鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.242『父の命令を守って十字架死するんだよ』(14章31節)

2008年09月28日 | ヨハネ伝解読
 14章も最終節、第31節にたどりつきました。
いつの間にか、このヨハネ伝解読も242回になっているんですね。
イエスの遺言を追いましょう。

                    

+++++++++++++++++++++++++++++
=聖句=
 「だが、この世は次のことを知らねばなりません。
私が父(創造主)を愛しているということを。
だから私は、父が私に命じることを全て行うんだよ」(31節)
+++++++++++++++++++++++++++++

                    

 30節では、「悪魔はこの世の君だけど、その力は自分には及ばない」といっていました。
本日の聖句は、それに続いてのイエスの言葉です。


                    


これからまもなくイエスは世の人々の「殺せ!」「十字架に付けよ!」という声によって殺されます。
弟子たちも、それを目にします。

人々の憎悪がイエスを十字架死に持って行くようにみえます。
だが、悪魔は「世の君主」だとすると根底的には、悪魔がイエスがその仕掛けをして十字架で殺すことになります。
弟子たちには、そこまでの推察はできます。
前回イエスは、悪魔は「世の君主だ」といっていますから。


                    


けれどもイエスはまた、「悪魔は自分に対しては何の力もない」といっていましたよね。
するとイエスは悪魔の力によって殺されるのではない、という論理になります。
「だったら、どうして死んだんだよ・・」
・・・わからなくなります。

弟子たちは困惑するでしょう。
「あの力ある先生が、
『悪魔は世の君主だが、そのちからは私には及ばないんだよ』といわれた先生がどうして?」と。


                    


そういう事態は絶対に避けねばならないのです。
イエスの考えには、自分がいなくなった後のこともすでに入っています。

弟子たちには全人類に福音を宣べ伝えてもらわねばならないのです。

イエスは「地の果てまで宣べ伝えよ」とそれを命令しておきます。
イエスの命令を守ることが福音宣教をすることです。

それには、イエスの言動の中で理解できないところを出来るだけ少なくしておく必要があります。
そこで、イエスは奥義を遺言する、これが本日の聖句です。

 「これは自分への父(創造主)の命令であって、自分はその命じられていることを行うんだよ」

が、それです。

悪魔が仕掛けをしてイエスを十字架で殺すことには変わりありません。
だが、悪魔にそうさせておくのは、つまるところはそれが父なる創主の命令だからだよ、
と明かしておきます。

イエスの死を前にしたもう一つのインストラクションがそれです。
でも「死ね」と命令するというのはねえ・・・。
「神は愛です」と聞いてきたのに・・・。

それは次回に考えてみます。


                    




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Vol.241『もう「世の君主(悪魔)」がやってくるよ』(14章30節)

2008年09月19日 | ヨハネ伝解読
今回の聖句はこれです。 

                    
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
=聖句=

 「私はこれ以上長く諸君に話しておられないよ。この世の君(支配者)が来るからだ。
彼(悪魔)は私に対しては何の力もないのだが・・・」(30節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                    


14章30節でイエスは、悪魔がこの世の君主(支配者)であることを明言しています。
この世はそういうものだ、というのが聖書論理の大前提で、物語の舞台設定です。
この世は、いうなれば悪魔と彼に従う悪霊たちを閉じこめた牢屋、という位置づけなのです。

そして、悪魔は、そこの牢名主なんですね。
だから、牢屋内であるこの世に対する支配権を基本的に持っています。


                    


そういう中に創った、天国の模型のような空間がエデンの園です。
創主はそこに創主と霊的に交信する霊を入れたアダムをおいて、暮らさせました。
愛するイブ(エバ)も創ってあげました。
彼らは、創主からの戒めを守って、創主と100%交信して、罪なき状態で暮らしていました。
罪というのは、創造主と霊的に交信しない状態をいいます。


                    



ところがエデンは所詮、悪魔を閉じ込めた牢屋の中にあります。
悪魔は易々と進入し、イブを騙して創主からの戒めに従わなくさせてしまいました。
アダムもイブに従って戒めを破ってしまいました。
こうしてアダムの霊に罪が入りました。

二人はエデンの園を出なければならなくなりました。
罪ある存在は、天国の模型であるエデンに留まることは出来ないのが道理です。

                    


聖書には、霊的資質は男性を通して遺伝する、という論理があります。
そこで以後人類は、罪ある存在として生まれるようになりました。

エデンの外は、悪魔とそれに従う悪霊を閉じ込めた牢屋です。
罪あるものとなった人類は、罪ある存在の親玉、悪魔の傘下・支配下に置かれます。
そこでイエスは悪魔を「この世の君」といっているわけです。


                    


<イエスはこの世でも悪魔の傘下ではない>

そういう世(宇宙)に、イエスは創主の王国(天国)から入ってきたわけです。
マリアの胎内でもって人の姿をとって、そして生まれた。
で、イエスもこの世では悪魔の傘下にいなければならなかったか、というとそうではありません。

イエスの身体は、御言葉が肉化したものです。(ヨハネ伝、1章14節)
生理的に罪を犯すこともなく、霊的に守られて病にかかることもなく、罪なき生活を30年間送りました。
イエスは悪魔の傘下に置かれることがなかったわけです。


                    


そして、バプテスマのヨハネからバプテスマを受けました。
そのとき、「これは私の愛する子」という声が天から聞こえ、聖霊がイエスに鳩のように降りました。

そして、聖霊によって悪魔のいる荒野に導かれていきました。
悪魔は人類と違った存在(イエス)に会って驚きます。そこで~

  「あんた創造主の子か?」

       ~と尋ねます。

「創主の子なら、石をパンに変えられるでしょう、やってごらん?」

~と確認しようとします(マタイ伝、4章3節)。

すると、イエスは~

 「『人はパンのみによって生きるのではない、創主から出る一つ一つの言葉によって生きる』と書いてある」

~と御言葉で応じます。(マタイ伝、4章4節)
こうして創造主からの戒めを守る姿~30年間そうしてきた~を保つのです。

 悪魔は、イエスを宮の頂上に連れて行って、もう一度確認しようとします。

「創主の子なら、ここから飛び降りてごらん。
『創主の子なら、あなたの足が石にぶつかる前に、天使が支える』
と聖書に書いてあるでしょ?」(マタイ伝、4章6節)

悪魔も聖書の言葉は知っているのです。そして聖句をも自己の目的のために使うのです。

ところがイエスは、そういう風に使われる御言葉には従いません。

『主である創主を試みてはならない』

~という御言葉を守って動じないのです。(マタイ伝、4章6節)


                    


 「こいつは創主の子だ!」悪魔は確信します。そこで、取引に入ります。
高いところから、この世の栄華を全て見せて~

「これみんな私のものだ、でも、私にひれ伏して拝んだら、
みんなあんたのものにしてあげるよ!(私の相続者にしてあげるよ)」

~と持ちかけます。(ヨハネ伝、4章8~9節)

するとイエスは、『ただ創主のみに仕えよ』という御言葉を出して、
「サタンよ、引き下がれ!」と一喝します。

「もうかなわない・・・、取引にも応じない、この世の王である自分も、こいつにはかなわない」

~「えらいことになった・・・」悪魔はそれを悟って逃げていきます。
そして天使たちがイエスのもとにやって来て仕えます。(マタイ伝、4章11節)


                    


イエスはこの世でもそういう悪魔以上の存在です。
ですから、この世でも自らの権威でもって、病人を癒し、悪霊を追い出すわけです。
また、時には72人の弟子たちに自らの権威を与え、ある町で福音を伝導させます。(ルカ伝、10章9節)

町から帰った弟子たちは~

「先生の名(イエス)でもってすると、悪霊までが私たちに服従しました」

~と報告します。(ルカ伝、10章17節)

イエスは「あったりまえだろ? 私が荒野で一喝したとき、悪魔は私に敗北したのだから・・」といいます。

「私がサタンが電光のように天から落ちるのをみた」(ルカ伝、10章18節)

~というのは、その意味ではないかと思われます。


                   

 こうしてイエスの権威が燦然と輝く一方で、今やそれを知った悪魔は
イエスとの対決を避けつつ、ひそかに傘下の悪霊と人類に君臨している。
これがこの「最後の晩餐」当時の世の状況ということになります。
今回の聖句の最後

「彼(悪魔)は私に対しては何の力もないのだが・・・」

~も、その背景で理解できるものです。


                    





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