鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

「エホバとイエス」再論

2012年07月22日 | “エホバ”の奥義

 

                    

 もうだいぶ前(2007年頃?)ですが、「”エホバ”の奥義」というカテゴリーで、
「エホバとは何か」、「その名はイエスという名と、どういう関係にあるか」を考えました。

そのとき鹿嶋の見解は、「エホバは創造主の役割をする天使の名」であり、
「イエスは創造主そのものの名」だったように記憶しています。

でも、当時の気持ちには、なにかすっきりしないものも残りました。
それがず~と続いていたのですが、今回、新しい見解にたどり着きました。

                    

結論から言うとそれは~

「エホバも創造神の名であるが、その名は、創造神の役割をする天使が用いることもある」というものです。

言い換えると~

「エホバは創造神を指す場合もあり、創造神の役割をする天使を指す場合もある創造神の名」

~ということになるでしょうか。

(すると、エホバという語が出てきたときにはいつも、それが創造神を指しているのか
あるいは、創造神として振る舞う天使を指しているのかを、識別する必要がある、
ことになります)

他方、イエスはどうかというとこれは~

「父なる創造神、子なるイエス、聖霊の三つを指す名」

~となります。

                    

 これでいきますと、新約聖書にエホバの名が全く現れなくなっている
理由も次のように考えられます。

すなわち一つには、新約時代には創造主の御子イエスが地上に人の姿で来て、
人の言葉でもって直接(比喩によって出なく)真理を明かしていく。
こういう時代には、もう天使が創造主の役割を演じる必要がない。
だからエホバの名も不必要になって、現れないのだ、と。

もう一つこういう理由も挙げられます。
すなわち、エホバもイエスも創造神の名であるけれども、
エホバは広い概念の言葉ということができます。

創造神という創造霊と、天使という造霊との両方に適用できる言葉ですから。

他方、イエスは創造霊(父・子・聖霊)だけに適用できる言葉です。
その意味で、「より限定的な」概念の言葉、ということができます。

そこでこうもいえそうです。すなわち~
「旧約聖書では創造神を言い表すのにエホバという広い意味の言葉を使っていたが、
新約聖書ではイエスという「より限定的な言葉」が登場した。

「より限定的」というのは、「より明確」という意味であり、
「より明確な言葉」が現れたら、以前の「広く漠然とした言葉」は要らなくなる。
それが新約ではエホバの語が全く現れていないもう一つの理由である、と。

                    

この見解で行くと、聖書解読が、エホバ、イエスという名のところで
引っかかってうまく進まない、ということがもうなくなるような気がしています。

もちろん、また、新しい見解が出てくるかも知れません。
聖句は限りなく深い吟味余地をもっていますから。

それだからまた、聖句吟味の種は尽きない、ということになるでしょう。
だが、当面の所、上記のような理解で鹿嶋自身はやっとすっきりしたように
感じています。



                    


 

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日本人への福音伝道

2007年01月31日 | “エホバ”の奥義
   
                    

創造主の概念は生活実感から自然発生するものではない。
このことはキリスト教という教えの特色を明確に浮上させてくれます。
この教えは創造主の存在を大前提にした教えですので、初めは実感が伴わないのが当然なのですね。

 その点、仏教は対照的です。この教えは人間が無常であるという自覚から出発しています。
そして無常感というのは、まさに人間がかなりな幼少時から実感してきているものなのです。

 無常文化の濃厚な日本で育った人間には特にそうです。だから、仏教の話は初めからよく「わかり」ます。
これに比べるとキリスト教の話しは、初めはピンと来ないもいいところなものなのです。

                    

 日本で福音を宣べ伝える人は、そのことをよく踏まえる必要があります。
この教えは、初めの一定期間は実感が伴うことのない教えである。
伝道の最初にそれを相手に明示することが必要なのです。
福音を知りたければ、最初は実感が伴わなくてもまず聞け、という。
「信仰(福音の)は聞くことから始まる」とはよく言ったものですね。

 そしてこう話を続けます。
~~しかし、ある時それが突然バンとわかる(実感できる)時が来る。
福音とはそうい特性を持った教えなのだ、と。
そうやって得られる実感は他に比類なく素晴らしいものだよ、と。

                    


 こういう説明のステップを踏まないことが、日本人への伝道を成果の薄いものにしてきた一因だったのではないでしょうか。
福音の話をし始める。聞く方は実感が湧かない。そしてこう思います。
「やっぱり西洋の宗教は我々日本人には心情的に合わないんだなあ」と。

 日本での福音伝道は従来こういういわばマイナスの確信を与えることでもって終わってしまっていたのではないでしょうか。
だから伝道活動が期待とは反対に、福音からますます人を遠ざけるという
皮肉な成果を生むことになってしまっていたのではないでしょうか。

~~飛鳥石舞台から、の考察はこれくらいにして、著書のはなしに戻りましょう。


                    


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命令も旅の途中に与えている

2007年01月29日 | “エホバ”の奥義

                                        

 イスラエルの民は、エジプトに定住しますが、これは奴隷としての定住でした。こういう立場での定住は、寄留というか仮住まい感覚が伴ったものです。心から腰をそこに落ち着けて暮らせない。鹿嶋はこれにもエホバの持つ深い智恵を感じます。

 そういういわば「半定住状態」に置いておいた後に、エホバは彼らを再び旅に出します。モーセを指導者にして荒れ野を40年旅させる。エホバは創造主の概念を本格的にこの民族に導入し、植え込むのはこの旅の中においてなのです。

                    

 この世が創造主によって創られた状況を文書化させたこと。
創造主以外は拝むな、カタチあるもので現すな、と命じたこと。
週に一日は終日創造主を憶えよ、という命令を与えたこと。
そして、幕屋の作成を命じて創造主への一定の実感~~擬似的な実感でしたけれど~~を得られるようにしたこと。

                    

~~これらはみな荒れ野を通る旅の途中で与えられた。だからこういうメッセージは民族の心に入っていったのでしょうね。定住してる時だったら、自然発生的な神々が障害となって、入っていかなかったでしょう。あるいは一時的に入っていったにしても、時とともに蒸発していったことでしょう。現代日本に住むわれわれが、そうなる可能性が高いように。

 しかしこのストーリーはすごいなあ。人間の心情を洞察し尽くしている。リアリティに充ちている。これだけでも聖書の記述は作り話とはとても思えません。芥川賞、直木賞、ノーベル文学賞といったレベルを遙か超えています。こんな本は他にないし、もうこれからも人類社会には現れないと思うほかありません。

 飛鳥石舞台で考えさせられたことはまだありますが、当面これくらいで留めるべく、次回でもって最終といたします。

                    


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民を定住させなかったのは

2007年01月27日 | “エホバ”の奥義
                    

 創造主という神の概念は人間の意識に自然発生しない。
これを一民族社会のマジョリティ(大多数)の意識に植え付けるためにエホバは様々な仕事をしている。
~~こういう観点から旧約聖書に書かれている出来事を追ってきました。
これをしている過程で鹿嶋の中に新しい気付きが生じてきています。


                    


 エホバはアブラハムに目をとめて、彼の子孫をそのための民族にすると決めた~~このことは前述しました。
だがこのときエホバはまた、アブラハムに父祖の地を旅立つように命じているんですね。
そして、自分の命ずる方向に向かえと、旅を続けさせています。なかなか定住させない。
その状態で、イサクを授け、ヤコブを授けて人数を増やしていきます。

 旅を続けさせた意味も、鹿嶋は実感できるようになってきました。
人間は定住すると、生活実感の中に自然に発生する神々をその地にどんどん蓄積していくのですね。
実感を高めるために像に刻みますから、それらがその
土地に残る。
こうして時とともに神々を蓄積していくことになる。湿潤の土壌に雑草が生い茂っていくかのように、神々が増殖していきます。


                    

 アブラハムの一族だって、ある地点で定住したらそうなり易いのですね。
だからエホバは、彼に妻と使用人たちをつれて父祖の地を出るように命じ、
さらにあちらへこちらへと旅を続けさせたのでしょう。

 でも、目的地はありました。それがカナン(今のイスラエルとその周辺の地)でした。
彼らがそこにつくと、エホバは彼らをしばらく定住させます。
しかし、後にまた飢饉を起こしてエジプトに向けて旅立たざるを得なくします。

 どうしてそんなことをするか。
創造主の概念をこの民族のマジョリティに定着させる仕事は、まだ完成していなかったからでしょう。
旧訳聖書のストーリーはこういう風に鹿嶋の中で新たな意味を持ってきました。
それは実感の伴う意味理解です。
それにつれて、聖書という書物に書かれていることへの鹿嶋の信頼は一層深まってきています。

(続きます)

                    


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幕屋:拝する「場」を造らせる

2007年01月23日 | “エホバ”の奥義


~~写真は、再建された幕屋の構造模型
(出所:Alexander, Dsvid & Pat(1973)、中村寿夫・森正義、松代幸太郎訳(1978)『カラー聖書ガイドブック』いのちのことば社、P.166)




~~1、2,3月は毎年、鹿嶋のバイオリズムが低調になるときのようです。もともとよくない頭の回転が、更に悪化します。視力も弱って少しやると霞んだりします。更新が思うようにいきませんが、皆様よろしくお願いします。


                    


  ゴッドリーな世界観の型枠を一民族の中の多数派が抱くようにするのは、とても難しい。エホバはそのために様々な手段を講じた~~という見方から旧訳聖書の出来事を眺めると、幕屋というのも新しい意味を帯びてきます。

  創造主は自分がこの世を造ったと文字に書かせ、他のものを拝むな、と命じ、週に一日は終日仕事をせずにオレを想え、と命じてゴッドリーな世界観の型枠をイスラエルの民の大衆に持たせようとした~~こういう風に考察してきました。その線でいくと、それだけでは十分でないから幕屋を造ったのではないか、と見ることも出来るようになるわけです。

                    

<移動神社>

 幕屋というのは、日本でいったら神社ですね。移動神社。
 モーセに幕屋を造れと命じられたときのイスラエルの民は、エジプトからカナン(今のイスラエルとその周囲の地域)に向かって荒れ野を旅していました。

 だからたたんで移動させられるものであることが必要でした。後に彼らがカナンの地に入って定住するようになると、これが固定的な神殿としてエルサレムに建てられます。でもいずれにせよ神社です。

                    


<具体的な場があると実感が湧く>

 幕屋は創造主のイメージを具体的にして実感を高めるのにとても有益です。神様を拝せよと言われたら、人間はどちらかの方向を向いて、何かに向かって礼拝したくなるものです。そうできると見えないものにでも、ある程度の実感を持って礼拝することが可能になります。幕屋はそれを可能にするのです。

                    


<時間空間的無限者>

 論理的に言いますと、万物の創造主というのは時間的にも空間的にも無限者となります。

自分以外の「万物」を創造したというのなら、自らの存在に出発点があってはなりません。それがあったら、それ以前に存在したかも知れないものに対しては、「オレが創った」といえません。創った以上はそれなりの影響を与えているわけで、影響を与えるにはその時点で既に存在していなければならないのです。

 被造物の特徴は、存在に初めがあることです。創られたものでありますから、創られた時点がその存在の出発点となっています。

 とはいえある被造物が非常に昔の時点にも存在していた可能性があります。それらも含めた「万物」を創造したと言えるためには、創造主は無限の過去、永遠の過去から存在していなければなりません。

 未来についても同様なことがいえます。無限の未来にも存在していなければならない。だから、万物の創造主は永遠の過去から永遠の未来に向かって存在していなければならないことになります。つまり、万物の創造主は時間的に無限な存在者です。

                    

 空間についても似たことが言えます。創造主は無限の広がりを持っていなければなりません。もし、ある範囲までしか存在しないのでしたら、その外側のものについては、オレが創ったとは言い難いのです。そこで空間的にも無限の広がりを持った無限者と言うことになるのです。

  ということは人間がその形をイメージすることは出来ない存在ということでもあります。なぜなら人間がイメージする形というのは、ある空間的な境界を持ったものですから。我々はその境界線や面をなぞって、それを「形」と意識するのですから。

                    


<一定の実感をもって拝せるために>

  そういう形のないものが創造主の実体です。だから「私を形あるものに創ってはならない」と創造主は命じたのです。そのカタチあるものとはすなわち偶像でしたよね。

  ですけれども、カタチのないものということになると今度は、実感し辛い、という問題が起きてきます。少し先走って言いますと、創造主が究極の実感を与る方法は幕屋によるものとは別のものです。カタチのイメージからではなく創造主と同質であるところの聖霊を受けさせて創主を体験させる、これによって人の霊感にその確かな感触を与えるというのがそれです。

 (イエスがヨハネ伝4章でサマリアの女に「あなたがたが、この山でもなく、またエルサレムでもないところで父を礼拝する時が来る。・・・・・・・。まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととを持って父を礼拝するときが来る」といったのはその関連においてです。)

                    


 けれども人類がそこに至れるのは、まだ先の話ですからね。イエスが人間の姿で現れて、教えを残し、十字架上で殺されて、復活して、天に昇って、それからの話です。旧約の時点では、エホバはそのプロセスが展開されうるために、ゴッドリーな世界観の型枠を一民族の大衆に形成しなければならないのです。

 そのためにとった手段が、礼拝する具体的な「場」を造ってあげる、ということだったのでしょう。この場所で、ここに並んで、この方向に向かって礼拝せよ。これを指示する具体的な場と、建物などを造ってあげると、人間は実体の感触がない段階でも、ある程度の実感を持って礼拝できるんですね。そうしてゴッドリーな世界観の型枠を人々は意識に形成しやすくなる。

 そのために幕屋は必要だった、ということになります。大和三山があってもその麓に、神社が必要だったように。

(続きます)

                    


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週に一日は、終日オレ(創造主)を想え

2007年01月18日 | “エホバ”の奥義
前回まで、創造主は聖書に自分のことを記録させ、かつ、十戒でもって自分以外の存在を礼拝するな、と命じたと述べました。

                    

<終日創造主を>

 もう、それだけしたらいい? そうじゃないんだよね。さらに命令を重ねます。
「週に一日、終日俺を思え」と。

 具体的には土曜日です。安息日と名付けられていますけれど、安息の名は第一に創造主が、6日間創造の業をされて安息されたことから出ています。この理由が示すように、ここでも創造主中心の神本主義です。

 人間はまあ、仕事はしないのですが、全くのお休みというわけにはいきません。その日がもうけられた理由が、創主が創造の業を終えて休まれたからだという。それを憶えて休めということは、創主は意識に置いていろということですからね。そういう精神作業があるわけです。

 なお、このとき仕事をしないのは家長の当人だけではありません。その息子、娘、男女の奴隷、さらには家畜に到るまで、また、当人の町囲みの中にいる在留外国人にも安息させろ、という。徹底していますね。

                    

<制度化の力>

 がともあれ、一日中何もするな、というのは厳しいですね。現代のクリスチャンも安息日をもちます。日曜日で、これが聖日であるとして教会で礼拝します。でも、午前の2時間ほど賛美歌うたったり説教聞いたりして、献金しておしまい。あとは街に出て食事したり、映画見たり、ゲームしたり、カラオケしたりしてます。

 旧約の安息日の厳しさは飛び抜けている。エホバもそこまでやるか、という印象です。しかもこちらは、十戒という命令の一つで、守らねば子々孫々呪うという罰則付きですしね。

 でもこれがゴッドリーな世界意識の型枠を社会に造る力は大きいと思いますよ。週に一日となれば、民族社会の行事になるわけですからね。ゴッドリーな行動様式が制度化されたことになります。これができたら、大人だけでなく幼い子供もその中に組み込まれずにはいられません。行事は人々のライフスタイルを形作ります。

                    

<ラマダンの型枠形成力は強烈>

 その観点から見ると、イスラムのラマダンという行事も、宗教的な思考の型枠を造る力は実に大きいでしょうね。イスラム歴の9月の1ヶ月間を、断食月とする。日の出前から日没までは、飲食するな、性行為をするな、怒るな、虚言を吐くな、人の悪口を言うな、という。もう日中はただジィ~と命令を守ってるしかない。

 で、陽が落ちたらわぁーっと解放されて飲み食いする(うまく出来てるなあ~)。で、夜が明けたら又断食。そういう暮らしを全社会で一ヶ月間繰り返すのですからね。毎年それがやってくる。子供などもイスラム教の思考型枠をもたないものはいなくなるでしょう。

                    

<エホバは毎週させた>

 しかし、毎週一日、終日なにもしない、という行事も相当なものですよ。そしてエホバがそこまでしたのは、それが必要なほどに、人間社会で多数者がゴッドリーな思考の型枠を持つようになるのは難事だったからでしょう。

(続きます)

                    


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飛鳥石舞台から:鹿嶋は何している?

2007年01月15日 | “エホバ”の奥義
                    


~~すこし反省してみたくなりました。

 受け皿の民族がどうとか、十戒の中核がどうとか、こんな考察を鹿嶋は何のためにしているのでしたっけね。
そうでした。この世界に創造主がいるという世界観について考えていたのでした。
そういう世界観をさす言葉は、日本語の辞書にはないでしょう。
で、鹿嶋は敢えて有創造主世界観などという言葉を創ってやってきたのでした。
でもこれは長ったらしいですね。

                    

<ゴッドリー、アンゴッドリー>

 英語にはそれを指す単語があります。ゴッドリー(Godly)というのがそれです。
この一言で、創造主がいて被造物がいるという世界イメージを示しています。
では、創造主のいない世界観はどうかといいますと、アンゴッドリー(ungodly)といいます。
これはゴッドレス(Godless)ということもありますが、アンゴッドリーの方が対照的でいいでしょう。

 たとえば、米国でもテレビ番組で、現世的な欲望一点張りでギンギラギンな人々の展開するドラマがあります。
ビバリーヒルズとかいった豪華住宅地を舞台にしたメロドラマなどにそういうのがあります。
これらを見てクリスチャンがこうつぶやくことがあります。
「ハウ・アンゴッドリー(なんとアンゴッドリーなことか・・・)」と。
このアンゴッドリーはセキュラー(世的)という語になることもあります。

                    


<文化は多数派に従う>

 ゴッドリーな世界イメージというのは人間の意識に自然発生的に生じるものではない
~~このことを飛鳥の地で鹿嶋は自らの心で実験して確認したのでした。
とはいえ、ゴッドリーな意識を持つ人間は、社会の中に一人や二人や数人はいるでしょう。
ノアもアブラハムもそういう人でした。
けれどもそれは例外的なほんの一握りでして、
社会の多数派(マジョリティ)がそうなることは自然な状態ではありえない、ということです。

 社会の文化、風俗というのは多数派が造っていくものです。
ですから人類社会には通常では、ゴッドリーな文化、風俗、社会通念が出来上がることはほとんどあり得ないでしょう。

 日本に住んでいる我々日本人には体験的によ~くわかること。日本の文化はアンゴッドリー一色です。
有識者と称される人の語る評論からバラエティー、ニュースの論調、テレビドラマにいたるまで、
アンゴッドリーな世界観を前提のものばかりです。
ここにゴッドリーな文化を形成しようというのは至難の業であります。


                    


<ゴッドリーな思考の「型枠」>

 日本だけではありません。人類社会が全面的にそういう状態だったのです。
そこにゴッドリーな世界観の「型枠」をもった民族を、力ずくで一つ造ろうとした。
エホバがイスラエルの民に対して試みたことがこれだったのです。
 
  どうしてそんなことを? 
イエスが説く「いのち」のメッセージ、霊界の真理のメッセージを一定の数の人々が受け入れる土壌を形成するためです。
それには、その社会にゴッドリーな世界意識の型枠が出来ていることが必要だったからでしょう。


                    

 新約聖書を読んで、改めて不思議に思うことがあります。

 イエスの説く教えについて、ユダヤ人たちは大いに反論しています。
でもそこにこういうのは出ていないんだよね。
「そもそも父なる創造主なんてのがどうしているって言えるんだよ!」といった反論は・・・。
なんと彼らの意識にはゴッドリーな世界観の「型枠」は当然なこととして出来上がっていたのです。


                      


<イエスの仕事はコンテンツの入れ替え>

 そういう土壌が出来ていたからイエスは、そこから今ひとつ踏み込んだメッセージを送ることが出来たのですね。
その型枠の中身、今流でいうコンテンツですね。
旧約のコンテンツは健康と富という福でした。
だが、新約でのイエスによる種明かしからするとこれはホンモノの影絵でした。
ホンモノは霊に与えられる「いのち」という福でした。


 イエスはイスラエルの民の心にあるこの影絵を、ホンモノに入れ替えていけばよかった。
もちろんそれ自体がすごい難事業ですけどね。

 イスラエルの民においても、その影絵そのものが心に定着してしまってそれこそが真理だと信じている人が多数派でした。
イエスを殺そうとしていったユダヤ教僧侶たちはその代表でした。

  けれどもイエスの説くコンテンツの方がホンモノだと感知して、それに入れ替えをする人もいました。
イエスの弟子になった人々(イスカリオテのユダは別だったのですが)がそれでした。

 そういう人も一定数出たということは、イスラエル人にゴッドリーな世界観が当然という土壌が出来ていたからである。
このことは注目すべきことに鹿嶋は思います。



                    

 繰り返しになりますが、
もしイエスの説教がアンゴッドリーな世界観の人々に対してなされたらどうなっていたでしょうか。
イエスの話ははなっからてんで通じなかったのではないでしょうか。

 イエスによる真理の伝達がなされるに到るには、やはり、踏まれるべきステップがあった。
そして、それは人類に出来上がっていた本性からして、簡単なことではなかった。

~~ああ、自分でこのように書いてきて初めて明確になりました。
鹿嶋は、ゴッドリーな思考の型枠が一民族の中に形成されていく歴史を旧約の中に確かめようとして、
これを書いてきているようです。


(続きます)


                    



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 さらに「他を拝してはならぬ」の命令で補強する

2007年01月13日 | “エホバ”の奥義
                      


~~前回、エホバはまず創造主を深く心に抱く一人の男、アブラハムを選び、彼の子孫だけからなる民族をメッセージの受け皿にした、と申しました。その民族の意識にまず、世界には創造主が有るという世界イメージを形成するためでした。

 その民族の中からモーセを選び、エホバはその仕事を開始します。まず、世界が創造主によって作られた様のメッセージを送り、モーセにそれを書物に記述させました。こうして世界は創造主によって作られているのだ、という考えが文字として定着した。前回そこまでを申しました。


                    


<命令も与える>

  エホバの仕事は、それに留まりませんでした。彼はモーセを通してイスラエルの民に、創造主だけを神として礼拝せよという命令も与えています。

 「世界は創り主によって創られたんだよ~」という「説明」だけではないんですね。命令で追い打ちされることによって、創造主の概念はイスラエルの民の心に更に固定化されていきます。

 次いでエホバは「創造主を形あるものに造って拝んではならぬ」とも命じています。それは、創造主は目に見えない霊的な存在であって、偶像に姿を変容させたり像の中に入ったり染み込んだりするものではないのだ、ということをも明示しています。こうして創造主の概念はさらに限定的で、明確なものにされていきます。

                     


<賞罰付きで命令す>

 またこの命令は賞罰付きです。守れば子々孫々何代にもわたって福を与えるが、守らねば呪いを与える、という。子々孫々までにいたる罰則付きとは厳格ですね。このように飴と鞭でもって「創造主アリ」の世界イメージをイスラエルの民に叩き込んでいこうと、」エホバはしています。

                     


<十戒は前半が中心>

 これはご承知の「十戒」の前半領域に含まれた部分です。前半で創主に人間が対すべき仕方を命令していて、後半では人間が人間に対すべき仕方を命令しています。しかし、重点は前半にあります。

 後半の最初に、「汝の父母を敬え」というのがあります。父母とは自分を肉体的に存在せしめた人間です。肉体の話は目に見える世界でのものですのでわかりやすく、実感が伴います。これを敬うというのは実感を伴う行為として出来るのです。

 これを敬っていると、人には、自分をこの世にあらしめた存在を敬うという思考の「型」が形成されます。それが目に見えない創造主を、自分を存在せしめてくださった方として敬い拝する準備作業になっています。

 人を殺すな、人から盗むな等々の対人行為に関する命令も十戒の中核ではありません。これらは万物の創造主が存在し、被造物を統治しているというイメージ世界を前提とし、その中で意味を持つものなのです。

 そしてこれらの命令も又、モーセ五書のなかに、文字として残されていきます。

(続きます)

                     

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アブラハムを選んで「受け皿」を造り、モーセに自分を文字にさせる

2007年01月11日 | “エホバ”の奥義
~~ 外生的な神概念は、外から言葉で与えられて人の心に生じるもの、と前回申しました。

                    

<文字で知れるようになるのは今から3500年前>

 旧約聖書では、その神、すなわち万物の創造主は冒頭から出てきます。世界がこの創造主によって造られる場面から聖書は始まるのですから。

 この時点は、聖書ではいまから何億年前か何兆年前か、とにかく気の遠くなるような昔のこととなります。だがこの時点では、聖書という書物は存在しません。

 この考えを人が(といってもイスラエルの民だけに対してですが)文字で知ることが出来るようになったのは、モーセがモーセ五書(旧約聖書の最初の5つの書物)を記したときからです。それはイエスがこの世に現れる1500年前ですので、現在の我々からすると約3500年前、となりますね。

 このとき、創造主は人間(イスラエルの民)に対して文字でもって自分の神概念を紹介することを始める。そんなに旧いことではないんですね。


                    
<交信能力ある人間だけにする>


 ただし、聖書によれば、そこに至るまでの助走段階があります。まず、創主は天地を創造し人間を造ります。その上で、今から6000年前にこれと同じ形のアダムという人の身体を造り、彼に創主と交信できる霊を入れます。

 聖書によればこのアダムは、創造主を実感認知できておりました。だが、イブが悪魔にだまされて罪を犯しアダムも彼女と運命をともにすることになって、創主への実感が薄くなりました。

 (創造主が人間に自分の概念を実感を伴う状態で認知させようとする仕事がここから始まります)


 アダムの子孫もアダムと同じ状態です。だが彼らはおまけに、創主と交信できない霊をもった人間の娘が美しいのに魅了されて雑婚してしまいます。そしてハイブリッド人間を増やしていきます。そこで創主は、ハイブリッドでない純粋人間であるノアの家族だけをのこして、後は大洪水で絶滅させてしまいます。

(ああ、人間に自分を認知させるためにこんな仕事をもせねばならないとは、創主様も大変だなあ。)

                    

<確かな受け皿を作る>


(だが創主がすべきお仕事はまだまだあります)

 ノアから再び始まった人間の中に、創主の声への霊感の豊かな人間がいます。アダムより2000年後、イエスより2000年前にでたアブラハムです。このアブラハムを選んで、創主はその子孫を一民族とし、この民族を受け皿としてメッセージを与えていきます。

 (こういう風に、まずは霊感の豊かな人間の子孫に限定的に創造主の概念を紹介しているのには注目すべきでしょう。最初から全人類にメッセージを与えても、それは受け手の中で希薄化し風化していってしまうんでしょうね。それほど人類の意識に創造主というイメージを定着させるのは難しい仕事ということです)

                    

<イメージを文字に定着させる>

 そしてアブラハムより約500年後に、この民族の中に生まれたモーセを創主は選びます。彼にメッセージを与え続けてイスラエルの民を指導させ、なおかつ彼の霊感に創世以来のことを伝えて、記録に残させます。それがモーセ五書であって、この書物に始めて創造主の概念が文字として記録されることになります。

 ですから、アダムが造られるのはイエスより4000年前であっても、一つの民族という多数の人間に、創造主の概念が文字で伝えられる始めるのは、イエスの出現よりわずか1500年前だったことになる。

 あるいはこうもいえるでしょう。イエスが出現する前の1500年間をかけて、創主は創造主の概念をイスラエルの民という限定された人間たちに、紹介し続けた、と。文字というのは誰にも読めるものですし、いったん文書(当時は巻物でした)にすると以後常時人々はこれにアクセスできます。こうして結果的に創造主の概念を受け皿の民族の人々に紹介し続けることになったわけです。

(続きます)

                    


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飛鳥石舞台から:「内生的な神」、「外生的な神」

2007年01月09日 | “エホバ”の奥義
~~前回の続きです。

                    


<内生する神意識>

 明日香の地を取り囲む周囲の山々に足を運びますと、どの山の山腹にも神社があります。
おそらく人々は山に神性を感じて、神が降り立つ場所を作ったのでしょう。

 飛鳥時代の人が山に神性を感じる気持は追体験できました。
山は、木の実・草の実・木材等々の恵みを人々に与えてくれます。と同時に、恐怖感も与えます。

 電気のない時代です。もちろん、テレビの深夜放送もありません。
夕方から明け方まで10時間近くを延々と人々は毎日暗闇の中で暮らしました。
現代人がタイムスリップしたら、全員鬱病になるのではないでしょうか。

 強風の吹く夜などは、回りの山々はゴーゴーと呻ったでしょうね。
人々はそれに神の怒りを感じ、日頃の行為を反省し、後悔もしたでしょう。

 そして、そうした神の降り立つ場所を作り、そこを拝したことでしょう。
日頃の恵みに感謝し、同時に、悪い行為を謝ったでしょう。


                    

 なお、この神社の構造は旧約の幕屋にとても似ています。
幕ではありなせんが、周囲が四角く石の杭で囲まれています。
その中に聖所のような建物もあります。又その中に至聖所のような空間もあります。
至聖所的な空間の中にはご神体が置かれている。多くの場合それは鏡のようです。
そして人々はその神社を掃き浄め、礼拝しました。

 もちろんバリエーションもあります。明日香の盆地を少し外に出てすぐのところには、三輪神社があります。
これなどはご神体が三輪山という山そのものです(これはヨハネ4章で、サマリアの女がイエスに
「(創主を拝すべき場所は)この山でか、あるいはエルサレムでか」
と尋ねる場面を想い出させます)。

 この山に向かう参道の入り口には、巨大な鳥居が建てられていて、夜にはライトアップされ空にそびえています。
ご神体である三輪山を拝するのはここからだ、と明示しているわけです。

                    


  が、いずれにせよ、このように山に神性を感じるのは人間の自然な情ではないでしょうか。
鹿嶋もその気持ちがよく実感できました。
山そのものをご神体として、その一方向の入り口に巨大な鳥居を作って拝む気持もわかりました。
あるいは、山にいる神が降り立つ具体的な場所を神社として造り、降り立つ焦点に鏡を置く気持もわかります。

 鏡は光を反射します。それがそこから光が発しているようにもみえます。
その光を発するポイントに神が降り立っていると感じる気持が、よくわかります。

 人の心の内から自然に生じる内生的な神の概念は、人間にとって最初から実感の伴う神概念です。


                    


<外生的な神概念>

 次に鹿嶋は考えました。
山に神々が入るという実感は人間の情として自然に起きることだ。
では、これらの山々やそこに住む神々、さらにはそれらをも含めた万物を創った唯一の存在、
というイメージは自然に意識に生じるものだろうか、と。

 鹿嶋は盆地にたたずんで、じっくり想像してみました。そういう感情が内生的に心に生じるだろうか。
自らの心で実験してみました。実感してみようとしてみました。しかし、出来ませんでした。

 「万物を創った唯一の創造主」という理念は、人間自然の情として内生的には生じないようです。
これはどこか外から与えられねば心に形成できない、外生的な理念でありました。

 外から、というのは、人間に対しての場合は、具体的には言葉としてでしょう。
そうです、心の内に内生しない概念でも、言葉として与えられたら、
人はそういう概念を心に抱くようになりうるのです。

 ただしそれは、少なくとも当初は実感が伴うものではありえません。
自分の内側から沸々と自然にわき上がる感情を、理念にした者ではないのですから。
そうです、外生的な神概念は最初は実感が伴わない神概念なのです。

 
                   


<創造主を人類の意識に入れるプロセスとして>

 鹿嶋は飛鳥の地で、創造主なるものを自然な状態では心に内生できないのが人類の精神的資質だと実感しました。
と同時に、面白いことに気づきました。すると聖書を~
~創造主が自分(創造主)を人の意識に形成していくプロセスに焦点を当てて~~読んでみたら面白いのではないか、と。

(アダムが罪を犯した後からは、人間の心には創造主は自然には生じない、というのが聖書の基本思想です)


 新約聖書のある今、最終的なゴールの状態は、示されています。
それは創造主を実感を持って意識に納めている状態です。
それは最終的には聖霊を受けることによって実現します。

 だが、聖書では人類がそこに到る過程は簡単ではないようです。
おそらくそれは、罪を犯した後のアダムからの人間の霊感が、劣化してしまっていることによるのでしょうが・・・。

 そういう状態の人間の意識に創造主を抱かせて、「創造主有り」の世界観、いうなれば有創造主世界観を持つようにし、
さらにはそれを実感の伴うものにするに、創造主はいかなることをしてきているだろうか。
聖書でその過程を追うというのも一つの解読ではないだろうかと。

                    


 もしある程度でもできれば、まさにそれは創造主中心の神本主義での聖書解読になるでしょう。
人間は、聖書を解読するとしてもやはり自分中心の人本主義の読み方に知らず知らずになっていくものです。

 創主がどうしてきたか、という観点から一貫して聖書をたどることは、そのマイナス面を補うのではないか。
明日香盆地に腰を下ろして、そんなことを漠然と考えていて気がつくと、
夕闇迫る飛鳥の空気は急激に冷えを増してきていました。

(続きます)

                    


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新年随筆:飛鳥石舞台に行ってきました

2007年01月08日 | “エホバ”の奥義


~~写真は、石舞台史跡の入場券


                    

 
 新年に、すこし随筆のような文を書いてみたくなりました。「著書について」は途中ですが、思いつくままに書いてみます。

 鹿嶋は最近、奈良県は明日香の地にある石舞台という史跡に行って来ました(写真参照)。明日香は飛鳥とも書きます。ここは日本の歴史において大和朝廷ができていくときの舞台です。

石舞台の実体は蘇我馬子の墓ではないかと推定されたりもしているようですが、石棺を入れる為に大きな石を四枚組み合わせて作った10畳ほどの部屋です。3つの側面を巨大な石の板が囲っています。石を壁のようにして前側と左右にたてている。そしてその上に屋根のようにしてもう一枚の石の板が置かれています。一つの側面には石の板の壁はありませんが、その側面から石の階段が下方に降りていくように作られています。人がそれを下っていったところがちょうど部屋のような空間になっています。そこに高貴な人の遺体を入れた石棺が置かれていたわけです。

 もともとはこの石の屋根の上と周囲とには土が盛られて、全体が小山のようになっていました。だが年月の流れの中で土が流れ落ちて、石が露出するようになりました。その結果、その姿があたかも石で作った舞台のようにみえる。そこで石舞台と呼ばれるようになりました。

                    


明日香の地に立ちましたら不思議に気持が落ち着きました。平地を歩くと有名な大和三山(耳成山、香具山、畝傍山)やその他の山が囲んでくれています。山々の高さも適度で、富士山のようにそびえるという感じは与えません。かといってハイキングで簡単に頂上まで登れるほどの低いものでもない。人間の感覚に適度なような気がします。

 こうした地に身を置くと、他の人でも気持ちが落ち着くのではないでしょうか。山々は適度の距離と適度の高さにあって、人を囲ってくれている。こうして一つの閉じられた空間感覚をつくってくれることによって、気持を落ち着かせてくれるんですね。だだっ広い平原にいるときと比べたら解ります。たとえばアメリカ中西部のオハイオ州とかイリノイ州はほとんどどこまで行っても平原で山は一つも見えません。こういうところにいますと、鹿嶋も含めて少なくとも日本人は、精神不安定になる傾向があるのではないでしょうか。

(続きます)

                       

     
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Vol.24 洞察家の教会と憎悪

2006年12月19日 | “エホバ”の奥義
                    
 
 前回、洞察家の洞察は、教会では通用しない、という主旨のことを申しました。
しかし、これでは夢も希望もない、と感じられる方もおられるでしょう。
洞察に価値を認める方ですね。

 この方々に、追記しましょう。前回の話は一般論です。例外もあります。
洞察家は少数派ですから、彼の「深読み」に賛同する人は少ないです。
しかし、それでも彼が「この指とまれ」と手を挙げたら、とまりにくる人もいます。
少数ですけれど。これで小さな教会が出来ることはあります。


                    

 さらに、例外があります。それはこういう教会に癒しなどの「しるし」が現れたときに起きます。
指導者の「深読み」が聖書に約束された不思議につながることもあるのです。
そうすると小集団はブレークします。
しるしが彼の解読を正しいと信頼させるのですね。で、突然多数の人がその「解読」を聞きたくて参加してきます。

 かつてのオーラルロバーツさんの教会がそうでしたし、今のベニーヒンのフロリダにある教会もそうでしょう。
ベニーのこの教会の会員数はジャスト8000人といいます。
少ないようですが、これ以上は教会員として面倒みられないので、これで止めていると聞いています。
後はクルセードにどうぞ、ということでしょうか。

 この精鋭8000人が、ベニーやその家族の生活を支えているそうです。
で、彼が行っている「癒しのクルセード」活動は、別の財団として行われているようです。
母教会が彼の生活を支えるので、クルセードの活動は純粋に伝道活動として、ベニーは思い切って出来るわけですね。
ベニーがここで行う説教は一部テレビでも見られますが、彼独特の「深読み」がどんどん出てきます。


                    

 しかし、彼の活動が全世界的にテレビ報知されるようになっていながらも、
彼を非難する人々の方が福音世界全体からしたら、圧倒的に多数派です。
そもそも、聖句を自由に探求していい、という立場で活動する教会が少ないですから。
バプティスト派とメノナイト派、それにペンテコステ派くらいではないでしょうか。
あとは、教団からの統一解釈(教理)を信徒に与え、信徒はそれに従うという方式の教会ばかりです。

 その類の教会では、教会本部から天下された解釈と異なった解釈は、
自動的にみんな「異端」ということになります。

 その一つである教会~~カルヴァン派の教会ですが~~の牧師さんなどでは、
「オーラルロバーツ、ベニーヒンなどはもう異端もいいところ」となります。若い牧師はボロクソに言っています。
またこの教派の退役牧師さんの会に出させていただいた時に、
ベニーヒンに対してほとんど憎悪している人々の声を聞きました。

 でも、その方々も、いい人なんですよ。親切で・・・。春平太など、本当にお世話になりました。
・・・これが「世」なんですね。
「人間話せばわかる」なんて大嘘、と述べた「**の壁」という新書本が日本でもベストセラーになりましたが、
本質を突いているからでしょうね。

 教理主義の教会だけではありません。
かのバプティスト派の教会信徒さんだって、春平太の知るところでは大半はベニーを「異端」と位置づけていました。
聖句主義からは異端という言葉は出てこないんですけどね、本来。
ともあれかくのごとくに全体からしたら、オーラルロバーツ、ベニーヒンは相変わらず少数派です。

(前にも書きましたけれど、ベニーヒンの説教を全部コレクションして、
聖書と適合していない箇所を調べあげる研究所まであるそうです。
カリフォルニアにあると、電話番号まで教えてくれた人がいました。
訪問してませんけど、電話番号まで教えてくれるところからすると、本当でしょうね。
でも、暇な人々もいるもんですね。そんなヒマとお金があったら、他のことに注げばいいのに・・。
でもこの人たちは、真剣で、使命感に燃えてやってるんでしょうね)

 世界にはいたるところに「**の壁」あり。こういう構造で世の中というのはなんとか回ってきているんですね。
これからもそういくものでしょうか。あるいは、ある時破綻が来るのでしょうか。
春平太程度の知恵をはるか超えた問題のようです。



                    




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Vol.23 「奥義」を扱う知恵

2006年12月17日 | “エホバ”の奥義

~~本稿は、2006年4月22日の記事「聖書には総論と奥義が併存」と合わせて読むとよろしいようです~~


                    

 「エホバの奥義」の本論は、大体前回までですが、すこしアフターケアをしておきましょう。
 それは「奥義」というものを扱う知恵についてのことです。

 ここで「表義」という語を作って、定義しましょう。その意味するところは「表面に現れやすい意味」です。表義という語は辞書にはないと思いますが、造語として使いましょう。読み方は「ひょうぎ」としましょう。
 するとこれは奥義の反対語になります。「奥義」は文字通り、奥にある意味、奥に秘められた意味、です。こちらは「おくぎ」です。

                    

<表義、奥義の出現は必然>

人間社会では物事には表義と奥義が必ずと言っていいほど現れます。
 聖書の解釈はその超代表でしょう。この書物は、他に類例を見ないほど内容が深淵広大だからです。人類社会がこれから後何千年つづくかわかりませんが、もうこんな書物は出現しないのではないか~~個人的にはこう思っています。

だから、様々な解釈が成り立ちます。そのうち、字面(じづら)から容易に出来上がる解釈は表義になり、踏み込んで考えてはじめて見えてくるようなものは奥義の位置に来ることが多いです。

                    

 
<洞察力には差がある>

人間の側からの理由もあります。それは洞察力には人によって差があるということです。その差が素質から生じるか、あるいは、その後の教育・訓練から産まれるのか、おそらくその両方でしょうが、とにかく差があります。
 
 洞察という言葉の「洞」は洞穴(ほらあな)を示しています。察は「くわしくしらべること」「おしはかること」という意味をもっています。ですから「洞察」は洞穴をのぞいて中をおしはかるということになるでしょう。いずれにせよ、表に出ているものを簡単に認識するのとはちがうわけです。

 英語ではそれを「インサイト」といいます。「イン」は内側、中の方を意味しますし、「サイト」は見ること、視界、景色などを意味している。やはり「内側のものを見る」ということですね。

聖書の論理構造をみる、などというのは、まさに洞察ですね。家の柱や梁と同じで、構造は表の字面(じづら)には現れていませんから。 

                     

<洞察家は常に少数派>

 そして、人類社会ではこの洞察力に恵まれている人は、いつも少数派です。ある時代にそうなるのではなく、歴史的にいつの時代にも洞察家は少数派、というのが春平太の認識です。

 どれくらい少数派か。経済学などの社会科学の学界の学者さんについてみますと、ホンモノの洞察家は千人に一人という感じです。準ホンモノとなったらもう少しいるでしょうけどね。学者さんでそうですから、全社会に目を広げてみたら1万人に一人といったところではないでしょうか。経営でいったら、京セラの稲盛さんのような方ですね。

 これはいい悪いとは関係なく、事実です。実は、春平太はこの現実に非常な関心を持っています。もし、将来、天の創主王国に行かれて創造主にまみえられたら、とにかく次のような質問はなんとしてもしたく思っています。「人類がこういう比率になるようにお創りになったのは何故だったのですか?」と。春平太にはこの構造はそれほど疑問の的です。

                    


<教会とは表義でやっていくところ>

 今述べたことが、教会の性質を決めています。教会と言うところは多くの人が集まるところです。ですからそこでは奥義ではやって行かれないのです。

 奥義が正しいとしても、そんな話は多数者はわかりません。やったら人が集まりません。だから、表義的な神学でやっていくところとなります。


                    

<教会員としての知恵>

 かといって、奥義をつかんでいる人は、教会に行かれないというわけではありません。奥義とは上記のようなものですから、やたら表に出すものではないと悟っていたらいいのです。

 鹿嶋は米国南部の教会でそういう人を見ました。アラバマ州にあるフィラデルフィア・バプティストチャーチという教会のスモールグループに参加していたときのことです。
 ここでやはり旧約の主(ロードですね)から出た言葉が、創主の言葉としては少しおかしいのではないか、ということが議論になりました。色んな見解が出ました。その中で、特に問題ないと思うと自説を述べた後「この主は、自分は天使じゃないかと見ているから・・・」とちらっと付け加えて話を終えた男性がいました。彼はそれ以上語りませんでした。

 バイブルスタディが終わった後、廊下で彼に近寄って話しかけてみました。「あの話面白かったよ。もう少し聞きたかったよ」 彼はぼそっと応えました。「いや、こういうところで言うべきでないことさ・・」

 さすがサザンだなあ・・・、と感銘した事象でした。サザンバプティストは奥が深いです。聖書探求に関しては底知れない深さを持った少数者がいます。
 でも全ての教会がそうというのではありません。この教会は聖書探求を学術的に行うので、それを知って他教会から移ってくる年配者も少なくないという特殊な教会でした。水曜日夕にシニア担当牧者が行う聖書講義と討議など、鹿嶋が経験した神学大学院での講座以上ではないかと思うほどでした。

 だがそういう教会でも、高校、大学生など若いメンバーもたくさんいます。シニアメンバーだって、洞察家はすくないです。教会では表義で交わっていく、と心する。そう悟れば、教会生活を送ることは可能なんですね。

                    

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Vol.22 「新約優位」の構造を持った本

2006年12月11日 | “エホバ”の奥義
                    


 そろそろまとめに入ります。

 エホバが何者か、は単なる知的興味を満たす問題ではありません。それは新約聖書と旧訳聖書との関係をどうみるか、に密接に関連しています。

<父の言葉がすでにあるのに>

 イエスは「自分の言葉は父(創造主)が語れと命じられている言葉だ」という主旨を述べています(ヨハネによる福音書、12章49節)。
 キリスト教はイエスの言葉に究極の信頼を置くものですので、これは文句なく受け入れるべきです。するとイエスの言葉が、創造主の言葉だということになります。

 そしてもしエホバが父なる創造主であるならば、彼から出た言葉は創主の言葉であって、それは旧訳聖書にすでに記されています。であるならば、後にイエスがあらわれて、また、父の命じる言葉を述べるというのはおかしな話になるでしょう。

                    

<旧約と新約の関係に>

 実際には、エホバから出た言葉には、イエスの言葉と必ずしも主旨が一致しないところがあります。私たちはこれまで、それを見てきました。それを考えていくと、われわれは新約の神と旧約の神との違い、および、両者の関係の問題に到ります。そしてそれはとりもなおさず、新約聖書と旧訳聖書との関係はどうかという問題にもなるのです。 

だが、その問題に関しては、明白な答えが新約聖書に書かれています。イエスの次の言葉がそれです。

 「あなたがた(ユダヤ教僧侶たち)は、聖書(旧約)の中に永遠のいのちがあると考えて、聖書(旧約)を研究しています。だが聖書(旧約)はわたしについて証言するものなのです」(ヨハネによる福音書、5章39節)

イエスは旧訳聖書という書物は、「わたしのことを記している」といっているのです。ところがこの書物にはイエスという名前は見あたりません。「イエスのイの字もでてこない」と表現することも出来るくらいです。

 にもかかわらず、イエスのことを証言しているというのならば、それは別のいい方で比喩的に述べているということにしかならないでしょう。旧訳聖書の読み方はそういう風に読むのが唯一の正しい方法だということになります。

                    

<新約優位の構造>

 またそれは、聖書は構造的に読むものだ、と言うことをも示唆しています。そしてその構造を一口で言えば「新約優位」となるでしょう。旧訳聖書が新約に描かれたイエスのことを証言しているというのならば、そういうことになるでしょう。そうです。聖書というのは、「新約優位」の構造を持った本なのです。

 すると、新約と一見矛盾するようなことを言っていても、旧約は間違っているのではない。真理(イエス)の影をたとえでもって述べている。こういうことになります。

 昔、幻灯機というのがありました。幼少時にそれに手をかざして犬やウサギの形を作って遊んだ記憶をお持ちの方はわかるでしょうね。イエスの言葉に従って読めば、旧約はその影絵となるのです。

 ただし、それが影絵であるということは、真理(イエス)が現れるまではわかりません。現れることによって、「エホバがその影絵を示す仕事をしていたのだなぁ」とわかる。イエスが「あのうさぎは実は影絵なんだよ。ホンモノは人の手なんだよ」と明かす。そういう構造になっています。

 真理とは霊に関することです。罪の真理も、霊に関することです。旧約で祝福として示される物的豊かさと健康は、霊の豊かさ、霊の健康をという真の祝福を示唆する影となる。旧約は物的富と健康でもって霊の祝福状態を影絵でもって示していることの多い書物。こういうことになります。

                    

<神様と思ってもいいが・・・>

 エホバはそういう性格の言葉を、人間(ユダヤ人)に語っていたことになります。そしてもしこれが高位な天使であったとしても、これを神様(創造主)と思っても、全く間違いということは出来ません。

 また、初心者はそれでいいのです。天使であっても創主として人間に臨んでいるわけですから、人間は臨まれたままにそのまま受け入れても完全な間違いではないでしょう。

 実際、ユダヤ人たちはそうしてきました。のみならずいまでも、ユダヤ教ではそうやっています。

しかし、クリスチャンにはそれは若干の危険を含んでいます。

イエスは「父は私より偉大だ」と言っています(ヨハネによる福音書、14章28節)。
これを「エホバは万物の創造主で、旧約にはイエスの父の創造主が現れている」という判断につなげるとどうなるでしょう。

その人は、イエスよりもむしろエホバの方に真理を求めていくことになるでしょう。
そうやってきまじめな人は誠実に、どんどんと、エホバの言葉を究極の真理として吸収していきがちです。そうなったらどうなるでしょうか。

 答えは、明快です。「その場合はこうなる」ということを身をもって示してくれている人々が実在していますから。「エホバの**」がそれです。彼らが配布していく小冊子では、イエスの影は薄いです。

 でもこの人たちは、本当にきまじめな人なのです。論理思考を徹底させる真面目な人達なのです。しかし、大局観がつかめなかった。つかまないままで、どんどんと小局の深みに入っていくことになりました。


 鹿嶋はまず、それに陥っていく人を出さない為に、この「エホバの奥義」を書きました。

                    

<大多数にはまあ危険はなさそう>

 しかし、大多数のクリスチャンには、そういう危険は少なそうなこともわかってきました。彼らは概して論理的にあまり詰めないようなのです。で、新約も正しいが、旧約も正しい、として両者をべったりと読んでいます。そして、イエスの言っていることと矛盾する聖句に突き当たると、そうなったところで「もう~、わかんなくなちゃった・・・」などといって思考を止めてしまいます。

 あるいは旧約の神が「私はねたむ神」といっているのを読むと「神様がねたむなんて一寸何か変だなあ」と思います。だがすぐに「聖書は神様の言葉で、人間にはわからないところがあるのは当たり前だから・・・」と思考を止めてしまう。

 彼らはこういう「論理的いいけげんさ」によって上記の危険を結果的に避けることができているように思えます。

 これも一つの知恵かも知れません。本能的な知恵。そういう人々は、どのみち危険は少ないですから、エホバは神様、とやっていてもいい。まずはどうでも好きなようにやっていていいようです。

                    

 しかし、微妙な点ではやはり欠陥は生じます。それを示すのが、このシリーズを書いたもう一つの動機です。

 今述べましたように旧約は直接的には、物的富と健康でもって創主の祝福を示す本です。それからストレートに知恵を学ぼうとすると、その知恵は、物的富と健康を得るための、その面での祝福を得るためのものになります。

 端的に言えば、現世での処世の知恵ですね。それに気づかないのは、それを神様からの知恵だとして、権威付けして読んでるからでしょう。処世の知恵を神の知恵として随喜して読み、議論している。結果的にそうなってしまうのです。春平太はその例を日常的に見ています。

(ニッポンキリスト教はそればっかりです。大体それで生涯を送ります)

 そのどこが欠陥かと言いますと、霊の論理の探求に意識が向かわないままで生涯を送ることになる点です。

                    

 それでもいいじゃないか、という人もいるでしょう。それだってイエスへの信頼、聖書という書物への信頼はあるんだから、救いは受けるんでしょう、と。

 信頼ねえ~。漠然としたものでしょけどね。まあ、概して言えばそうだとしておきましょう。それを鹿嶋はあえて否定するまではいたしません。

 しかし、こういう世界にいる人は、聖霊は受けられないでしょうね。聖霊のバプティスマの体験は、まず、得られない。この不思議、この奥義は、霊界の法則を知りたいと渇望して聖書に向かい続ける人だけが体験する可能性を持つからです。

 そして、これを受けない人は、福音の門の内側には足を踏み入れない。門の前で、門前ならし、門前踊りをして一般人への伝道に貢献し続けることになるでしょう。

 これもいいですよ。これもいいんですけどね。ほとんどがこればっかりというんではね。パワーがないんだよね・・・。


                     
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Vol.21 「人間と比較しつつ天使を(17)~~霊的真理の直接提示は託されていない~~」

2006年12月09日 | “エホバ”の奥義
                                     

前回、聖書における罪の概念は三層構造になっていることを示しました。
そうだと直接書かれているのではなく、聖句を眺めていると、そうなっていることが浮上するのですね。
それをインサイト(洞察)するのが解読です。
こういう知的作業を怖がっていたら、解読などというのは成り立ちません。

さて前回は「行いの罪」「思いの罪」に関して述べている聖句を示しました。
そして「原罪」が残りました。

この概念を直接示す聖句は聖書には現れてないいように思います。
原罪という用語も春平太は見たことがないです。どうもこれは神学用語らしいです。

 聖句で直接示されている罪とは別に、その源になっている罪、という観念は間違いなく聖書にあるようなのですね。
アダムとイブが知恵の実を食べたことによって生じた「何か」がある。
それが源になって様々な罪を生じさせた罪というものがあるはずだ。
こういういう風に聖書の論理構造を追うのが神学(theology)です。
そしてその観念に原罪という言葉を神学は作ってあげたようです。

                    

<祝福の内容がちがう>

 さて今回は、罪全般と祝福についてです。
それらの観念が、旧約と新約とではすこし違っているようです。
たとえば「出エジプト記」20章で、エホバは十戒を与えます。
これを守るべき律法として、人々(ユダヤ人)に与えます。
守らないのが罪だと罪を教えます。

そして守った場合はエホバは祝福を与えるという。
それをこう記しています。
 
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 「私を愛し、わたしの命令を守るものには、恵みを千代(せんだい)にまで施す」(出エジプト記、20章6節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

この「千代にまで」ほどこす「恵み」は物質的恵みでしょうね。具体的には肉体の健康と物的な富でしょう。
霊的な恵みではない。
霊に受ける霊的な恵みは千代(せんだい)を構成する各人ひとりびとりが信頼心(信仰)によって勝ち取るものです。
先祖の功績で自動的に子孫に与えられるものではありません。

                    

ところがイエスになると、祝福の観念が変わってくるんですね。
彼は~~

 「悲しむものは幸いです。・・・」(マタイによる福音書、5章4節)

  ~~なんてことを言い出します。
悲しむのは物的、健康的な祝福がないから悲しむのですね。
これはエホバにおいては、「よくないもの」です。祝福でなく呪いを受けている状態です。
 
 ところがイエスはこれを幸いだという。
こういうことは、この悲しみが契機になって別の恵みを得られる場合にしか言えないことでしょう。
で、物的、健康的な悲しみとは別の次元での恵みといったら、聖書の思想ではもう霊の恵みしかないですよね。

 そして本物の恵みとは、実はこの霊の恵みだったということが、後にイエスによって明かされます。
こういう枠組みから診ると、エホバには霊に関する真理を人間に直接的に提示することは
託されていなかった、といえそうです。

                    


コメント
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