鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

どうしてイエスだけが「子」なんだ?

2005年09月30日 | 「考える宗教」へ




 聖書の論理では創造主から「出た」霊は、イエスだけではありません。
 聖霊もまた、創造主から「出た」霊ということになっています。

 これは無数に出ているのですが、皆、同一の働きをします。
 だから、「多にして一」「一にして多」という存在です。
 ややこしいですが、要するに、聖霊は一つ、とみてもいいわけです。

+++

 聖霊は「聖なる霊」でありまして、文字通り、創造主の「聖(ホーリー)」という属性を持っています。
 イエスもまた「聖なる霊」でありまして、その意味では聖霊であります。

 なのに、どうしてイエスだけが「子」になるのか?
これも、「考える宗教」として、放っておきがたい問題です。

+++

 鹿嶋は、こう考えます。

 イエスも聖なる霊であって、すなわち聖霊と言っていいのだが、いわゆる聖霊と違ったところがある。それは天の王国の相続者とされたことである、と。

 聖書にこういう聖句があります。

 「創り主は、御子を万物の相続者とし、
     また、御子によって世界を造られました」
(ヘブル人への手紙、1章2節)
 
+++

 ここで御子というのは、イエスをさしています。
 そして、「万物」というのは、文字通りのすべての被造物と解して良さそうです。
すると、天国という被造空間も含まれることになるでしょう。

 つまり、イエスは天国を相続する存在であって、この点が聖霊とひと味違うわけです。

+++

 この世で相続というのは、本来親のものであったものを、受け継ぐことでしょう。
万物は、本来創り主のものであった。 
 創り主は、それをイエスに与えた。
 この与えたことを、人間の世界の言葉を使って、相続といったのでしょう。

 ただし、人間の世界では相続は、通常、親が死ぬことによって実現します。
 けれども、創り主は永遠の霊的存在で、死ぬことはありませんので、このあたりはあてはまりません。でも、まあ、このあたりは無視して相続という言葉を使っているのではないでしょうか。

+++

 創り主は死なないから、むしろ「与える」というべき、という意見もあるかもしれません。しかし、それだと今度は、本来自分の持ち物だった「いっせつ」を、合法的に“受け継がせる”というニュアンスが弱くなります。

 霊イエスには、万物のすべてを、恣意的ではなく、あらかじめ決まっていたものとして、合法的に受け継がせた、と言いたいのではないでしょうか。

+++

 ともあれ、そういうわけで、イエスはいわゆる聖霊と違って、万物を受け継ぐ存在でもあったと。それ故に「子」ということになると考えられないでしょうか。

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聖書の空間理念

2005年09月29日 | 「考える宗教」へ






(前回の追加説明です。図はクリックすると拡大します)

 鹿嶋が天の王国とこの地上の世界を対比して考えるとき、いつも頭に置いているのが「聖書の空間理念」です。
 これまでにも提示してきましたが、ここでも改めて示してみましょう。

  (どうしてこういう解読になるかは、鹿嶋『誰もが聖書を読むために』新潮選書、をご参照ください)

+++

 創り主は空間的には無限者ですから、まず無限の広がりを持った空間があります。
その一部に創られたのが、天の王国、世に言う天国です。
 これは広大ですけれど、創られた空間、すなわち被造空間です。

 創り主はここに自らの「名」をおき、そこを聖霊で充たします。
   霊は意識体でもあります。
      だから、天国に満ちる意識は「聖(ホーリー)」ということになります。

 創り主は、そこに無数の天使(御使い)を創ります。
天使は、創り主の名を「ホーリー、ホーリー(聖なるかな、聖なるかな)」と讃美しています。

 ここは創り主が王として統治する王国で、王の定めた法に沿って完璧に統治されています。

+++

 天の王国の、一部にごく小さな球体がありますね。
 これがわれわれの住む、宇宙です。
 ここはくらやみで、創り主に対抗するようになった一団の天使を閉じこめた牢屋でもあります。

 天使は力ある霊ですが、彼らは軍隊のように組織化されています。
 各集団には天使長がいて、そこに属する天使たちは、その長の命令に従って行動します。
   命令系統で動く。まさに軍隊です。
      イエスも、天使を「天の軍団」といっています。

+++

 この天使長の一人が、あるとき天国で部下たちに自分を讃美させた。
 これは、天の創り主の王国に、自分の王国を造ろうとすることですね。
 
 そこで、創り主は暗闇の牢屋(宇宙)を造り、そこにこの一軍の天使たちを(他の天使に命じて)追い落とし、閉じこめた。

 われわれの住む地球は、その宇宙の一部にあるチリのように小さな存在です。
 そして、それは宇宙の中にありますので、基本的に宇宙と同じ性格を持っているわけです。

 この性格が、俗(セキュラー)ですね。
 俗については、世俗という場合もあります。

+++

 これは絶対的な解釈ではありません。
 これが絶対に正しいと言ったら教理主義になってしまいます。

 そうではなく、こういう風に考えてみると、聖書の話が筋道だってくる、というだけのことです。とはいえ、「考える」には、何か一つの空間理念が必要でもあります。

 鹿嶋の場合は、こういう風に「考えている」ということであります。
 聖、俗という対比をみるときも、この空間図式に対応させて考えているわけです。

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創り主の意識はホーリーベース

2005年09月28日 | 「考える宗教」へ






「考える宗教」を続けましょうか。

 前回、イエスを創り主から出た「生き霊(いきりょう)」と考えてみましたね。
創造主の思い(意識、念)が霊として分離したのだと。

 では、一体、創造主(つくりぬし)の意識とはどういうものでしょうか?

+++

もちろん、創り主といえどもいろんな意識を持たれるでしょう。
喜びもあれば、怒りもある。失望も苦笑もあるかもしれません。

 しかし、創造主の場合、それらの意識のベースに「聖(holy)」と称される意識があるのではないかな。

 黙示録(4章8節)にこうあります。

 「・・・彼ら(天の創主の御座の回りにいた四つの生き物)は、昼も夜も絶え間なく叫び続けた。

   『聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。
     創造者であられる主、万物の支配者、
       昔いまし、常にいまし、後に来られる方』」

 聖書を貫いてあるのは、創主のベースにある性格、意識はこの「聖」(ホーリー)であるという思想。 このように鹿嶋にはみえます。

+++

 料理にもいろんな味がありますよね。
 甘み、辛み、酸味、こしょう味、ピリ辛・・。

 でも、ベースになっている味というのがある。
 醤油ベース、ソースベース・・・。

 これですね。創り主の意識はみなホーリーベースなわけです。

+++

 聖書では、創り主に対極する存在は悪魔ですね。
この意識ベースは「俗(secular,またはworldly)」です。

 我々がこの世に生まれついて持っているのも、このセキュラー(俗)ベースの意識です。

 正確に言うと、アダムが創り主の命令に背く前には、そうではなかった。
聖なる意識がベースになっていた。
 だが、背いた後には、その霊(意識)がいのちエネルギー100%充電でなくなりましたので、死のエネルギーが何パーセントか生じました。

 いのちエネルギーは聖なる意識を発しますが、死のエネルギーは俗なる意識を発するという道理です。混ざると、ベースは俗味になってしまうんでしょうか。とにかく、悪魔と共通したセキュラーベースの味になりました。

+++

 聖という意識は、どう理解したらいいでしょうか。
 これはそもそもは天の王国に満ちた意識です。

 で、この宇宙(この世)にいる我々には、体験が難しい。
 で、わかりにくいのですが、擬似的な体験はあるかもしれません。
朝のすがすがしく、さわやかな空気。
 これを深呼吸したときの意識とかいうように。

+++

 反対の、セキュラーな意識は、どうか。
 これはもっと自覚が難しいでしょうね。
 だって、聖書は我々の意識すべてがこのセキュラーベースだというんですから。

 もし世界に、男だけしかいなかったら、男は男というものを特徴的に自覚することは出来なかったでしょう。すると、男という言葉、概念、イメージすら生まれない。
 人間という意識はあったとしてもね。

 男が男という存在として自分を自覚できるのは、対極的な存在である女が出現してからなんですね。

(だから文化を特徴的に認識しようとする「文化論」は「比較文化論」にしかなりえないんですね)
 
 この女が発生する前の男みないな状態が、この世における人間の意識ベースである「俗」です。だから、俗といわれても、何のことだかわからない。全意識が俗だから。

+++

 ~~これが基本です。
 でもその上で、何とか特徴的に理解しようと思ったらどうしましょうか。
 少なくとも「永遠」という思いが自分の頭に全くない状態でしょうね。

 「人間、生きてるうちでっせ」
・・・と、この世の楽しみだけが意識にある状態。
それで、その時々の楽しみを、その時々に追求する状態。

「きれいごと言うたかて、人間しょせん欲でんがな」
 「それには、カネがいりまんがな。」
 「おんなも、結局はカネですね。政治もカネだ」
~~~ホリエモンの世界だね。

 あるいは、新宿歌舞伎町の夜、おカネ払って「のぞきメガネの女」をのぞいているときのギンギラギンな意識とか? 若い人には、こっちの方がよくわかるか・・・。

 (だからイエスが「聖」を持ってこの世にきたとき、人々は鮮烈な印象を受けた、という論理になるんだね・・)

+++

 このように、聖、俗の意識がわかるには、困難が多いのですが、例外はあります。
 それは、天の王国の意識を体現している霊(聖霊)が、自分の内に入った人です。

これが聖霊のバプテスマです。
 くりまんさんは、だから、聖書でいう「聖」が(従ってセキュラーも)感覚的にわかるんでしょうね。
 「聖霊を受けたら聖書が突然よくわかるようになった」というよくある証言。この体験も、聖、俗が感覚的にしかとわかるようになったことによるでしょう。

+++

 みなさんも、早く聖霊を受けてください。
 「せいしょ議論」のきよ子さん。
 もしこのブログ読んでおられたら、それに踏み出してください。
  踏み出していいタイミングと思いますよ。

 しかし、焦らなくていいです。
   人それぞれのペースで進むしかないんですからね。
これが聖書(聖句)主義です。
今回は、この辺で。
(しかし、「考える宗教」は、長くなるなあ・・・)


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無事帰国しました

2005年09月27日 | 「考える宗教」へ
             



 鹿嶋、無事帰国しました。

 マジェスティーさん、Skyさん、くりまんさん、
   コメントありがとうございました。

 お祈りくださったことにも感謝します。
 これから、また、「考える宗教へ」を続けましょう。
 みんなで、一緒に考えましょう。

     鹿嶋春平太


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お休みいただきますね

2005年09月21日 | 「考える宗教」へ
        
 
 

  22日から26日まで海外出張のため
    このブログ
      お休みいただきますね。

        鹿嶋春平太
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神様が子を産むの?

2005年09月21日 | 「考える宗教」へ



 「考える宗教」を始めましょう。
今回は「創造主の子」ということについて。
 
 イエスは「神の子」と言われますね。
 神というのは、正確でない訳語で、正しくは「創り主」または「創造主」です。
ですから、創造主の子、というのがイエスですね。

 すると、万物の創造主にどうして子がいることになるの? という疑問は自然に生じるのではないでしょうか。

+++

 聖書の創造主は霊です。霊は目に見えない実体です。
 また聖書では、霊は子どもを産まないという思想です。

 天使も霊ということになっています。
 これは創造主によって創られた霊だから、被造霊ですけれど、とにかく霊ですから子は産まない。だから無数にいるのは、最初からたくさん創られたから、ということになる。

考えたらそういうことになりますよね。

 子を産んで増殖するのは、肉体(物質の身体)を持っている存在だけです。
 これが聖書の思想。
 すると人間も動物も肉体を持っていますから、増殖することになる。

 そういうことになります。

+++

 では、創造主は創造霊という霊なのに、どうして子を持つことになったのか?

 春平太の推論です。

~~~聖書では、霊は自ら意識体でもあります。
 意識というのは「思い」ですね。
 思うにはエネルギーが要ります。
意識活動というのは、エネルギーを使う活動なんですね。

 このエネルギーをたくさん凝縮させて注入した思いが「念」です。
念力というのは、エネルギーを凝縮させた思いの力、なんですね。

+++

 日本の時代劇映画で、小さなわら人形を作って、それに「死ね!」「死ね!」と釘を打ち付ける場面があります。
 憎い相手を人形に見立てて、死ね!という念をぶつけている。
すると、この相手が、熱を出して死に瀕する、という場面。

 お殿様の跡目争いなどで、相続させたくない若殿に、これをやるというストーリーなどよくありますね。

+++

 これも念をぶっつけているようです。
 だが、ここには単に「念」をぶつけているだけでもない思想があります。

 念は思いです。思いには霊の活動がともないます。
 そして、こういう思いを念じていると、それが霊体となって念じている本体から分離することがある。
 独立の霊となる。
 そして、自ら活動し出す。

 これが「生き霊(いきりょう)」という考え方です。そういう思想が、時代劇のわら人形にはあるのです。

 若殿への殺意に満ちた念が、分離して生き霊となって、若殿のところにふわふわと飛んでいって、死のエネルギー(いのちのマイナスのエネルギー)をふりかける・・・。

 これは、単なる迷信でしょうか?

+++

 「霊が見える」と普段から自称しているお嬢さんを鹿嶋は知っています。
ある会社で、上司の女性からリストラされそうになりました。
なにかにつけて、そのお嬢さんが憎いらしい。
機会あるごとに、激しくいじめます。

 お嬢さん、あるとき、その女性の生き霊が見えた、といいます。
 上司から憎しみの念を持った霊が分離して、お嬢さんをにらんでいた。
 それを見たとき、辞めることを決心した、と語っておりました。

+++

 鹿嶋は霊が見えません。
     ぜ~んぜん見えない。
だから、その話が本当かどうか、最終的にはわかりません。

 けれども、「霊からは霊が分離することがあるのでは?」という仮説は、聖書の思想と合うところがあります。
 そう仮設すると、筋道が通っていく。そういうところが結構たくさんあるのです。

 だって、アダムから霊が次々に子孫に分離するんでしょ。
 木が枝分かれするように、霊もアダムから枝分かれする思想だと、「若者よ、聖書を知れ!」で、書きましたよね。

+++

ヨハネ伝(ヨハネによる福音書)の冒頭に、こうあります。

    「はじめに言葉があった。言葉は創主(つくりぬし)と共にあった。言葉は創主であった」(ヨハネ伝、1章1節)

ヨハネは、この「ことば(Word)」をイエスであるとして書いています。このイエスは、人間の姿をした身体を着て、地上にやってくる前のイエスで、霊としてのイエスです。それはこのヨハネ伝のすぐ後の聖句でわかってきます。

 が、ともあれこういう疑問が出る。
一体どうして言葉がイエスなのだ?

+++

 そもそも言葉ってなんでしょう。
それは「思い」に信号がくっついたものではないでしょうか。

 たとえば、、まずはじめに「愛(いと)しい」という思いがあります。
思ってるだけでは言葉にならない。
でもそれに「い・と・し・い」という音(信号)をつけたらどうでしょうか。
「愛しい」という日本語の言葉になります。

+++

 言葉は、思いを含んでいるんですね。
言葉は、霊の活動を伴っているのです。
 これに、「霊は意識体(思いをもつもの)である」
    「霊が思いを描くと、その思いを持った霊が分離することはありうる」、という仮説を組み合わせましょう。
     するとヨハネ伝のこの聖句に、一つの筋道が浮かび上がってきます。

+++

 創造主は霊でしたよね。
         創造霊。
 その創造霊が念(思い)を込めたらどうなるか。
 その念(思い)を持った霊が、創造霊から分離独立して出ることがある。
        それがイエスだ、という道理になるんですね。

 この場合は、「創られた」のではなく、創主から「出た」ものです。
 だから、創られた被造霊ではなく、創造霊です。

 この「出た」創造霊が、万物の創造主とはじめは共にいた。
それが「はじめに・・・言葉は創主と共にあった」というヨハネ伝冒頭の聖句の意味だと推論することが出来ます。

 そして、それは創造霊だから、創造主と同質の霊であり、創造主でもある。
   そこで次の聖句「言葉は創造主であった」も意味がつながってきますね。

+++

 以上によって、イエスは、創造主から、その思い(念)が分離して出た「創造主の生き霊」という理解になりますね。生き霊という言葉は、習慣上、あまりいいニュアンスでない言葉ですけどね。
 だが、それはその言葉が、あまりよくない念の被造霊についてだけ用いられてきたことによる。それだけのことかもしれませんよ。

~~~少し長くなりました。「考える宗教」というのは、考えていきますから、どうしても長目になるんですね。では、今回はこの辺で・・・。

 鹿嶋は、22日から26日まで、海外に主張します。
その間お休みをいただきますけれど、皆様の方でも、「考える宗教」トライしてみてください。ご感想、質問、コメントもご遠慮無く。
また、他のカテゴリーに収録されているコンテンツも、楽しんでみてくださいね。



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「考える宗教」って?

2005年09月20日 | 「考える宗教」へ




若者も含めた皆さんへ。

 これから少し、「考える宗教」について考えたいと思います。 

 若者諸君への語りかけの中で、鹿嶋春平太は「これが真理かどうかは、おのおの自分で判断すればいい」といいました。

 だけど、実際、この話を初めて聞いた人で、真理だと思った方はいないと思います。
       それでいいのです。
    こういう一つの考え方を知っている、知識として持っている、ということが大きな力になる。防衛力になりますからね。

 とはいえ、もう一つの面「誰も真理だと信じられない」も気になりますね。この面についても少し考えてみましょう。


+++

 真理だと思えないのはなぜでしょうか?
いろいろ「納得できないこと」があるからだと思いますよ。

聖書の世界観の概略の話には、面白いところもあったでしょう。
だけど、いざ「真理と思うか」と問われたら、納得できないことが出てくるんですよね。

 たとえば~~
     「創造主は全能というのなら、どうしてすべての人間を救わないのか?」
                    とか

   「勝手に造っておいて、救われる人間と救われない人間とが結果的に出るようにするなんて・・・・」
                    とか

     「それでもって、神は愛です、なんて言われて信じてる人の気が知れない」
                    とかいろんな感慨がわきます。

+++

 以下の事例は本当にあったケースです~~

 奥さんがクリスチャンで、幼い子どもを連れて毎週、日曜礼拝に行きます。
旦那さんも家族大事と教会につきあっています。
   牧師さんの説教を何度も聞いて、聖書の教えの概略を知ります。

 それで、旦那さんの反応はというと~~~
      「信じられないし、信じたいという気も起きない」
        「救われるものと救われないものが出るのなら、自分だけ救われたいとは思わない」

       ~~~で、あるときから説教中は爆睡するようになりました。
 
+++

 これって、いけないことでしょうか?

   鹿嶋は、素直な反応だと思います。
     健全だと思います。

 反省すべきは牧師さんだと思います。
 
  礼拝説教で聖書の概略説明を毎週繰り返すだけではですね。
   納得できないものが、毎週残るのが当然でしょう。

    それで「みなさん信じてください、信仰もってください」
       ~~というだけでは、前に進まないんですね。
    
+++

 聖書という教典は深いものです。
    納得できないことがあっても、探求していけば答えが見つかることが多いです。

 「もっと納得できる説明になりえないのか」
         と聖書を探求する姿勢が鍵です。
    そういう態度を牧師さん自身がまず持つことが大切なんですね。
 
     その上でそういう「考える道」を教会に来る人にも示すことです。

+++

 そうしたら、いまご紹介した旦那さんは爆睡するだけではなくなるでしょう。

  爆睡するというのはね、自己防衛でもあるのです。
   「こんな単純な話を納得していったら、自分の知力は低下するのではないか・・・」
        と不安になるのです。
       聞かない方がいいと思うから眠るのです。

                 知性の自己防衛。

 鹿嶋はこう思っています。
    “丸の内のビジネスマンにとってもかったるくない宗教”が日本にも欲しい、と。

この人たちの知力は高いですよ。
   彼らが今の日本教会の礼拝に出たら、多くはやはり爆睡するでしょう。
    この人たちにとっても、「かったるくない宗教」が必要なのですね。

+++

 日本の宗教は、単純な理屈を提示して、あとは「信じなさい」とか「信じる、信じないはあなた次第」と繰り返すだけのものでした。

 で、聞く方は~~
    信じたら「アリガタヤ、アリガタヤ」
      信じなければ「ソンナバカナ・・・」
~~いずれかの繰り返し。あとは儀式の繰り返し。


 日本人は宗教とはそういうものだと思ってしまっています。
    で、日本のキリスト教もそういうふうになってしまいました。
 
でも、本来はそういうものではなかった。聖書を探求して「考える」宗教でした。
        だからこれだけ広く長く続いたんです。

    そこでこれから少し「考える宗教」をやってみたいと思います。
     くりまんさんも、よろしかったらどうぞ。



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アフターメッセージ:「考える宗教」が必要

2005年09月20日 | 若者よ、聖書を知れ!
         



若者諸君。

 鹿嶋春平太おじさんが予定していた概略説明は終わったよ。
 説明を続ける途中で、よろこばしいコメントを一ついただいた。
 最後に、これを紹介して、若者に集中的に語りかけるページを閉じることにしよう。
くりまんさん、転載させていただきますよ。

+++

鹿嶋おじさん ありがとう (くりまん)

はじめまして。
いつも拝見させていただいております。

 二年前に私に起こったことがいわゆる「聖霊のバプテスマ」であると理解できたのは、何気なく図書館でみつけた先生の著書「神とゴッドとはどう違うか」によってでした。もし先生の著作と出会っていなかったら今ごろは・・・それほど私にとっては大きな出会いでした。


「キリスト教=道徳教」というイメージが教会内でも浸透している中で、鹿島先生の「いのち」「霊」をふまえた解説によって、私は本当に自由を知ることができました。

 私は港区の「宿命のマイナー校」(納得笑)の卒業生ですが、先生を知るのが卒業後になってしまったことをとても残念に思っています。

 これからも鹿嶋おじさんのご活躍を期待しております。 ありがとうございました。
 
+++


これは、大事な点を示唆してくれてるコメントだ。
「聖霊のバプテスマ」など上級編の項目が含まれていて、初心者の若者諸君にはわかりにくいこともあると思うけど、これは読み飛ばしてくれ。

ひとことでいうと、「考える宗教」がいかに今の日本に必要かということを示唆してくれているんだ。
これを読んで鹿嶋おじさんは、啓発を受けた。この機会に、すこしこの方向で追加議論をしておこうと思うようになったよ。

ただし、これからは、若者諸君だけに語りかけるものではない。
諸君も含めた多くの方々に向けて語ってみることにする。
新しく「考える宗教へ」というカテゴリーをもうけて、やってみる。
興味がある人は引き続き読んでくれれば幸いだ。


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人生で一番大事なことは?

2005年09月19日 | 若者よ、聖書を知れ!



 若者諸君。

 聖書の世界観、歴史観は概略、これまで示したようなものだ。
 これは真理だろうか?
 なかなか判断しがたいことだよね。

 だが、イエスの弟子たちは、このイエスの教えを真理だと確信した。
たくさんの奇跡も見たしね。
 彼らが、自分が「永遠の」幸福への道を確保した、と確信した最初の人々。

 これは永遠にかかわることだからね。
 世の中、永遠でないことがたくさんあるけど、それは、時が流れればいつか終わる。
悲しみも、苦しみも、いつか終わる。
時は流れを止めないからね。

+++

 だけど、永遠なものは終わらない。
だから、終わるものと永遠なものとのどっちが大事かというと、永遠だよね。

 そこで、まず、永遠の幸福を確保する。
 そして、その次に、終わることにも努力を注ぐ。
 イエスはそういう生き方を勧めた。

 この世のことは、すべて、いつかは終わって消滅するけれど、全く大事でないことはない。今、人間はこの世で生きてるからね。
 だから、そこでもがんばるが、それはまず、永遠な幸福を確保してからだ。
 弟子たちは、イエスの言葉に従った。

+++

 こういう世界観を真理だと思った人には、自然と使命感が生まれるようだ。
 イエスの弟子は、この知らせを、できるだけ多くの人々に知らせようとした。
 
 伝えられた人の中からも、「この知らせは真理だ」と感じる人たちが出た。
 彼らにもまた、それを伝えようという使命感が芽生えた。
 新たな弟子になったんだね。

 で、知らせる。
 と、また、真理だと思う人が出る。
 ・・・こうして、イエスの教えは、今日まで広がってきたんだね。

+++

 でも、諸君は、これを真理だと思う義務はないよ。
 それでも、この世界観を知ることは、有益だ。

 信じて無くても、それを知っていると違ってくる。
 何か他の教えを受けたとき、それを比較してみる材料になる。
    比較は客観的にものを見るために、不可欠な手段だからね。

 冒頭にも言ったけど、「心になにも世界観がない」というのが一番危険だ。
イブだって、一定の世界観、人生観が心にないからやられた。
 悪魔の提供する世界観が、心に残ってしまったからね。

 ~~以上で、聖書の世界観の概略説明を終わります。ず~と読んでくれた人がいたら、ありがとう。

                    鹿嶋春平太

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イエスがもたらした「救い」とは?

2005年09月18日 | 若者よ、聖書を知れ!




 若者諸君。

 今回は、イエスが造った「救い」の構造を示すよ。

  「イエスは神の子です」という言葉も、どこかで聞いたことない?
正確には、「創造主の子」だ。

 その理屈はこうなっている~~

+++

 イエスは処女マリアから生まれた。
 人間の男によってではなく、聖霊によってみごもった。

 聖霊というのは、創造主から無数に出た創造主と同質の霊だ。
だから、創造主と同じく、いのちエネルギーの源になっている。
これがいっぱいこの世にやってきている。
その霊によって、マリアは身ごもった。

 そうであれば、イエスはアダムから不完全充電の霊を受け継いでいない道理になるよね。
 イエスの身体の内には、聖霊があることになる。

+++

 さて、聖書には、もう一つの法則が書かれている。
人の肉体の状態は、根底的には霊の状態で決まる、というのがそれだ。

 アダムの霊が、いのちエネルギーによる充電度100%の時は、アダムの身体は死なないものだった。エデンの園で永遠に生きられるようになっていた。

 ところが、その充電度が不完全になった。
 100%のうちの何パーセントかの霊の部分は、いのちが欠ける状態になった。
 「いのち」の欠けた部分は聖書では、いのちの反対の性格を持った部分となる。
 いのちの反対、すなわち、「死」の部分だ。

 不完全充電になったとき、アダムの霊には、何パーセントかの死の部分ができたわけ。
すると、その肉体も、霊の状態を反映して、ある時死ぬようになるんだ。

+++

 でも、アダムもその子どもたちも1000年近く生きている、と聖書には書かれている。充電の不完全度が今の我々より遙かに低かった、ということになるのかな。
そうすると、人間の霊の充電度は、歴史の中でだんだんと低下してきていることになるか。
 が、とにかく、アダムが追放されて以後、法則として人間はみんな死ぬようになった。

+++

 ところがイエスの霊はそうでないからね。
充電度100%なのに加え、そこからはいのちエネルギーが放射されている。
聖霊はいのちの源泉だから。
泉から水がわき出るように、湧き出ている。

 だから、全然死ぬ法則の下にはないんだよね。
イエスの身体は・・・。

+++

 なのに、ユダヤ教の僧侶たちは、彼を十字架にかけて殺すわけ。
イエスの身体の循環運動を、物理的に力でできなくしてしまうわけね。

 すると、イエスの身体を活かしていた、いのちエネルギーがあふれ出るわけだ。
イエスは、これを「人間の霊の充電不完全部分を補うものをして使え」と生前言い残していく。

 この法則を心に受け入れたものは、最後の審判の時に、ホントに霊が補足充電されて完全充電になる。
 殺される前にイエスは弟子たちにこう言い残す。
そして殺され、復活し、天国に昇天する。

~~~少し長かったけど、そういうことになっている。これがイエスが人間に開いてくれた「救いの道」ということになっているんだよ。

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イエス「救い」の道を開く

2005年09月17日 | 若者よ、聖書を知れ!



 若者諸君。
 
 聖書といえばキリスト教、キリスト教といえばイエス・キリストだよね。
 イエスは、聖書の世界観、歴史観の中でどういう仕事をしてるだろうか?

 ここで推測してみよう。
エデンの園を追放されたときのままだったら、人間は最後の審判の時どういう判決を受けることになるだろうか?
これを考えたら浮かんでくるだろう。

+++

 人類はみんなアダムの子孫だったよね。
加えて聖書では、霊の資質は、父親を通して遺伝していく、という教えだ。

 一本の木から枝出て、その枝からまた小枝出て行くよね。
 人間の霊も、そういうイメージだ。
 アダムの霊から、子孫の霊が次々に枝分かれしていくんだ。

 だから人類の霊は、みなアダムの資質を持っていることになる。
つまり、最初から不完全充電になっているわけね。

+++

そして、ひとたび不完全充電になった霊は、もう完全充電には戻らない。
これは前に説明したよね。

 そこで、もしも、人間の霊がエデンの園を追放されるときのままなら、どうなるか。
 なんと、全員有罪で、火の湖行きだ。

 もう、お先真っ暗。

 +++

 イエスは、そういう絶望的な状態の人間に、希望の灯火をもたらす。
そういう存在となって、アダムから4000年後にこの世に登場することになっているんだ。 

 イエスは、人間が天国に行かれる道を切り開く。
霊が不完全充電になって、自らの力ではどうにもできない人間だ。
これが、最後の審判の時、その霊を完全充電に戻す道を切り開くんだ。

 次回それを、もう少し具体的に示すね。

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最後の審判

2005年09月16日 | 若者よ、聖書を知れ!



 若者諸君。

 我々の生きている今より後について、聖書の言うところを見よう。

 「ノアの箱船」の後にもこの地上にいろんなことが起きる。
 が、最終的にはこの宇宙は火で焼かれて消滅し、火の湖になる、と聖書は言っている。

 地球も宇宙の中にあるから、当然焼けて消滅する。

 そうするとどうなるかは、アドバルーン・天国と、サッカーボール・宇宙、ピンポン球・地球を思い出せばわかる。宇宙が消滅するのだから、残るは、火の湖と天国(天の創造主の王国)だけとなるよね。

+++

 そのとき、創主はそのどちらに行くかを決める裁判を行う、と聖書は言っている。 

これが「最後の審判」と呼ばれているものだ。
このときの判決によって行くことになる、天国と火の湖の暮らしは、どちらも永遠だ。
それがず~と続く。
もう裁判はない。
だから「最後の審判」なんだ。

 名前くらいは聞いたことない?
ミケランジェロの絵でも有名だけど・・・。

+++

 最後の審判をするところには、それまでに生きてきたすべての人間が立つことになる。

 もちろん、死んだ人は身体が消滅して無くなっているけれど、霊は消滅しないからね。
死後も、全員が霊として残っているわけ。

その霊が霊の身体、すなわち、霊体となって裁きの場の前に立つわけ。

+++

 裁きの基準は、単純明快だ。
 その霊が、いのちエネルギーで完全充電されているかどうか、だ。

 完全充電なら天国行きの判決を受ける。
 そうでなければ、天国には入れない。

 そのとき、宇宙はなくなっていて、空間といえば天国か火の湖しかない。
 だから、天国に入れない人は、火の湖行きということになる。

 天国は、永遠に続く楽園。
 火の湖は、熱い、熱いといって永遠に苦しみ続けるところ。

どちらも永遠だ。
時が流れたら終わるというものではない。

 そのどちらかに振り分けられるか、というのは大きいよね。
その最後の機会が、最後の審判となっているんだ。

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ノアの箱船

2005年09月15日 | 若者よ、聖書を知れ!



 若者たちよ。
 「ノアの箱船」、という言葉聞いたことない?

 これも聖書の中の言葉。
これからその話が出てくる。
 創世記の話が始まってすぐ出てくるから、聖書の物語としては、ずいぶん早い時期のものだ。

+++

 アダムとイブの子孫の男の子たちが、それ以前の人間の娘と雑婚した。
それで問題が起きたよね。

 だけど創造主は、対処するんだ。
 ノアという人を選ぶ。
 ノア家は創造主の教えをよく守る信仰深い家系だ。
 だから雑婚も全くない家系。

 彼に巨大な船を造らせる。
 そこに、ノアの家族を入らせる。
 のみならず、すべての動物を一つがいずつ入れさせる。

+++

 そして、延々と大雨を降らせる。
 すると、山の頂上も水に沈んでしまって、箱船の外のものはみんな死んでしまう。

 これが“ノアの洪水”。
 聞いたことあるんじゃない? この言葉。

+++
 
 そうしたら、創造主は、雨を上がらせる。
 そして、再び現れた地表に、ノアの箱船の中にいたものが出て行く。
 繁殖する。

 で、今の人類は、ノアの家系から再び繁殖を開始した人々となる。
 ということは、以後はみんな「いのちの霊」を肉体の中に持った人間になった、ということだ
 全員、アダムの子孫になったわけね。

 だから、創造主はもうこういうことをする必要が無くなる。
 それで、人類は今日にまできている、というのが聖書の世界観だ。

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アダムの子孫、雑婚する

2005年09月15日 | 若者よ、聖書を知れ!



 若者諸君。
 
 エデンの楽園を追放されたアダムとイブはどうなると思う?
まず、二人の間に子供ができる。
 最初は二人の男の子。 カインとアベルという。

 その後にも、次々と子供ができる。
 その子供たちが結婚して、また、子供が生まれる。

 こうして二人の子孫は繁殖していく。

+++

 それで“めでたしめでたし”か?
 ・・・そうはイカンザキ!

+++

 創造主は、アダム以前に、たくさんの人間を造っていたよね。
 それはアダムのような「いのちの霊」を入れられた人間ではなかった。
 エデンの楽園の外にはすでに彼らがたくさんいた。

 その娘たちの容姿が、非常に美しかったようだ。
 そこで、アダム、イブの子孫の若者たちは、彼女らと結婚したがった。
 だけど、それは創造主は、するな、と戒めていることだ。
 だが、結婚してしまう。

 すると問題が起きるんだ。
 生まれてくる子供にだ。

 「いのちの霊」を収容するに適さない身体に、アダム、イブの「いのちの霊」が入った子どもができることになる。

+++

 それで、その子どもたちの最長寿命は短かったようだ。
    
 といっても、120歳くらいだったけどね。

 アダムやその子孫たちの最長寿命は、当時、1000歳近かったと、聖書には書いてある。これと比べたらずいぶんと短いわけだ。

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エデンの園から追放される

2005年09月14日 | 若者よ、聖書を知れ!




 若者諸君。

アダムとイブのうちにある霊は不完全充電になってしまったよね。
 今回はその結果どうなるかの話だ。

 創造主は、彼らをエデンの園から追放しなければならなくなる。

 どうしてかというと、実はエデンの園は、天の創造主の王国のミニチュア版として創造主は創ったからだ。天国の模型だね。

そして、天国は、霊がいのちエネルギーで完全充電されている存在だけが暮らす空間だからだ。不完全充電な存在は、いることができないんだ。

+++

 よく「神様(創造主)は全知全能だから、何でもできる」というよね。
 だが、正確にはそうではないよ。

 創造主は、自分が造った被造界に秩序(ルール)をつくる。
 その秩序でもって、整然と被造界を運営する。

 その際、自らも、そのルールに反したことはできない。
 反することをしたらどうなるか。

    自分で造った秩序を自分で壊すことになってしまう。
    だからできない。 

 このように、創造主にもできないことはあるんだ。
 そこで、アダムとイブを楽園から追放せざるを得ないんだ。

+++

 楽園の外とはどこか?
 答えは、今我々がいるこの地上の世界。
    これが聖書の世界観だ。

 二人が追放されたとき、そこは楽園ではなかった。
いばらもあり、土地はやせており、人間は額に汗して働かねば食えない。
かくして、人類の苦難の歴史が始まるというわけ。

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