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鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

中国理解のための「儒教」、「国民国家」、「共産主義」

2014年12月28日 | 聖書と政治経済学





 前回に鹿嶋は中国の日本への賠償放棄における儒教思想の影響や分祀の要求の真意などについて述べた。
この機会に、中国における人民統治の全体像把握も試みておこう。





<儒教は家族重視姿勢を浸透さす>

  儒教は中国人に家族・一族重視の姿勢を深く強固に形成した。
この姿勢が、幕藩国家を最高の国家とするという思想を人民にもたらした。

 人民の土着の心情はその国の国家観を決める。
それは各地方の部族国家(藩)を温存し、それらを巧妙に中央朝廷で統合していく、というシステムを人民に支持させた。
清朝国家、すなわち、清国は日本の徳川幕藩体制と類似の構造的の幕藩国家だった。





<西欧列強は国民国家だった>

  対して、清国を侵蝕してきた西欧国家は国民国家の制度を持っていた。
国民国家とは、人民が民族国家に最高の価値を感じて、全民族が一体化するシステムの国家である。
この制度が機能すると、国の富や武力は向上する。
西欧列強の強さの一大要因がこれだった。




<明治国家の決断>

 日本の明治維新指導者は、幕末にそれを素早く読み取った。
そこで維新がなるや版籍奉還と廃藩置県を速やかに実施した。
これで人民は、自分の藩に最高の価値を置く心情から、強引に脱皮させられた。

 清国はそれが出来なかった。
地方に藩閥国家が割拠していた。




<始皇帝の儒教弾圧>


 その精神基盤を形成するのが儒教思想だった。

 秦の始皇帝の天才は、これを見抜いていた。
彼は漢民族を統一して初めて民族国家中国を物理的に確立した。

 彼は同時に、精神的にも国民国家を建設しようとした。
人民が中国という民族国家に、藩(地域国家)以上に価値を置く国家を造ろうとした。

 そのために、儒教思想が障害となった。

 この思想は家族運営をベースにして国家運営を考える思考様式を持っている。
それが結果的に、家族重視、一族重視、地方国家(藩)重視の姿勢を生むからだ。

 儒学者は、儒教思想を超越する国家作りに反対した。
始皇帝は儒教の書物を焼き、儒学者を捕らえて生き埋めにした。

 だが、中国を国民国家にするには、始皇帝の25年の統治期間は短すぎた。
儒教はすでに一般庶民の心情深くに染み込んでいた。

 中国では以後清国時代まで幕藩国家のままできた。






<孫文革命も国民国家を遠望>

  そしてついに清朝中国は列強に侵蝕され始めた。
辛亥革命における孫文も、国防力を高めるため、国民国家を遠望していた。
国民党活動での蒋介石も、また国民国家を遠望していた。

  だが、出来なかった。
中国では人民を、自由意志をあたえつつ国民国家に誘導することはあまりに困難だった。

  これをすると、人民は土着の一族重視姿勢に収束していってしまうのだ。
国民国家を実現するには、強権国家からの上からの強制が必要だった。

 毛沢東の天才はこれを見抜いた。
かれにとって共産国家思想は、実は、国民国家実現のための道具であった。
それを知るには、共産制国家をその構造から認識せねばならない。




<マルクス思想は強権国家思想>

 マルクスは資本主義制度の矛盾と、その不平等性をあばきだし、その根源にある私有財産性をなくせば「自動的」に理想社会は実現すると説いた。

 だが、彼には人間集団の「運営」を見る目が皆無だった。
私有財産をなくし、国家財産にすれば、それらは巨大な経済財となる。
そしてその運営義務は国家統治者(官僚)のもとに集中する。

 巨大な経済財を中央政権の理想で運営する際には、必然的に、膨大な生産計画書の作成とその実施のための「命令」が必要になる。

 つまり、共産主義国家は、全人民を「命令=服従」のシステムで運営する国家となるのだ。

 一つの「思想」で人民を「命令=服従」のシステムに組み込んだのは、人類史上初めてのことではない。

 西欧中世を通して国教の地位を得たカトリック教団は、1200年にわたってそれをした。
この体制が、産業革命と市場経済システムによって崩壊した。

 共産主義、社会主義思想は、このシステムの国家を復活させたと見ることも出来る。





<毛沢東、共産主義思想で国民国家を実現>

 毛沢東がこの共産主義思想を掲げたのは、すぐれて国民国家実現のためだった。
むろん彼はスローガンとして平等社会の理想も掲げた。
地主の農地を農民に暴力的に没収させた。

 だがごく短い間を置いて、その土地を農民から没収し、国家の管理下に置いてしまった。
農民はだまされたことになるが、毛沢東からすればそれは予定の行動であった。


 彼は同時に、諸分野に共産制を実施することによって儒教の一族最重視思想を粉砕した。
共産党独裁体制は、中国を国民国家にするに不可欠な手段だったのだ。

 いまもそうである。
儒教精神は人民の心情に浸透しきっているからである。




<周期的な民主化運動>

 戦後、市場経済方式を度乳すると、西洋から民主制、自由選択システムの思想も入った。
人間の心底には自由選択システムを求める意識も深く横たわっている。

 この思想は、若者が先行的に受け入れやすい。
そこで中国では民主化の要求が主に若者の運動となって周期的に現れることになった。
天安門事件もそうだし、昨今の香港における学生の民主化デモもそれだ。

 だが、中国では当面一党独裁の強制システムがないと、の国民国家状況は維持できない。
そこで、ある程度運動をさせておいた後に、リーダーをシンボルとして罰する。

 これが現代中国である。

 この国には人口が日本の10倍もいて、それが多民族で構成されている。
それが複数の異民族に隣接している。
中国の統治は日本の何十倍も難しいのではなかろうか。

 我々はそれをよく知って、中国を見なければならない。
でないと、中国という国がわからなくなってしまう。

 実際、今の日本人のほとんどがその「わからない」状態にある。
フェースブックに提示される意見にもその現状が絵のように表れている。

(中国論  以上)










************




 今年もクリスマス休暇期間を過ぎ、残すところあとわずかになりました。
新年を迎えるにあたり、若干の付言をしておこうと思います。

 鹿嶋は日本人の中国へ無知・盲目を非常に憂えています。
これを打開する必要を痛感しています。

 現実に、こんなことも考えます。
傲慢と評されることを承知で、多くの日本人が、鹿嶋のこの情報を身につけ、さらにそれを踏まえて中国知識を豊かにして行かれることを期待し勧めよう~と。

 だが、実際にはそれは相当困難であるように思われます。

 理由は一つには、こういう広域的な話を追っていると、人は非常に疲れることにあります。

 人は、通常は自分の等身大の身辺のことをイメージ世界におさめて生活しています。
その世界を広げると言っても、せいぜい家族や親族や友人、あるいはクラブ活動や同窓会、勤務する会社などまでです。

 それでも等身大からイメージを拡大していくと、その思考のために必要な精神エネルギーは加速度的に増大します。
イメージ世界が拡大するにつれて、不確かな情報は増大し、そのイメージを心に保つための精神作業が増えていくからです。

 なのにそれが民族や国家などにまで拡大すると、その世界のイメージを心に保持するだけで大変となります。
ましてや中国のような異文化国家の事柄を思考するのは、なお一層疲れることです。

 それには自分の直接経験から中国人の心情を追体験せねばなりません。
この作業が精神的に重労働なのです。





<特殊事情もある>

 以上は一般的に言えることです。
鹿嶋がここに述べた中国論は、さらに特殊な事情によって出来上がっています。

 それは、例外的な恵みの結果でもあるのです。
これらの恵みをあげてみますと~

・中国研究のために必要な時間と研究費を得られました。

・日本の中国研究者(中国語の通訳が出来る)と共に、中国の諸都市に一度ならず立つことが出来ました。

・日本人研究者の通訳のおかげで中国での中国研究者から、活きた本音の情報を引き出すことができました。

・日本人研究者の通訳のおかげで、タクシーの運転手からも身辺情報を得ることが出来ました。

・国内で、日本の大学で教鞭を執る中国研究者と、本音の会話をすることも出来ました。

  (文献による中国紹介はまだ不十分なところが多く、親しく交わった上での私的会話で初めてわかることが多いのです)

・日本人の中国研究者からも多くの情報・見解を得ました。

  (中には中国人を夫人にしている人もいて、その日常生活からの比較文化論的発見には啓発されるところがおおいにありました)

 また、これは自分でいうと自負・自慢に聞こえるでしょうが、敢えて述べておきます。
こんなところで自慢などしてなんになりましょうか。

・鹿嶋自身に、異国の識者に人なつっこくできる気質が備わっていました。

・友好的な雰囲気の中で、相手の本音を引き出す方向に誘導していくという、いわば発問誘導力のようなものも鹿嶋にはありました。

 ~ともあれこのようなきわめて例外的な条件に恵まれて、鹿嶋の中国論は不十分ながらも形成されました。
それは、顧みて比較すれば、以前の中国知識が滑稽に見えるほどに向上したものでした。

 それによって鹿嶋はまた、妥当な中国理解を心に造ることは、日本国内で仕事に従事する生活をしていたのでは難しいことも痛感しました。

 この種の情報を、国内生活者がかみ砕き吸収するには多くの追体験作業が必要になります。
その精神作業は膨大になり、やれば非常に疲れて、ほとんど不可能になるのです。





<創造神イメージの有効性>

 けれども、これにも打開の道があります。
それは広域イメージ世界の思考に慣れることです。

 そしてそうした慣れを国内にいながら訓練して造る方法があります。
それは、聖書にある「万物の創造神イメージ」を抱き、その懐の中で展開する物語を吟味する(出来れば小グループで)という方法です。

 万物の創造神は人間の描きうる最大スケールの世界イメージです。
万物を造った存在は、時間的にも空間的にも無限の範囲に及ぶ無限者です。

 聖書にはこの中で展開する壮大な物語が描かれています。
天地が創造される記述も、ノアの大洪水の話もみなそうです。

 この極大な時空イメージとその中で展開される壮大な話を吟味していれば、自然に慣れが出来てきます。
慣れれば広域思考への持久力も身についてきます。

 さすれば民族や国家のイメージなど楽に心に保てるようになります。
これは実は中国事項だけのことではありませんが、提供される中国情報も楽々とイメージに納められるようになるでしょう。


(完)







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メリークリスマス・2014!

2014年12月20日 | 聖書と政治経済学



            



 クリスマス週末となりました。
クリスチャンの皆様には、クリスマスお目出度うございます!

 こんな時の話題に、中国問題、分祀問題はないでしょう。

 そこで、福音メッセージをお伝えします。
イエスは「人はパンのによって生きるにあらず、創造神から出る言葉によって生きる」と言いました。

 その言葉が福音(良き知らせ)のメッセージです。
今日は、その神髄を凝縮したことばをお送りします。

 それは「イエスに頼る心をもつ」・・・・これだけです。
「今の世」のことも、来たるべき「次の世」のことも、みなイエスに頼ってしまう・・・それだけです。



        


 それを巡る話は、拙著『私のヨハネ伝解読 1』(Kindle電子ブック)における「初めに」に示されています。
今回皆様へのクリスマスプレゼントとしてこのシリーズの第4分冊に、無料ダウンロード期間(12月21~25日)をもうけました。
(¥0、と表示されているのを確認してダウンロードして下さい。課金されません)

 第1分冊にしたらいいのに、との声も聞こえそうですが、この分冊はすでに無料期間を提供しています。
そして、Kindleブックスでは、無料期間は各本につき一回だけしか提供できません。
そこで、今回は第4分冊をプレゼントといたします。


 ここには、福音の真髄を示す短文を再録しておきます~




        

***

・・・福音(よき知らせ:グッドニュース)メッセージは、二階建てになっています。
そして神髄は、一階部分に凝縮されています。
福音の究極のゴールもここにあります。


<福音の一階部分>

 その一階部分は、自分個人が「恵み(福)」を受ける方法です。
これは「イエスに頼る心を持つ」だけです。

 なぜそうなるかの知識は漠然としていていいです。
漠然としたままで、「今の世も、死後の世も」すべてイエスに頼る・・・それだけでいいです。

 不思議なことに、それで心の深い平安が体験できてきます。
物質的、経済的な環境も好転していきます。

 これは福音の神秘です。
神秘というと、感情的なものだと思えてきますが、それだけではない。
神秘がなかったら、話は福音(宗教)でなく科学になってしまいます。

 神秘「主義」は避けねばなりませんが、神秘は福音の必須要素です。
やってみたら体験できるものです。

***

        



 
 ~以上です。簡単ですね。
では心ある皆様、イエスに頼る心を持ってみましょう。

 これは「自然に持てるようになっていく」ものではありません。
自分の意志で抱くものです。少なくとも最初は。

 では皆様、福音の恵みを体験されますように!

 メリークリスマス!



                  鹿嶋春平太




                   



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分祀は国際社会の義務

2014年12月11日 | 聖書と政治経済学





 現世の政治問題は、「チャーチ」では出来るだけ少なくしたい。

そうした中でも、これはいま緊急に述べておかねばという問題もある。
分祀(先の戦争で最高指導者と明示された人々の遺骨を、一般戦死者の遺骨と別に納めて拝すること)がそれである。
これに関する拙論をここに提示したい。



<異民族と境界を接する国>

 日本は四面を海に囲まれていて、しかも東側には太平洋という大海原がある。
そのため、異民族に侵入されたり征服されたりする危険がきわめて小さな中で国家運営が出来てきた。
これは世界の中では異例なことである。

 他のほとんどの民族国家は異民族集団と接している。
こうした国家では、統治の安定性を必要とする度合いが遙かに高い。
国家の一体性が弱まると、すぐに異民族侵入の危険が生じるからだ。
そのため統治者は、自らの定めた秩序(法)が厳格に守られることを求める。
だから秩序に反する者を、違反が悪であることを人民に周知させるためのシンボルとして、厳罰に処した。




<中国での伝統的刑罰>

 中国はその一典型であった。
この国では、秦の始皇帝が統一国家を実現して以来、犯罪者の一族の墓を三代さかのぼって破壊し消滅させた。

 これは中国人にはきわめて大きな苦しみを与える罰則だった。
なぜなら中国では古来より陰陽思想が人民の心に浸透しているからだ。

 この思想では、現世の家を陽宅(ようたく)とし、死後の家を陰宅(いんたく)とする。
両者は対をなしていて、そのセットでもって家系は存在していると考える。
だから陰宅がなければその家系は存続し得ないことになる。
墓が消滅させられるのは、一族が消滅することなる。
これに儒教の家族に高い価値を置く思想が加わって、墓の破壊は彼らを恐るべき絶望状態に落とし込んだ。

 重要な秩序の違反者には同時に、現世においても罰が加えられた。
一族は三代にわたって扱いとなり、その間、強制労働の日々を送らされた。

 ちなみに最近、北朝鮮でこの制度が実施されていることが報じられた。
また中国では現代にもこの刑罰が、慣習的になされているという見方もある。
むろん、ヒューマンライツ思想が普及した現代では、法文に明記されることはない。
だが、一党独裁での刑事法では大枠だけを定めて、実施段階に恣意性が多く残されるのが通常である。
実行段階でなされる余地は十分にあるのだ。



<集団行為の場合>

 中国ではまた重要な秩序違反行為が集団でなされたときには、その指導者をシンボルとして罰した。
その上で他は許すという方式がとられた。

 集団での犯行は多くの場合、政治的理由を持つ。
反体制的運動などはその代表である。
こうした場合、全員を罰すると多数者に恨みと復讐心が残る。
これがさらなる反乱の種になる。
だから、他は不問に付した。

 近くは五人組事件に、こうした例を見ることが出来る。
これは現統治体制の転覆を謀るクーデター行動であった。
このような運動が5人だけでなされることはあり得ないが、共産党政府は協働者を不問に付し、5人だけをシンボルとして罰した。
公開裁判で広く報道し、有罪宣告を下した。

 さらに近いところでは、小泉首相の時に彼が行った靖国参拝に対する暴動がある。
中国国内で多数が暴徒化し、日本食レストランや日本の店舗を破壊した。
日本大使館の建物の一部も破壊した。

 これを心ゆくまで続けさせた後、中国当局は、指導者のみを捕らえ、他は不問に付した。
シンボルとして指導者を罰することでもって、「これは悪いことだ」という表明を人民に行ったのである。



<シンボルは単純な代替認知物>

 シンボル(象徴と訳されている)とは、定義するならば「広大で複雑な中身を持ったものを単純に認識させるための代替認知物」となる。

 法には「・・・をするな」という禁忌の命令が大きな比重を占めている。
それは一般的・全般的な命令として公布される。
だが、一般的なメッセージの記憶は人間(特に大衆)の意識のなかでは、時と共に薄れていくものだ。

 ところがこれを少数の犯罪人によってシンボルとして示すと、人はその禁止の命令をはっきりと認識する。
具体例を見る毎に、記憶が明確になり、以後も想起再生が容易になる。




<終戦後の賠償免除>

 以上の一般論に加えて、中国と日本の間には独自な事情も加わっている。
中国には陰陽思想と並んで儒教というもう一つ強固な行動原理がある。

 この思想では、国家統治は家族の統治になぞらえて考えられる。
家族運営において、家父長は家族員に徳を持って対する。
家族員はこれに忠孝を持って応える。
この関係がなれば家族は順調に運営されていく、と考える。

 国家運営では君主は家長に、人民は家族員になぞらえられる。
家父長は人民に徳を持って対する。
人民はこれに忠孝を持って応える。
これで国家は安定的に運営されていくとする。

 そして国際関係もまたその枠組みで考えられた。
中国から見て朝鮮や日本は家族員であった。
中国は親で、朝鮮はその長男、日本はその弟であった。
中国は朝鮮や日本に徳を持って対する。
朝鮮と日本はこれに忠孝をもって応じる。
(朝鮮はこの原則を歴代守り続けてきている)
これで中国から見た国際関係はうまく運営されていく、と考えられた。

 この思想は、長い伝統の中で、中国の為政者の意識の根底に根付いていた。
それが日中戦争での敗戦国になった日本に、戦争賠償金を免除するという行動を生んだ。
時の中国の代表者・蒋介石がその恩恵を与えてくれた。

+++

「政治見識のための政治学」の項でも述べたが、当時中国元首としての行動を容認されていた彼は、8月15日に当時臨時政府を置いていた重慶から「以徳報怨」(徳を以て怨に報いる)なる有名な言葉を含めた演説をした。
そこで彼は、日本が中国本土で与えた損害への賠償請求はしないと宣言し、日本軍に降伏を求めた。
計上された対日請求額は当時の金額で500億ドルにのぼっていたといいう。

+++

 蒋介石のこの政策には様々な思惑が絡んでいたという批判もあるが、政治決定に多様な思惑が絡むのは一般的なことだ。
むしろ、そうしたなかでも「徳を以て怨に報いる」と宣言できたことが驚異的だ。
そして、巨額な戦争賠償金を免除した。
儒教思想がなかったら出来ない決定だ。
親が子のわがままに報復するわけにはいかない。
中国は自分の「子」を許したのだ。




<最高責任者のシンボル化はせよ>

 この時、蒋介石は「だが中国侵略の最高責任者は明確に罰せよ」とは言わなかった。
それは、当時まだ日中戦争の最高責任者が公式に明らかになっていなかったからである。
極東裁判で最高責任者が明示されると、中国の指導者は「これは他の戦死者とは別にしておかねばならない」と主張した。

 他の戦死者は、最高指導者の命令の下に徴兵され戦争行為をした。
この人民と、指導者の骨は共に置くべきではない。
一族全てを罰しなくてもよい。
彼らを拝することも容認しよう。
だがせめて当人の骨は、他の人民戦死者に紛れ込ませてはならない。
それが趣旨だったはずだ。

 シンボルとして提示することによって、日中戦争は間違いであり悪だったと、明確に示し続けねばならない。
前述のように大衆はシンボルがあって初めて善悪の認知を続けられるからだ。
中国はそのシンボルを求めたのだ。




<奇異な国際心理>

 だが、日本では人民も政治家の大半も、これがどうしても理解できない。
四面を海に囲まれ、アジアヨーロッパ大陸の東の果てに位置していることによって形成されてきた心理慣習が、その理解をブロックしている。

 だがこれは国際社会では奇異な事象なのである。
中国だけでなく、欧州の諸国も異民族と境界を接して国家運営をしてきた。
中国と同様に、秩序の緩み、国家の一体性の緩みを恐れる気持ちは大きかった。
だから、重要な秩序を犯したものから指導者を選び、これをシンボルとして罰した。

 隣国の政権者に取って代わったときには、従来の政権者を間違った秩序のシンボルとした。
平時においても、反秩序の行動について、その指導者をシンボルとして提示し続けた。





<悲惨体験はトラウマを産む>

 中国は日中戦争・第二次大戦を経て、日本が海を越えて侵入してくる隣国であることを体験で悟った。
だから、これが間違いだったと人民が明確に認知することを切望する。
でないと、また状況次第で同じことをしてくる危険のある国だと認識しているからだ。

 この認知を可能にする方法は、最高責任者を誤りのシンボルとすることのみだ。
(「戦後70年の平和行動を評価してください」、などは、子供の台詞なのだ)
これをしないので、隣国は常時トラウマの恐怖の中で暮らすことになっている。
この恐怖感は悲惨な体験をしたものでないとわからない。
だから分祀をしろと主張しているのだ。

 そして見逃してならないのは、これは中国だけの感情ではないということだ。
間違い(悪)のシンボルを掲げることは、国際社会では当然の義務なのだ。
分祀は、一国内の政治上の問題に留まるものではないのだ。




<指導者の美学を生む面もある>

 日本には「同じ戦争の犠牲者なのに可愛そう」という同情論もある。
だが、三代にわたって一族に過酷な刑罰を科すわけではない。
当人だけ、しかも、その骨を別の場所に納めるだけだ。
個人がそれを拝することも自由だ。

 戦時においては、国家全体が「命令=服従」のシステムで運営される。
最高指導者は、その中で、命令する側の頂点に立った人だ。
それくらいの処遇はむしろ進んで受けるべきだ。
指導者として立った時点で、それくらいの覚悟は定めているべきなのだ。

 別の場所に納めると、国民の一体性意識にマイナスを及ぼす、という懸念もあるだろう。
だが、それはプラスの面も発揮する。
分祀されて毅然として立っている姿が、指導者への美意識を生む。
それが国民の一体性意識を高める面もあるのだ。





<国際社会での義務>

 だが、それは国内でのことだ。
分祀はすぐれて国際的な政治問題である。
それは国際社会における義務なのだ。

 ところが日本は政治のトップまでもがそれをわからない。
「他国の政治問題に口出しするな」などといっている。
国際社会ではこれは素っ頓狂な言葉なのだ。

 日本がシンボルの機能に無知蒙昧なままでいるので、隣国民族である中国人としては、過去に受けた残虐行為を訴求し続けるしかない。
諸事例を提示し「忘れるな、思い起こせ」と訴求し続けるほかなくなる。

 ところがそれは日本人には、自国民全体への非難メッセージに聞こえてしまう。
これを耳にし続けると、日本大衆の心には、やり場のない怒りが蓄積していく。
これが嫌中意識を生んでいく。

 同時に、中国人も自らの発するメッセージで、悲惨な体験を再想起し、それによって自分を傷つけ、トラウマを深めることにもなる。
こうして、このメッセージは双方の心中に恐怖と憎しみと呪いの意識を蓄積していく。

 歴史事態は、50パーセントくらいまでは、緩慢に進行する。
だが、残りの半分は一気迅速に実現する。

 蓄積されていく怒りはひとつの偶発事件によって暴発しうる。
両国民は、まるで悪魔が仕組んだかのような道を、それに向かってなすすべもなく前進している。
我々は、昔の悲惨さに戻ってはならない。
そのため、「国際社会の義務として」一日も早く分祀をすべきである。

(以上)






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