「考える宗教」を始めましょう。
今回は「創造主の子」ということについて。
イエスは「神の子」と言われますね。
神というのは、正確でない訳語で、正しくは「創り主」または「創造主」です。
ですから、創造主の子、というのがイエスですね。
すると、万物の創造主にどうして子がいることになるの? という疑問は自然に生じるのではないでしょうか。
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聖書の創造主は霊です。霊は目に見えない実体です。
また聖書では、霊は子どもを産まないという思想です。
天使も霊ということになっています。
これは創造主によって創られた霊だから、被造霊ですけれど、とにかく霊ですから子は産まない。だから無数にいるのは、最初からたくさん創られたから、ということになる。
考えたらそういうことになりますよね。
子を産んで増殖するのは、肉体(物質の身体)を持っている存在だけです。
これが聖書の思想。
すると人間も動物も肉体を持っていますから、増殖することになる。
そういうことになります。
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では、創造主は創造霊という霊なのに、どうして子を持つことになったのか?
春平太の推論です。
~~~聖書では、霊は自ら意識体でもあります。
意識というのは「思い」ですね。
思うにはエネルギーが要ります。
意識活動というのは、エネルギーを使う活動なんですね。
このエネルギーをたくさん凝縮させて注入した思いが「念」です。
念力というのは、エネルギーを凝縮させた思いの力、なんですね。
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日本の時代劇映画で、小さなわら人形を作って、それに「死ね!」「死ね!」と釘を打ち付ける場面があります。
憎い相手を人形に見立てて、死ね!という念をぶつけている。
すると、この相手が、熱を出して死に瀕する、という場面。
お殿様の跡目争いなどで、相続させたくない若殿に、これをやるというストーリーなどよくありますね。
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これも念をぶっつけているようです。
だが、ここには単に「念」をぶつけているだけでもない思想があります。
念は思いです。思いには霊の活動がともないます。
そして、こういう思いを念じていると、それが霊体となって念じている本体から分離することがある。
独立の霊となる。
そして、自ら活動し出す。
これが「生き霊(いきりょう)」という考え方です。そういう思想が、時代劇のわら人形にはあるのです。
若殿への殺意に満ちた念が、分離して生き霊となって、若殿のところにふわふわと飛んでいって、死のエネルギー(いのちのマイナスのエネルギー)をふりかける・・・。
これは、単なる迷信でしょうか?
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「霊が見える」と普段から自称しているお嬢さんを鹿嶋は知っています。
ある会社で、上司の女性からリストラされそうになりました。
なにかにつけて、そのお嬢さんが憎いらしい。
機会あるごとに、激しくいじめます。
お嬢さん、あるとき、その女性の生き霊が見えた、といいます。
上司から憎しみの念を持った霊が分離して、お嬢さんをにらんでいた。
それを見たとき、辞めることを決心した、と語っておりました。
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鹿嶋は霊が見えません。
ぜ~んぜん見えない。
だから、その話が本当かどうか、最終的にはわかりません。
けれども、「霊からは霊が分離することがあるのでは?」という仮説は、聖書の思想と合うところがあります。
そう仮設すると、筋道が通っていく。そういうところが結構たくさんあるのです。
だって、アダムから霊が次々に子孫に分離するんでしょ。
木が枝分かれするように、霊もアダムから枝分かれする思想だと、「若者よ、聖書を知れ!」で、書きましたよね。
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ヨハネ伝(ヨハネによる福音書)の冒頭に、こうあります。
「はじめに言葉があった。言葉は創主(つくりぬし)と共にあった。言葉は創主であった」(ヨハネ伝、1章1節)
ヨハネは、この「ことば(Word)」をイエスであるとして書いています。このイエスは、人間の姿をした身体を着て、地上にやってくる前のイエスで、霊としてのイエスです。それはこのヨハネ伝のすぐ後の聖句でわかってきます。
が、ともあれこういう疑問が出る。
一体どうして言葉がイエスなのだ?
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そもそも言葉ってなんでしょう。
それは「思い」に信号がくっついたものではないでしょうか。
たとえば、、まずはじめに「愛(いと)しい」という思いがあります。
思ってるだけでは言葉にならない。
でもそれに「い・と・し・い」という音(信号)をつけたらどうでしょうか。
「愛しい」という日本語の言葉になります。
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言葉は、思いを含んでいるんですね。
言葉は、霊の活動を伴っているのです。
これに、「霊は意識体(思いをもつもの)である」
「霊が思いを描くと、その思いを持った霊が分離することはありうる」、という仮説を組み合わせましょう。
するとヨハネ伝のこの聖句に、一つの筋道が浮かび上がってきます。
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創造主は霊でしたよね。
創造霊。
その創造霊が念(思い)を込めたらどうなるか。
その念(思い)を持った霊が、創造霊から分離独立して出ることがある。
それがイエスだ、という道理になるんですね。
この場合は、「創られた」のではなく、創主から「出た」ものです。
だから、創られた被造霊ではなく、創造霊です。
この「出た」創造霊が、万物の創造主とはじめは共にいた。
それが「はじめに・・・言葉は創主と共にあった」というヨハネ伝冒頭の聖句の意味だと推論することが出来ます。
そして、それは創造霊だから、創造主と同質の霊であり、創造主でもある。
そこで次の聖句「言葉は創造主であった」も意味がつながってきますね。
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以上によって、イエスは、創造主から、その思い(念)が分離して出た「創造主の生き霊」という理解になりますね。生き霊という言葉は、習慣上、あまりいいニュアンスでない言葉ですけどね。
だが、それはその言葉が、あまりよくない念の被造霊についてだけ用いられてきたことによる。それだけのことかもしれませんよ。
~~~少し長くなりました。「考える宗教」というのは、考えていきますから、どうしても長目になるんですね。では、今回はこの辺で・・・。
鹿嶋は、22日から26日まで、海外に主張します。
その間お休みをいただきますけれど、皆様の方でも、「考える宗教」トライしてみてください。ご感想、質問、コメントもご遠慮無く。
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