちエネルギーを光子という素粒子に転化させたということになります。

                    

<核分裂の聖書的理解>

 物理科学にもどります。近代物理学では核分裂でもって熱を作るというのは、
原子核を分裂させてその一部をエネルギーに転化させる、ということになります。
これを他の熱作成法と比較して非常にわかりやすく説明した文章があります。

    http://www.minusionwater.com/konoyo.htm

    (動画は http://www.minusionwater.com/slideshowyoutube.htm

~がそれです。
吉岡英介という物理学者の文章で、核発電とその他の発電の違いを、わかりやすく示しています。
京都大の小出裕章氏とならんで、本物の学者とはこういう方をいうのだと感銘をうけています。
誤解を恐れずにいえば日本には偽物の学者がとても多いです。でもこんな人もいるんですね。希望がもてます。
本物の学者は研究対象に関する全体観を明確にもっています。

 上記のアドレスにジャンプすればわかるのですが、この吉岡氏は、
従来の発電は、本質的に、蓄積された太陽エネルギーを放出させて使うものだといいます。
だから、原子そのものには何の変化も起こしていない。
これに対して、核発電は原子を分裂させてそこからでるエネルギーを使う方法だ。
だから原子そのものが変質してしまう。そしてこれがもとにもどるには何十万年もかかる。
人間にはこれに対処する能力はないのだと説明しています。

 もう少し具体的にのべるとこうなります。原子は普通では簡単に分裂することはありません。
けれども大きな原子核をもっているウラン(ウラニウム)のようなものは分裂しやすい。
これは陽子を92個と中性子を143個ももっています。
こういう重量の大きいものはもともと不安定なんでしょうかね、この原子に外から中性子をぶっつけてやると核は分裂します。
そういうことを人為的にやるのが原子爆弾と核発電です。分裂を急速に起こさせると爆弾になり、
緩やかに起こさせていくと原発用の熱エネルギーになるということです。

 このようにしてウランが分裂すると、セシウムとヨウ素になります。
分裂の際、中性子とエネルギーを放出します。放出した分だけ、質量は減っています。
中性子の分だけでなく、エネルギーに転化した物質の分も減っています。
分裂によって残ったセシウムとヨウ素と放出した中性子の質量を加えたものは、もとのウランより質量が減っているわけです。
そしてこのセシウムとヨウ素が放射性物質になっています。

 こういうものを一旦作り出してしまうと、もう何十万年も元に戻らず放射能を放出し続けることになります。
この放射能は無色透明、無味無臭、人間の五感には全く感知できないという不気味なものであります。
そしてそれは生き物の組織を破壊するのです。

                    

<聖書的意味での「完全」>

 これは聖書的にはどう解されうるでしょうか。
これにはまず被造物に関する「完全(whole)」という言葉、聖書にあるその思想を知らねばなりません。
聖書で言う被造物の「完全」状態は、創造主によって創られた状態をいいます。
人間は人間として完全なものとして創られた、犬も犬として完全に創られたという思想です。

人が病気になった状態は、それが完全でない状態と考えます。回復すると創造されたときの完全な状態に戻ったと考える。
たとえば「イエスが私にタッチして病を癒してくれた」ということを"Jesus touched me and made me whole"といいます。

 その思想で行くと原子も原子として完全なものとして創られた、ということになります。
その完全はそれ自体として存続できる状態であることをも意味しています。
聖書での被造物の「完全」とは基本的にはそういう概念です。

                    

<放射性物質の聖書的特質>

 そこでウランを核分裂させて出来たセシウムとヨウ素について考えてみます。
これらは分裂によって生じたもので、本来の完全な状態はウランです。
だがこれら二つを結合させてももとのウランには戻りません。分裂の際エネルギーと中性子を放出した結果、
もとのウランに戻るには少なくともエネルギーが不足になっているのです。

 これを聖書の、完全、不完全という概念に当てはめるとこういうこともいえます。
すなわちウランはエネルギーが人為的に強引に放出させられたことによって不完全状態になった。
そして被造物は創造された完全な姿に戻ろうとするのではないか、と。

そうであればセシウムもヨウ素も「いのちエネルギーを渇望する状態」になっていると考えられます。
これはまた「いのちエネルギーがマイナスになった状態」と考えることも出来ます。
両者共に完全に戻ろうとして常時いのちエネルギーを渇望するマイナス状態になっていると考えられるのです。

 そうするとこれらは接するもの、近づくものから「いのちエネルギー」を奪取しようとします。
もしも十分に吸収できるならば、いのちエネルギー不足から回復して安定的なエネルギー状態になれるでしょう。
ところがその欠乏状態は深淵で、吸収すれどもなかなか完全復帰は出来ない状態にある、と考えられるのです。

 そうなると「いのちエネルギー」を吸収される方はどうか。こちらは吸い取られていのち不足に陥っていきます。
生物の場合にはいのちエネルギー不足になれば、その身体を構成する物質は「まとまり力(一体性)」が希薄になって病気になります。

 さらに激しく吸い取られれば、身体を構成する物質はまとまりを大きく失ってバラバラになります。
この状態が日常いうところの「腐る」ということです。
腐るというのは、有機物が「まとまり(一体性、ユニティー)」を失って崩壊するということです。

 そしてこういう働きをする「不完全」物質が科学でいう放射性物質に対応していると考えられます。
科学でいう放射能とは、聖書的には「マイナスのいのちエネルギー」であり、「いのちエネルギー奪取力」ということになります。

                    

<放射性物質に類似の霊的存在>

 核分裂を起こさせるというのは、聖書的には完全なものとして創造された物質(原子)を不完全なものにするということになります。
これはある意味で創造主の創造のわざに反逆することでもあります。
 
 そしてこの人為的に作られた放射性物質と極めて似た性質を持った霊的存在が、聖書には登場します。
悪魔がそれです。これもまた無味、無臭、無色透明であります。

 

 

筆者は『誰もが聖書を読むために』(新潮選書)に「いのちエネルギー図」を示しました。
このブログにも以前引用しました。もういちど示しますと、図のようになります。

これは「霊のいのちエネルギー充電度」を総合的に示す図です。
聖書では、「いのちエネルギー」は霊に充電されるると霊に生命力を与える力、という思想になっています。
霊は「いのちエネルギーの充電式電池」のような存在でもあるわけです。

図の横軸は時間で、縦軸はいのちエネルギーの値です。横軸と交わったところがいのちエネルギーゼロの点です。
それより上がプラスのいのちエネルギー、下がマイナスのいのちエネルギーです。
どちらも最高値は100%で、上がプラス100%、下がマイナス100%です。
いのちのマイナスのエネルギーとは、すなわち「死のエネルギー」ですから、
下限の値は「死のエネルギー100%」ということでもあります。

 横軸の左の端は、「はじめのアダム」の霊の「いのちエネルギー充電度」を現しています。
アダムは当初は創造主に完全に意識を協和させていましたので、
創造主から放射されるいのちエネルギーを完全に充電し続けていて、その充電度は100%だったわけです。

 だが、愛しい妻のイブが悪魔にだまされて「知恵の実を食べるな」という命令に従わないで、
つまり、創造主から意識をそらして食べてしまって充電度が落ちてしまった。
そしてアダムはイブと同じように食べて自らの霊をも不完全充電にしてしまうのでした。

 以後、アダムの子孫が現代の人間ということに聖書ではなっています。
そして霊の資質は父親を通して遺伝するというのが聖書の思想です。
だから、その後の「一般人類」は不完全充電で、さらにアダムの霊の不完全度よりもっと落ちた状態に来ています。
それが図の横軸の中央あたりにある「人間」の状態です。

 さてサタン(悪魔)です。
彼は元々は天国で創造主の名を賛美する職務を与えられた天使だった。
天使は作られた霊、造霊です。だからやはりその霊はいのちエネルギー充電池の役割を果たしています。
ところが彼はあるとき、自分も創造主のようにその名を賛美される存在になりたいと望み、与えられた職務を放棄します。
そして自分の部下の天使に天国の一角で自分を賛美させます。

 これは強烈な行為です。アダムのように創造主から「意識をそらした」なんてものではない。
それをこえて創造主に「対抗」しています。そうなると充電度がゼロに向かって落ちていくなんてものでは収まりません。
ゼロを通りすぎてマイナスにまで行ってしまいます。
悪魔はもう完全に対抗しますので、そのエネルギーはマイナス100パーセントです。

 そして「いのちのマイナス」とはすなわち「死」でもありますよね。いのちの反対は死ですから。
だから悪魔は「死のエネルギー」を100%もっているといいうことにもなる。
これは「サタンは死の力を持つもの」という聖句(ヘブル人への手紙、2章14節)に符合しています。

 だからサタンは他者のいのちエネルギーを吸い取ろうとします。もう本性上、行動はそれのみとなります。
だから人間をただひたすら破壊しようとする。哀れみも何もありません。
 悪魔の配下にいて彼に従った天使も同じです。これは聖書では「天の諸々の悪霊」と記されています。
彼らもまた死のエネルギーをもっていて、他者のいのちエネルギーを吸い取ろうとします。
吸い取られれば人はいのちエネルギー不足に陥って、病気になっていきます。
これ、放射性物質と同じ性質です。

                    

<「この世のものでない」とは>

 そして放射能は、無味、無臭、無色透明で五感では感知できません。
松本道介というドイツ文学者は、上記の吉岡氏の理論を踏まえてと思われる論評で、放射能を「この世のものでない」と表現しているそうです。
まあ、これが聖書の論理体系を知らずに文学的感性でもっていえるところのめいっぱいでしょうね。
 
聖書ではそれは悪魔の性質となります。
聖書的には人間の肉体にとって、このサタンの働きは、放射性物質の働きに酷似しているのです。
放射性物質が増えていくというのは、霊的存在である悪魔と同じ性質ものが物質世界にも蔓延していくということでもあります。

もしかしたら、人間が核分裂を実施に移したのは、悪魔の誘導によるのかも知れません。
だとしたら脱原発の道は、人類にとって予想以上に険しい道になりそうです。


                    


<放射性物質への聖書的打開策>
 
 その放射性物質は福島原発によって、地球上に広範にまき散らされてしまいました。
偏西風によってハワイにもカリフォルニアにも到達し、米国でも放射線量の増加が測定されています。
いまや人間は放射能という、無味、無臭、無色透明な悪魔的な物質の中で暮らさざるを得なくなりました。
もう後戻りは出来ません。

 おまけに、事態の本質を理解できずに、いまもなお、核発電を続行しようとしている社会的有力者がたくさんいます。
世界でもダントツの地震国日本では、昨今地震の発生頻度が加速しています。
地震でなくともフランスで使用済み核燃料が爆発しました。
日本でまたどこかの核発電施設が爆発するかも知れません。
地震は人間の想定内か想定外かなど無視してやってきます。

 これに対する打開策は、科学にはありません。だが、聖書にはあるのです。「イエスの血」の力がそれです。


                    

<イエスの血といのちの川>

この「イエスの血の力」シリーズで鹿嶋は、イエスの血は「いのちエネルギーの凝縮体」と解してきました。
イエスは自らの身体からその血を、この地上で大量に流していきました。
 そしてこの「いのちの凝縮体」には、天の創造主王国においては「いのちの川」が対応していると解しました。
するとそこにはいのちエネルギーが地上からしたらほとんど無限に存在していることになります。

 ホワイト師は『イエスの血の力』(オアシスクリエイト刊)で、
人間が信頼を持ってイエスの血を乞い求めたら、それが降りてくるとも解釈できる事例をいろいろ記しています。
いのちエネルギーが大量に降下したところでは、放射性物質のもつ死のエネルギーは相殺、中和されてしまうはずです。

 チェルノブイリの危険地区の中で、放射能が全く測定されない地域がテレビで放映されました。

ベラルーシにあるブジシチェ村というところだという。村で湖の水を調べても、放射能は全く検出されないといいます。
そしてそこはイエス(創造主)信頼(信仰)が顕著に深いところだとも報道されています。

 これは聖書のいのちエネルギー論理によって説明が可能です。
不完全なる被造物(放射性物質)がいのちエネルギーを注がれることによって、
再び完全化され放射能を発しなくなっていると解せるのです。

 放射性物質は、10万年たってももとに還元されることはないといわれます。科学の知識ではそうなります。
だが、聖書には独自な対応策が読み取れるのです。

創造主信頼をベースにして、「イエスの血!」を乞い求めることがそれです。
これによって天の「いのちの川」からいのちエネルギーが降下すれば、物質は完全化し問題は解決するのです。

 それは個人の各々に対しても実現します。
愛するものが放射能による病に陥ったら、「イエスの血!(blood of JESUS !)」を連呼しましょう。

 地域全体の放射線量を下げようと思えば、その住民がみんなで「イエスの血!」を祈り求める。
信じる人も信じない人も、他に方法がないからそうするしかないのです。
 
 そして祈りが聞かれしるしが現れたら科学的には「奇跡」となり、聖書的には客観的な事実となるのです。

(完)

                    

 

 

 

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<イエスの血と「いのち」の力>(7)『聖書の歴史観』

2011年05月28日 | イエスの血の権能


  ここで鹿嶋が当面理解している聖書の歴史展開の思想を示してみましょう。
(解読の詳細は、鹿嶋『誰もが聖書を読むために』新潮選書、を参照してください)

少し長くなります。 (右上に「文字サイズ変更」機能があります。
クリックすると、文字が大きくなります)

                    


1,まず創造神だけの無限界(無限の過去より存在する、無限の広がりを持った空間世界)がある。

2、創造神、天国(創造神が王として統治する王国)という被造空間をつくる。

3,天国が聖霊(創造神の霊)で満たされる。
  
4,天国の一角に「神の名」が置かれる。
 
5,天使を造ってそれを礼拝させる。

6,天使の一部が悪魔・悪霊に変容する。

7,創造神の無限界に霊イエスが出現する。

8,イエス、統治の全権を持って天国に入り、暗闇(宇宙)を創造し、天使に命じて悪霊達をそこに落としこむ。

9,イエス、暗闇(宇宙)を膨張させその中に天地を創造する。

10,ついでアダム、イブを造り、エデンの園に住まわせる。

11、アダム、イブ、創造神と協和する意識を維持し幸福そのものの生活をする。

12,アダム、イブ、「あなたも神のように賢くなれる」とサタンに誘惑される。

13、アダ、イブ、創造神と協和する意識失い、エデンを追われ「呪い」の下の生活にはいる。その子孫が、今の人類である。

14,旧約時代(救い主の到来を待つ時代)が続く。

15,新約時代(イエス出現以降の時代)が来る。

    イエス、「人の子」となって世(宇宙)にきて、人間の罪の代償として十字架にかかって死ぬ。
    創造主、三日後にイエスを復活させる。
    イエス、福音(イエスの十字架死が人の罪の代償だと信じると救われるという知らせ)を
          地の果てまで宣べ伝えよとの命令を弟子に下し、天にのぼる。

16,弟子達が福音を宣べ伝え、でキリスト教会が生成・発展する。

17,今の時代ーーー世界に福音が述べ伝えられている時代。

18,将来ーーある時、地上に七年間の大艱難が発生し空にイエスが再臨する。

19,イエス、天使に命じてサタンを「底知れぬ所」に閉じこめ、
    地上に降りてきてそこを楽園とし、千年間統治する(千年王国)。

20,イエス、サタンを解放し宇宙を焼却してしまう。

21,イエス、これまでのすべての人の霊を裁き、永遠の天国行きと、火の池行きとに仕訳する(最後の審判)。

22,イエス、すべての仕事を終え、創造神の無限界に帰る。

 

                     

  

 聖書解読は人によって差が出るものですが、細部はともかく流れの大枠はこうでしょう。
聖書の世界観・歴史観は無限大の空間と時間を踏まえた上で述べられています。
だからあるときそれ以上に視野が広まって変化するということがない。
極めて安定的なものです。

 安定的な歴史観は知っているだけでも、これを絶対と信じていなくても、
人の知性に新事態をそのなかに収容することを自然にさせるのです。
だから普段においても安定した心で人をいさせるのです。

                    

 人は生きていく過程で次々に未経験なことに直面します。
なかにはどう受け止めたらいいかわからなくなるような事件もある。
原発に関わる昨今の出来事はまさにその例でしょう。

  福島原発事故で原発は安全どころか極めて不安定なものだとわかった。
そしてそれがこの小さな日本列島に54基もあると知らされた。
使用済み核燃料も危険がなくなるまで何万年もかかるという。
その状態でこの十年来地球上の地盤は活動期に入り、大規模地震の頻度が急増しているという。
既成の原発すらもう個々人の力ではどうにもなりません。

                    

 まともに考えたら心はパニックになり混迷状態が続きます。
だがそうしたとき事態を所定の場所に位置づけることの出来る安定的な世界観・歴史観があると、
途方に暮れ続けるだけでなくなります。
聖書の歴史観は、日常の感覚では奇想天外といえそうなイメージも含んでいますが、
予想もしなかった大惨事はこういうストーリーでないと収容できないのです。

 現在の放射能散布と将来起きるかも知れないさらなる事故と放射能災害も
「七年大艱難の始まりかも知れないなあ」と心に収納することが出来る。
「だとしたら次いでイエスが空中再臨し、至福の千年王国がくるかも」とイメージに納めることが出来る。
すると人の心は現実の事態を放念することなくして現実を直視すること、
とるべき行動を比較的知的に定めていくことが可能になるのです。

                    

 知ってるだけの人にもそれだけの効能があるのですから、
聖書を真理の書として信頼している人への効能は巨大でしょう。
こういう人は「地球上が放射能だらけになるとしても、次はイエスの再臨で自分の身体は
一瞬に変容して携挙(空中にあげられること)されるのだ」と確信していてびくともしない。
そこに信仰の力というものを見ることが出来ます。


                    

 

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<イエスの血と「いのち」の力>(6)『世界観・歴史観の力』

2011年05月12日 | イエスの血の権能

 
  聖書が提供する世界観・歴史観が今の我々の心を安定させてくれる、その効用について述べます。
「イエスの血」から離れるようですが、のちにつながっていきます。

                    

 原発と放射能情報について考えつづけています。いまほど、ネットの情報とマスコミの情報とが乖離している例は少ないでしょう。
すごいですよ。両方見ていたらわかります。

ネットでの識者の情報は事態の深刻さ、危険さを伝えるのが主流です。
テレビや大新聞は逆です。「放射能は大したことない」を繰り返しています。

もしネット情報が事実であって、関東圏全域が暮らすには危険だとしてもマスメディアはそれは報道しません。
人々は実際にその地(東京も含めて)で、生活し、働いて食を得ています。このシステムから離れるわけにはいかない。
そんなところにどうして恐ろしい情報を報道できましょうか。

 こうした状況に置かれた日本人のとる行き方は二つになるのではないかと思います。一つは精神の強靱なリアリストです。
彼らは「そうであっても我々はここで生きるしかないでしょ」と覚悟して暮らすことになるでしょう。
「将来のことは、そのときのことだ」と開き直るのです。まさに「覚悟」ですね。

第二は一般の庶民です。彼らはそれほど精神的が強靱ではありません。
そこで、マスメディアの「大丈夫だよ」という情報だけを信じて暮らします。情報乖離はおきるべくしておきるわけです。

                    

けれども、一般人が事実を直視しても精神がやられにくいようにしてくれる道具もあります。
それは事実を心に収容させてくれる世界観・歴史観です。
これがあると人は事態をその中に位置づけ、理解して心に納め、心の安定を得ることが出来る。

聖書にある次のような聖句は、一つの歴史観を供給してくれます。 
 
                    
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・   
   「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、大地震があり、方々に疫病やききんが起こり、
・・・・(中略)・・・・・地上では諸国の民が海と波が荒れどよめくために不安に陥って悩み、
人々は、その住むすべての所を襲おうとしていることを予想して、恐ろしさのあまり気を失います。
天の万象が揺り動かされるからです。
そのとき人々は人の子(イエス)が力と輝かしい栄光を帯びて雲に乗ってくるのを見るのです」
                  (ルカによる福音書、21章10~2節) 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                    


   これはイエスの言葉で、いわゆる7年間の大艱難とそれに続くイエスの再臨を述べたところだと解釈できます。
そして、これに続いて地上に至福の千年王国がやってくると解せられる聖句もあります。
これらが一つの歴史観を形成してくれます。

 当初の悲惨な歴史展開は平和な時代の我々の感覚からはなかなかイメージできません。
ダイナミックで、奇想天外でもあります。
だが、いまの福島原発に懸念されている恐怖の事態は、こういう歴史展開イメージの中になら、収まってくれます。

                    

 北関東で大地震がありました。そして原発設備の崩壊と放射能の空と海へのの放出がいまも続いています。
 これが続けば多くの土地と水が汚染され、飲食する物がなくなります。
食べるものを確保すべく、民族は国外に出たり手を出したりするでしょう。

 そして他の国においても、大地震と原発の崩壊が起きれば、その民族も同じことをする。
そうなれば、食物をめぐっての戦いは必然的です。
また、放射能の影響で従来にない疫病の流行があるかもしれません。人類の三分の一が死ぬとも記されています。

                    

  しかし、それらは万物の創造主が計画されたことであって、
その後にイエスが空に再臨し、地上に降りてきて千年王国を実現する、という計画もあるという歴史観を
心に抱いていたらどうか。
 いまの出来事も、これから起きるかもしれない悲惨なこともその中に位置づけて理解することが出来ます。
そうすれば心は整理されます。その分心が安定します。
悲惨な出来事を収納する歴史観が何もなかったら、ただただ恐ろしい出来事の情報に翻弄され、心が大きく乱れるのです。
乱れるから、もう現実は見ないようにしよう、とするしかなくなるのです。

                    


 「この世界観は絶対に正しい、その歴史展開は100パーセント起きる」と信じなくても、それは我々の心で力を発揮します。
そもそも一つの歴史観を絶対に正しいと信じることなど人間には出来ません。
こういってある牧師さんにたしなめられたことが鹿嶋にはありますけれども
「信じます! 信じます!」と叫んでも、百パーセントにはならない。
7割とか8割とかの確率で信じているのです。(「できないのに自分は百パーセント信じてると思ってしまう」これが狂信です)

確率で信じていても
その歴史観は一つの仮説となって、怖い出来事もしかるべきところに位置付けてくれるのです。

                    

                    

 

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<イエスの血と「いのち」の力>(5)『地震と放射能と「いのち」について』

2011年05月08日 | イエスの血の権能


                    

放射線物質の予想外の拡散と、世界および日本における原発の驚くべき実態を知ってしばらく考え込んでおりました。
前回まで四回に分けて、イエスの血について書きました。
ポイントは「人間の血はいのちエネルギーの液体充電池」であり、
「イエスの血はいのちエネルギーの凝縮体」という解釈にありました。

これと放射能とはどういう関係にあると解されるか、考えこんでおりました。

                    

福音の骨子は「いのち」の方程式にある。いのちは物理学におけるエネルギーのような概念で、
これを「いのちエネルギー」と言い換えてもほとんどその論理は理解できそう、というのが鹿嶋の従来からのアイデアでした。
これを用いて、「人間の血はいのちエネルギーを充電されて身体各部にいのちを運び、その運動を保っている」と解しました。

「イエスの血はいのちエネルギーの凝縮体として、あらゆる癒しの源にもなっている」のであって
「これを乞い求めればすべての病の根源に対処できる」のではないか、とも考えました。

病の根源は「死」エネルギー、すなわち「マイナスのいのちエネルギー」です。
これに大量の(プラスの)いのちエネルギーがぶつけられたら「死」は圧倒され追い払われて病はいやされることになる、
と理解していました。

                    


 ではそれと放射能とはどういう関係にあるか。これがもつ人間という生命体の細胞を破壊する力と、いのちエネルギーの関係とは?

むずかしい問題です。
ヒントはあります。それはいのちエネルギーは創造主が物質を創造するときの素材でもありそうというアイデアです。

物理学で「エネルギーと物質とは相互転換する」ことがあかされている。
だから1グラムの物質にもすごいエネルギーが込められている。
これを分裂させてエネルギーを出すのが核分裂の手法なのでしょう。

 創造主はその逆のことをして物質を創造している。人間の身体も創造している、と理解できます。

 その物質を核分裂させてエネルギーを放出させると、エネルギーが不足して安定状態になくなった物質が出来るのか。
それが放射性物質なのか。それは生命体のいのちエネルギーを吸収し奪い取ってしまおうとするのか。

いま少し、考えようと思います。聖書の言葉にはすべてをあかす知恵があると信頼して。


                    

 

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<イエスの血と「いのち」の力>(4・・・最終回)『天の「いのちの川」も呼応する』

2011年03月29日 | イエスの血の権能

 「イエスの血の権能」最終回です。
 (右上に「文字サイズ変更」機能があります。
クリックすると、文字が大きくなります)

                    

イエスの血の主要なところは、天の創主王国における「いのちの川」に流入していると前回解読しました。
そしてこれは地上と呼応していると鹿嶋は考えます。

イエスの血を求めると、大きな問題にはいのちの川の「いのち(血)」が祈りに呼応して瞬間的に天国より下ってくる。
それはいのちエネルギーの凝縮体となって嘆願者の祈り求めるものを覆う。こう考えられます。

                    

<地上で繋ぐものは天でも>

 それを鹿嶋は聖書の次の思想から推定します。マタイ16章19節にイエスの次のような言葉があります。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「私は君(ペテロ)に天国の鍵を与える。貴君が地上で繋ぐものはすべて、天においてもつながれている。
地上で解くものはなんでも天においても解かれている」(マタイによる福音書、16章19節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 この言葉は次のような背景のもとにイエスの口から発せられています。
イエスは宣教の途中で弟子たちに「諸君はわたしを誰だというか」と問いかけました。これに対して弟子のペテロは~

「あなたは生ける神の子キリストです」と答えます。右のイエスの言葉は、これを受けて語られたものです。
「繋ぐ」とか「解く」というのは抽象的な言葉ですね。それ自体の意味を解読するには神学的考察がしっかりいるでしょうが、
ここではその問題はスキップしておきましょう。

そうしておいてこのイエスの言葉をみると、そこには「地上のものと天国のものとが呼応する事がある」という論理を読み取ることができます。
 ですから、ペテロのようにイエスが創造主の子で救い主だと心から信ずる者の言動のある部分には天でも呼応がなされる、と考えられます。

                    

<天のいのちが降りてくる>

 そこで「イエスの血!」と天に向かって願い叫ぶと、大きな問題の場合は天のいのち凝縮体が瞬時に降りてきて嘆願者を覆うと考えられるのです。
そうした意味で、信じるものには「イエスの血(いのちエネルギーの凝縮体)」は
実質的には遍在(何処にもあまねく存在)することになりますね。

 いのちエネルギーは栄光という究極の光をも発します。その光は悪魔の持ち物である闇に打ち勝ちます。
いのちは死にも打ち勝ちます。そうやって悪魔のわざをも追い出します。

                    
(「人間は悪魔の敵として創られた」というのは聖書論理の大前提です。これを軽視したら真の福音理解はなりません)
                    

 いのち凝縮体は悪霊を追い出します。肉体のいのちを増幅し、病を追い出して癒しをもたらします。
目に見えない悪魔の攻撃をブロックします。その一端を外から見た人間はそれを「奇跡」というわけです。

 どうも福音に力をもたらす実体は、イエスの血だったようです。
この世に肉体をまとって生きている人間にとって、「イエスの血」は奇跡を呼ぶみなもとだったようです。
前述の『イエスの血の力』の著者ホワイト師はこういっています。

                    
 「祈り、賛美、礼拝、静かな時・・・それらはみな創造主に近づくための手段であって、血の代用とはなりません。
腐敗に効く惟一の特効薬はイエスの血なのです。
だからこそ、サタンはなんとかして教会から血の教えを取り除こうとしてきました」(89頁)
                    

 鹿嶋はその「血」の論理を自己の聖句解読(神学理論)に入れてきませんでした。
真の福音は権勢を伴うべきものと思いながらも、実体験が得られなかった。宣教活動に力が伴わなかった。
反省したときから少しずつ状況が変わってきた感触があります。

                                                (完)

                    

 

 

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<イエスの血と「いのち」の力>(3)『イエスの血はいのちエネルギーの凝縮体』

2011年03月27日 | イエスの血の権能


 「ヨハネ伝」はイエスの身体(肉と骨)は「創造主から出た言葉(思いが凝縮したもの)」からなったものだといっています。
これが神学でいうインカーネーション、すなわち肉化だということは、前回に述べました。

                    

 そうするとイエスの血はどうなるでしょうか? 
これは難しいですよ。聖書にはこれに関する直接的な記述はありません。これには神学的思考が必要です。

 聖書の論理には創造主の言葉にはいのちが伴うという鉄則があります。そのいのちが血に対応すると考えられる。
つまり創造主から出た「いのちエネルギー」が液状形態をとったのがイエスの血と考えられるわけです。

 血液の様態をとったいのちエネルギーですね。これがイエスのとっている肉体の中を流れて肉体にエネルギーを供給した。
そしてその実体は、人間の血のような充電式液体電池というエネルギーの容器ではない。
そういう「物質」ではなくいのちエネルギーそのものである。
ですから霊に蓄積されたいのちによって「充電」される必要はイエスの血の場合にはない~そう考えられます。

 創主の言葉がイエスの肉体の様態を採っているあいだは、イエスの血は骨肉にいのちエネルギーを供給し続けました。
だがイエスの肉体が死んで復活して、再び霊イエスになると
その霊体にはもういのちエネルギーを供給する必要は無くなったと考えられる。

 その役割がなくなると、イエスの血はどうなるか。
それは凝縮したいのちエネルギーとして独自に存在し続けるという道理になるでしょう。
それは人間の血のように、消滅してしまうことはない。
人間の血は液体充電池という物質ですから、身体から流出したらひからびて雲散霧消してしまうのですが、
イエスの血はエネルギーそのものですから不滅です。エネルギー不滅の法則に則って存在し続けることになります。

                    


<イエスの「霊体(言葉)と血」は地上にも>

 ではそれはいまどこにあるとかんがえられるか。
イエスの身体は肉体から霊体(ロゴス)となって復活し、天の創主王国に昇りました。ですから今、天の創主王国にあります。

だがその一方でイエスは自らの言葉をこの地上に遺しました。
この言葉はロゴスであり霊体ですから天におけるイエスの霊体(ロゴス)に呼応しています。

 では血(いのちエネルギーの凝縮体)はどうだと考えられるでしょうか。血は肉体に伴うものです。
だから、その主要なところはイエスの霊体と共に天の創主王国にのぼったと考えるのが自然です。

では天国でそれはどういう状態にあるか。
それは黙示録の次の聖句における「いのちの川」に流れ込んでいると鹿嶋は推察します。


                    

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 「御使いはまた、私(ヨハネ)に水晶のように光るいのちの川を見せた。
それは創造主と子羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。
川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。
また、その木の葉は諸国の民を癒した」(黙示録、22章1~2節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

~がその聖句です。

                    

 けれども全ての血が天に帰ってしまったのではない。
他方においてイエスは、この世で大量の血を身体から流出させました。これはそのまま地上に留まっていると考えるべきでしょう。

  『イエスの血の力』の著者、マクスウェル・ホワイト師はその書の中で次のような事件を書いています~

 1945年に夫人が熱湯化したオートミールを誤って腕の肘にかけひどいやけどを負いました。
生まれたばかりの三男を風呂に入れられなり、激痛の中で「イエスの血!」を数回唱えました。
すると数分後に激痛は消え幼児を風呂に入れられるようになった。そして夕方には痕跡さえ消えていた~と。

 これはこう理解することもできます。
地上で信じるものがイエスの血を叫び求めると「地上で流され地上に残されたイエスの血」が嘆願者のやけど部分を覆った。
イエスの血はいのちエネルギーの凝縮体ですので、それがいのちを与えたちどころに癒しが実現した~と。

さらに大きな問題には、天の創主王国からいのちが降下してくるとおもわれます。それについては次回に考えます。

                      

            

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<イエスの血と「いのち」の力>(2)『「イエスの肉体」の特性について』

2011年03月26日 | イエスの血の権能

では、イエスがこの世でとっておられた肉体における血はどうなるか?
 これは人間の血の論理とは全く別物になります。聖書の思想ではイエスの血は、人間の血と大きく異なっているのです。

                    

  イエスの血の特性をつかむには、まずイエスがこの世でとられた肉体の性質についての聖書の思想を知ることが必要です。
そしてそれには前段階として、聖書における「肉(肉体)と血」の概念をつかんでおくことが大切です。
 聖書では肉とは、血以外の全ての要素を意味しています。つまり、肉、骨、臓器等々の全てです。
そして血とは、それらに「いのちエネルギー」を供給するものとして、別個に考えられています。

 その上でイエスの肉体を考えましょう。この実体について明確に述べたのは使徒ヨハネです。
彼が「ヨハネによる福音書」を書き始められたのは、イエスの肉体に関する啓示を聖霊から受けたからです。
鹿嶋はこのブログでの「ヨハネ伝解読」を始めるに当たり、そのことを述べましたが、そのいくつかを要約してもう一度ここに示してみましょう.
引用部分は『 』で示します。Vol.の次の番号は、「ヨハネ伝解読」における記事番号です。



                    

  Vol.6(2004年11月13日)
『ヨハネ伝19章に次の記述があります。
イエスが十字架にかけられたとき、ヨハネはその下に、イエスの生母マリアとともにいます。
死んでいくイエスをじっとみています。死んだイエスの脇腹を、ローマの兵士が槍で突き刺します。「するとすぐに血と水が」出ます。
 ヨハネは、それを記してすぐに、次の文を追加しています。
(それを観た者が証言をしているのである。あなた方が信じるためである。
彼が言っていることは真実である。彼自らが、自分の言っていることを真実だと知っているのだ)と。

 「それを観た者」とか「彼」とは、著者であるヨハネ自身のことです。
これほどに重ね重ね「私は自ら観たのだ。これは真実なのだ・・・」とヨハネが言うところは、他にありません。
ここは異例にくどい。どうしてでしょうか。

 ヨハネは、この「血と水が出た」という事実のなかに福音の神髄をみるからであります。
だから、この事実を読者がいい加減に読んだり、あるいは「まさか・・・」と思うような解釈をしたのでは、もう核心が明かせないと思うからであります。
 それ故に彼は、自分が間違いなくみたのだ、と繰り返すのです。
また、それは自分がみたものに関して、確認を繰り返していることでもあります。
「あれは夢ではない、幻想ではない。私は間違いなく血と水が出たのをみたのだ」と。 
彼は、そう自らの認識を確かめているのです。
なぜ、血と水が出たのか。ヨハネ伝は、それに対する答えから始まります。その答えとは、有名な「はじめに言葉があった」(1章1節)であります。』

                    

Vol.7(2004年11月13日)
『 =聖句=
 「初めに言(言葉)があった。言は創主と共にあった。言は創主であった」(1章1節)』

                    

  言葉というのは「思い」の凝縮したものです。
そして思いは聖書用語では「霊」です。創造主のことばとは創造主の「思い」の凝縮したものであり、創造主の霊(創造霊)です。
これが御子イエスの実体だったということをヨハネは「始めに言葉があった・・・言葉は創造主であった」と記しています。
そしてこの創造霊が霊イエスとして宇宙とその中の全てを創造した、との霊感を受けてそれをそのまま記しています。

                    


Vol.17 (2004年11月27日) 『ヨハネは続けます。

「すべてのものは、この方を通して創られた」(1章3節)

 聖書の物語に出てくるすべてのものは、御子イエスを通して、創主が創られた、とヨハネは悟っていったのです。
このばあいの「すべて」は、この世、宇宙の中にあるすべてのものです。
(聖書には、この宇宙を超えた存在、天の王国、というのもあるという思想です。このあたりは、「KINGDAM原理からの聖書解読」のカテゴリーをご参照下さい)

 この場合のイエスは、身体を取ってこの世に来る前のイエス、すなわち、霊としてのイエスです。
 御子(みこ)をとおして、というのは、イエスが父なる創主のエネルギーを受けて自ら創造していった、と解していいでしょう。
子は父の財産を相続します。イエスは~

「あなた(父なる創主)のものは、みな、わたしのもの」(17章10節)

   ーーーといっています。
だから、この世も本来はまた、御子イエスのものなのです。
そして、彼は、人の姿をとって、本来自分のものであるところの、この「世」に来た。ところが「世」はそのことを認知しなかった。
しなかっただけではなく、本来の所有者であるイエスを人々は受け入れなかった~とヨハネはのべています。

 「彼は世にきていた。そして、世は彼をとおして創られたにもかかわらず、彼を認知しなかった」(1章10節)

 「彼は自分のところに来たのに、自分の民は彼を受け入れなかった」(1章11節)』


                    

 話は前後しますが、イエスの肉体についていま少し詳細にみてみましょう。

Vol.10 (2004年11月13日) 
『ヨハネにとって、最後まで残った疑問は、一体、主・イエスの身体とは何なのだ、ということでした。
この疑問は、後年まで残ったと思われます。そして、ある時ヨハネの意識に、天啓のごとくにひらめいた答えが、ロゴス(言)の肉化だったのです。
「そうだ、あの方の身体は、創主から出た言葉が肉体化したものだったのだ」と。
生母マリアの胎(子宮)のなかで育ったといえども、人間の身体と同じ物質で出来ていったものではなかったのだ、と』


                    


  宇宙とその中の全てを創った霊イエスが、乙女マリアの胎に宿って人の姿をとった。
これが「人の子」イエスです。これに神学では「肉化」という概念を与えています。
英語ではインカーネーション(incarnaion)です。だからイエスの肉体は人間の肉体とは本質的に別物という思想なのです。

 ヨハネは十字架上のイエスの脇腹をローマ軍の兵士が槍で突いた時、血と水が出たという謎を考究し続けました。
その結果イエスの肉体は創造主のことばが肉化したもの、との解に至りました。

 そのことが、イエスの「私の肉を食べなさい」なる教えに繋がり、さらにそれがイエスの血の特性につながっています。
それについては次回から述べていきますが、とにかくイエスの肉体は人間の肉体とは別物、という認識は福音に不可欠の骨子です。
この認識無くして、福音はないといってもいいほどです。
「イエスが人間としてこの世にこられた」というような漠然とした認識のみをベースとする思想は、真の福音ではないのです。
                          
(続きます)

                    

 

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<イエスの血と「いのち」の力>(1)『人間の血の効能について』

2011年03月24日 | イエスの血の権能

衝撃的な大災害が起きました。「ヨハネ伝」解読を中断して、「イエスの血の権能」をについて述べようとおもいます。
これはSESAMEさんからリクエストいただいていたテーマです。

  (右上に「文字サイズ変更」機能があります。
クリックすると、文字が大きくなります)

                    

<人間の血といのちエネルギー>

まず人間の血の効能から考えます。
 鹿嶋の著書を読んでくださっている方はおわかりでしょうが、春平太は従来、
聖書では「人間は肉体と霊とからなる」という思想だ、と理解してきています。

そして霊(霊体)は「いのちエネルギー」の充電式乾電池のような役割をしていて、
創造主から放射されるいのちはそこに充電され、
そこから肉体にいのちが供給される、としてきました。

 だから、霊が肉体を抜け出ると肉体は運動エネルギーが無くなって、循環運動を止める。
それが肉体が「死ぬ」ということだ、と理解してきました。
 これでもって、肉体の「生の理論」は完結していたので
「血」という要素の効能が介入する余地がなくなっていました。

 今回その「血」を介入させての理解体系を修正しようとおもいます。
どうもそれがもっと詳細な聖書の人間構造論でありそうに思えてきているのです。

                    

<血は充電式液体電池>

 具体的には、「霊のいのちエネルギーは血に充電される」と理解いたします。血を充電式液体電池のようにイメージするのです。
そして「その血がエネルギーをもって体内をめぐって、身体の各所にいのちエネルギーを供給している」と考えるのです。

 すると、こんな事態も理解可能になります。
たとえば病院で人が臨終を迎える時、まず血圧が下がります。あるいは交通事故などで出血多量が起きると人は死にます。
これは「いのちエネルギー」の運搬量が急低下して身体各部の器官の運動力が衰え、
循環運動が維持できなくなることによる、と説明できるようになるのです。

 人間の老化に関しても、血から説明を加えることができます。
人間の血のいのちエネルギー蓄電量は年齢と共に低下していく、と考えるのです。
丁度携帯電話の充電式リチウム電池の畜電力が使っていると低下していくようにです。
かくのごとくに年齢と共に蓄電量が低下し、それが充電能力の低下につながる。
それ故に肉体の機能は低下し、ついには血の放電に充電が間に合わなくなって老衰死していく、
と考えることができる。こういう論理も成立しうるわけです。

                    

次回はイエスの血について考えます。


                    

 

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