前回に鹿嶋は中国の日本への賠償放棄における儒教思想の影響や分祀の要求の真意などについて述べた。
この機会に、中国における人民統治の全体像把握も試みておこう。
<儒教は家族重視姿勢を浸透さす>
儒教は中国人に家族・一族重視の姿勢を深く強固に形成した。
この姿勢が、幕藩国家を最高の国家とするという思想を人民にもたらした。
人民の土着の心情はその国の国家観を決める。
それは各地方の部族国家(藩)を温存し、それらを巧妙に中央朝廷で統合していく、というシステムを人民に支持させた。
清朝国家、すなわち、清国は日本の徳川幕藩体制と類似の構造的の幕藩国家だった。
<西欧列強は国民国家だった>
対して、清国を侵蝕してきた西欧国家は国民国家の制度を持っていた。
国民国家とは、人民が民族国家に最高の価値を感じて、全民族が一体化するシステムの国家である。
この制度が機能すると、国の富や武力は向上する。
西欧列強の強さの一大要因がこれだった。
<明治国家の決断>
日本の明治維新指導者は、幕末にそれを素早く読み取った。
そこで維新がなるや版籍奉還と廃藩置県を速やかに実施した。
これで人民は、自分の藩に最高の価値を置く心情から、強引に脱皮させられた。
清国はそれが出来なかった。
地方に藩閥国家が割拠していた。
<始皇帝の儒教弾圧>
その精神基盤を形成するのが儒教思想だった。
秦の始皇帝の天才は、これを見抜いていた。
彼は漢民族を統一して初めて民族国家中国を物理的に確立した。
彼は同時に、精神的にも国民国家を建設しようとした。
人民が中国という民族国家に、藩(地域国家)以上に価値を置く国家を造ろうとした。
そのために、儒教思想が障害となった。
この思想は家族運営をベースにして国家運営を考える思考様式を持っている。
それが結果的に、家族重視、一族重視、地方国家(藩)重視の姿勢を生むからだ。
儒学者は、儒教思想を超越する国家作りに反対した。
始皇帝は儒教の書物を焼き、儒学者を捕らえて生き埋めにした。
だが、中国を国民国家にするには、始皇帝の25年の統治期間は短すぎた。
儒教はすでに一般庶民の心情深くに染み込んでいた。
中国では以後清国時代まで幕藩国家のままできた。
<孫文革命も国民国家を遠望>
そしてついに清朝中国は列強に侵蝕され始めた。
辛亥革命における孫文も、国防力を高めるため、国民国家を遠望していた。
国民党活動での蒋介石も、また国民国家を遠望していた。
だが、出来なかった。
中国では人民を、自由意志をあたえつつ国民国家に誘導することはあまりに困難だった。
これをすると、人民は土着の一族重視姿勢に収束していってしまうのだ。
国民国家を実現するには、強権国家からの上からの強制が必要だった。
毛沢東の天才はこれを見抜いた。
かれにとって共産国家思想は、実は、国民国家実現のための道具であった。
それを知るには、共産制国家をその構造から認識せねばならない。
<マルクス思想は強権国家思想>
マルクスは資本主義制度の矛盾と、その不平等性をあばきだし、その根源にある私有財産性をなくせば「自動的」に理想社会は実現すると説いた。
だが、彼には人間集団の「運営」を見る目が皆無だった。
私有財産をなくし、国家財産にすれば、それらは巨大な経済財となる。
そしてその運営義務は国家統治者(官僚)のもとに集中する。
巨大な経済財を中央政権の理想で運営する際には、必然的に、膨大な生産計画書の作成とその実施のための「命令」が必要になる。
つまり、共産主義国家は、全人民を「命令=服従」のシステムで運営する国家となるのだ。
一つの「思想」で人民を「命令=服従」のシステムに組み込んだのは、人類史上初めてのことではない。
西欧中世を通して国教の地位を得たカトリック教団は、1200年にわたってそれをした。
この体制が、産業革命と市場経済システムによって崩壊した。
共産主義、社会主義思想は、このシステムの国家を復活させたと見ることも出来る。
<毛沢東、共産主義思想で国民国家を実現>
毛沢東がこの共産主義思想を掲げたのは、すぐれて国民国家実現のためだった。
むろん彼はスローガンとして平等社会の理想も掲げた。
地主の農地を農民に暴力的に没収させた。
だがごく短い間を置いて、その土地を農民から没収し、国家の管理下に置いてしまった。
農民はだまされたことになるが、毛沢東からすればそれは予定の行動であった。
彼は同時に、諸分野に共産制を実施することによって儒教の一族最重視思想を粉砕した。
共産党独裁体制は、中国を国民国家にするに不可欠な手段だったのだ。
いまもそうである。
儒教精神は人民の心情に浸透しきっているからである。
<周期的な民主化運動>
戦後、市場経済方式を度乳すると、西洋から民主制、自由選択システムの思想も入った。
人間の心底には自由選択システムを求める意識も深く横たわっている。
この思想は、若者が先行的に受け入れやすい。
そこで中国では民主化の要求が主に若者の運動となって周期的に現れることになった。
天安門事件もそうだし、昨今の香港における学生の民主化デモもそれだ。
だが、中国では当面一党独裁の強制システムがないと、の国民国家状況は維持できない。
そこで、ある程度運動をさせておいた後に、リーダーをシンボルとして罰する。
これが現代中国である。
この国には人口が日本の10倍もいて、それが多民族で構成されている。
それが複数の異民族に隣接している。
中国の統治は日本の何十倍も難しいのではなかろうか。
我々はそれをよく知って、中国を見なければならない。
でないと、中国という国がわからなくなってしまう。
実際、今の日本人のほとんどがその「わからない」状態にある。
フェースブックに提示される意見にもその現状が絵のように表れている。
(中国論 以上)
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今年もクリスマス休暇期間を過ぎ、残すところあとわずかになりました。
新年を迎えるにあたり、若干の付言をしておこうと思います。
鹿嶋は日本人の中国へ無知・盲目を非常に憂えています。
これを打開する必要を痛感しています。
現実に、こんなことも考えます。
傲慢と評されることを承知で、多くの日本人が、鹿嶋のこの情報を身につけ、さらにそれを踏まえて中国知識を豊かにして行かれることを期待し勧めよう~と。
だが、実際にはそれは相当困難であるように思われます。
理由は一つには、こういう広域的な話を追っていると、人は非常に疲れることにあります。
人は、通常は自分の等身大の身辺のことをイメージ世界におさめて生活しています。
その世界を広げると言っても、せいぜい家族や親族や友人、あるいはクラブ活動や同窓会、勤務する会社などまでです。
それでも等身大からイメージを拡大していくと、その思考のために必要な精神エネルギーは加速度的に増大します。
イメージ世界が拡大するにつれて、不確かな情報は増大し、そのイメージを心に保つための精神作業が増えていくからです。
なのにそれが民族や国家などにまで拡大すると、その世界のイメージを心に保持するだけで大変となります。
ましてや中国のような異文化国家の事柄を思考するのは、なお一層疲れることです。
それには自分の直接経験から中国人の心情を追体験せねばなりません。
この作業が精神的に重労働なのです。
<特殊事情もある>
以上は一般的に言えることです。
鹿嶋がここに述べた中国論は、さらに特殊な事情によって出来上がっています。
それは、例外的な恵みの結果でもあるのです。
これらの恵みをあげてみますと~
・中国研究のために必要な時間と研究費を得られました。
・日本の中国研究者(中国語の通訳が出来る)と共に、中国の諸都市に一度ならず立つことが出来ました。
・日本人研究者の通訳のおかげで中国での中国研究者から、活きた本音の情報を引き出すことができました。
・日本人研究者の通訳のおかげで、タクシーの運転手からも身辺情報を得ることが出来ました。
・国内で、日本の大学で教鞭を執る中国研究者と、本音の会話をすることも出来ました。
(文献による中国紹介はまだ不十分なところが多く、親しく交わった上での私的会話で初めてわかることが多いのです)
・日本人の中国研究者からも多くの情報・見解を得ました。
(中には中国人を夫人にしている人もいて、その日常生活からの比較文化論的発見には啓発されるところがおおいにありました)
また、これは自分でいうと自負・自慢に聞こえるでしょうが、敢えて述べておきます。
こんなところで自慢などしてなんになりましょうか。
・鹿嶋自身に、異国の識者に人なつっこくできる気質が備わっていました。
・友好的な雰囲気の中で、相手の本音を引き出す方向に誘導していくという、いわば発問誘導力のようなものも鹿嶋にはありました。
~ともあれこのようなきわめて例外的な条件に恵まれて、鹿嶋の中国論は不十分ながらも形成されました。
それは、顧みて比較すれば、以前の中国知識が滑稽に見えるほどに向上したものでした。
それによって鹿嶋はまた、妥当な中国理解を心に造ることは、日本国内で仕事に従事する生活をしていたのでは難しいことも痛感しました。
この種の情報を、国内生活者がかみ砕き吸収するには多くの追体験作業が必要になります。
その精神作業は膨大になり、やれば非常に疲れて、ほとんど不可能になるのです。
<創造神イメージの有効性>
けれども、これにも打開の道があります。
それは広域イメージ世界の思考に慣れることです。
そしてそうした慣れを国内にいながら訓練して造る方法があります。
それは、聖書にある「万物の創造神イメージ」を抱き、その懐の中で展開する物語を吟味する(出来れば小グループで)という方法です。
万物の創造神は人間の描きうる最大スケールの世界イメージです。
万物を造った存在は、時間的にも空間的にも無限の範囲に及ぶ無限者です。
聖書にはこの中で展開する壮大な物語が描かれています。
天地が創造される記述も、ノアの大洪水の話もみなそうです。
この極大な時空イメージとその中で展開される壮大な話を吟味していれば、自然に慣れが出来てきます。
慣れれば広域思考への持久力も身についてきます。
さすれば民族や国家のイメージなど楽に心に保てるようになります。
これは実は中国事項だけのことではありませんが、提供される中国情報も楽々とイメージに納められるようになるでしょう。
(完)