鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

17.民族国家という世界観と先進国間戦争の仕組み

2019年07月21日 | 西洋を知る基督教再入門


~今回は、世界観と民族主義、および、民族間戦争の関係について考えましょう。



<関ヶ原以来の人口推移>

~突然ですが、望君に一つ質問します。

日本では関ケ原の戦の後、江戸時代がスタートしますが、その頃の推定人口は大体2500万くらいだそうです。
当時は、いまの国勢調査のように、直接頭数を数えてえられるような人口データはありません。

そこで人口学者たちは、当時の米やあわやひえなどの穀物生産量のデータから人口を推定するそうです。
で、その推定数は諸説ありますが、まあ2500万くらいといったところなようです。

では、江戸時代の終わり、明治維新時にはどうかというと、3000万くらいでした。つまり、250年間に500万人くらい増加しているんですね。

+++

では明治維新から100年後の1968年(昭和43年)にはどうか?
1億人以上になっています。100年間に7000万の増加です。

望「維新以来急増しているのでしょうか?」

~ですね。関ヶ原以来の人口を時系列グラフに書けば、明治維新の時点以降、人口カーブは急上昇を描いています。

どうしてこんな変化が起きたのでしょうか?




<食糧が人口の上限を決定する>

望「江戸時代にはあまり子どもが生まれなかったのかな・・・」

~いや、子供はどんど生まれました。一組の夫婦が10人以上生んでます。江戸時代の状態は明治維新後も続き、第二次大戦での敗戦のしばらく後に止んでいます。
以来、一組の夫婦が子どもを二人とかせいぜい三人生むようになるのですが、維新から敗戦までの期間が急増時代なんですね、

望「江戸時代には沢山産まれていたなら、人口があまり増えてないのはどうしてでしょうか?」

~経済が貧しかったからです。生産力が弱かった。

食糧生産量が、人口の上限を決定していたのです。


望「つまり、食べられなくて死ぬ人間も多かったと言うことですか?」

~江戸時代までは、庶民は極貧の生活をしていました。
栄養は悪く、医療の知識も技術も低く、平均寿命は20歳代でした。

長く生きたといわれる人も50歳くらいで死にました。
生まれてまもなく死ぬ子もたくさんいました。

だから沢山生まれても、人口はあまり増えなかったのです。



<産業革命~Industrial Revolution~>

望「明治維新で何かが起きたということでしょうか?」

~その通り、西欧で起きた産業革命が導入されはじめたのです。

産業革命とは、一口で言えば、生産の機械化ですね。
これで農業生産の道具や機械も急増産される。肥料生産も効率よくなるのです。

すると食糧生産も急上昇を開始します。

江戸時代に人口数の上限を決めていたのは食物量でしたね。これが上向きになれば、人口も急増を開始するわけです。

+++

これは欧米でも同じです。

産業革命が起きるまでは、庶民は、いつも食糧不足のなかで、死と非常に近い背中合わせの状態で生きていた。

そのなかで身体の比較的丈夫な者だけが、30,40まで生きる、という状態でした。

望「税金も高かったんと違いますか?」

~そうだね。人口の一割くらいを占める支配階級の武士たちが、五公五民とか、六公四民とかの比率で農民の生産物を吸い上げていました。



<飢餓が常態の人間を追体験する>

望「庶民は哀れなものだったんだ・・・」

~そう、彼らの日常は、いつも腹へらしていて、力のない状態です。

こうなると人間の精神状態はどうなるか、を想像するのは、今の我々には容易ではありません。

だけど、ここは産業革命後の庶民理解の鍵です。瞑想の時間をとってでも追体験しなければなりません。

飢えが常態になると、人間は頭がボーとしてるのが、常態となるのです。ただ、弱々しい食欲があるだけの心理状態です。

+++

こういう状態にいると、世界観といっても、自分の家族からせいぜい親族までの世界のことがらだけのものとなります。

まあ、それも立派な世界観ですけどね。

だけど、自分と家族の等身大を超えた空間視野での世界イメージなど描けません。

人生観といえば、その家族に生まれて順番に死んでいく、というだけのものでした。

 

<精神生活は支配層だけのものだった>

そうしたなかで、日本では武士、西欧では騎士階級以上の少数者だけが、等身大以上の広がりを持った世界観を持って暮らしていました。

その広がりは、西欧では領主の君臨する領国空間、日本では藩ですけどね。
それらの空間が彼らの世界観に入っていました。

そして、その中で、彼らの人生観も出来ていました。
欧州では騎士道、日本では武士道がそれですね。

これが産業革命以前の、人間の世界観のありようでした。



<産業革命は文字通りの「革命」だった>

さてそこに産業革命が起きると、庶民はどうなるか?
彼らにも、満腹できる日々のある人生が始まります。

彼らにも家族親族を超えた世界観を持つ余裕が生まれ、精神文化をもつ余裕も生まれます。


望「そうか。だから明治維新後日本に様々な庶民文化の花が開いたのですね」

~お察しの通りです。
だが、産業革命以後の経済は市場の機能を生かした資本制経済です。このシステムでは景気循環の波が大きいです。
庶民は、不況時に再び十分食べられない状態に陥ります。

産業革命前にはこの状態は庶民に「非常に苦痛」というものではありませんでした。
生涯、毎日がそうだったですからね。そういうもんだと思って生きていたから・・・。

だが人間は、いったん満腹を知ると、激しく空腹からの脱出を欲望するようになります。
人間とはそういうものです。

そこで国民の中で、「弱小の隣国の富を奪ってでも、空腹から逃れたい」という機運が湧き上がります。

これは良し悪しの感情を超えて強烈に頭をもたげてくるのです。

 

望「その気持ちは、わたしにも追体験できる感じがします」

~それはいいなぁ。

国家の戦争力は、武器技術が一定ならば、戦う人間の数が多いほど大きくなります。
そこで人民は、集団の規模を同一言語を話す人間、すなわち民族の数いっぱいにまで広げようと願望します。

この人民心理は、同一民族の国家という世界観を抱く動因を庶民の心に強く作ります。

そこに民族主義の世界観を指導者が投げ入れてあげるとどうなるか。

庶民はその中に、自分を位置づけることができてしまいます。

こうして、生まれて初めて、自価意識も積極的に持てるようになります。

それまでは、そんな価値はお侍さんたちや「偉い人たち」が持つものでした。
取るに足りない自分たちなどにとても持てるものでなかった。

ところがそこに自分の民族へ誇りを宣伝されたらどうなるか。

自分の意義、価値の意識を生まれて初めて積極的に抱けるようになるのです。

 

<ジェイムズの洞察通りになる>
 
これによって突然生じる快感は、前回に紹介したウイリアム・ジェイムズが示した通りです。

庶民は狂喜、興奮の中で、精神的に民族「国家」の一員となり、「国民」となります。
(この状況は、ナチスドイツと人民たちの恍惚常態の映像が、今も示唆しています)

望「う~ん、そういうことだったのか・・・」

~そういうことです。

その結果、庶民の成人男子徴兵制への抵抗感が薄くなります。

従来は戦争は、支配階級(武士)だけがするものでした。
そこに庶民も加わる条件が完成します。

こうして「国民国家」が誕生します。

+++

国民国家を実現した国は、戦も強いですよ。
そこで産業革命を成し遂げた先進国は、競って国民国家の創成に走ることになります。


望「日本の版籍奉還、廃藩置県もそれだったのか・・・」

~ですね。西欧列強との対抗上、やらねばならなかったのですね。

がとにかく、欧州でも先進国はこぞって国民国家を実現します。

彼らはみな、未開発国、弱小国に戦争を仕掛け、富を収奪しようとします。

人間集団が、そういう性質を濃厚に帯びていくのです。

+++

さすれば、これらの国はまた必然的に、植民地の確保争いに至ります。

これが、先進国間の戦争に繋がっていきます。

さらに、これが世界規模で二グループに分かれて戦う状態に展開したのが、第一次、第二次世界大戦だったのです。


望「すると、また、第三次世界大戦も起きる可能性あり、となりますか? 怖いなあ~」

~二つの大戦の後、その心配は大幅に減っているのですが、その仕組みの話は、またにしましょう。

~とにかく現世の話は、まずはこれまでにして、次からは本来の聖書の世界観、『創世記』の解読にもどりましょう。








コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

16.世界観の共有と共同体の拡大

2019年07月07日 | 西洋を知る基督教再入門

 

 

前回、世界観は自分をそのなかに位置づけて理解させ、心を安定させてくれる、といいました。
すると、自分に一体感、統一感も増す、といいました。

今回は、世界観のもう一つの働き、機能を考えましょう。



<事象の解釈ももたらしてくれる>

それは、自分だけでなく、自分が認知する様々な事象も、その中に位置づけて、その意味を解釈させ、理解させる働きです。

たとえば、貧しい若者がたくさんいるという事実を知ったとします。
世界観はそのことにも「理解」をもたらしてくれます。

+++

マルクス思想の世界観は、それを資本家の搾取の故、と理解させてくれます。
資本家が悪であり、「それを世の中からとりのぞかねばならない」、という実践意識にもそれは展開します。

他方、「世界には神様がいて、その方は人間をこよなく愛してくださっている」という世界観は別の理解をもたらします。

神様はいま、その若者たちを、幸せになるように訓練されている、というようにね。
そういう「理解」ももたらすのです。

望「世界観は事物の理解も与えてくれる、ということか・・・」

~そして、その理解の仕方もまた、世界観によって異なるということですね。




<共有すると共同体をつくる>

もうひとつあります。
一つの世界観を複数の人が共有すると、共有者の間でのコミュニケション効率が飛躍するのです。

なぜなら、共有する人々の間では、ものごとの理解や評価の仕方が同じになるからです。

すると、自分を通して、相手を理解できてしまえるのですね。

望「自分と似ているから、即座にわかり合いができるようになるのでしょうか」

~それだけでなく、物事への感動の仕方も愛憎の念も似たものになりもするでしょう。

人間、そういう相手には、特別な安心感を持ち、愛情を持ちます。
すると相互に深い一体感が生まれます。

望「それは気持ちいいでしょうね」

~そう。だから、この人たちは出来るだけ多くの時間、互いに一緒にいたいと思うようになる。
そしてそれが常態化して、自然にコミュニティが出来上がっていきます。

世界観は、それを共有する人たちは、相互に特別扱いしあう共同体を作っていくのです。

 

<共同体拡大の壁>

望「そういう共同体世界って広がっていくものでしょうか?」

~外部の人がその世界観を取り入れば、理解し合える人々になる。だから原理的には広がっていきますが、壁もあります。

望「壁って?」

~現実にコミュニケーション効率が共同体を産むくらいに大きくなるには、大前提があります。

共有言語があることがそれです。
使う言語が違うと、コミュニケーションは劇的に劣化し、それが壁になります。



<始皇帝と信長>

中国の秦の始皇帝はそれを見抜いていた天才的洞察者でした。

古代の中国史には春秋戦国時代という時代がありますよね。
その時代、中国では小部落国家にまでしか広域化できなかった。

広域的にコミュニケーションできる言語がなかったからです。
そこで、部族国家間に利害対立が生じると、戦争で結論出すしかなかった。
それで頻繁に戦争が起きていました。

広域的にコミュニケーションできる言語がなかったからです。


望「同じ漢民族なのに、共通言語がなかったので、広域的に相互理解ができなかったのですね」

~そう、それで戦争が多かった。
そのことを早期に洞察し、一大漢民族国家を実現させようとしたのが、秦の始皇帝です。

当時、漢民族でも南部と北部では言葉が大きく異なっていて、互いに通じ合わなかった。

始皇帝は、それを強権でもって統一させました。
それだけではない。度量衡も一つに統一しました。これで広域的な商取引も可能になった。

始皇帝は長生きしなかったけれど、この基盤作りのおかげで、後に漢民族は大国家になることができました。
漢、唐、宋などがそれです。

望「ということは、いまの中国も始皇帝のおかげで大国家になり得たことになるか・・・」

~現代中国でも、漢民族は全体の九割以上を占めてます。
これが一つになれているのも、始皇帝によるところが大きいでしょう。

日本の織田信長は始皇帝を尊敬していました。
それで日本を統一国家にしようとしました。

望「そうか、それで信長の行動がわかってきました。日本を一大統一国家にしようとしたんですね」

~そのために強烈な政策をとるところも似ていますよね。

始皇帝は、儒学者をみなごろしし、儒学の本を焼いてしまった。
大国家実現にその思想がマイナスになったからでしょう。

望「信長も比叡山の僧侶を皆殺したなあ・・・強烈だなぁ~」

~信長の試みは、暗殺されて中座してしまったけどね。

 

いやあ、話がどんどん広がってしまった。

次回には、民族主義国家と戦争の問題に話を収束させましょう。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

15.世界観の効用

2019年07月01日 | 西洋を知る基督教再入門

 


~前回の続きです。

世界観(全体観・環境観といってもいい)というのは人が生きていく上で大きな役割を果たしてくれます。



<世界イメージはその中に自分を位置させてくれる>

人間というのはね、「自分は何ものだろう」「何のために生きてるだろう」「死んだらどうなるだろう」という気持ちを、結構幼いうちから抱いているものです。

もちろん、幼い頃は漠然とした問題意識で、言葉にはならない。
けれども、やはり抱いている。これは意識の根底にくすぶり続ける続ける思いで「人生の基本問題」と言ってもいいでしょう。

そしてその答えを得るのに、自分が属する世界のイメージ~世界観だな~これが役立ってくるんだ。

その世界イメージの中に、自分を位置づけると、「自分は何ものか」の思いを心に形成することが出来るのです。

+++

たとえば、「この世界、怖いカミサマが空から見ていて、悪いことすると死後、地獄に落ちて鬼に苦しめられる」という世界観を持ったらどうなるか。

そのイメージ中に自分を位置づけることが出来るでしょう。

「私はそういうカミサマが上からみている世界の中で、生きているんだなぁ」と自分を位置づけられるのです。



<自価意識>

余談ですが、そのとき「自分は正直に生きてきている」との自覚があれば「カミサマが自分の価値を認めていてくださる」という思いも持てます。

「自分の存在は価値(意義)ある」という思いだね。これをわたしは「自価意識(じかいしき)」といっているが、これが増すのも気持ちいいことです。

とにかく世界観の中で自分の「位置づけ」ができると、人間の気持ちは突然安定化します。
環境観ほとんどなしで宙ぶらりんだった時に比べると、劇的な心理変化です。

さらにその位置づけで自価意識が増すときには、気分がさらに「快」になり、やる気や生きようという気持ちが湧いてきます。

 
    

<ジェイムズのプラグマティズム哲学>

こういう心理は、人間が昔から日々の生活の中でもってきたものです。人はそれに気付いてはきました。

だがその知識は日常的な知恵、断片的な知識の状態に留まっていました。

それが一つの心理哲学の要素として本格的に扱われたのは、人類史の中では、ず~と最近の、20世紀の初めです。

米国のウイリアム・ジェイムズという心理哲学者がその境地を開きました。

彼はプラグマティズム哲学の集大成者と言われています。

彼の言のひとつを引用しましょう~


・・・・・・・・・・・・・・
「若い人が、全世界は一つの偉大ななる事実を形づくりそのすべての部分はいわば相並び組み合わさって動いているのだという考えにはじめて思いつくと、
彼はまるで何か偉大な洞察力でも恵まれたような気になって、
まだこの崇高な概念に達していないでいるすべての人々を傲然と見下すのである」
      (ウイリアム・ジェイムズ『プラグマティズム』桝田(ますだ)啓三郞訳、岩波文庫、p99)
・・・・・・・・・・・・・・





<世界イメージに自分を位置づける快感>
 

彼がここで「全世界は・・・相並び組み合わさって動いているのだという考え」といっているのは、すなわち世界観です。
彼はそれを宇宙観とかパースペクティブ(全体観)と言っていますが、世界観です。

このフレーズ自体は、彼が事実を体系的に繋げた「体系的・法則的知識」と個々バラバラなままな「事例的・百科事典的知識」を比較して、知識(の価値)を論じている文章の一部です。

だがそのうち、前者の体系的知識は、ここで筆者の言っている世界観でもあります

ジェイムズは、「人はその世界観を思いついたとき、まるで何か偉大な洞察力でも恵まれたような気」になるといっているのです。
つまり、あたらたな世界観を得たときには、人は鮮烈な気分をうるのですね。

どうしてか?
自分をその中に「新たなかたちで」位置付けることが出来るからです。

位置づけるはすなわち「理解出来る」と言ってもいい。
従来にないかたちで自分が理解出来ると、ひとはさらに心の安定を追加できます。

そのとき目が開かれてうろこが落ち、鮮烈な気分に浸るのです。

 


<「身が引き締まる」思い>

ジェイムズは「まだこの崇高な概念(世界観)に達していないでいるすべての人々を傲然と見下す」とまで言っています。

そのような観察を彼は人間についてしてきたのです。



望「そうか。それって『身の引き締まる気持ち』と日本人が言ってるのと違いますか?」


~その通り、勘がいいね。

新たな世界観をえて、自分をその中に位置付けられると、不思議に精神に一体感・統一感覚がやってくるんだな。

セルフイメージに一体感がえられると、それは身体にも連動して心身共に一体感が得られるようになる。

「身が引き締まる」というのは、その感覚を言っているのです。



望「心身の統一感、一体感は、従来味わったことのない鮮烈な快感を人にもたらすのか・・・」


~世界観は、そういう効用を持つのですね。

聖書の世界観も、例外ではありません。
身につければ安定感が増し、快感をもたらしてくれるのです。



望「そうか、そうなんですね。でも聞いていて、そういう快感ってなにか危険でもあるような気がしてきました。
戦前の国家観も一つの世界観ですよね。
これが与える快感は、民族主義とか国家主義気分とかを造りませんか。
そしてそれが戦争に向けての国民操作に利用されたなんてことはなかったのですか?
どうもそういう気もしてきました・・・漠然ですけど」

~望君は分裂気質なんだね。直感が遠くに飛ぶ。
でも全く的外れというわけではない。

望「その話も聞きたいんですが・・・」

~いいけど、いまそれを続けると聖書の話から離れすぎるような気もする。

望「いいじゃないですか。鹿嶋プロフィールには聖書学者でなく、宗教社会学者と書いてあるし・・・」

~う~ん、まいったな。よしっ、次回にはそれを考えてみるか。





コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする