鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

18. <ルターの宗教改革が英国国教会を誕生させ、聖句主義者が英国を変革する>

2013年10月31日 | 聖書と政治経済学




だがこの世の権力が永久に続くことはない。16世紀に入ると、1200年に及んだカトリックの欧州一円支配体制は崩れた。
風穴を開けたのはルターの宗教改革であった。

ここで読者は留意しておくべきことがある。我々が教科書で学んできた宗教改革には聖句主義者が視野に入っていない。
まずカトリック教会があって、そこに宗教改革が起きて、全く対極のプロテスタント教会が誕生するというストーリ-になっている。

だがそれは片目だけで見たキリスト教史観である。正しくはルターやカルバンの起こした宗教改革の実態は「教理主義教会内でおきた改革運動」にすぎない。
実はこの教理主義勢力の対極に、膨大な数の聖句主義教会が存在する状態で、キリスト教史は動いている。

その全体的流れの中にプロテスタント教会が出現した。
ルターが誕生させたのは、カトリック教会と同じく、教理を聖句よりも上位において教会運営する教理主義教会の一グループなのである。




< ルター、宗教改革の実態と成果>

ルター宗教改革の主眼は、教皇という存在を無くすことに置かれていた。
彼はカトリック教会が奉じる教皇の権威は、聖書に根ざしていないと主張し、一大運動を起こして、この職位を教会から取り除こうとしたのである。

ちなみにカルバンはルターが撒いた冊子にフランスで影響を受けて、後に宗教改革運動を進展させるもう一人のスターである。

当時ドイツはまだ統一国民国家になっていなかった。各地域の所領を諸侯たちが独立して統治していて、日本の戦国時代のような状況だった。
ルターは、神学者であると同時に卓越した戦略家でもあって、これら諸侯たちの支持を、あらかじめとりつけておいて改革運動を開始した。
大名諸侯たちは、ルターの主張する方式の教会を自国の領内に作っていった。




< 欧州初の宗教戦争が始まる>
 
 カトリック教団はカトリック宗主国の二大国家フランス、スペインの軍隊をドイツに出動させた。
ドイツ諸侯はこれを迎え撃って、欧州初の宗教戦争がドイツの地で開始された。戦は1517年に火ぶたを切り、実に40年も続いた。

1555年に両者は妥協し、アウクスブルクで「宗教和議」を開催した。終戦時のドイツ国内は四〇年間にわたる戦火に荒れ果て、人口は3分の2に減少していたという。
カトリックは、ドイツ連邦国内でルター派がカトリックと同等に教会を開く権利を認めた。
どちらの教会を選ぶかは領主が決定し、人民は領主が選択した方の教派に従う、という方式だった。




<イギリスに国教会が噴火>

ルター派教会も教理主義である。宗教和議後も、カトリック教会とともに聖句主義者を迫害した。
ところがこの戦争中に、海を隔てた英国の宗教界に激変が起きた。
1535年、時のイギリス国王、ヘンリー8世が突如英国国教会を設立し、国教をカトリックからこれに変更したのである。
これを押さえるべく出動させる軍隊余力は、スペインにもフランスにもなかった。

豪腕ヘンリー8世は、カンタベリー大司教に国教会の諸事項の最終決定権能を持たせた。
こうして彼にカトリックの教皇的な職能を持たせながら、その任免権は王自らの手に保持した。
国王は政治から宗教に至るまで、国王主導で統治できる体制を確立したわけである。



<宗教に急速な規制緩和>


聖句主義活動に自由をもたらす効果では、この英国での宗教改革の方が百倍強烈だった。ヘンリー8世は、カトリック修道院の土地建物を没収し、カトリック僧侶も追放した。
そして新たに任命された英国教会の新僧侶には、カトリック僧侶のような厳密かつ執拗な宗教統制の技量はなかった。統制のプロをなくした英国では宗教統制が急緩和した。

聖句主義者はいつでもどこでも国家をばらばらにする無政府主義者と誤解されるので、英国でも火刑は相変わらず行われた。
だが、その頻度は極端に少なくなっていった。こうして大幅に自由化された宗教世界が、ルター戦争が決着する20年も前に英国にできあがった。



< 聖句主義者英国に流入>

聖句主義者は、信仰活動の自由を求めて住み慣れた地を簡単に後にする「イミグレ」であり、かつスモールグループが連携して、驚くべき迅速な情報ネットワークを保持する人々である。
彼らは、水が低きに流れるがごとくに英国に移住した。



< 聖句主義活動、英国人精神に影響与える>

自由度の高い英国では、聖句主義者は社会の表面に出て活動できた。そしてその姿が一般英国民に影響を与えた。
元英国女性首相サッチャーの回顧録にも、雑貨店を営んでいた両親が影のようにやってきた幾人かの大人とともに、聖書を開いてなにやらひそひそ話し合うことが周期的にあったと記している。(日本経済新聞「私の履歴書」)。
これはスモールグループでの聖句吟味活動以外のなにものでもない。

国教会の司教や司祭ら社会的地位の高い人々も、聖句主義者の活動を目にし、その真摯で活性に満ちた姿に、知的にも霊的にも強烈に覚醒された。
彼らのうちから、自分たちの国教会の運営方法に対する批判意識を抱く者が出て、ついに一部が国教会の内部改革運動を展開するに至った。
これがいわゆる英国ピューリタン(清教徒)運動である。

現代、公式の歴史教科書には英国清教徒運動の発生理由が記されていいないが、実状はそういうことである。



< 英国ピューリタンの実態>

ピューリタンという呼び名は元来は欧州大陸にいたバイブリシストに対する旧くからあるニックネームだった。
聖句主義者たちのひたむきな姿は一般人の目には「純粋な奴ら」という風に映るので、
英語のピュア(純粋な)という語の意味を含んだピューリタンというあだ名は、自然発生しやすいのである。

英国教会の改革運動に身を投げかけた司教・司祭など教職者も、一般人に「純粋なやつ」との印象を与えたのだろう。
誰が呼び始めたのか、彼らもまたピューリタン(清教徒)となった。だが、これは英国ピューリタンないしは近代ピューリタンと呼んで区別した方がいい。
 
彼らからは、命知らずの内部闘争を激烈に行うものも出た。これは内部改革ピューリタンと呼ぶべき人々である。
体制側はこの内部改革者を激しく弾圧した。その結果、内部改革を断念して国教会から分離独立して信仰活動をするという教職者も出たし、それに従う一般信徒も増大した。
国教会に所属せねば職業など様々な面で不利益を被るにもかかわらず、彼らは分離した。

彼らはセパラティスト(separatist)とかセパレーショニスト(separationist)とかいったニックネームで呼ばれた。
日本で分離派清教徒、分離派ピューリタン、あるいは分離主義者といった名で呼ばれているのはこの人々である。

ここで留意すべきは、どちらの英国ピューリタンも教理主義者だったことである。
聖句主義者に覚醒されながらも、彼らは教理主義を脱するところまでは行かなかったのである。

余談だが後にアメリカ大陸に植民の道が開けると、分離派ピューリタンは、大挙してボストン地域に移住する。
ボストンは分離派清教徒の街になり、彼らはこの街に来た聖句主義者を捕らえ投獄、鞭打ちなどの罰を与えることになる。ここに教理主義者の性格が表れているわけだ。

にもかかわらず公式の歴史書物はみな、アメリカに渡ったピューリタンを自由の申し子のように書いている。バイブリシズムへの無知が産み出す噴飯ものの盲目知識の一つがここにある。
いうまでもないが、自由の申し子がいたとすればそれは聖句主義者たちに他ならなかった。



< 国教会の宗教統制力、形骸化する>

英国国教会(the Angican Church)もまた唯一国教制の教会であって、他の教派を造ったり信じたりする活動を規制すべき存在だった。
だが内部改革派や分離派のピューリタンが出ると、その宗教統制力は急速に減退し、 それにつれて新教会が続々と出現して成長するようになった。
日本で青山学院や関西学院を創設している「メソディスト教会」、同志社大学をつくった「組合派(会衆派)教会」、明治学院を造った「長老派教会」などはこの頃の英国に生まれている。

これらの教会を異端としてつぶしてしまう力は、もう英国教会にはなかった。さすれば、もうこれにはアングリカン・チャーチと言う名は妥当でなくなる。
それに併行してこの教会には別の呼称も現れた。エピスコパル教会(Episcopal Church)」がそれである。日本語では、監督派教会、とか聖公会とかに訳されている。
これもまた維新後の日本で立教大学を創設している。が、ともかくこの時点では英国教会はもはやプロテスタント教会の一つという風情である。



<イギリス黄金時代の原動力を形成>

この状況はますます聖句主義者を水を得た魚にした。彼らの活き活きした姿を見、活動を模倣し英国人民の精神も急速に活性化した。
かくして18~9世紀の英国は、全土壌から聖句主義活動が醸成する自由の蒸気が沸き立ってくるような状態になった。

この精神風景を雰囲気として心に抱くことなくして、近代英国史の総合的理解は出来ない。
この国が突如七つの海を支配して黄金時代を迎ええたのも、人民のこの精神活力の上に咲いた華であり果実だったのである。

余談だが、判例ベースで構成される英米法も、この聖句主義の認識思想の上にできあがっている。
他方、欧州大陸では、法典体型主体の大陸法が大勢になっている。これもまたカトリックが維持した教理主義的気風を背景とするところが大きい。




<イギリス聖句主義者は社会改革志向をもつ>

近代英国に萌え出た新教会は、みな教理主義教会だったが、一つだけ例外があった。英国近代バプテスト聖句主義教会がそれである。
この教会は聖句主義活動史のなかでも独特の性格、社会改革気質をもっている。




<アナ・バプテスト>

バプテストという語の意味は何か。
これはそもそもは聖句主義者へのニックネームで、最初はアナ・バプテストだった。
アナは「再び」という意味の接頭語で、バプテストは「洗礼する者」という意味である。あわせて「再洗礼者」という意味になる。

アナ・バプテストなる語の由来は次のごとくだ。
欧州大陸での聖句主義者の多くは山岳地帯に逃れ住んだことは前述した。だが彼らは、迫害・統制が緩くなった時には平地に出てきて活動した。
その彼らに接触した一般人のなかから、聖句主義活動の自由と精神性の深さに感動し、その群れに加わることを切望するものが持続的にでた。
ちなみにこの種の現象は今日でも米国で周期的に起きている。

がともあれ聖句主義者は「来るもの拒まず」なのでこれを受け入れた。ただし、その際新参者に水に沈めるバプテスマ、すなわち浸礼を要求した。

中世欧州の一般人民は生まれてすぐに幼児洗礼を受けてカトリック信徒ということになっていた。
だが赤子に信仰などないと考える聖句主義者は、これをバプテスマとして認めなかったのである。
加えて新参者が受けてきた、滴礼も認めなかった。滴礼とは水を何滴か額に垂らす方式のものだが、彼らは聖書に記されている洗礼は全身を水に沈める「浸礼」のみとした。

そこで、新参者にバプテスマのやり直しを求め、川に連れて行ってザブンと沈めた。
川でやれば一般人の目に入る。人々はそれをみて「あいつらはバプテスマを二度させる再洗礼者」だといった。それをラテン語でアナ・バプテストと呼んだ。

ちなみにこれは当初は軽蔑を込めたあだ名だった。
キリスト教信仰者へのニックネームはみな当初は外部者がつけるあだ名で始まっていて、かつそこには軽蔑の気持ちが込められている。

クリスチャンという呼び名も、古代の小アジア地区で始まっていて、当初は「キリスト野郎」という意味の蔑称だった。
「なんか訳のわからんことに入れ込んでいる馬鹿な奴ら」と人々はみたのである。
ところが信徒がだんだん多数派になると大衆は見直し、軽蔑感が薄れていって、クリスチャンの名も今はいい感じで聞かれるようになっている。

アナ・バプティストの名もそうだが、これには一般化するにつれて用語の簡略化も起きた。「アナ」が省略されて、バプテストとなったのである。昨今ではモバイルゲームがモバゲーとなったがごとくだ。
ともあれこうして、欧州では昔からバプテストの名はあちこちで散在していたのである。



<英国に近代バプテスト誕生>

そのバプテストの名を、近代英国に聖句主義教会を創始した人が自称した。事情は次のごとくだ~。
英国教会の司祭にジョン・スミスなる人物がいた。
彼は大冊の著書も出している卓越した神学者でもあったが、分離派清教徒となったために1606年に国王ジェームス1世に国を追放され、仲間の二人と共にオランダに亡命した。
そしてそこで聖句主義者と交わりをもった。

このころオランダにはメノナイトと呼ばれる聖句主義者がたくさんいた。スウェーデン、デンマークなど北欧諸国は、中世には北の辺地であってカトリックの追求が及びにくかった。
オランダでも聖句主義者は、ライプチヒの街の通りやアムステルダムの堤防の上などで聖句解読を示し、福音を説いていた。

それを聞いたスミスらの目から鱗が落ちた。
彼はこれぞ福音の神髄と確信し、1609年、自ら水に沈んで再洗礼(浸礼)をした。他の二人も続き自分たちをアナ・バプティストと称した。

スミスら三人は、名実共に聖句主義者となってこの年英国に戻った。
この頃、統制はさらに一段と緩くなっていたのだろう、彼は知人たちに呼びかけ最初の英国聖句主義教会を設立し、これをバプテスト教会と呼んだ。

英国ではその後、バプテストの名称を冠した教会が多く造られていき、バプテストの名が英国近代聖句主義者を代表する名称となっていった。
またこれによって以前に聖句主義活動をした人たちも、バプテストと呼ばれるようになった。スミスはこの教団の創始者とされている。




<メノナイト聖句主義者>

スミスらを聖句主義に導いたメノナイトという人々の名もまたニックネームとして始まっている。それは指導者メノ・シモンズ(Menno Simons)に由来している。

彼は裕福なカトリック教徒だったが、やはり聖句主義活動を目にして感動し、1536年にこの活動に身を投じた。ルター宗教戦争勃発の十年後である。
その彼に影響を受けて運動に加わった人々がメノナイトと呼ばれるようになったのである。

彼もまた「最終権威は聖句にあり」等のバイブリシズム原理を説いた。
だがそのうえで「教会での教えはこの世での個々人の職業生活、家庭生活、日常生活のすべてに厳密に適用されねばならぬ」と教えた。
これを受けた信徒は、日常生活に福音を活かそうという志向が強くなった。その結果、彼らは、温厚で、平和的で、法律遵守で、人徳があって、根気と我慢強い人々の集団になった。

彼らは移住性向が顕著に高く、自由な聖句主義生活のためにはどこにでも移住した。あるグループはロシアに移住し、雪を掘り起こし土を耕してジャガイモを育てながら暮らした。
また、ある集団はスイスの山々で暮らしながら信仰生活を守り、聖句主義活動を伝えた。

オランダには政治的に超過激な聖句主義者もたくさんいた。 だがその多くは体制側と流血の戦いをし、殺戮されていった。
そして生き残ったものがメノナイト派に合流したので、この会派は大きな聖句主義集団になった。なお、メノナイトについては、早くから英国の街々で聖句主義の方法を説いていたという見方もある。



<英国バプテストは社会有力者が主導>

英国バプテストは近代に開始されたバプテスト集団なので、近代バプテストと称して区別するのがいい。
この集団は、従来の聖句主義者と違って、強い社会改革志向を持っていた。

聖句主義活動は体制側から迫害されるので、地下におけるアンダーグラウンド的なものになる。そういう活動には現体制での社会地位を持った人は加わりにくく、活動者の多くは、通常庶民となる。
メノナイトも、個々人が聖書の教えを職業生活、家庭生活、個人生活に厳密に適用することに価値をおいて生きる庶民だった。

ところが英国近代バプテストは、社会的地位のある人や知識人が主導する集団としてスタートしている。
創始者のスミス自身が英国教会の教区司祭(vicar)だった。当時の国教会司教は地位も財産もある素封家で、地域社会の指導者にして名士だった。
特に彼は複数の書物を書いた神学者でもあり普通の司祭をはるか超えた存在だった。スミスは、死亡する1612年に後継者のために、信仰表明書も書き残している。
ちなみに、そこでは国家とクリスチャン信仰との分離独立を明白にうたっている。

その彼の呼びかけに応じる人々もまた、多くが社会的有力者や知識人となった。彼らは、早期にカンファレンス(聖句主義の神学学会)まで開いている。

こういう人々は、聖句主義活動を個人の信仰生活で実践するだけでよしとしない気質を持つものだ。彼らは聖書解読の自由が迫害されずに行える国家、社会の実現をも志した。
英国近代バプテストは自由のために社会の仕組みをどうすべきかを熱く議論する集団ともなったのだ。







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17.<階層管理方式の教会の出現と中世暗黒時代>

2013年10月25日 | 聖書と政治経済学




しばらく海外に出ていたため、更新が遅くなった。再開する。




<教会参加者の質が変わる>


 初代教会の成長は爆発的で、信徒は開始後30年でローマ帝国全土に広がった。
そうしたなかで紀元後2世紀に入ると、管理階層システムをとる教会組織がキリスト教団内に出現した。

新らしい宗教運動が急成長をみせると近隣者は当初気味悪く感じ、恐怖と怒りを抱いて集会を襲撃したりする。
だがある程度普及して、思ったほど有害でなくかつ社会貢献もするとわかると迫害は和らいでいく。

他方、教会では初代教会以来、参加者は依然として生活面でも助けあっていた。
「信徒はもてるものを使徒たちのところに提供し、使徒たちはそれを信徒の必要に応じて分け与えていた」
~と『使徒行伝』という書物は記しているが(2章44~45節)、その方式で、教会は運営されていた。

マルクス、エンゲルスの言葉に「能力に応じて働き、必要に応じてとる」というフレーズがある。
共産主義社会になったらそういう理想の世の中になるよ、と訴求した名文句だが、
この思想はもとは聖書のものなのである。

参加者の生活の世話をしてくれて、病の癒しも相変わらず現れているのなれば、
迫害が少なくなるにつれて、参加を望む者は加速度的に増える。
するとそういう社会経済的恩恵をうることを主動機として教会に参加してくる人が多くなるのは自然の理である。
こうして信徒の質が変化する。




<指導者が聖書の要約をつくる>

教会はこうした人も拒まず受け入れるのだが、運営上の問題が起きた。
こういう参加者の聖句への好奇心はあまり強くない。文字を読めない人もいただろうし、
裕福で教会活動に聖句主義者のように多くの時間を割くことが出来ない人もいただろう。

こういう人々の間では、スモールグループでの聖句自由吟味方式は機能しない。
指導者たちは結局聖書の簡素な要約を一つ作って、これがキリスト教の教えだとして与えるしかなくなった。
それは最初はやむなくとった手段であったが、慣習化して一つの制度になっていく。
すると教会員の思考方式に劇的な転換が起きることになる。




<教理主義>

新方式を取る教会組織は後に大発展してカトリック教会と呼ばれるようになる。
そこで今からその名を用いて言うと、カトリック教会の経典に対する姿勢は初代教会のそれと対照的になった。

この教団は聖句の代わりに、教会としての「聖書の簡素な要約」を作って、これが「キリスト教の正統な教え」だとして与える。
それは信徒に聖句の吟味をさせないことに直結する。

「聖書の簡素な要約」を教理という。教理は文字通り「教」えの筋道だった「理」屈である。
そういう筋道は、聖書を読む時には誰でもある程度頭の中で造っていくものだ。
だが、これが「正統な教理」として教団から統一されて下されると、信徒にはは聖書を読もうという意欲が生じなくなる。
「正統な」解釈(教理)がわかっているのなら、わざわざ聖句を読む必要がないからである。

指導者もまた、それと異なる解読は公言しがたい。
そこで教会では時と共に聖句よりも教理が実質的に上位にたっていくようになる。
こういう行き方を教理主義という。
「主義」というのは、「こちらの方がベターである、上位である」という意味を持っている。
英語ではCreedalismないしはDoctrinismという。現在米国では北部の方で この方式が優勢になっている。




<聖句主義>

対して初代教会以来行われてきたのは聖句そのものを最終判断基準とし、聖句に究極の権威を認めてする方式である。
これを聖句主義というのである。英語では前記したBiblicismがそれに当たる。
そこではいかなる教理(解釈)も聖句より上位の権威をもつことはない。米国では南部地方でこの方式が優勢である。




<教理主義と聖句主義は水と油>
 
この二つの活動方式は、基底的なところで対立している。

学問知識とは科学による知識のことであるが、この習得方式に照らしてみると、
教理主義方式は義務教育での授業による習得方式のようなものである。
そこでは生徒に教科書に書かれているのは正しい知識だとして受け入れ習わせる。

対して聖句主義のそれは学界での学者の習得のようである。
学者の勉強会を学会と言うが、そこでは学者は自己の研究成果を各々述べる。
そういういろんな説を互いに討論し吟味して、各々が自分の見解を抱いて帰る。

義務教育での教科書に載る知識は、実際には学界で優勢になっている「時の定説知識」であるにすぎない。
だが義務教育では生徒は通常、これを正しい知識として学ぶ。
これが教理主義の姿であり、聖句主義教会では学会での学者の姿勢を信徒はもっている。

また、聖書に対する問題意識も異なってくる。
教理主義では信徒は教理に「そこからとるべき行動、人生姿勢を引き出そう」という意識で対するが、
聖句主義では聖句の中に存在世界全体の法則を見出そうとする。

かくして教理主義はキリスト教を「考えない宗教」にし、聖句主義は「考える宗教」にする。
この対立は基底的であり、相容れる可能性はゼロである。両者は水と油であった。




<教理主義独自の展開>

以上の説明は、教理主義は聖句主義に全面的に劣るという印象を与えがちだが、実体はそうではない。
教理主義教会にも独自な特色があるのである。

まず、教理主義教会では、信徒の献金でもって活動するプロの指導者、すなわち職業僧侶が出来やすくなる。
プロとなれば、僧侶は経済生活の事柄に煩わされること少なくして、指導活動、研究活動に専念できる。
そのなかで僧侶の活動能力は洗練され、多様化していく。
建築設計に卓越した者も出る。彼らは壮麗な礼拝堂を設計した。
また音楽編成能力に卓越したものは優美な賛美音楽をも作成した。




<霊的感銘を補填する>
 
これらは、礼拝時の感動不全を補填した。
聖書の要約を与えられてしまうと、聖句探求によって奥義を発見したときの「真理を見出した!」という霊的感動は得られない。
この補填に壮大な礼拝堂や教会音楽は役立つのである。

壮大な礼拝堂(聖堂)は荘厳な雰囲気を形成する。
音楽は霊感を開く効果を持つので、優美な賛美歌合唱もまた敬虔な気分にしてくれる。
僧侶たちは、それらを厳粛な礼拝儀式のなかで提供した。
儀式化すると、一度の礼拝に大量の信徒を出席させることが出来る。
僧侶たちはまた日曜礼拝ごとに壮麗な式服で登場した。

その他、週日にも一般信徒の日常生活の折々に適した神秘感ある儀式サービスを提供した。
近親者が死んだら葬送の儀式をし、結婚には結婚式をし、子供が生まれたら祝福の儀式をしてあげた。
信徒はその時々にあらたまった霊的な気持ちなることができた。




<階層管理組織での統率が必要になる>

教理主義教会では、大衆信徒の教会活動は楽になっていく。
儀式はみなプロがお膳立てしてくれているので、
日曜ごとに礼拝に出て座っていて、礼拝が終われば献金して帰ってくればいい。
それは大衆にとってとても参加しやすい状況なので参集者はますます増えた。
この教会運営方式は、一度に大量の信徒に対応できる利点をもっていたから、
信徒は加速度的に増大し献金総額も増大の一途をたどった。

ところがこの状況は、信徒の一体性を実現するには困難をもたらす。
大衆信徒には聖句主義者のように聖句の理念を共有しあって自発的に一体化するということはないからである。
指導者は信徒が増大するほどに、強力に統率してあげることが必要になった。

そのために僧侶自身が管理階層を形成した。
自らが命令系統の中で組織的に行動し、信徒をその管理体制の中に整然と組み込んでいった。




<司祭、司教、大司教、そして教皇>

職業僧侶の階層管理組織の 職位は、司祭、司教、大司教であった。
司祭の職務は、各地の教会の礼拝や聖餐
(イエスの肉と血を記念するため、パンと葡萄酒を口にする行為で、イエスはそれを命じていった)
~の儀式を執り行うこととした。この職位は会社でいえば課長、係長に相当するだろう。

 司教の職務は、そうした教会や司祭を地区ごとにまとめて統率することであった。これは部長である。

 大司教のそれは、司教の管理する地区をさらに複数集めて管理統率することであった。これは重役だろう。

 教団全体に関わる事柄は、当初は大司教の会議で決めた。
だが後に教皇(法王ともいう)という最終決定の絶対的権限をもった社長を登場させた。
これで大司教の会議で意見が分かれて膠着状態が続くようなこともなくなった。

この方式をとる教会が、後にカトリック教会と自らを称するようになっていくのである。
教理主義教会は、聖句主義教会とは様変わりなものとなった。
そして、教会堂や僧侶の服装などその様相は外部者の目につきやすいものであった。
それもあって、人々はこの教会をキリスト教会の代表とみるようになった。
量的な大発展とも相まって、カトリック教会で行われる諸活動が
「キリスト教とはこういうもの」という印象を人々に与えていった。




<聖句主義教会への攻撃が始まる>

職業僧侶のなかには神学(聖書解釈学)能力に秀でた者もあった。
彼らは神学校設立に貢献し、後継僧侶を養成した。

カトリックの神学校に新たに入る若者は、
「キリスト教活動とはカトリック教会でなされているようなもの」との印象に疑念を持たない人々である。
彼らは教団教理を絶対の真理だと学ぶ。
そして卒業して僧侶になると、自分は絶対の真理を知っていると思い
聖句主義者を真っ向から否定するようになっていった。
「正統な解釈がわかっているのに、お前たち聖句主義者は何をいろいろ解釈してやっているのだ!」
~というわけである。彼らは聖句主義者を攻撃するようになっていく。

彼らは「異端」という言葉を用いて攻撃した。
教理主義方式方式では正統な解釈を定める。するとそれに反する解読を異端とすることになる。
他方、聖句主義では正統解釈を定めないので異端という言葉は出てこない。
彼らは自分たちにない言葉でもって攻撃されたわけである。




<カトリック教団、ローマ国教に>

ローマ帝国はキリスト教運動に大迫害を加えた後、カトリック教団を公認宗教にし、
さらに帝国の唯一国教とするに至った。

唯一国教となれば、全国民をカトリック信徒にするのが義務となる。
そういう世界では他の宗教は認められない。ここから欧州の思想統制時代が始まる。
教団は国家権力を背景に様々な手段を用いて人民をカトリック一色に染め上げようとした。

ところがこれに頑として従わないキリスト教徒がいた。聖句主義者がそれである。
だが国教となれば教会は国家の一機構でもあるから、国家の法制度や軍隊を用いることが出来る。
教会は聖句主義者を見つけ次第逮捕し、広場で火刑に処した。
こうして1200年に及ぶ聖句主義者の過酷な歴史が始まった。




<中世暗黒時代とは>

現代、世界史の教科書に中世暗黒時代という用語が出てくる。
だが、生徒にはその意味は漠然としたままである。
カトリックという宗教教団による思想統制に教科書を書く歴史家たちが無知であることによる。

この状況を理解すべく引き合いに出せる現代的事例と言えば、社会主義国家だろう。
ここでは共産党以外の政党活動を許さないし、共産主義思想以外を認めない。
だが、これは政治思想面での統制である。
キリスト教思想は世界観、歴史観から人生観、死生観にまで、人間が行う思考のありとあらゆる面に及んでいる。
思想統制はこのすべてに及ぶのである。

そして統制担当者はプロの宗教僧侶である。宗教教団の統制は微に入り細にわたりがちだが、とりわけカトリック僧侶による容疑者追求は執拗であった。
さらに国家の思想統制となれば、秘密警察も人民の間での相互密告もある。
人民の精神は恐怖で萎縮しきり、発見も発明も出なくなり、社会は停滞の極みに陥った。

欧州ではこういう文字通りの暗黒時代が実に1200年続いた。
だがそのなかで、聖句主義者はピレネーやアルプスの山岳地域、スイスの山間地帯、
極寒の北欧地域などに逃れ隠れて自由な聖句吟味活動の灯火を守り続けた。








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16. <異例な教典書物が産んだ異例な人間組織>

2013年10月08日 | 聖書と政治経済学





<聖書は特異な宗教教典>

人間は、ものごとの奥に見えない意識体を感じて暮らす生き物である。
人はこの意識体を神と呼び、人間以上の力を持つとして恐れ敬う。
山や川や海や強風、さらには雷などのなかに、人は漠然と神を感じてきた。
人間のこの感覚は「神覚的存在」という言葉で表現されることもある。

+++

それ故、人が神を拝する現象が世界の至るところで起きることになる。
そしてその中から、さらに進んで、拝する神の属性を言葉で表現する人もでる。それが「教え」である。
教えを書き留めた文書が教典である。教典をもつ宗教は高等宗教と呼ばれることもある。
もたないでただ拝するものは原始宗教と呼ばれる。




<旧約聖書は1000年余に渡る啓示受信集>

教典は言葉でもって神のイメージを形成する。だからこれをもつ宗教は土地空間の制約を離れて普及拡大する可能性をもってくる。

通常それは次のようにして出来る。
まず教祖が霊的経験をし、それをもとに教えを語る。これに共鳴・信頼する人々が現れると教団が出来る。
そして、彼を取り巻く弟子や後継者たちが教えを書き残すと教典になる。

だが、キリスト教の教典である聖書は通例の宗教教典とかけ離れた出来かたをしている。
それは旧約聖書と新約聖書との二部からなっていて、旧約聖書の部は開祖イエスより遙か前に出た霊感者の啓示受信集である。

昔からイスラエルの民は、「全能にして万物をつくった創造神が、人間に向けて啓示メッセージを発していて」
かつ「霊感のとびきり豊かなのもはそれを受信できる」と信じていた。
古代イスラエルの霊感者たちは、まるで長期のバトンリレーをするようにして、
1000年以上にわたって創造神からの啓示と信じた受信内容をひたすら書き残した。
そして民族はその記録を保存した。

霊感者たちは預言者(prophet)といわれている。受けた啓示を「言」葉にして「預」かる「者」という意味である。
先のことを予言するいわゆる「予」言者ではない。

預言者は聖書に名が出てくるだけでも20人を超えている。最初の預言者著者は映画「十戒」でも描かれたモーセである。
彼から最後のマラキに至るまで、預言者は紀元前1500年頃から1000年ほどに渡ってイスラエル民族の中に周期的に出た。

なお、霊感は感性が果たす直感という働きの中の一機能であって誰にでも多少はあるものである。
「ピンとくる」とか「虫が知らせる」とか「第六感で感じられる」というのもその働きによる。だが一般人の場合その感性機能はあまりつよくない。

そうしたなかでとびきり霊感が豊かなものも何万人に一人くらいの割合ででるものである。
古代イスラエルでは、この超霊感者たちが各々教祖となって独自の宗教を起こすことはしなかった。
彼らはバトン競争の走者がバトンを手渡してリレーするかのようにして受信内容を書き残していった。
これがイスラエルの預言者たちであった。

旧約聖書は、イエスが生まれる400年も前にすでに完成している。
キリスト教では開祖の誕生に先立つこと1500年も前から教典は書き始められ、
完成後も400余年にわたって保存されてきているのである。こういう教典書物は他にみられない。 




<新約聖書はイエスの教えの記録集>
 
他方、新約聖書は、イエスの伝記とその教えの記録集である。
分量をページ数でみると、旧約の方が全体の四分の三、新約が四分の一となっている。

新約聖書はAD33年にイエスがいなくなって後に、紀元後1世紀が終わる頃までに徐々に出来ていったものである。
イエスはすでに存在していた旧約聖書という大冊の教典を真理の書として、
すべての教えをこの教典を解読する形で述べた。



<弟子たちが初代教会を開始>

キリスト教会を開始したのはイエスの弟子たちである。
かれらはイエスなきあと「私の教えを地の果てまで宣べ伝えよ」との命令に従って、宣教をはじめた。
するとイエスがなしていったような奇跡が、彼らにも伴った。

驚いた人々は奇跡が現れたわけを知りたくて、弟子たちのもとに殺到した。
もちろんこの時代にも教典は旧約聖書だけである。弟子たちはイエスがしたようにして旧約聖書を解読してみせた。

イエスはどんな解読をして見せたか。
彼は生前、「旧約聖書は自分のことを述べたもの」との全体観を与えた。
といってもそこにはイエスの名は出てこない。だから、もしそうならそれは比喩で述べられていることになる。
比喩ならば読み解く必要が出る。彼の教えは旧約がどのように彼自身を示しているかを、解説(解読して示す)する形でなされた。

弟子たちもまた、旧約聖書を解読してイエスがどんな方かを集まった人々に示した。
人々は胸を打たれ、約3000人がこの日に弟子たちの群れに加わった。こうしてできた人の集まりを初代教会という。



<自由思考小集団の連携組織が誕生>

初日から3千人が加わった初代教会は、エルサレムだけでも短期間に3~5万人の教会になったと推定される。
使徒たちは参集者を数人ほどの小グループに分け、そのうちの一人の家で旧約聖書の聖句を自由に討議させた。
彼らは新しく聖句を選んでそれが「どのようにイエスのことを(比喩で)示しているか」を解読しあった。

弟子たちは各グループにリーダーを一人選出させ、信徒が創造神礼拝も賛美もそこで行うようにした。
後にこれが「家の教会(house church)」と呼ばれることになる。

彼らはまた、複数グループで協力して活動することが必要なときには、各グループリーダーが交信し合って連携した。
その結果、この教会(信徒集団)では独特の組織形態が実現した。
通常社会では、大きくなった人間集団は、ピラミッド型の管理階層組織を作る。これが命令系統を形成して一般メンバーを統率する。
だが初代教会の組織は自由思考スモールグループの任意連携体とでもいうべきものであった。
教会には管理者の階層組織もなく命令系統もなかった。
自由発言の小グループがあって、他グループとの連携はリーダー会議でもってなされた。

使徒たちはそれらの活動に奉仕した(minister :大臣をministerというのはこれに由来している)。
時には長老として相談に乗り、時には牧師として説教した。時には監督として全体に目配りし、また時には自ら開拓宣教に出た。
だから彼らは時に応じて長老とも牧師とも、また監督とも呼ばれたのである。

初代教会はその方式でローマ帝国全土に宣教活動を広げ、短期間に信徒数が推定百万を超えた。
この大集団が小グループの自由連携方式でもって一体性を維持した。教団全体がまとまりをもって組織として存続・成長できた。これは組織論的にも画期的な出来事である。

今述べたように通常社会では、大きくなった人間集団は、ほとんどすべてがピラミッド型の管理階層組織を作る。これが命令系統を形成して一般メンバーを統率しつつ集団を運営していく。

ところが初代教会ではこの管理組織は出現しなかった。人類史初の「もう一つの集団運営方式」ともいうべき方式で初代教会は運営されていった。そしてこれは民主制度の極致のような組織形態といってもいいものでもあった。

だがこの集団は古代、中世の為政者には「神経をいらだたせる存在」でもあった。





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15.<民主制の有難さと難しさ>

2013年10月06日 | 聖書と政治経済学





<民主制の有難さ>

民主制の最大の効用は、なんといっても「人民に日々の安心感を最も大きく与える」ことである。

政治決定には、人民の生活に関わる面が多い。
徴兵、兵役に関する決定など、その代表で、これは国民の生死に直接関わってくる。
この決定権が他者に握られている状況では、日々の生活での不安は大きい。
独裁制はその典型である。

ところが民主制は、その決定権を全人民に均等に分与してくれる。

決定権を分与するならば、決定に必要な情報も与えないわけに行かない。
こうして人民には、政治決定に関する情報をもつことも、権利として与えられる。

同時に、人民はその事柄について互いに忌憚なく語り合う必要もある。
だから、言論自由の権利もオートマチックに伴ってくるのである。

これらが民主制を恐怖から人民を最大に解放する制度とする。




<同時に人民には「厄介な」制度>

だが同時に政治分野には人民にとって「わからないこと」が極めて多い。
政策実施局でのいわゆる事務プロセスや運営状況のわかりにくさは、前回述べた。
それに輪をかけて奇怪にして不可解なのが、前々回の「物的暴力手段」(警察と軍隊)にかかわることがらである。

+++

第二次大戦の終盤に、米国は何故原爆を二つ落としたか。この真の理由を見出すのは難しい。
ましてやこの行為が正当だったかどうかについての究極の答えを見出すのも容易ではない。

もうひとつ最近の具体例を出しておく。
詳細は読者が各々ネットで調べていただきたいが、9.11の同時多発テロのしばらく後に、こんな事件があったという。

この事件の真相を探求していたNHKの論説委員だったか、幹部の人が死体になって発見されたという。
爆破されたタワーには約4000人のイスラエル系ワーカーが勤務していたが、
彼らは誰一人として死ななかったらしい。当日出勤していなかったのだ。
ということは、あの日、タワーに民間旅客機でテロリストが自爆突入するという情報が、
彼らには事前に伝えられていたことになる。

この論説委員はこの実状を追求調査していた。そして、まもなく原因不明な死体となって発見された、という。
さらに、この事件がマスメディアで報道されることもなかったという。

鹿嶋が「・・・という」を繰り返さねばならないほど、この話は闇に包まれている。
おそらく、与党政治家の大半もこの実体は知らないのではないか。
ましてや、我々人民にはわからない。

ではあるけれど、これもまた国際関係、外交関係の政治決定テーマである。
民主制度では、人民はこの種の事柄も推察して、決定に参加せねばならない。
民主主義制度というのはそういうやっかいな制度なのだ。





<まず歴史を知ることから>

この壁をどう破ったらいいか? ~というと、通例は、対処策を出すことになる。
だが、このケースはその前にやるべきことがある。

それは、そもそもこの制度はどのようにして出来たか、の歴史を認識することである。
なぜならこれが、人類にほとんど知られていないからだ。
歴史的実情を知らないでは、話にならないのだ。


+++

この制度は、1700年代の終わり、18世紀の末に米国に出現した。

造った人々は、聖句主義者と言って、聖書の中の言葉(聖句という)そのものを
直接吟味する活動をいのちとしてきた人々である。

彼らは聖句そのものを数人のスモールグループで自由に吟味し合う活動を、人生の核にしてきた。
実は、民主制度は、これを原型にして出来ている。
こういう吟味会を、国家権力や社会勢力の妨害無くして出来る国家を目指して
彼らはこの制度をとうとう米国で構築したのだ。


+++

彼らは、筆舌に尽くしがたい迫害を受けるなかで、1500年にわたってこの生活様式を守り通してきた。
聖句主義方式は、それほどに人間にとって魅力あるものなのか。
魅力の源泉は何処にあるのか。

そしてそれを知るためには、そもそも聖書とはどういう書物なのか、を知る必要がある。
従来聖書は、沢山ある宗教の経典の一つとして、並列的に捕らえられてきた。
まずそこから脱却して、書物そのものを具体的に眺めねばならない。

そして、調べてみると、これは何とも特別な書物なのだ。
次回にそれを述べる。








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