鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol.264『奇蹟は天の言葉の証拠なんだけどね』(15章22節)

2009年08月14日 | ヨハネ伝解読
イエスのラストメッセージは続きます。
本日の聖句はこれです。

BGMは今回もmariさんのこれを感謝して使わせていただきます。

http://aiai.hukinotou.com/

(クリックして最小化し、もう一つエクスプローラ画面を開いて
春平太チャーチを開くとBGMのある状態で読むことが出来ます)


                                        
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=聖句=

 「もし私(イエス)が、他のだれも行ったことのないわざを彼らの間で行わなかったのなら、彼らには罪がなかったよ。
だけどいま、彼らはわたしとわたしの父をも見て、そのうえでわたしを憎んだんだよ。
これは『彼らは理由なしにわたしを憎んだ』と彼らの律法に書かれていることばが
成就するためなんだよ」(15章24~5節)
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まず、24節の部分を考えます。「そのうえでわたしを憎んだんだよ」というところまでです。

 前回、22節では「イエスが直接福音(天の王国の論理)を語ったのに、(受け入れなかったから)
その罪については弁解の余地はないよ」というイエスの言葉が記されていました。

 「もうこれで弁解の余地はない」というときの弁解はどういうものか。
最後の審判でイエスを信じなかったことの弁解だとすると、
「彼らにその余地がない」とわざわざいうのは
「そうでない人には弁解の余地はあり得る」という意味もあるのかとの疑問も湧いてきます。

 が、これは又機会を得て検討するとしまして、
ともかく、イエスから直接なされた福音伝道に特別な意味があることには違いありません。
前回、それは創主の子が直接語った福音だから、
人間である弟子やその他の伝道者が語る福音とは違った特別な意味があるだろうとしました。
そういわれればそんな気もしないでもありませんが、それでも今ひとつはっきりしない、
~そういうところのあるのが前回でした。

 今回は、そのイエスが行う伝道の特性を、ひとつ追加しています。
それは「他の誰も行ったことのないわざ(奇蹟)をみせた」というのがそれです。


                    

<しるしの力>

 「わざ」とは奇蹟のことで、これは「しるし(証し)」ともいわれます。
この奇蹟が伝道に果たす役割を、改めて考えてみる必要があります。

奇蹟って何でしょうか。
それは、日常起きない事象であり、かつ、その原因が目に見えないものです。
我々は日頃現れない非日常的な現象を見ると、驚きます。
けれども、非日常的な現象でも、原因が目に見える形で種明かしされたりしたら、
驚きは短期で消滅してしまいます。

 ところが、原因が目に見えないとどうなるでしょうか。
われわれは、そこに目に見えない何かを感じます。
そして、それを「本気で」意識し、考えるようになります。

イエスの教えは、目に見えない霊界の教えです。
そういうものに、われわれが通常意識を向けるのは、
人生で不幸があったり、苦悩があったり、
あるいはどうにもならない肉体の激痛があったり死に直面した時です。
その「目に見えない力で何とかならないか!」と期待を向けるのですが、
通常は、意識を向けない。

けれども、奇蹟を目にすると、人は皆見えない世界に意識を本気で向けるようになります。


                    

<力を求めるべき>

 福音伝道における、この「しるし」の役割を軽視してはいけません。
本格的に伝道しようとしたら、これは出発点で祈り求められるべきものなのです。
そのことに日本の信仰者が気付かないのは、福音が道徳教のよどみの中に留まっているからです。
一日も早く、このよどみが霊的感動によって破壊されることを春平太は切に祈っております。

 それはともあれ、事実として、人間が行う伝道の全てにしるし(奇蹟)は現れるわけではありません。
そこが、難しいところですが、イエスの伝道は別です。
奇蹟がいつも伴っているのです。
そういう伝道を受けたら、普通人間は自然の情として、その話に本気で意識を向けることになります。


                    

<奇蹟は創造主からと知ってるのに>

 当時のユダヤ人の場合は、それに加えて、その力の源は創造主なる神だという思想が確立していました。

旧約聖書には、さまざまな奇蹟が記録されていますが、
それは天の義のあるものに伴うものという思想です。
モーセやエリアら預言者にもしるしは伴いましたが、
彼らは天の論理に沿った預言者だからという理解です。

 ですから、普通ならば、イエスの行う奇跡を見たら、
少なくともこれは創造主が働いてのものだ思うべきです。
実際、イエスを預言者として受け入れたサマリアの人々の話も、新約聖書には記録されています。

 加えてイエスの証し(しるし)は、これまでどの預言者も行わなかった凄いものだった。
なのにユダヤ教の僧侶を始めとする知識階級は、イエスの話を全く受け入れなかった。
それが「弁解の余地ない」ことの理由だとすれば、納得いくのではないでしょうか。


                    

<世の根底意識>

残りの25節の部分です。

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「これは『彼らは理由なしにわたしを憎んだ』と彼らの律法に書かれていることばが成就するためなんだよ」(15章25節)
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 この聖句の理解には、まずこれまで一度ならず述べてきた「天と世とは絶対的対立関係にある」という知識が必要です。
 
 悪魔の支配下にあるこの世の人々の意識の根底は、天の論理を憎むようになっているわけです。
世は本能的・潜在意識的に天の義を持つ存在に対して憎しみを持つ。
「生理的嫌悪」なんて言葉がありまけど、そういうような意味です。

それを踏まえて、こう考えたらいいでしょう。
そこにイエスは天の論理である福音を説いているのですが、
イエスの説く福音は、人間の伝道者の口から出る言葉よりも、純度の高いものです。
純正の福音を提示されると、世の人間の本性はまずますストレートに現れやすくなります。
 それ故イエスは「彼らがわたしを憎むのは、なるべくしてなることであって、
すでに預言されているものなんだよ」といっていると考えられます。

 そしてイエスを憎むことは、その天の論理の源である父なる創造主を憎むことと直結しています。

                    

 蛇足です。
霊界の論理である福音を納得させるに、一番手っ取り早い方法は、
霊界の様子を映像のように見せてあげることでしょうが、それは出来ません。

 人間の霊は、肉体を着ている間は、霊界を見る能力は基本的にふさがれています。
それが見えるのなら、なにもわざわざ伝道しなくても自分で福音の内容を受容しているでしょう。
霊界が見えない存在に、その世界を説くとなると、証し(奇蹟)は貴重な手段となるわけです。


                    


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Vol.263『私に福音を伝えられた者は弁解の余地ないよ』(15章22節)

2009年08月01日 | ヨハネ伝解読
イエスはまたまた奥義に入っていきます。
本日の聖句はこれです。

BGMは今回もmariさんのこれを感謝して使わせていただきます。

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=聖句=
「もしわたし(イエス)がこの世に来て、語ることがなかったら、
彼ら(ユダヤ人たち)に罪はなかったんだけどね。
だが今はその罪について弁解の余地はないんだよ。私を憎んでいる者は、
私の父をも憎んでいるんだ」(15章22~3節)
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 「イエスがこの世にきて語ることがなかったら、ユダヤ人たちに罪はなかった」
(22節)とは一体どういうことでしょうか。

 これを理解するには人間の認知能力に関する智恵が必要です。
 
たとえば、もし人の世が男だけで構成されていたら
(男が自分で子供を生産できるなど、状況は自由に考えていいでしょう)どうなるか。
男に自分は男だという認識は生じるか。生じないでしょう。
「自分は人間だ」という認識は生じますが、男としての特性を持ったものだという意識は生じません。

 けれども、そこに女という別の特性を持った人間が出現したらどうでしょうか。
彼らはそれと比較して「ああ俺は男なんだなあ」という自己認識をすることが可能になりますよね。

                    

<真の義は天の義>
 
 それを踏まえて、このヨハネ伝解読で繰り返し述べている聖書の鉄則
「天と世との絶対的対立関係」を想起してみましょう。
そこでは「この世は悪魔の支配下にあって、罪(不義)に満ちたところ」という思想です。

(世ではそれなりに正義を考えて行動しているけれど、それは純正な義ではない、
真の義は天の義であって、“体験”したらわかることだ、というのが聖書の思想です)

対して「天は創造主の完全支配する王国で、義に充ちたところ、罪のないところ」となっています。

 けれども、その天の性格を体験することが全くなくて、全身この世に浸っていたら人はどうなるでしょうか。
上記した「男だけの世界の男」と人の意識は同じになります。
つまり、全身が不義の世に浸っていると、これこれが不義(罪)だ、
と言うこともわからなくなってくる。

 「そうした状況では、創造主は人間を罪に定めて裁くことはない」とイエスはここでいっています。
認知できない状態でいる人間を裁くことはないのだ、と。

 「ところが今自分は天から真の義をもってこの世にきた。彼らに言葉でもってそれを示した。
それを聞いた者は、世の罪を認知したことになる。
だからもう『ちーとも「知りませんでした』などという弁解を、
最後の審判でしても通用しないのだよ」~イエスはこういっています。

さらに、23節では
「認知したから、この世に属している彼らは私を憎むことになる。
だが、私は父の言葉を持ってきているのだから、
それは、創造主なる父を憎んでいることにもなるんだ。
弁解の余地は全くないよ」といっています。


                    


~この聖句には、考えさせられますね。
これは、イエスに直接触れて福音の教えを聞いた者だけについてのことなのか。
あるいは、以後宣べ伝えられる福音全般についていえることなのか、と。

前者に限定して受け取っていくのだ妥当と思えますけれど・・・。
(これを議論すると、頭がよくなるのではないかという気がします)


                    


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