鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

(また臨時版2)~世界大戦を回避する世界運転~

2015年03月31日 | 米国への無知を正す




第二次大戦の終結以来、米国は世界運営の重荷を負った。

運営の最大課題は、三度目の世界大戦に至る道を絶つことにあった。
すでに人類は、国々が二派に別れ、互いに近代兵器で殺し合いをするという地獄絵を二度もやらかしていた。

英国に植民地を放棄させ、弱小民族独立の世界的な流れを造ったのも、列強の植民地獲得競争が世界大戦への大きな誘因になるからであった。




<日本運営もその一環>

被占領国日本に対する米国の政策も、その世界政策の一環であった。

日本民族は、短期間で強大な軍隊を造ることの出来る、世界でも希な技術民族だった。
だが、それを運転するガバナビリティ(統治能力)のなさにおいても、世界に希な民族だった。

+++

マッカーサーのセリフ「日本人は政治的に十三才」はそれを端的に指摘している。

また、天皇が戦後「新国家には軍隊を造らないでくれ」といったというエピソードもそれを背景にしているだろう。
こういう話は確かめようがないが、筆者は事実だと思っている。

軍隊を持たせたら、また迷走運転をするのは現状ではほぼ必定だ。
原発事故後明るみに出た東電の人間たちの体質もそれを明示している。

憲法第九条の「戦争とその手段の放棄」もこの事実認識による世界平和政策の一環だったのだ。

米国は当面「日本人に軍隊を持たせない」で、「日米安保条約で米国が日本の防衛を代行する」体制をとったのである。

余談になるが、最近「戦後憲法の草案造りがほとんど米国主導でなされたことがわかった」とネットで大騒ぎしている人がいる。

バッカじゃなかろうかと思う。




<政治見識の育成を最重要課題にすべきだった>


米国の世界運営によって、人類は、戦後70年にわたる平和を享受できている。

このなかで日本人が政治的独立性を高めたければ、まず注力すべき課題は、その政治見識、政治的知力を高めることだった。
にもかかわらず、日本人は、それに目を向けなかった。

それが、世界運転への感覚無しのままで、ツイッターやフェースブックに個々人が政治的主張を述べる、という今日の状況を生んでいる。

「日本は戦後米国に従属してきている」「実質独立すべきだ」等々の、怒りを込めた主張が頻発している。

愚かというほかない。




<世界運営感覚無しの政治家>

だから日本では、米国の世界運転に関して無感覚なままで日本政治のトップに立ってしまう人も現れる。
政治権力を握っているのだから、米国としては、その行動に無関心でいるわけに行かない。

たとえば、田中角さんやその愛弟子である小沢一郎さんは、中国に無防備なままで独自に接近した。
この人たちは社会主義になったら国家はどういう運営方法をとらざるをえなくなるか、への基本知識がない。
そこで、とにかく米国はマスコミや検察を用いて失脚させた。

個人的には筆者は、このかたがたの人間的な暖かさの雰囲気は好きなので、複雑な気持ちになる。
だが、一党独裁の社会主義体制に日本が組み込まれたときの悲惨さを思うと、やはり是認せざるを得ない。

その関連もあって、次回には、マルクスの考案した社会主義体制のアイデアにつき考えよう。
彼の社会思想における運転感覚の欠如などを語ってみよう。




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(また臨時版)~政治議論における運転者感覚~

2015年03月30日 | 米国への無知を正す





鹿嶋は今、政治見識の基盤になる知識を供給しつつある。

だが、昨今のジャーナリズムやネットでなされる議論の情報が、私を時事的問題への論議に誘う。
それでまた、(臨時版)でもって言っておく。

問題にするのは、政治的見解を述べる際での、「運転者感覚」のことである。





<国を運転する感覚>


国家は誰かが運営・運転しなければならない。

だが、日本の政治議論では、その運営する当事者になった感覚、当事者感覚がすっぽりと欠けている。

その原因は悲しいほど深いところにあって、明治の特殊事情に発している。

この時代、新国家をどう運営するかについては、西欧を見ないことにはほとんどわからなかった。

だが、当時それが出来る人は、政府のトップ指導者などに限られていた。

新聞を発行する人に、海外見学の費用などなく、西欧を目指した国家運営の方法など皆目わからない状況にあった。


<新聞のゆがみ>


けれども新聞社主は近代国家の新聞としての体裁上、政治のことを書かなければならない。

結局彼らは国家全体の運転感覚無しで、個々の汚職事件を暴いたり、批判したりするしかなかった。
そういうスキャンダル暴露やゴシップで大衆の関心をかき立てる以外に方法がなかった。

そのゆがんだ状況が、以後の日本のマス媒体ジャーナリズムの性格を形成していった。



<新聞の大衆教育力>

当時新聞は人民の政治見解を教育する唯一の手段だったので、その意識決定効果は大きかった。
かくして運転感覚が欠如した姿勢での政治議論が、当たり前のことになった。

その慣習が今日まで続いてしまっている。

この被害は大きい。

次回、それを具体例に沿いつつ考えてみようと思う。








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米国への無知を正す23  ~日本仏教の運営費収集法 ~

2015年03月29日 | 米国への無知を正す





<二種類の仏教>

宗教活動を支える資金への感覚をもっと身近にするには、日本の仏教でのケースを見ておくのがいい。

仏教は今日では釈迦が創始した①涅槃文教と、
中国・唐の時代に造られた②浄土仏教とがある。

涅槃仏教は
~「涅槃(ねはん)」という煩悩のない平安な心を獲得するのをゴールとする仏教である。

浄土仏教は、
~キリスト教のように死後の霊の救い(極楽浄土にいけること)を最大の関心事とする仏教である。






<浄土仏教>

浄土とは極楽浄土の略であり、「浄さと楽しさの極に満ちた所」という意味をもっている。

浄土仏教の中核は、「死後の霊が浄土に行かれる」極意を教え導こうとする教えと活動にある。

日本の仏教の活動費収集法の性格はこの浄土仏教に代表される。





<浄土仏教はネストリウスはキリスト教の簡略版>

浄土仏教はキリスト教と照応しながら眺めると明確に理解できる。
これはキリスト教(ネストリウス派)の簡略版だからである。

そのことは、中国、西安(唐時代の長安の9分の1レプリカ都市)の地に立つとわかってくる。

+++

この教えは、中国唐の時代の長安に生成した。

当時長安は世界最大の自由国際都市で、東西のあらゆる文化が流入していた。
そこではカトリック教団から異端として追われたネストリウス派のキリスト教団が、大繁盛していた。

仏教僧の中から、その信徒吸引力の核心を調べ、それをインド伝来の釈迦の仏教(涅槃をゴールとする仏教)のもつ理論思想に取り入れようとする一群が出た。

そして彼らの調査研究の成果を、善導(ぜんどう)という総合化力に秀でた僧が、仏教用語を用いて集大成した。

これが浄土仏教で、日本から留学した法然はこれを学んで比叡山延暦寺で講じた。
彼の教えは浄土宗と呼ばれる。

この講義に感銘を受け、ほぼ同じ教えを庶民にもわかるように説いたのが親鸞である。
彼の教えは浄土真宗と呼ばれるが、教えのエッセンスは浄土宗とほぼ同じである。




<南無阿弥陀仏の思想>


浄土真宗(浄土宗も同じ)の中核的教えのひとつに、「南無阿弥陀仏」を唱えるだけで「救い」(死後の霊が極楽浄土に行く資格)が得られる、というのがある。

これは「イエスの名を救い主の名と信じ、その名を呼ぶ者は救われる」言うのもキリスト教の教えを模倣吸収したものである。




<阿弥陀は「無量寿」>


南無阿弥陀仏の「南無」は「頼ります」という意味だ。

「阿弥陀」の意味は「無量寿」で、これは「寿(年齢)が無量(無限大)」という意味である。
それすなわち、永続者・永遠者でる。

ちなみに、これはキリスト教における「万物の創造神」の一属性を取り入れた概念だ。

英語でゴッドと呼ばれるこの神は、原点が「万物の創造者」である。
自分以外の万物を創ったのなら、それは「空間的に無限者」であり、かつ、「時間的にも無限者」であるはずだ。

「阿弥陀(無量寿)」というのは、この時間的無限者の理念を抽出していただいた概念だ。

このように本家本元の属性を漏らすのが、模倣理論、模倣思想の常である。




<仏は「覚者」>


「仏」は「覚者」という意味で、「覚」とは自覚し悟ることである。
そこで「仏」は具体的には「無量寿を悟った方」となる。

浄土仏教ではそれを釈迦(釈尊)としている。
そこでは釈迦は「無量寿なる神を悟った覚者」となっているのだ。

これは「創造神の子・イエス」の思想を模倣吸収した概念である。
善導は、ネストリウスはキリスト教が説くイエスを、キリスト教の神を悟った覚者だとしたのだ。

そしてキリスト教でイエスに頼るように、「無量寿を悟った覚者である釈迦(仏)に頼ります」と唱えよう、そうすれば死後極楽浄土に救われるという教義を造った。

そのエッセンスを表す唱名が南無阿弥陀仏なのである。




<読経力で「救い」の手段を占有>

浄土仏教では、南無阿弥陀仏に代表される教義を経文にした。
日本ではそれを教典として中国から輸入した。

そしてその経文には、極楽浄土に死後の霊を送る力が秘められていて、その力はこの経文を読むこと(読経)によって現れるとした。

経文は漢文で書かれていて庶民には読めない。
日本ではその読経を仏教学校で学び、卒業した者だけが寺の僧侶となれることにしている。

筆者の見るところ、音読できるだけでその意味をほとんど理解していない僧侶が多い。
が、ともかく、彼らだけが音読できる。

すると、専門僧侶だけが「救い」の手段を占有していることになる。
中世のカトリックの教皇や近世のプロテスタント教会の司祭と同じく、お寺と僧侶という人間が「救い」の権限を握ることになっているわけだ。


<「救い」の代価を「布施」という>

するとその読経行為(儀式)には、当然、見返り・代価が求められることになる。
浄土仏教ではこれを布施(ふせ:世に言う「お布施」)と呼んでいる。

布施というのは、もともとは涅槃仏教における修行者への自由献金を意味していたのだが、浄土仏教ではこの用語を拝借して「義務献金」の意味で使っている。

教義に涅槃仏教の仏教用語をふんだんに使うと、そうなるのである。
が、ともあれこうして寺と僧侶を養う費用が確保される。




<先祖の霊の「救い」に焦点を置く>

また、日本の浄土仏教では、「救い」の焦点が「今生きている自分」ではなく、彼の先祖の霊におかれている。

先祖の霊は、死後、折々になされる読経の力で、徐々に浄土に向けて上昇させられる、というのだ。

その期間は50年であり、子孫はその五十年の折々の日々に、先祖への読経を僧侶にして貰わねばならない、としている。
たとえば、死んだ直後の「葬式」、その七日後の「初七日」、一年後の「一周忌」、三年後の「三周忌」、・・・・以下「七周忌」「十三周忌」等々と続き、「四十九年忌」でその義務が終わる。

それらの法要を先祖の霊のためにするのは、子孫の責任とされている。

そして檀家はその都度、僧侶に何万円かを義務的にお布施献金する。


<命日読経(月参り)>

それに加えて、地方では寺院と僧侶は、信徒の家に仏壇を造らせる。
その中に入れるべき位牌(葬儀の時多額の代価で法名を作って貰い、それを木札に書いて収めた容器)に、毎月、命日に読経することも必要としている。

もちろんそれにも代価(布施)が求められる。




<永代司堂>

また、これらの年忌法要や毎月の命日読経が出来ない家庭には、永代司堂(えいたいしどう)というサービスも準備されている。
寺院はその名目で多くの位牌を預かって、本堂の一角に並べる。
そして僧侶が毎日本堂でする読経の功徳が、位牌たちにも及ぶというわけである。

永代司堂は、文字通り、永代にわたる供養とされる場合もある。
このサービスには、戦前の田舎では、田んぼ一反を布施することも行われた。

その結果、田舎の大きめの寺は、大地主ともなって小作に米を作らせていた。
寺は地主でもあったのだ。
この状態は、敗戦時の農地解放で消滅した。




<敗戦と旧没落>

現代の我々多くの日本人が置かれている現状を、さらに詳しく認識するために、敗戦によって起きたことをも記しておこう。

実は日本人の死後の「救い」には、戦前にはもう一つの手段が考えられていた。
それは軍人用のもので、国家のために死んだ軍人の死後の霊は、靖国神社の社の中で憩う、とした。

ところが敗戦によって、人民は一転してこれはインチキであったと認識した。
そしてもう「見えない霊などの話」はいっせつ信じないぞ、と決心した。

これに浄土仏教も巻き込まれた。
寺院も「霊という見えないもの」へのサービスを本業としていたからだ。

寺院や僧侶は軽蔑され、「坊主を見ると縁起が悪い」と子供までもがいうようになった。

布施も突然減少し、寺と僧侶は極貧にあえいだ。




<高度成長期に反動>

ところが平和の中で高度成長になって経済的余裕が出ると、反動が出た。
人々は魂の強い飢えを一気に自覚し始めた。

一転して、浄土仏教の僧侶の読経に、先祖の霊の「救い」を得ようという思いが復活した。

高度成長の中で都会に住むようになった者は特に、親族が死んだときには、僧侶の読経を渇望した。

寺と僧侶は、これにつけ込んで、多大な見返りを求めた。
住職だけでなく、伴奏坊主と呼ばれた多くの子分をも引き連れて、一座へのサービス対価を要求した。
伴奏坊主の数は、檀家の経済力に応じて増減された。

読経だけでなく、位牌に書く戒名をあたえるのに、何十万という代金をも要求した。
寺の僧侶がベンツを乗り回す風景が見られるようになったのも、この頃である。




<「やり過ぎ」の反動>

だが何事も度が過ぎると、商品ライフサイクルは短命になる。
度が過ぎた結果、一転して最近、葬式を親族だけで行う人が出てきた。

その理由を「故人の希望ですので」と明言して、人々に事後的に告知することが、最近、特に都会で急増している。

これが日本の浄土仏教の宗教活動を支える資金収集の有様である。




このように、宗教団体は通常、宗教税か義務的献金を求める。

両者の違いは、税では金額が決まっているのに、義務的献金では固定されていなくて、若干の自由裁量余地がある、ということくらいである。

だが実質的には、その違いは大きくない。

そうした中で、初代教会の聖句自由吟味方式をとる教会だけが、義務的色彩を廃した自由献金制を継続してとってきている。

これが大規模化した宗教団体の資金獲得状況の鳥瞰図である。

+++

次回には、バージニアの聖句自由吟味者たちが、再逆転して、政教分離、信教自由を実現する様を述べよう。











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米国への無知を正す22 ~宗教活動費の収集法~

2015年03月26日 | 米国への無知を正す





前回(第21回)、バージニア州で宗教税制の復活議案が、指定宗教税制という新案の形で提示され、バプテスト派を除いた全議員がこれを支持したと述べた。

圧倒的劣勢の中で、バプテスト派だけはこれに反対したのは、
彼らが政治と宗教の完全分離を遠望していたからだ、~とも述べた。

+++

ここで宗教教団の運営費の収集方法を鳥瞰しておこう。

宗教教団を維持運営して行くには費用がかかる。

それを調達する方法は、基本的に二つある。

自由献金制と宗教税制がそれである。





新しい宗教が出来、成長していくときには、信徒の精神も活性化している。

彼らは強い霊的感動を受け、自発的に多くの献金をする。

こういう時期には、自由献金制で十分な費用がまかなえる。

+++

ところが、教団が大きくなって安定期に入ると、教会員の精神的活性度は低下する。

すると献金額は停滞するが、教職者は増大傾向を続けるので、自由献金制では費用が不足してくる。

教団は何らかの義務的色彩を加味して献金を得ることが必要になる。

その行き着く極限の形が宗教税制である。
これは献金というより強制徴収だ。

こうした動向をキリスト教の例で追ってみよう。




<初代教会は自由献金制>


キリスト教史初の教会を初代教会という。

初代教会では聖句の探求も活発で、病の癒やしなどの奇跡も頻繁に起きた。

信徒は喜びに満ちてその持てる者から献金をした。

つまり、自由献金制であった。


(初代教会の方式を継承してきているバプテスト教会、
メノナイト教会などの聖句自由吟味主義の教会は
現在まで自由献金制でやってきている)







<中世カトリック教団は宗教税制>


ところが初代教会が始まって百年ほどたつと、カトリック教団が出現し成長を開始した。

この教会は初代教会のように躍動的な感動を信徒に与えることはなかったが、大衆を吸収する術にはたけていた。

そこで規模的には急成長を続け、ついに紀元後4世紀末にローマ帝国の単独国教の地位を確保した。

国教になれば、国家の機関として宗教活動を行うことになるので、宗教税を徴収して運営していくことができる。




<目的税には対価サービスの明示が必要>


宗教税はその使用分野が明示されている目的税である。
この種の税を徴収するには、人民が納得する相応の対価サービスを提供せねばならない。

この課題へのカトリックの対処法は、次のごとくであった。

~当時、人民の最大の関心事は、死後の霊が天国(仏教では極楽)に行かれる資格をうることにあった。

キリスト教では人の霊が天国に行かれる資格を得ることを「救いを得る」という。

この「救い」をうる条件は、キリスト教の場合三つある。

① イエスの名が救い主の名であると信じること。

② 信じたらバプテスマ(洗礼)を受けること。

③ この世を去るまで、イエスへの信仰(信頼)を保つこと。

~がそれである。

教会の指導者は信徒がこれらの条件を満たすのを助けるのだが、初代教会では、その仕事が権利として教会と教職者に専有されることはなかった。

たとえば、バプテスマは、信仰の先輩はみな自由に授けることが出来た。

だが、宗教税を徴収するとなると、教団はその権威を教会の職業僧侶の専有としたくなる。

国教会となったカトリック教団は、その必要に沿った動きを取っていった。




<救いをもたらす手段を占有していく>

すべての救いの条件の充足を助ける権限を専有する鍵は、②のバプテスマを授ける権限を占有することである。

なぜなら、たとえばある信徒に「あなたはバプテスマを受けるに値する」と伝える時には、その前提としての①の信仰水準が満たされていると認定したことにもなっている。
つまり「あなたの信仰は必要水準をクリアした」と伝えていることにもなっているのだ。

このように②の権限は、①の「信仰の水準」が救われるに値するレベルになった~と認定する権限を実質的に含んでいる。

こうして教会は①をも専有できていくのだ。

③についても同様だ。

①、②の権限を教会が専有しているとなれば、信徒は以後、自分の信仰が救われるレベルに保たれているかどうかの認定権も教会にあると自然に思っていく。

そこでたとえば「教会への奉仕」を判定の一要素とする教理を造ったりして、その認定権を教会が握ることも可能になる。

(キリスト教徒が誤解するのを避けるために断っておくが、信徒の教会への奉仕が「価値ある」とか「ない」とかを鹿嶋は言っているのではない。ここではそれを救いの一条件としたりして、信仰の判定権を専有することについて述べているのである)


要するに②のバプテスマを授ける権威を専有すれば、他はドミノ倒し的に手の内に転がり込んでくるのだ。

実際、教会がバプテスマを荘厳な儀式として授けてあげると、「救い」を助ける権限が教会に専有されていると、大衆信徒は自然に思っていく。




<教皇を出現さす>


国教となったカトリック教団は、それを神学的にも次のようにして根拠づけた。
まず教皇という最高位者を出現させ、その方に「救い」を与える権威が、イエスによって委任されているとした。

その聖書的根拠は以下のごとくであった~

聖書のなかに、イエスが弟子のペテロにこんなことを言う聖句がある。
  「私はあなたに、天国の鍵を与えよう」(マタイによる福音書、16章19節)

これはペテロの語る言葉に「人間が天国を悟りやすくするような霊力を与えよう」といったとか、その他様々に解釈できる。

ところがカトリックはこれを「イエスはペテロに、人間を天国に入れる(救いを与える)権限そのものを与えた」と解釈した。
その上で、「ペテロは初代のローマ大司教であって、彼のこの権限は以後の大司教に受け継がれていき、以後もそれが教皇の権威となる」という神学論理(教理)を造った。

カトリックでは教義は公会議で決定されると、正統教理となる。
かくして、「救い」を与える権威は教皇という人間の手に握られることになった。

そして、その権限は、傘下の教会の司教、司祭に分与されうるものとした。

(これは日本で出雲大社の権威がお札を与えることによって他の神社に分与されると考えられているのとよく似ている)


すると司祭たちが提供するバプテスマや礼拝の荘厳なる儀式は、宗教税への対価サービスとなるのである。

ちなみに、ルターが宗教改革運動の契機としたことで有名な免罪符もまた、教皇の持つこの「救い」の分与権によって根拠づけられたのであった。




<プロテスタント教会の運営費収集制度>


筆者がカトリック国教会の教皇について比較的細かく述べたのは、ひとつには、プロテスタント教会の運営費収集法の性格を正確に把握するためでもある。

プロテスタント教会は、ルターの(カトリック内での)宗教改革運動によって始まった。

ルターの主たる論点は、「教皇の存在は聖書的ではない」ということあった。
それゆえ、改革運動の結果出来たルター派の教会は、端的に言えばカトリックの制度から教皇をなくしただけのものとなった。
たとえばそこでは、大司教、司教、司祭という聖職階層は存続した。

また新教会は、ルターに共鳴して宗教戦争を戦ったドイツ諸侯の地域国教のようになった。
だから教理をたてて、聖書を聖職者に独占させる体制も続いた。

カトリックのように、荘厳な礼拝儀式サービスも提供した。
サービスの中にはでバプテスマを授ける儀式もあり、その権限はカトリックと同様に教会(司祭)が専有した。

要するに、ルター派教会も「救い」を与える権限を独占したのだ。

(前述したように、初代教会では、バプテスマを授ける権限が教会や特定の職位の聖職者に限定されていなかった。
現代のバプテスト教会もその原則を継承している。
執事~信徒の代表~がバプテスマを授けることも多いが、それとて権限が原理的に執事に限定されているのではない)

それら諸サービスへの対価が、すなわち教会税だった。

後にカルバンがスイスのジュネーブで開始する改革派教会も宗教税制をとっている。

プロテスタント教会が献金制(義務的色彩を持った)になるのは、米国で信教自由の憲法が成立した後のことである。




<英国国教会の運営費収集制度>


英国国教会も宗教税制であった。

この教会は、ドイツでルター派とカトリックとの宗教戦争がなされている最中に、英国王ヘンリー8世が創出した国教会だ。
国王はその機に、それまで国教だったカトリック教会を突然追放して自前の国教会を造った。

この教会は制度的には、カトリックの教皇をカンタベリー大司教に置き換えただけのものとしてスタートした。
だから、宗教税制も継承した。

だがこの国教会では、カンターベリー大司教の任免権を国王が持った。
そういう制度だったので、その大司教が教皇のように「救い」の大権をもつことなどありえなかった。

けれども、「救い」の条件であるバプテスマを授ける資格は、教会と聖職者に留保した。
こうして、やはり人間が「救い」の資格を与える権限は保持したのだ。

それ故ここでも教会税は、その資格を授ける対価サービスとしての意味合いをもつことになる。

今日ではそれが献金制(義務的色彩をもった)に変わっている。
それはプロテスタント教会と同じく、米国に信教自由原則の憲法が成立した後のことである。

+++

以上の知識をわれわれが実感を持って認識するためには、日本の主たる環境状況をも見ておくのがいいだろう。
そこで次回には、日本の仏教界での教団運営費の収集方法を考察することにする。






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米国への無知を正す21  ~指定宗教税案が優勢化する ~

2015年03月25日 | 米国への無知を正す







前回、バージニア州議会において、バプテスト聖句主義者が十分の一宗教税制を廃止させたところまでを紹介した。

けれどもこの変革は急進的すぎた。
一呼吸おいたら、教会関係者の内に不安感が沸騰した。

もっともなことだ。
従来の法定教会は、政治権力による資金調達になれきってしまっていた。

それが突然廃止されたら、これらの教会は、まるで荒海の中の小舟のごとき状況になること必定だ。
彼らは教会を財政的に維持していく見込みがつかず、途方に暮れた。





< 指定宗教税案が提案される>

旧法定教会にとっては、やはり当面なにはともあれ宗教税制度は必要だった。
とはいえ、前とそっくり同じ制度の復活を要求するわけにはいかない。

そこで聖公会をはじめとする法定教会の人々は指定宗教税(Assessment)制を提案し始めた。

この税制案はバプテスト聖句主義者への配慮も少なからずなされた案だと言えるだろう。

それは、全州民に十分の一宗教税の納付義務を課す点では同じだった。

だが、納税者は聖職者を評価(Assessment)し、高く評価した人のサポートに自己の納税金が使われることを指定できることにしていた。
そしてその教職者は、納税者が所属する教会の人に限定されない、ともしていた。

このように税制案には選択の自由の要素も取り入れられていた。
加えて、なにやらタレントの人気投票みたいで、州民が楽しめそうな面もあった。

+++

聖公会の聖職者はこれを熱狂的に主張した。
長老派の聖職者団体は是非この法案を通してくれとの嘆願書を州当局に出した。

州議会ではこの宗教税案の支持者は圧倒的多数になった。




<バプテストだけが反対>

だがバプテスト聖句主義者だけは反対した。
彼らは、使途を自由に指定できようが、ダメだとした。

彼らは宗教活動を政治活動と完全に分離させるシステムを、最終的に目指していた。
その立場から、教会運営の費用収集が、税金という制度でもって国家権力によって実施されることに反対したのだった。








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米国への無知を正す20  ~バージニア州で、宗教税制が廃止さる ~

2015年03月24日 | 米国への無知を正す







三回ほど、(臨時版)にスペースを割いた。
限られた少数の読者に対し、聖書に近づく筋道を提示するためであった。

もともとそう多くの読者を見込めない種類のメッセージをこのブログでは発信している。
少数の読者は大切なのだ。

いまそれが終わったので、本論に戻る。






<信教自由国家までの三ステップ>


聖句吟味活動者たちの新大陸植民地に描いた幻は、三段階で構成されていた~。

1.独立を戦で勝ち取る。

2.憲法を制定する。

3.その中に信教自由の条項を確立する。


独立戦争に勝利し、1776年に独立を宣言することによって、第一段階は実現できた。

彼らはその戦の途中ですでに、次のステップ「憲法制定」への仕掛けを仕込み始めていた。

実に、聖句自由吟味主義者は、米国建国の比類なきプロデューサーであり、影の脚本家かつ演出監督でもあった。

彼らは迅速なネットワークを生かして、いつも、アンダーグラウンドで根気よく働いていた。





<バージニアをまず信教自由州に>

彼らが祖先由来の宿願を達成するには、バージニア州をまず信教自由州にする必要があった。

自由州はすでにロードアイランドに出来ていたが、いかんせん、それは弱小州だった。
バージニアは、これにマサチューセッツとニューヨークの二州を加えると植民地人口の半数に達するという強大州だった。

加えてそこは旧王領植民地であって、経済基盤に恵まれ知性豊かな人々が多かった。
独立戦争の総司令官ジョージ・ワシントンもバージニアの人だった。

彼は初代大統領になるが、第三代、第四代の大統領もこの州から出ている。

聖句自由吟味者たちは、このバージニア州議会を前面に立てて、宿願を達成することを考えていた。
それにはこの州を他に先立って信教自由の州にしてしまう事が必要だったのだ。




<偶像礼拝犯罪法を廃止させる>


1775年に独立戦争が開始された時にはすでに、バプテスト聖句主義者はバージニア州議会で大規模会派を形成していた。

それを生かして彼らは、宗教行為を強制的に実行させる法令の廃止に着手した。

まず、米国が独立宣言した1776年における最初の共和制議会で、「偶像礼拝を犯罪とする」と定めた法令を廃止させた。

これを聞いてバプテスト聖句句主義者たちが、偶像礼拝を容認していたと早合点してはならない。
偶像礼拝は彼らにも文句なく反聖書的な行動なのだ。

だが、その行為を「権力でもって強制的に禁止すること」を彼らは問題としたのだ。

こうして「宗教行動は個々人の自主的な意志によってなされるべき」という信教自由の鉄則を彼らは早々と前進させた。

彼らはこの改革努力を、独立戦争のさなかに開始していたのであった。

以後、聖句的なことを強制的に守らせようとする制度を廃止する努力を、彼らは続けていくことになる。





<教会税制度を廃止さす>

その中で彼らは信じがたいことをやってのけた。

州の教会税制度も廃止させたのだ。

従来、王領植民地だったバージニアでは、アングリカンチャーチ(英国国教会、聖公会)が法廷教会だった。
統治者はこれを支えるための十分の一教会税(所得の10分の一を納税する)を人民に課してきていた。


この改正は当然難航する。
議会では、年々継続審議が繰り返された。

当時、議会の最大会派は聖公会会員だった。

だが、バプテスト聖句主義教会員の議員は、議会外部からの廃止運動に助けられて、ついに1779年に廃止にもちこんでしまった。







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米国への無知を正す19 ~独立戦争を仕掛け勝利させる~

2015年03月15日 | 米国への無知を正す




三回ほど、(臨時版)にスペースを割いた。
限られた少数の読者に対し、聖書に近づく筋道を提示するためであった。

もともとそう多くの読者を見込めない種類のメッセージをこのブログでは発信している。
少数の読者は大切なのだ。

これからまた本論に戻る。




<独立戦争に向けて!>

聖句自由吟味阻止運動はどの植民地でも起きたが、聖句主義者は迫害に耐え続け、全面的に教会を増やしていった。
こうしてバプテスト聖句主義教会は全植民地規模の大勢力になった。

時が満ちた。

彼らは次の大目標、植民地の本国からの独立に向かって足を踏み出した。
本国が植民地の独立を認めるなど夢にもない。
戦によって勝ち取るべく、聖句主義者ネットワークは独立戦争の種を仕込みはじめた。






<植民地も王家劇場国家の一部>

最初の仕事は植民地の人民に独立の理念を普及させることだった。
本国が植民地住民にも強固な国家イメージを確立していたからである。

ヘンリー8世からエリザベス女王、さらに後のビクトリア女王の治世の時代へと、英国は繁栄の道を進んでいた。

国民の王権への信頼も高く、愛国心と順法精神は高かった。




<卓越した国家アイデンティティ政策>

それを背景に、英国王室は卓越したアイデンティティ政策をとっていた。
国全体を王家をヒーローとする劇場のようにしていた。
スターは王家のみであって、人民はこの情報だけを与えられてテレビドラマを見るかのように一喜一憂していた。

アメリカ大陸植民地にも国家アイデンティティ政策は仕掛けられていた。
各地の広場や公共施設の前には、国王の銅像が建っていた。
教会におかれた祈祷書には、「国王にゴッド(創造神)の祝福がありますように」とのフレーズが組み込んであって、人民がそれを毎週の礼拝時にとなえるようになっていた。

欧州の王国は概してこういう国家アイデンティティ政策が巧みなのだ。
互いに他国に隣接していたので、人心が国王に集結するようにしていないと、隣国の切り崩しにあってしまうのだろう。
各国はあらゆる事物を入念に取り込んでイメージ政策を仕掛ける技術に長けるようになるのである。

アメリカ植民地の住民にも、自分たちはロンドンやシェークスピアを持つ王国の一員であるとの心情が染み込んでいた。

植民地でのこうした心理の広がりは、後の独立戦争における英国軍兵士数にも現れている。
英本国から来た兵士数が12,000名だったのに、植民地住民でありながら英国側に属して戦った兵士は50,000名もいた。
彼らはトーリーとかロイヤリスト(王党派)という名で呼ばれた。




<劇場国家の中で独立思想を浸透さす>

こんな劇場国家のなかにいながら「本国から独立しよう」との意識を強く持てる植民地人民は、王家ドラマ以上に深く魅力ある世界観・人間観を抱く聖句主義者をおいてほかにいない。

のみならず彼らは、独立思想を広める技術ももっていた。

植民地で本国からの独立をもくろむ情報活動をするのは国家反逆罪になる。
彼らは監視員の目をくぐって思想を普及さす草の根ネットワークを全植民地空間に渡ってもっていた。
1200年にわたる欧州大陸での活動の間、彼らはスモールグループリーダーを介した交信網の技術を維持し活用し続けてきていたのだ。

聖句主義者はそれを通して配布する思想宣伝物を作成するための優れた文書技術も持っていた。
これもアンダーグラウンドでの聖句吟味活動を通して培っていたのだ。
独立戦争勃発時に植民地軍兵士が25万名集まったのも、この技術によるところが大きかった。





<植民地連絡委員会を立ち上げる>

1764年にロードアイランド植民地で植民地連絡委員会(Committee of Coresspondence)が開催された。
これは後の連邦政府につながっていく。

ロードアイランドの地にこんな委員会を立ち上げるのは聖句主義者以外にいない。
委員会が掲げた目的~

「自由の精神を高めること」と、
「その諸手段を統合し一体化すること」

~もバイブリシストならではのものである。
彼らは独立戦争の種を仕込んでいったのだ。




<印紙条例事件を好機とする>

1765年、印紙条例問題が起きた。
印紙条例とは、英本国が北アメリカの13植民地に出した法令である。
本国政府は植民地住民に、証書・新聞・暦からトランプにいたるまで印刷物に印紙をはらせて税収を得ようとした。

 植民地側は「本国議会に代表を出してないのに課税はおかしい」と条例を廃止に追い込んだ。
革命運動家はこれを独立運動加速の好機とした。

最前線で動いた革命家はマサチューセッツ植民地から多く出た。
政治運動を形成する人々はバージニア植民地から多く出た。
この二つは明治維新で言えば、薩長二大雄藩の様な存在だった。

そして、坂本龍馬のようにというと龍馬を褒めすぎだが、それらの産婆役をしたのがバイブリシストたち、という構図である。
彼らの仕込みで、以後独立戦争が勃発するまでの10年間に、独立思想を訴求するビラやパンフレットが爆発的に増えた。

それらの文書は政治論争も誘発した。論争は創造的で活気に充ちていた。
代議制政治や植民地同盟を論じた新聞論説もや小冊子も出た。

独立政府創出案を論じた文書は何百と発行された。
これらは一般人民の意識も急速に変化させていった。

こういう思潮展開を主導できたのもバイブリシストしかいない。
こんなことを実証する直接的な証拠資料などみあたらないが、 近代の人民革命が純粋な意味で自然発生することなどありえない。
革命は一定の人々がアンダーグラウンドで仕掛けてなるものなのだ。




<バプテスト聖句主義連盟、即座に大陸会議承認を声明>

印紙条例事件11年後の1775年に、独立戦争は勃発する。

その前年の9月5日から、植民地で初の大陸会議(First Continental Congress)が開催された。
今の連邦政府の前身である。
これがあると、個々の植民地は連携活動ができるようになる。

場所はフィラデルフィアのカーペンターズ会館だった。
会議は一ヶ月半の間延々と続いた。
北米13植民地中の12議会から送られた56名の代表が議論を重ねた。

主要議題は、本国が課してきている「耐え難い法律(Intolerable Acts)」への対策だった。
会議は英国製品ボイコットなどを決議し、第二次大陸会議を1775年5月10日から開くことを決めた。

+++

この会議開始の8日後、すでに全大陸的教会になっていたバプテスト教会のある連合会がこれを承認する声明を速やかに出した。
連合会はそこで、「大陸会議を植民地最高裁判所のようなものと理解する」との旨を宣言している。

すると他のバプテスト連盟もこれに続いている。
こうした一連の速やかな動きは、バプテスト聖句主義者の大陸会議プロデュース努力を示唆している。





<戦闘を開始し独立を宣言>

1775年4月19日、植民地民兵隊と英本国軍との戦いが勃発した。
「レキシントン・コンコードの戦い(Battles of Lexington and Concord)」である。
これらの地は、ボストンの北西方向にある。

公式の独立戦争開始はもう少し後で、6月14日に第二次大陸会議において正規軍(大陸軍)の設立が承認された時とされている。
だが上記の戦でアメリカ独立戦争の火ぶたは実質上切られていた。

大陸会議は1775年5月10日に開始され、1781年3月1日までの期間中開催状態が維持された。
会議は、開戦の翌年の1776年7月4日に植民地の英本国からの独立を宣言した。
バージニア州のトーマス・ジェファソン(後の第三代大統領)が宣言書を起草した。

大陸軍の総司令官はジョージ・ワシントン(後の初代大統領)で、彼もまたバージニア州の人だった。
戦場はボストン、ニューヨーク、ニュージャージー、サラトガ、ヨークタウンへと広がり1783年まで続いた。

だが1781年10月17日、ヨークタウンの戦いで英国軍がアメリカ軍に降伏したとき勝敗は事実上決していたといわれる。
植民地軍は勝利し、独立宣言は紙くずとして消えることなく、不動の書となった。

アメリカ植民地住民は、本国からの支配の手を、ついに振り切った。







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(臨時版3) 「聞くことから」始まる

2015年03月07日 | 米国への無知を正す




臨時版は今回で最後だ。

これまでの論点をまとめてみる。

***

1.聖書には、天使とか、日常感覚からしたらおとぎ話のようなキャラクターが出て来る。

2.だが聖書自らが「万物の創造神」からのメッセージ受信記録だといっている。

3.もしそれが事実なら、聖句は全てを知った方からのメッセージだから、そこには、もう修正の必要がない究極の理論(真理)が含まれているはずだ。

4.だが、人間にはその当否を判断する力はない。

5.そこで、「見えない世界の話の可能性は合理的には五分五分」という考えから始めよう。

6.真理があるという50%の可能性の方に夢を賭けて始めよう。
  (賭けられない人はやめたらいい)


***


~以上だ。

今回は読み始めるに当たって知るべき事を提示する。

結論から言うと、それは、これまでの人生で心に染みついた意識慣習から脱却することだ。




<理念のみの知識から>

聖書のメッセージが「全てを知る創造神からのメッセージ受信記録」だとしたら、その習得には従来にない障害が立ちはだかることになる。

つまり、もしそうならその理論知識は、「人間が」五感で経験認知することができない事実も踏まえて出来ているはずだ。

すると、そういう知識の習得には、「最初は理念のみとして受け入れる」ことが必要な知識が含まれていることになる。

実感は持てないけど、とりあえず理念だけを受容するという作業が必要になる。




<実感は後に>

そういう知識は「実感が後から沸き上がってくる」と信頼して受容するのだ。

もちろん、いつまで待っても実感が付いてこないものもあるかも知れない。
その体験は、聖書メッセージが真理であるという可能性の感覚を薄くしていくだろう。

パーセントで言えば、50%が30%、20%と低下することになる。
(そのケースが多いときには、聖書なんて信用できない、と吟味を止めることになろう)


逆に、実感が後から着いてきたら「この書物のメッセージは真理だ」という可能性の感覚は濃くなるだろう。

パーセントで言えば、70%、80%と信頼(真理の可能性)感覚は増えていくことになる。

(いわゆる「信仰」の中身はそういう心理確率が高まった状況をいうと、鹿嶋は考える。100%だというのは妄想であって、この世での人間はそういう心境には至りがたい。それでいい、バプテスマもそれで受けていいのだ、と筆者は考えている)


+++


ともあれ、聖書の言葉には、まず「理念のみとして」習得すべき理論が含まれているということだ。
聖書にも、それをいう聖句がある。

「信仰(聖書の理論への)は聞くくことから・・・」(ローマ人への手紙、10章17節)

~はそれをいっている。


つまり、経験実感が伴わない場合にも、まず聞く。

聞いて理念の方を先に心に形成する。

そして、それが真理なら実感は後で伴うものだと期待して、新たな体験や、他の聖句との繋がりを探れといっているのだ。




<洞察家ほど難しい>

これが本日の話のポイントである。

ところがこれは論理として理解する以上に、実践することが難しい。

それまで人は、五感で実感できることだけを踏まえることによって、「確実」という感覚を得てものを考え認識してきている。

それで相応に物事を理解できたとき、相応に気持ちのいい感情にひたってきた。
そういう体験しかないので、物事の認識とはそういうものだと思ってしまっている。

そしてそれからの脱却は、洞察力を評価されてきた人ほど難しい。
評価されるほどその気質は強くなり、そこから抜け出しがたくなるからだ。

また洞察家でなくとも、人は五感による実感を手がかりに出来ないで思想に導かれるとき、不安に襲われる。
「どこに連れて行かれるのか・・」、「だまされるのでは・・・」と言う恐怖心がわくのだ。

幸いなことに、聖書の場合は導くのは「「人」でなく書物である。
人は言葉を左右にすることが出来るが、書物は出来ない。

まず、聖書の学びにはだまされる危険は少ないと知る。
人に解釈を案内されても、聖句に最終信頼を置けば、書物で吟味、確認することが出来る。

その上で恐怖を「知的に」超えれば、人は福音(聖書メッセージ)というあらたな知識体系を体得するだろう。

+++

三回にわたる(臨時版)をこれで終える。

次回から本論に戻ろう。






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(臨時版2) 聖書メッセージに対するスタンス

2015年03月06日 | 米国への無知を正す




(しかし、前回の情報「聖書に現れる三つの霊的存在」だけで終わったら、読者を茫漠とした荒野につれだして放置することになるな・・・・)




・・・そんな思いを抱いて床についたら、夢の中にこんな会話が現れた。
問いかけ人の言葉を「  」に入れて示そう。
かっこなしで、(~)で始まるのは、鹿嶋の台詞だ。


+++

「天使などが出てくると?
そんな子供のおとぎ話のような本がそもそも、頼りになりうるのか?」

(夢はそんなごく自然な疑問を投げかけられるところから始まった)






~聖書のメッセージは我々が馴染んできた学問(科学)のメッセージと質が違うのだ。

それは古代イスラエル民族の中に出た霊感の超豊かな人間が、万物の創造神から与えられた幻と信じたものを、言葉で記録した記録集なのだ。

ちなみに、この幻を言葉で記録した超霊感者を預言者という。
メッセージを「言」葉で「預」かった「者」という意味だ。

ともあれ、このメッセージがもしホントに、万物の創造神からのものだったら凄いよ。
すべてを造ったというのなら、その方は、すべてを知ってることになるからね。

テレビを設計、製作した人間がテレビの全てを知っているように。

創造神の場合は、無限の時間・空間にわたるすべてを知っている。
だからその知識は、人間の知識のように、”新しいことが見えたら修正する必要”がない。

聖書メッセージには、もう修正不要な、究極の知識が含まれていることになる。
この究極の知識を真理という。




「何をいうか!  口だけならなんとでも言えるさ」

「それに、そういう能書きは聖書だけでなく、他の宗教だってもっている。
そもそも教祖というのは”神から受けた啓示”だと言って教えを語る。
教祖の死後それを弟子たちが書き残して教典としているものに、そんなもの沢山あるではないか」


+++

~確かにそうだ。
だが、聖書メッセージはそれらとの違いも持っている。

古代イスラエルの霊感受信者は、一人でなく複数出続けた。
そのなかには、受けた幻を書き残すことをしないアブラハムのような人もいた。

最初に書き残した超霊感者は、映画『十戒』にも描かれたモーセだ。
彼が残した記録は、旧約聖書の冒頭に5冊収録されていて、「モーセ五書」と呼ばれている。

これら超霊感者著者はモーセの後にも、大どころでは、ダビデ、イザヤ、ダニエルなどが続いている。
聖書にうかがえるだけでも、20人以上いる。
出続けた期間は、モーセ以来1100年にもわたっている。

イスラエル民族も、それを創造神からのメッセージ受信記録と信じて、保存してきた。
他の教典は、みな教祖一人の受信記録だ。
この点では聖書は比類が無い。




「わかった。だがだからといって、それが本当に万物の創造神からのメッセージだとは言えないだろう」

~それは言えない。
そのことは人間には詰まるところはわからない。

でも、それを可能性として受け止めることは出来る。

超霊感者たちが受けた幻には、人間が目に見ることの出来ない世界のことも多く含まれている。
そして見えない世界のことの可能性は、合理的には五分五分だ。

これを「そんな馬鹿な・・」と一蹴することも出来るが、その場合は、可能性をゼロ%と見積もっているのだ。
かというと、教会に行くと「聖書は神の言葉と信じなさい!」と絶叫する牧師さんもいる。
この場合は、可能性を100%と見積もれ、と言っている。

だが、どちらも、感情的だ。
知的・合理的に聖書メッセージに対すれば、その可能性は50%と見積もるべきだ。

そして、その50%に「すべてを知る方からのメッセージ」であることへの希望をかける道もある。
その50%の希望からスタートして、聖書メッセージ(聖句吟味)への腰を上げるという道もあるのだ。




「しかし、そんなことなら教祖一人の霊感の記録についてもいえるはずだ。それだって神からのメッセージだという可能性は5分5分となるのが道理だ。同じように”見えない”のだから。」

~確かにそういう論理になる。


「まさか一人の霊感記録では可能性が3分とか2分とかに下がると言うのではあるまいな」

~それをいったら、自分の認識能力を人間以上のものにしてしまうことになる。
記録されたメッセージが創造神からものであるという可能性の大小など、人間にはいえない。

みな五分五分と考えるしかない。





「ならば”聖書にしろ”、とも言えないのだな」

~いえない。
そこからはもう選択だ。

どれをとっても可能性50%の希望からスタートしていい。
あとは、教典を読んでいって、その可能性の感触どう変化するか、を自覚すればいい。

ある教典では、可能性感覚は希薄化するだろう。
別の教典では上昇することもあるだろう。

可能性が上昇しそうと直感するものを手がけてみる。
そこはもう、当人の直感と選択だ。





「その選択に、超霊感者の数や、彼らが出続けた期間などは材料になるのか」

~究極的にはならない。それを材料にするかどうかも、個人の選択だ。

「やってみて可能性感覚が低下したらやめていいのか」

~オーケーだ。
人間にはそうしか出来ない。

でも、やってみないことには、その感覚すら得られない。
トライしないことにはことは進まない。

「わかった」

~鹿嶋も、実際、いろいろ覗いてみた。
そしていま聖書メッセージに来ている、というのが実情だ。

***

・・・夢の中のこのやりとりが荒野の中の道筋になれば、幸いだ。







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(臨時版) 聖書における三つの霊的存在

2015年03月04日 | 米国への無知を正す



この連載を読んで下さる方を知ることは、鹿嶋には励みになる。

読者の一人Yamamotoさんは、霊感が鹿嶋以上に豊かな方で、その面から思考したことをフェースブックなどで、問いかけて下さる。

感謝なことだ。

今回は、彼女のその思考に役立てば、と思い、聖書の霊理論の基礎を臨時版として挿入しておこうと思う。


  



<創造神、天使、人間>


聖書には三種類の霊的存在が出てくる。

①万物の創造神

②天使(御使いともいう)

③人間(肉体を着た霊とされている)

~がそれだ。

この枠組みの中で見ると、いわゆる霊感の豊かな人は、そのうちの人間に関わる霊的体験をし、霊的事象を認識していることになる。

そして通常は、その体験を材料にして、あれこれ自力で考え、一般知識を得ようとする。





だが、聖書の視野でいうと、それは本来、創造神や天使との関わりの中で起きている事象となる。

聖書的にはそういう視野の中で考えて、初めて実りのある解釈が産まれ、実りのある霊知識が得られることになる。





そうであれば、次に~

「では創造神とはいかなる霊的存在か」の知識も必要になる。

「天使とはいかなる存在か」の知識も必要になる。

その知識も、聖書の中に埋め込まれている。

が、今回はともあれ、その第一歩の知識を呈示しておく。








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米国への無知を正す18  ~聖句自由吟味教会、快進撃を開始~

2015年03月01日 | 米国への無知を正す




ロードアイランドは聖句主義者に棚ぼた式に与えられた「逃れの街」であったが、彼らはここに安住しなかった。
バイブリシストたちはこのバイブリシズム共和国を「駆け込み寺」にして他の植民地域に出て行き、大胆に聖句主義教会を造り始めたのだ。





<マサチューセッツ植民地に突入>

最初の突撃地区は隣接するマサチューセッツ植民地だった。
彼らはその主要都市に行ってバイブリシズム活動を実践し、集会所(教会)を造り始めた。

前述のようにマサチューセッツは分離派ピューリタンの植民地である。
ピューリタンは自由を求めて新大陸に来たアメリカ建国の父と教科書ではなっているが、それは真っ赤な嘘。

実情は全然違って、彼らは英国国教会から分離して教会活動をする自由は求めたが、それ以上ではなかった。
聖句の自由解釈なんてとんでもないという、厳格な教理主義者だった。

彼らはバプテスト聖句主義者を社会をばらばらに解体してしまう無政府主義者と見て、激しい攻撃を開始した。




<無抵抗運動の力か?>

ボストンでは特に激しい迫害が待っていた。
ピューリタンたちは、教会襲撃、 逮捕、投獄、罰金、むち打ち刑などで応じたのだ。

だが、バイブリシストたちは無抵抗で刑を受け続けた。

そしてここで、後にインドでガンジーが成功させる「無抵抗独立運動」を先取りするようなことが起きた。
まずボストン市民たちがむち打ち光景に食傷しはじめたのである。
聖句主義者への同情も芽生えて、彼らの活動は黙認されるようになった。

ピューリタン指導者も根負けした。

イエスは「右の頬を打ちに来るものには左の頬も出せ」は「目には目」より完全な効力を持つと教えている。
それがここでも実証されたのか。
ともあれかの厳格な教理主義だった植民地に、なんとバプテスト教会が造られていくことになったのだ。





<バージニア植民地へ>

するとバプテスト聖句主義者たちは、今度はこのマサチューセッツを新たな「駆け込み寺」として、ニューヨーク、ペンシルバニアへと前線を広げ、フィラデルフィアなどの諸都市ににも進撃を開始し、これらの地にも聖句主義教会を造っていった。




<バージニア、聖句自由吟味活動容認へ>

そしてそれら新拠点から、彼らは、政治の先進地バージニア植民地に大挙して突入していった。

バージニアは王領植民地である。
そこでは聖公会(英国国教会: 立教大学を創設した教団)の教会員が大勢を占めていた。

国教会信徒は裕福な体制派だから、マサチューセッツの分離派ピューリタンとちがって、気質的におおらかなところがあった。

ところがその聖公会の教会員も、やはり驚愕したのであろうか、聖句主義者の群れを襲撃した。

司法当局も動き、バイブリシストを逮捕し、投獄し、広場でむち打ちの刑に処した。
多数のバプテスト聖句主義者が法廷に引き出された。

けれども聖句主義者は不屈だった。

+++

二人のバプテスト聖句主義者が牢屋にぶち込まれた。
彼らは沈黙を守れと命じられたにもかかわらず、独房の小窓の鉄格子を通して外の通りに集まった群衆に向かって説教した。

牢獄管理人は周りに塀をこさえ群衆を見えなくした。
だが群衆が外に集まり長い棒の先に布きれを結んで合図すると、二人はまた説教を続けた。
これには管理人も根負けし、以後妨害はなくなった。

三人の聖句主義者が聖句を教えたかどで襲撃され、裁判にかけられるということも起きた。
形勢は不利だったが、当時有名だった弁護士、パトリック・ヘンリーが80キロ離れた地点でそれを耳にした。

彼は米国聖公会の教会員だった。
にもかかわらず裁判所に馬で疾走してきて聖句主義者の弁護に立った。
「偉大なる創造神の福音を説いてのことではないか!」と熱弁をふるった。
三人の説教者は無罪となった。

これを契機に多くの聖句主義者が無罪宣告されるようになっていった。
一旦そうなるとバージニアでは彼らへの同情と容認の空気が醸し出され、教会は加速度的に増えていった。
聖句自由吟味活動はついにバージニアで成長を開始した。






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