鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.30 「政治見識欠如の実体とGHQの基本姿勢」

2013年01月09日 | 政治見識のための政治学
 


日本人の政治見識の幼稚さ、統治力の貧しさを、米国人は戦前から観察していました。

今から鹿嶋は、その実例を示します。
この話は、多くの日本人から反発を受けると思います。
昨今の対米従属脱却志向、日本国独立行動志向の風潮の中では
怒りを買い、孤立するかもしれません。
だが、敢えて思うところをリアルに述べようと思います。




<神風特攻隊>

実例の一つは、神風特攻隊の編成と実施です。
これについては、今も映画が作られていますし、実物映像がネットで見られます。

これをみた我々日本人はその成否をどう判断すべきか、戸惑ってきました。
戦後は漠然と一般論的に、「戦争はいけない」と思ったりしていました。

最近は愛国感情が高まって、これを「日本人の勇敢さや愛国心」を示すもの
と受け取る人も増えているようです。

+++


しかし、鹿嶋は敢えて言います。
あれは、日本人の、特に指導層の政治見識の欠如の産物だと。全くの愚策だと。

+++

戦争は究極目的ではありません。
それは他国の国民も死なせ、悲惨な状態に陥れますが、
国益だけから見ても、つまるところは国民がよりよき人生を送れるようにするための手段です。

ところが特攻政策は6000人の青少年を死なせています。
それも開始後しばらくしたら、満足な状態の戦闘機はなくなっていたといいます。

にもかかわらず,欠陥飛行機に乗せて若者を飛ばせ続けた。
ほとんどが敵艦にたどり着く前に海中に墜落したといいます。

それでも指導層は日本国が降伏するまで特攻を続けました。
惰性で続けたのです。

こうして、戦後の国家作りに最も貢献できる有為の若者たちを殺しました。
爆弾抱かせて自爆攻撃をさせたのです。

+++

考えてみて下さい。
そもそも、有為な若者にこんな自爆攻撃をさせねばならない状況は、
もう勝負はついている状況なのです。戦争はもう終えるべきなのです。

戦争は降伏して終わりではありません。降伏は新しい国家作りの出発点です。
指導層に歴史観がないからそれが見えない。
長期の歴史観を深く持てば、そういう判断が出来るのです。





<マニラ市街戦での政治的無能>

第二はマニラ市街戦です。
敗色濃厚になったフィリピンの大都市マニラで日本軍は、米軍と市街戦をしました。
日本軍人の死者は5万、マニラ市民の死者は25万と聞いています。
50万という説もあります。

市街戦では、軍人より市民が何倍も犠牲になります。
市民は都市から出ても生活する当てがありません。
だから、都市にとどまっています。そしてある日突然銃撃戦に巻き込まれます。

市街戦では軍人は市民の中に紛れ込んで戦います。結果的にそうなるのです。
攻める方としては、識別してるわけにいきません。結局無差別に殺します。

戦争経験のある人に聞くところでは、市街戦が一番怖いと言います。
突然目の前に出てきた人が、敵だったりするのです。
こうして日本軍は、自分たちの数倍の市民を死に落とし込んだのです。

+++

これも指導層の歴史感覚の欠如とそれによる無能を示しています。
市民の中に紛れ込んで戦うなどということになったら、もう敗戦は決まっているのです。
早く降伏して、新しい国家作りを志向すべきです。
少なくとも、都市から山地に撤退して、市民を死なせない戦をすべきでした。

そういう判断が出来ないことが、政治見識の欠如を示しているのです。


 


<本土決戦>

その思考は、敗戦近くの本土にも現れました。
指導層は、婦人たちにも竹槍訓練をして、本土決戦の準備をしました。

本土決戦となれば、マニラと同じく市街戦になります。
海岸線の多くの地域に米軍が上陸すれば、市民は全国的に巻き込まれます。
本土は地獄絵図となります。

竹槍で進撃したら、機関銃でまとめて撃ち殺されるのみです。
穴や溝を造って隠れたら、火炎放射器で焼き殺されるのみです。

それでも軍指導部は、降伏の決定が出来なかった。
しなかっただけでなく、出来なかったのです。
もう指揮系統も乱れて、自説に従わないものを互いに殺すのみとなること必定でした。
政治見識、統治能力の欠如がそれを産んでいました。

被害者には、本当に申し訳ないのですが、それを救ったのは広島長崎の原爆のみでした。
あれで、天皇の詔をラジオで放送する道が出来た。かろうじて出来た。
本土決戦などしたら、その何十倍という死者が出たでしょう。
出兵経験者の多くも、そういっています。





<GHQの日本対策>

米軍の指導者は、日本政府の統治能力欠如を関東軍の独走の時から観察していました。
彼らは、以後も政府が軍部をコントロール出来ない状態を見て、驚き恐れました。

軍隊は武器を持っています。
この集団をコントロール出来ないと、国家がいわゆる「狂人に刃物」という状態になります。
狂人は刃物を見境なく振り回します。国家がこういう状態になるのです。

だから彼らは新憲法に、第九条を組み込んだのです。
ここには、「戦争の放棄」「戦力の不保持」「交戦権の否認」がうたわれています。
それをもってして日本国憲法は平和憲法と誇る声が多いのですが、実状は今述べた通りです。

日米安全保障条約はそれとセットで考えるべきです。
米国は、刃物を持たせないために安保条約で国家防衛を代行してあげる、としたのです。




<自国を守らないことからの弊害>

もちろん、この状況は、先々に問題を起こしますよ。

①まず、自国を自分で守るといいう気概が国家・国民になくなります。

②すると、日本人は、食べて娯楽して眠るという生活を繰り返すことになります。

③テレビは大衆のこの状況に合わせて利益を上げようとして、衆愚番組を沢山流します。
今でも日本では、バカバラエティーTV番組が蔓延しています。

この状況はさらに様々な精神的問題をはぐくんでいきます。

④なによりも、国民に国際情勢を知ろうという姿勢がなくなります。

⑤国内政治についてもリアルな現実を敢えて知ろうという気風もなくなります。

~いまそれらがようやっと問題に上りつつあります。
だが、そんなことは、GHQ総司令官となるマッカーサーは、日本に到着する前から、
知り尽くしていました。

だから、日本統治のため厚木空港に降りたってすぐに、「日本人は政治的には13才」
と言い放ったのです。

日本造りにたずさわったGHQ職員たちもそれは、百も承知でした。

その上で、「まずはとにかく、狂人に刃物の危険だけは避けよう」としたのです。

~これが、平和憲法であり、日米安保だったのです。
この事実を知らずに、戦後米国の日本コントロールの実状を調べても、意味があまりないのです。

実状を明かして「戦後史の正体」だなどと大見得切ったり、それに感動したりしているのは、
政治見識の幼稚さの証明以外の何者でもありません。





<政治見識の貧しさが根源>

戦後日本の主要問題の根源は人民の「政治見識の欠如」だったのです。
まずこの問題を打開せねばなりません。
そして政治見識の向上に最も有効な手段は、人民の多くが聖書吟味活動をすることです。

これをこういう風に、突然、単独で言うと、論理の飛躍を感じられると思います。
だが、実はこれは最も現実的な方法なのです。

鹿嶋は、このブログでの連載「幸せ社会の編成原理」で、聖句主義活動によって
人民の統治能力が英国や米国で実現されていく歴史を示しました。
聖句吟味が当面、歴史が実証している唯一の「政治見識向上手段」なのです。

それでも「宗教!」と反射的に恐れる人が日本では多いでしょう。
だが、考えてみて下さい。

「対策手段があるという情報」を与えられていることは、幸運なことではないでしょうか。
なにも見当たらなかったら絶望です。

「宗教だ!」と腰を引きたくなっても、やってみることです。
なぜなら、小グループでの聖句吟味活動は、いわゆる「宗教」ではまったくなく、
むしろ「学究活動」「思索活動」であることが、やればすぐにわかるからです。

+++

鹿嶋も、出来ることなら他国からの政治コントロールがない状態がいいと思います。
だが、政治見識を高めないで米国の統治を振り払えば、そして国防軍をもてば、
国防軍はまた自国の統治者に失望していきます。

「もう俺たちがやるしかない」、となる。
すると政府はまた軍部コントロールが不可能な状態になっていきます。
政治見識と統治能力の自己育成が先なのです。





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Vol.29 <中国論(20)> 「GHQ、戦後日本の枠組みを造る」

2013年01月02日 | 政治見識のための政治学


前回の続きです。
角栄さん・小沢さんは日本と中国との親交を進展させようとしました。
そして、戦後日本の対米依存度を縮小しようとしました。

はたして、それは正しいかを考えましょう。
その評価は、歴史観のなかでなさねばなりません。 
人間は歴史の中で生きているからです。


<GHQ指揮下で国造りを再開>

現在の日本の設計・国造りは、第二次大戦の敗戦から始まっています。
建国以来、初めての敗戦です。
日本はここで、過去の日本をリセットしました。「一億総懺悔」という言葉も叫ばれました。
1945年(昭和20年)のことでした。

以後昭和26年に独立するまで、日本は、対米従属どころか、
GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の指揮下にありました。
「連合国軍」とはいっても、大半の職員はアメリカの軍人と民間人でなっておりました。
その米国の指導を受けて、日本国政府がその下で働いているという構造でした。

そして驚くべきことに、このGQHに働く若き職員たちは、日本を理想の幸せ国家にするとの理想を抱き、
日本造りをしていきました。
米国人には一般的に「与えるだけの愛」「無償の愛」がかなり身についています。
聖書で言う「グレースの愛」です。
彼らにはの精神が大いに働いていました。

+++

鹿嶋は、米国南部のサザンバプテスト地帯に居住していた時、
若き日にその一員だった老人に直接話を聞く機会に恵まれました。
彼は家具のリース会社を経営していました。
その話はリアルそのもので、鹿嶋は若きGHQ職員たちの理想追求の姿を確認しました。

GHQは、日本に革命的な経済体制改革を実施させました。
それらは、戦後日本にあった富の集中体制を打破する改革でした。


<財閥解体>

その一つは、財閥解体でした。

敗戦時の日本では、三井、三菱、住友家などの財閥家が持ち株会社を作り、
そこに傘下の企業の株を集中させてトップ人事も支配していました。
そこでは、三井の個々の会社の社長は、三井家の番頭のようなものでした。

財閥家の持ち株会社への富の集中は、戦後の三井、三菱などのいわゆる
旧財閥企業からは想像もつかないものであった、といいます。
戦後の財閥系会社のトップだった経営者から、その証言を鹿嶋は聞いています。

GHQは、その財閥家支配を解体し、持ち株会社を禁じてしまいました。


<農地改革>

第二は、農地所有権の分散化です。
GHQは、不在地主が保有する農地を日本政府に強制的に安値で買い上げさせ、実際に耕作していた小作人に安価に売らせました。
これを全国的に実施さすことによって、7割余りの農地が地主から小作人の所有に移りました。
これによって、戦前まで当たり前であった地主への富の集中が、打開されました。
小作たちは、極貧とそれによる地主への人間的隷従状態から解放されました。


<労働組合の合法化>

第三は、労働組合の合法化です。
戦前には、労働運動は非合法であり、運動家は検挙されました。
拷問を受けたものも数多くいました。

だが、企業は集団組織です。これに労働者一人ひとりが対応して労働条件を決めるとなれば、
そこでの力関係は企業に圧倒的に有利でした。
弱者である労働者は、不利な条件で働かざるを得ませんでした。

これに対して、GHQは労働組合を合法化し、労働者に組合を作らせました。
これによって、労働者の貧しさとそれによる人間的隷従状態も打開されました。


<経済発展には大衆への成果分配は必須>

資本主義方式では、私有財産制度を取ります。
そのシステムのもとでは、もし自然なままに置けば、富は持てるものに集中していきます。
時間と共に、累積的に集中していくのです。

すると、企業は時と共にその生産設備を十分に稼働できなくなっていきます。
需要不足によって、作っても売れないから稼働率が低下するのです。

金持ちが形成する商品への需要は限度があるのです。
戦前の日本では、総需要の不足で周期的に過剰生産力不況に見舞われました。
その都度、失業者は増大し、食べられなくなりました。

彼らは飢えから逃れるために、軍備拡張と戦争を切望していきました。

+++

資本主義方式が持続的に経済を成長させるには、やはり、拡大する生産力に見合った
大衆の購買力増大が必要でした。

上記三つの革命は、戦後始めてその条件を形成したのです。



<日本人自らの手では不可能な改革>

ここで、この三つの改革をよくみてください。
三つとも、「日本人自らの手ではとても出来ない」ものでしょう。

日本人個々人には、これを実現する政治見識はありません。
集団組織にもそうした統治能力がありません。

だから、戦前には、日本の資本主義経済は行き詰まったのです。

そして戦後のその状況の打開は、占領軍政府の強大な命令力によって、
初めて可能になったものなのです。

占領統治国が米国になったというのはまことに幸運でした。
もし、統治担当国がソビエト連邦になっていたらどうなっていたでしょうか。
秘密警察による白色テロは続き、国内からも「シベリア強制労働送り」になるものが
続出したでしょう。

蒋介石が、戦後賠償を放棄してくれたのもラッキーでした。
昭和25年に朝鮮戦争が起き、特需ブームが起きたのもそうでした。
幸運が重なったのです。
日本人も戦後よく働きましたが、そういう働きが活きる枠組みは
ほとんど、幸運によって得られているのです。

我々は、これをあたらめて認識する必要があります。
日本人や自分を無理に卑下して言っているのではありません。
ただ、「リアリズムに立て」といっているのです。

+++

そしてGHQは言論自由の制度も作ってくれました。
日本はGHQによるこうした国造りによって、
世界にも希な自由と豊かさをエンジョイする時代を戦後持てたのです。
こういう仕組みの国が、共産党一党独裁システムをとる国と
ジョイントして行かれるわけがありません。


<好きなタイプだけに>

余談です。
そもそも角さんが新潟の寒村から上京し、のし上がって行かれたのも、
GHQのしてくれた改革のおかげでした。
この社会的枠組みが、可能にした戦後日本経済の持続的発展のなかで、
角さんはのし上がれたのです。

だが、角さんにはそういうことを歴史的に知る余裕はありませんでした。
その結果、中国国交に無邪気な期待を抱き、安易な米国離脱思想に走ることになったのです。

そして分身の小沢さんは、師匠の道を踏襲していきました。

それには、27才で国会議員になる直前まで、司法試験勉強だけの
青春時代を送ったということも、効いていたようにみえます。

当時の学生は人間や社会に関して苦悩する時を持つのが通常でした。
ところが小沢青年は、そうした悩みを悩む歴史のないシンプルな青春を送っていた。
そしてそのまま国会議員の「先生」になってしまった。
これが、歴史観の希薄な国際行動を産んだのでしょう。

ザックリ言えば、素直なお坊ちゃんだったんですね。

+++

なお、誤解を避けるために言っておきます。
角さん、小沢さんは、鹿嶋には人間的には好きなタイプです。

メディアからの情報によるにすぎませんが、田舎者の木訥さ、根の純朴さ、人間的暖かさ、
への好感を感じます。
それだけに、お二人の不遇を残念に思います。




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