鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

「世」では色んな形態の教会が成り立っている

2018年01月18日 | 政治見識のための政治学






前回、長い聖句(ペテロの聖句解説)を引用しました。

慣れない方には、退屈で気詰まりだったでしょう。

今回は、少し脇道に入って、現実の「教会の様々な姿」とでもいうべき話をします。





<「世」には色んな姿(階層)の教会がある>


鹿嶋は、「キリスト教の核心は”神は言葉”という教え」だという見解で話を進めています。

けれども、この世にある実際の教会は様々な形をとっています。





<「マルコ伝」15章から目を離さない教会>


① まず「核心をストレートに志向している教会」から。


 この教会では、「言葉(創造神)が心に留まるように人間がすれば、

その言葉(の波動)が被造物に影響を与えて、力を発揮することを理想として活動します。

  
 具体的には、「マルコ伝」の最終章での聖句に記されている状況を理想と心得、
それに向かってストレートに活動します。

・・・となると、ここでもまた聖句を提示しないわけにはいかないなあ。

ごめんなさい。 なるべく短くして引用しますからね~。




・・・・・・・・・・・・・

(「マルコ伝」 15:15-19 からの引用)


「それからイエス(復活して現れた)は、11人の使徒にこう言われた。
 
『全世界に出て行き、すべての造られたものに、福音を宣べ伝えなさい。

信じてバプテスマを受ける者は救われます。

信じない者は罪に定められます。

信じる人々にはつぎのようなしるしが伴います。

すなわち、私の名によって

悪霊を追い出し、

新しい言葉を語り、

蛇をもつかみ、

たとえ毒を飲んでも害を受けず、

また、病人に手を置けば病人は癒やされます』


(引用終わり)


・・・・・・・・・・・・・・





~この理想から目を離さないで活動するのが、「核心を体現する教会」です。






<「隣人愛」の教会>


~しかし、そこまで行かないところを主眼にして活動する人の群れも、教会として成り立ちます。

聖書には様々な思想が含まれているからね。

それほどに、底が深い書物なのです。


② その代表が、「愛の教会」ですね。

「(隣人愛などの)愛」を活動の主眼とした教会です。





<善きサマリア人となろう!>


イエスの教えに「善きサマリア人」の話が出てきます。

強盗に襲われ大けがをし、かつ、身ぐるみはがれたイスラエス人が道に横たわっていた。

同胞たるイスラエルの知識人は、関わらないようにと、道の反対側を通り過ぎた。

これを異邦人であるサマリア人の旅行者が哀れんだ。

彼は、傷の手当てをし、宿屋に運び、主人に「このお金で手当を続けてやってくれ、

足りない分は旅の帰りに立ち寄って私が支払うから」といって

旅を続けた~という物語です。


+++


それを話してイエスはこう教えます。

このどちらが、襲われた人の「よき隣人」か?

諸君もこのサマリア人のような、よき隣人となりなさい~と。


+++

こういう「愛を主目標として活動する」人々の群れも、教会として成り立っていきます。

実際、この「愛主眼の教会」は、日本にはとても多いです。

みんなそれで、きちんと教会として運営され、存続しています。






<倫理道徳教会>


かと思うと、倫理道徳の教えと実践を主眼に群れを形成する教会もあります。

③「道徳倫理教会」ですね。


聖書という書物は、もの凄く深い、多層的な書物なのです。

ルーク唐沢が「生命現象の書」というくらいに、その内容は膨大で層をなしています。


+++

旧約聖書に『箴言』という書物があります。

これなど、道徳の教えを沢山含んでいる。

とりようによっては、倫理道徳の教科書だよ。

孔子様の『論語』と同質の教えをも持っているのが聖書なのです。


+++

で、そうした倫理道徳論をみんなで聖書から学ぶ群れも出来るのです。

人間には「宗教性」の心理が埋め込まれているからね。

倫理道徳にもある程度の神秘を感じるのです。

そこに「神様の意志」という根拠を付けて祈ったりすると、

もう結構キリスト教会らしく感じられるのだね。

この教会も日本には多いよ。





余談の余談です。

上記の②、③の教会や牧師は、上記ルーク氏の手にかかると、ボコボコだね。

若いからね。血気盛ん。

鹿嶋などは、もうそのエネルギーなく、「世」ではそうなるのだ~と悟りの境地です。

+++

以上、気分転換のための「脇道」でした。








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素っ頓狂なペテロが「ヨエル書」を解説するとは!

2018年01月17日 | 政治見識のための政治学






<「神は言葉」を踏まえて>


 前回、前々回と、キリスト教の核心は、万物の創造神は「言葉(ロゴス)」である~という教えだ、と述べました。

 これからそれを踏まえて、『バプテスト自由吟味者』に書き切れなかったことがらを埋めてみます。






この本の訳者解説で、鹿嶋は「初代教会では聖句自由解読と吟味が熱心になされていた」と書きました。

だが、その具体的な有様を述べる余地はありませんでした。

+++

キリスト教会が発祥する、まさにその時の教会員の聖句解読は具体的にどんな風だったでしょうか。

『ルカ伝』の著者ルカはその解読の事例を『使徒行伝』に詳細に記録してくれています。






<ペテロってそんなに知的だった?>


いまその一つをみてみましょう。

イエスの使徒のリーダー的存在だったペテロが語った聖句解読の記録です。

(こうしたルカの仕事には、本当に助けられます)






「使徒行伝」2章を開いてみましょう。

イエスが昇天したのち、エルサレムに留まっていた使徒とそれを取り巻く200人の信徒たちに、不思議な事件が起きました。

「聖霊のバプテスマ」としてよく知られた事件です。

もの凄い音がして、炎のようなものが各人の上に留まった。

すると、彼らはみな自分の知らない他国の言葉で語り出しました。

エルサレムの神殿には常時多くの参拝者が来ています。
彼らは近所の大部屋での轟音に驚いて駆けつけました。

そしてこの不思議な状況に面食らいます。

+++

すると、使徒のリーダー格ペテロが立ち上がりました。

彼はこの事態を、説明しはじめました。

旧約聖書の聖句を解き明かすことでもって、その解説をした。

ルカはそれを「使徒行伝」2章14節から36節までかけて、延々と記録しています。

聖書を読む習慣のない読者もおられるでしょうから、ここにその場面の聖句を書き写しましょう。

長いけどね。







ペテロは立ち上がって語り出しました~。


+++

~ユダヤの人々、ならびにエルサレムに住むすべての人々、あなたがたに知っていただきたいことがあります。

どうか、私の言葉に耳を貸してください。

いまは朝の九時ですから、あなた方の思っているように、この人たちは酒に酔っているのではありません。

これは預言者ヨエルによって前もって語られたことなのです~。

「創造神は言われる。

終わりの日に、私の霊を全ての人に注ぐ。

すると、あなた方の息子や娘は預言し、

青年は幻を見、

老人は夢を見る。

その日、わたしのしもべにも、はしためにも、私の霊を注ぐ。

すると彼らは預言する。

また、私は、上は天に不思議なわざを示し、

下は地にしるしを示す。

それは、血と火とを立ち上らせる煙である。

主の大いなる輝かしい日が来るまえに、

太陽はやみとなり、月は血に変わる。

しかし主の御名を呼ぶ者は、みな救われる」



・・・・・・・
(ペテロの語りはまだ続きます)
・・・・・・・


~イスラエルの人たち。このことばを聞いて下さい。

創造神はナザレ人イエスによって、あなた方の間で力あるわざと、

不思議なわざと、あかしの奇跡を行われました。

それらのことによって、創造神はこの方のあかしをされたのです。

これはあなたがた自身がご承知のことです。



あなた方は、創造神の定めた計画と、創造神の予知とによって引き渡されたこの方を、

不法な者の手によって、十字架に付けて殺しました。

しかし創造神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。

この方が死につながれていることなど、あり得ないからです。





ダビデはこの方についてこう言っています~。

「私はいつも自分の目の前に主を見ていた。

主は私が動かされないように、

私の右におられるからである。

それゆえ、私の心は楽しみ

私の心は大いに喜んだ。

さらに私の肉体も望みの中に休らう。

あなたは、私の魂をハデスに捨てておかず、

あなたの聖者が朽ち果てるのを、お許しにならない方である。

あなたは、私にいのちの道を知らせ

御顔を示して、私を喜びで満たして下さる」



・・・・・・・・・
(ペテロの演説はまだ続きますよ)
・・・・・・・・・



~兄弟たち。先祖ダビデについては、私はあなたがたに、確信を持っていうことが出来ます。

彼は死んで葬られ、その墓は今日までわたしたちのところにあります。

彼は預言者でしたから、創造神が彼の子孫の一人を彼の王位につかせると、誓って言われたことを知っていたのです。

それで、後のことを予見して、キリストの復活について

「彼はハデスに捨て置かれず、その肉体は朽ち果てない」

と語ったのです。





創造神はこのイエスをよみがえらせました。

私達はみな、そのことの証人です。

ですから、創造神の右に上げられたイエスが、御父から約束された聖霊を受けて、

今あなたがたが見聞きしている聖霊をお注ぎになったのです。

ダビデは天に上ったわけではありません。

かれは自分でこう言っています~。





「主は私の主に言われた。

わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、

私の右の座に着いていなさい」

ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らねばなりません。

すなわち、創造神がいまや主ともキリストともされたこのイエスを、あなた方は十字架に付けたのです。

(以上「使徒行伝」2:14-36からの引用終わり)

+++

このペテロの聖書解読を聞いて、その日だけで、三千人が教会に新規参加した、とルカは記しています。






<福音書では「素っ頓狂で可愛いお弟子さん」>


これってよく見たら凄いことだよね。

だが鹿嶋はこれを「ああ、そうか・・・」と無感覚に読み過ごしてきました。


福音書の記述では、ペテロはこういう知性とはかけ離れた人物という印象だったからです。

鹿嶋の知る人々も、ペテロに対して素っ頓狂な言動の多い、三枚目的弟子という印象を抱いていました。


+++

だがイエスは後に、そうした彼に「私の羊を牧(ぼく)しなさい」と命じていくんだよね。

つまり、「これから出来ていく教会のトップ指導者となりなさい」と命じます。


何でだろう?・・・と思いました。

彼の、行動派で暖かい人柄がトップに適しているとイエスは判断したのかな。

~面食らいながらも、鹿嶋はそう受け取ってきました。


+++

繰り返しますが、福音書ではペテロは、とても上記に引用した聖句のように御言葉を次々に述べて、その解読を示すような人にはみえないのです。

そのペテロが、『ヨエル書』や『詩篇』の一節ををスラスラしゃべっているではありませんか!

しかもその解読もさえているように見える!

これは一体何なのだ!

+++

このような『使徒行伝』のシーンと、四福音書の諸場面とのイメージがつながらない。

鹿嶋は感情に整理がつきませんでした。

そこで素直に受け入れることが出来ず、とにかく読み飛ばしてきたのでした。



(続きます)











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イエスは昇天しても言葉は地上に残した

2018年01月15日 | 政治見識のための政治学






前回の続きです。





<昇天しても言葉は残す>



地上で教えた後、イエスは十字架死して、復活し、昇天しました。

復活して現れても、弟子たちに追加インストラクションして、昇天しました。


でも、地上に「言葉」は残しておきました。




<送られる聖霊が御言葉を保存し啓示する>



そしてイエスは昇天して創造神の右の座に着くと、地上に聖霊を送りました。

父(創造神)に願って聖霊を送ってもらった。

今度はその聖霊が、地上に残された言葉を保存し、その真意を人間の霊感に啓示するのです。

だから、イエスは昇天するまえに弟子たちに、「聖霊を受けよ・・・」と息を吹きかけていきました。





<聖霊のバプテスマ>


そして、あるとき轟音と共に、弟子たちのうちに聖霊が入ります。

有名な「聖霊のバプテスマ」です。(「使徒行伝」2章)

その聖霊が、御言葉の真意を説き続けるのです。

イエスの~

「 もしわたしが(天の御国に)いけば、わたしは助け主(聖霊)をあなたがたのところにつかわします。

その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にそのあやまりを認めさせます。

罪についてというのは、彼らが私を信じない(アクセプトしない)からです。

また、義についてというのは、わたしが父のもとに行き、あなた方がもはや私を見なくなるからです。

さばきについてとは、この世の支配者が裁かれたからです」

(ヨハネ16:7-11)

~はその真骨頂をいった言葉です。






しかし、そのままではわかりにくい聖句ですね。

鹿嶋の自由吟味を示しておきます。


+++

まず「罪についてというのは、彼らが私を信じない(アクセプトしない)からです」~から。

人々は肉体による罪を恐れますが、それは、本当の罪の比喩です。

本当の罪とは、「イエスを信じないこと」にあるのですが、人々はそれを知らないでいます。

だが聖霊が来ると、そのことを意識波動を送ってでもって人の霊に実感させ、悟らせるる~というのです。





次に「義についてというのは、わたしが父のもとに行き、あなた方がもはや私を見なくなるからです」~はどうか。

これなんか、難しいですね。 やってみましょう。


・・・まず、この世におられるとき、イエスは義を自ら体現しておられました。

だが、それを人々は気付かなかった。

だから、「イエスが天に行かれてこの世には義は無い」ことも人々は気付かない。

だが聖霊が来ると、そのことを意識波動でもって実感させる。

そしてまた、聖霊は、もはや「イエスの功労によるグレースを受けて」義になるしかない、ことを悟らせるだろう。

~というのが鹿嶋の解読です。






最後の「さばきについてとは、この世の支配者が裁かれたからです」~はどうか。

・・・それはこうでしょう。

 ~さばきの本質はこの世の君(悪魔)がさばかれることだ。

悪魔は最初から偽り者であり殺人者である。神の敵である。

さばきを受ける存在は、あなたではなく、別にいる。

だからあなたは恐れている必要はないのだ。

~以上のことを聖霊は、やはり意識波動を送って実感させる、というのです。



聖霊が来ると、悟らせてもらえることの、鹿嶋自由解釈は以上です。







<霊感を広げながら>



ただし、人間は、その聖霊の啓示を受信するための新しい課題を与えられます。

霊感を広げ、育成し続けることがそれです。

その点が、イエスが自ら地上にいて人の姿で、直接語ってくれた状況とは違います。

上記の事柄は、みな、霊感が広がることによって受信可能となるのです。





我々が肉眼で認識する光の波長は、すべての波長の内のごく一部です。

それは七色のスペクトルをもっているといいます。
それらが一つに集まると白く明るい光になるといいます。

だがその波長のレンジは、全体の光波長からしたらごくわずかです。

その全体の光を受信するには、肉眼を超えた認識機能が必要です。

光という物理的存在についてもそうです。

聖書で明かされているのは、物理的世界を超えた、霊ワールドです。

これは霊感を広げて、霊感によって認識する以外にありません。





聖霊が送ってくれる意識波動についても同じです。

「霊感」の拡大と向上が、鍵になる。

それが、イエス昇天後の御言葉の受信と自由吟味との鍵となるのです。

そのために、祈りと聖句を抱いての瞑想は一層重要になります。



+++

そうした構造変化はありますが、「神は言葉である」という核心は、一貫して変わりません。

昇天後もイエスはキリスト教の核心が守られるようにしていったのです。










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余生を正しいキリスト教史理解に

2018年01月13日 | 政治見識のための政治学





暮れから新年にかけて、キリスト教に関するテレビ番組が放映されていました。

「天正少年使節」「支倉常長のローマ使節」
「戦国徳川期でのキリシタン迫害」「天草四郎をかかげた島原の乱」

             ~といったようなテーマでの番組です。





でも、そのすべてに「何か、いまひとつよくわからない」という気分がつきまとう人がいるのではないでしょうか。

それは正常な感情です。

わからない真因は、キリスト教活動に関する基礎的知識の欠如にあります。

だが、日本の視聴者の多くは、「まあ、キリスト教とはそういうよくわからないもの」との悟りと諦めが、ミックスした気分でやりすごしているでしょうね。

ゲストコメンテーター先生もみな同じです。

ぜ~んぜん、わかってない。




たとえば、これらの番組にはみな、「イエズス会」というなが出てきていました。

どうもこの会派の宣教師が活動主体となっているようは気もしないではない。

だけど、そのイエズス会というのはなにか?

キリスト教の代名詞のような気もする。

だが、結局よくわからない。

~そういう人がほとんどでしょう。






<「バプテスト自由吟味者」の解説への解説を>



鹿嶋は、この問題に正面から対処してみようと思うようになりました。


それは、このほど出した『バプテスト自由吟味者』の訳者解説に、さらに、解説をくわえることによってのみ、可能になります。




この本の解説への追加説明を、一つ一つ、根気よくする以外に方法はないのです。

それによって、この日本、いや、世界の懸案の問題を解決しようと思います。





報われることの少ない、労力のいる仕事です。

だけど、鹿嶋はそれを試みようと思うのです。


これまでに社会は、鹿嶋の人生に、それを研究する時間と資金を与えてくれました。

その社会への恩返しとして、お礼として、試みようと思うのです。





<キリスト教の核心、から>


話はキリスト教の核心とはなにか? ~から始めねばなりません。

いまや、キリスト教といっても、色んな教え、色んな活動があるのです。

それらが層をなしているよかのようにみえます。

あるいは、たとえは悪いかも知れません、キリスト教の教えは十二単を着た人間(あえて女性といわない)の姿にもたとえられます。


核心とはそれらの衣装のなかにある身体そのものです。


それは何か?

わかれば、それではどういう衣装を歴史に中で着せられてきたいるか、も見えてくるでしょう。

とにかくまず、核心を結論的に述べねばなりません。


  

<愛弟子ヨハネが核心を書いている>


キリスト教の核心は、「ヨハネによる福音書」(ヨハネ伝)に現れています。

ヨハネはイエスが最も愛した弟子です。
彼にはイエスは後に、幻で延々とメッセージを託してもいます(その記録が「黙示録})




<神は言葉である>


核心は、万物の創造神は「言葉(ロゴス)」である~という教えです

父なる創造神自身は、人間に自らを現しはしません。


創造神の御子が言葉になって、被造界に現れるのです。


「言葉は人となって私達の間に住まわれた」(ヨハネ伝1:14)という聖句を軽く読み飛ばしてはなりません。

御子イエスの身体は、「言葉(神の言葉)が身体になったもの」、という思想なのです。

+++


他方、人間の身体は、土の塵によって創られている、と旧約聖書にあります。(「創世記」2:7)

だから、たとえば御子イエスが十字架死して三日目に復活するまでの間に、その身体は腐ることがなかった、ということになっています。

御子の復活もそうです。

後に実現される「人間の復活」は、その霊が復活の身体に転化します。

だが御子の場合は、身体に入っている霊が身体になるのではない。

御子の身体(言葉)がそのまま復活の身体になる、という論理になっているのです。





<神の言葉は波動を持って働く>


ビックリする人も多いでしょうね。

もう、ついて行けない、と思う人も・・・。

だが、まだありますよ。



御子から出る言葉そのものは、霊というサブスタンス(実体)なのです。

これは、波動をもって働きます。

「私の言葉は霊であり、またいのちである」(「ヨハネ伝」6:63)

~はそれを言っています。





御子の言葉の中に住まえば弟子になる


そしてその言葉を人間が心にアクセプトして(受け入れて)その言葉の中に、自らの意識が住まうようになると、新局面が開けます。

その人は、その御子の弟子となるのです。

すると真理がわかり、その真理がこの人を自由にします。(「ヨハネ伝」8:32)





御言葉が内住すれば願いは実現!



次に、御子のその言葉が人の意識の中に常住するようになると、さらに凄いことが起きる。

その人間の願うことは、みな実現されるのです。

後に、その人が御子の言葉を「地の果てまで」伝えに出ます。

そのときには、その言葉が癒しなどの偉跡を現すようになる。

そうやって聞く人々に、伝えた言葉が真理だと、御子の言葉(の波動)が証明する、というのです。


<私の身体を食べよ・・・>


だから、御子はいうのです。

「私の血を飲み、肉を食べよ」と。

御子の血は「いのちエネルギー」でできています。 肉は創造神の言葉で出来ています。


だからこれは「私の言葉を、肉体が食べ物を食べるように、諸君の心にアクセプトしなさい」という意味になります。


+++

だがこのことは、さすがに、イエスを追ってきた大衆にはわからりませんでした。

「この人の血を飲み、肉を食べるなんて、そんな残酷なことなどとても出来ない」と彼らは去って行きました。

(「ヨハネ伝」6:51-6)



だが、イエスは、核心を一貫して示していきます。

十字架にかかる直前の「最後の晩餐」でも、葡萄酒とパンを取り出します。

そして「これでもって私が、私の血(いのちエネルギー)を飲み、肉(言葉)を食べなさい、といったことを、集まる毎に思い出すようにしなさい」、~と遺言していきました。




・・・むずかしいねぇ。

お気持ちわかりますよ。 難しいよねえ・・。


だけど、このように「御子(創造神)は創造神の言葉であり、これをアクセプトせよということが教えの核心になる」ことは、まず、暗記しておかねばなりません。


+++

でないと、たとえば、「初代教会の人々が、なぜ聖句(聖書の言葉)を直接吟味し味わい続けたか」が納得できなくなる。

100年ものあいだ、この活動だけを何故一貫して続けたかが、追体験できなくなるのです。

+++


彼らにとって、「創造神とは御子の言葉」だったのです。

「その創造神を味わい知るには、その言葉を自由に吟味することが必要」だったのです。

誰にも制約されずに、自分の人生体験とも照らし合わせながら、聖霊に導かれながら味わうことが不可欠だった。


すると、その言葉は、個々人の中で波動を発して、驚くべき喜びと、神の力とを体験させてくれたのです。


~「創造神は言葉」・・・これがキリスト教の核心なのです。








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SF的理念か無か

2018年01月12日 | 政治見識のための政治学




これまでの話を読んで、笑ってしまった方もおられるかもしれませんね。
「この人、ホントに知識人か?」
「鹿嶋春平太って、変人と違うか?」




<サムシングかナッシングか、と言う問題>

だが、これは理念を持つか、無理念か、と言う問題です。

SF的だろうが、空想科学的であろうが、一つの空間理念をもつのと
何も持たないか、と言う問題です。

+++

かっこ悪いと言って、何も持たなかったら、聖書の物語を
その中に位置づける全体観をなしで、読むことになります。

すると、すべての物語相互の関係を位置づけることが出来なくなる。
ここの話を個々バラバラに読むことになります。




<体系的思考が育たない>

これは知性にとても悪いことです。
SF的だろうが、その理念の中に個々の物語を暫定的にでも
位置づけながら読むときの、意識の働きを想像してください。

この状態が、いかに、精神の広がりを造り、体系的、論理的思考を作り出すか。

いかに知的な恩恵をもたらすか。

+++

だが、それが納得できても、いざやるとなると、出来ない人が日本には圧倒的に多いです。

日本人は、なにか新しい世界観を提示されると、「これは正しいだろうか」と
反射的に思ってしまうのです。
 



<学校教育の後遺症>

学校での教育が原因です。
教科書知識を「これが正しいものだぞ」と先生に与えられ続けたことによる
後遺症が大きいのです。

だから、知識を暫定的なものとしてもてない。
怖くて持てない。

ましてやそれを自由吟味するなどできない。

これ大変なことなんですけど、事実です。

+++

鹿嶋が『バプテスト自由吟味者』で紹介した、聖句自由吟味活動が
いかに貴重なことかが、このことからもわかります。

自由吟味活動は、いまの日本に、宝石のように価値あるモノなのです。

これを実践する、具体的な手順を真剣に考えねばなりませんね。






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反乱天使、宇宙で悪魔に変質

2018年01月11日 | 政治見識のための政治学





物語は、前回の続きです。


反乱天使長とその配下の天使たちは、暗闇の牢獄(宇宙)に閉じ込められ、
変質を開始します。

そしてついには、悪魔(サタン)になるのです。




<いのちエネルギー>

そのプロセスは聖書の論理をつなぎ合わせると、こうなります~。

本来被造霊は、創造神から放射される「いのち」というエネルギーを
吸収充電して生きていく存在です。

吸収できるには、自己の意識波動を創造神にの波動に共鳴する状態に置くことが必要だ。
聖書ではそういう思想になっています。

人間も同じです。

いのちエネルギーを吸収すれば元気いっぱいの活霊になり、
吸収不全になれば、活力がなくなって死霊になっていきます。

+++

ところが反乱天使は、創造神の意識波動と真逆な、敵対心の意識波動を持ってしまいました。
こうなると、もう、充電不全どころに留まらず、マイナスのいのちエネルギーをもった被造霊となります。

こうして死霊どころでなく、それを通り過ぎた霊的存在、悪魔に変質するのです。

それに応じて、配下の天使たちも悪霊に変質します。




<「世」の君>

これが悪魔と悪霊で、彼らは暗闇(宇宙)のなかに出現するのです。

悪魔の配下天使への支配権は存続します。

暗闇はこの反乱天使たちを閉じ込めた牢獄です。


そこで、悪魔はいわば「牢名主」となります。

その後、創造神は、この宇宙の中に、人間を作ります。
だから後に人間が言う「この世」はこの宇宙の中の空間となります。

悪魔は、その世界での君主です。

そこで後にこの世に現れるイエスは、悪魔を「世の君」と言っています。

「君」とは君主のことです。

+++

以上が、聖書の「創世記」に記述されている事件の前段階の事態です。

この知識を背景にして、旧約聖書の物語は理解していく必要があるのです。





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天の御国で反乱が発生

2018年01月09日 | 政治見識のための政治学





2018年、明けました。

年末から新年にかけて、風邪をこじらせて、奈良(家内の実家)で寝ていました。
天理教の運営する「いこい病院」にいくと、インフルエンザではないと診断されました。

一安心しましたが、レントゲンでは肺に若干の炎症がみられた。

肺炎に進展してはまずいと、抗生物質を二種類処方されました。

やっと、熱が下がって、愛知の自宅に帰宅しています。

それで、間が空いてしまいましたが、天国の話を続けます。

前回、御国(天の創造神王国)に天使がつくられた話でしたね。





<天使の形態と性質>

天使の形態はどうイメージしたらいいでしょうか。

霊だから様々に変容できるはずです。
だが、通常もどるところの原型というものが考えられるでしょう。

それは我々人間のような姿とイメージするのが好都合です。
かつ、それが聖書の解読に障害になることはなさそうです。

で、そう想定しましょう。

~つまり、人間のような形のボディがあって、頭が一つあって、
手と足が二本ずつついている。
顔には目が二つ、中央には鼻がひとつあって、その下には口がある~等々とイメージするのです。




<背中に羽根はついていない>

ただし聖画などでは、天使はよく、この人間の形で背中に大きな羽根がついているように描いていますよね。

それは、人間と「同じように考えすぎて」のことでしょう。

つまり、天使は霊だけの存在なのですが、肉体をも持つとイメージしてしまうのです。
すると、空中を自由に移動するには、羽根がいることになるでしょう。

そこで人間に羽根を付けて描いているわけです。

+++

だけど、天使は、人間のような肉体を持たない霊だけの存在で、霊は物質のような重量を持たないので、羽根などなくても空中を移動できるのですね。

この機会に、天使は霊的な存在であることと、霊は重量を持たないことを
明確に認識しておきましょう。





<ドラマが始まる>


物語は動きます。

その天使の中に、とびきり見目麗しく、かつ、活知と知識に満ちたように創られた天使長がいました。

彼の職分は、配下の天使たちを指揮して、創造神の名を賛美することでした。

だが彼はあるとき、エホバ天使、つまり、創造神の暫定的な名を持つ神として振る舞っている
全権天使をうらやみました。
 
妬み心、羨望の意識をもったのです。

+++

余談です。

このねたみが心に湧き上がる、というのが被造物である人間や天使の特徴です。

つまり、天使や人間は自由意志をもつように創られていくのですが、そのなかに羨望する、「ねたむ」という心理も発露するようにできているのですね。

これは大きなテーマです。 別述します。



<自分も神のように・・・>

ともかく、この天使長は、自分もエホバ神のように賛美されたいと切望し、天の御国の一角で、配下の天使たちに自分を賛美させ始めました。

自分が神として賛美される「自分のワールド」を創造神の王国の中に造ったわけですね。

+++

すると、エホバ神を賛美する存在がいなくなってしまって、天国の秩序は乱れてしまいます。

そこで、エホバ神は、戦の天使軍団の長であるミカエルに命じて、反乱天使の一団を暗闇の空間に追い落としてしまいます。

この暗闇が、後に人間が造られる空間であるところの、宇宙です。

ああ、これででやっと<聖書の空間理念>の図の全体像が対応しましたね。





今回はここまでにしておきましょう。





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天国は創造神から出発して理解可能に

2017年12月30日 | 政治見識のための政治学





前回までに見てきたように、「天国」は福音の中核であり、また、「主の祈り」のキーコンセプトでもあります。

にもかかわらず、この理念はきわめて漠然としてしか把握されていない。

その一例を「バラダイスとの混同」にあることを、前回示しました。

だが、とにかく聖書で言う天国は、何とか明確に認識せねばならない課題でもあります。

ですけど、これは難問です。

わかっているようでわかっていない。

そういう性格の難問でもあるのです。





<創造神との関係での理解が必要>

理由の一つは、天国は、創造神との関係で認識しないと理解できないことです。

聖書の世界イメージは、創造神から始まります。

天国はその中で説明されないと、全体観がえられないのです。

ところがその創造神の理解にも難しいところが多いのです。

神といっても、創造神は他の神々と異質な、別格な存在なのですから。




<その創造神の理念からしてわかりにくい>


たとえば日本の一般人は万物の創造神と聞くと、神という語だけを引っかけて~

 「ああ。宗教だな。例の神様の話だな」と思うでしょう。

こういうアバウトな思考を打破することからして難題です。

どうしましょうか。


+++

話は、無限大の時空を含めた壮大な世界に及んでいます。

これらの話を長々と話されても、フォローが苦しくなるでしょう。

そこで鹿嶋はまず私的解読を一気に語ることにしました。

創造神の話から入って、天国を一気に説明しようと思います。

個々の解読をいちいち照応聖句を持ち出して示すこともしない。

それは後で別述することにします。


+++

話はまた、SF小説的な空想的なものにもなります。

これまで鹿嶋を「異端!」と告げ口してこられた方々、その他、異端呼ばわりの好きな多くの方々に申し上げておきます。

ご自由にうわさし合ってくだっていいのですが、これは知って置いてください。

異端とは正統な教理があってこそ、それとの比較で言えることです。

批判される際には、「あなたが正統とする教理、解釈を明示して」やってください。

では始めます。




<在物神の神々>

まず、創造神以外の他の神々のことから。

これらの神々のイメージは、よくみると、みな、物質の中に染み込んでいる霊的存在です。

鹿嶋はそれを、在物神と名付けてきました。

人は生まれて自然なままでは、物質しか認識できません。
だがそのとき同時に、その中に自分に影響を与える「見えない」存在をイメージします。

神とは定義すればこの「見えない影響者」です。

人は空、海、山、川、岩、樹木、彫像、お札(ふだ)などの中に、そういう影響者をイメージするのです。
これは人間の自然の情です。





<万物の創造神>

さて在物神では共通して、イメージをする際、人間の意識には、物質が先に認知されています。

物質ファースト。

それに次いで、(その中に)神がイメージされるのです。

+++

万物の創造神のイメージは、真逆です。
神が物質に「先行して」意識に生じます。

だって、先に創造神がいて、物質が創られて出現するというのですからね。
創造神が先というのが道理です。

神ファーストですね。

+++

その創造神が、創造の技をするまえには、まず、無限の過去から存在しています。

その懐に、御子と聖霊がいます。

これらがいわゆる「三位一体」となっている創造神だけが、無限の過去から存在している期間が続いています。





<天国は最初の被造物>

そしてあるとき、被造物を作り始めます。

その第一が天国なのです。
正確には「天の創造神王国(Kingdom of Heaven)です。

それは、地上(後に創造される)で訓練を終えた御子が、天に昇って王として統治すべき超広大な被造空間です。

だが超広大といっても、被造物ですので、その広がりは有限です。
我々はそれを球体としてイメージしたらいいでしょう。

このへんで、いつもの「聖書の空間理念の図」を掲示しておきますね。










<創造神の名と王座>

さて創造神は、その天国の一角に、王座をおきます。
それが将来御子が天国を統治する際に、そこに座してなすべき王座です。

また、王座の上方には「父なる創造神の名」をも置きます。
それは将来天に昇って御子が相続すべき名です。




<天使(御使い)>

次に進みます。
SF小説的になっていきますよ。

創造神は天国に、創造神に仕えるべき天の民を無数に創ります。
この民は、自由意志を持つように創られています。
これが天使(エンジェル:御使い)です。

天は霊界です。
天使は霊だけで構成された霊的存在です。
そして火にも風にも変容しうる「力ある霊」です。(ヘブル書1章)

+++

天使は、後に創られる人間のように、肉体を持つことがないので、自己増殖しません。
だから、創造神は天使を最初から無数に創ります。

天使は創造神に仕える天の民です。
天国が機能するように様々な役職に身を置いて仕えるように創られます。

また天使は軍隊状に組織されていて、各々に位階があります。
上位の天使は、天使長として一定の軍団の天使を従えます。





<最高位の天使が使う「神の名」>

そのなかで最高位の天使がいます。
彼は、創造神の全権を委任された代理者です。

創造神として振る舞う権威を与えられ、行動します。
そして、御子が天国に来るまで、王座を守るという役目を与えられています。

+++

さてその際、創造神は、暫定的な「神の名」を創ります。
それは「自分も自分の代理天使も」使うことが出来る神の名で、これがエホバです。

(さ~あ大変。エホバはイエスの父なる神の名だと思ってきた読者は大変でしょうね。
賛同や異論は自由です。遠慮なくコメント欄に書いて下さいね)

鹿嶋私論を続けますよ。

代理天使は、御子が王座に就き、創造神の名を相続するまでの期間に、
エホバの名をもって暫定的に神として行動します。

~まずはこれまでとしておきましょう。

一気に進める話は、次回にも続きます。









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御国(天国)とパラダイスは同じか?

2017年12月27日 | 政治見識のための政治学





クリスマスシーズンも終わり、日本では、紅白歌合戦とか正月が続きますね。

でも、このチャーチではイエスの話が続きます。

+++


前回、いわゆる「主の祈り」における御国(天国)の理解について述べました。

「御国を来たらせたまえ」の後に続く聖句は、一見、個々独立の願いを示しているようにみえるが、
そうではないのではないか。

それらは天国の持つ属性であって、御国が来れば、そのパワーで実現するものだとも解せられる。

そして鹿嶋は、後者の解釈の方が正しそうに思う、といいました。





<パラダイスって天国じゃないの?>

だが、鹿嶋の話は何か漠然としていて、ピンと来ないという人が多いのではないかと思います。

直接的な理由は、天国の属性をそのまま羅列して明治したりするような聖句がないところにあるでしょうが、

その前に天国自体の全体像が読者の意識の中で漠然としていることがあります。

たとえば、ほとんどの聖書読者は、天国はパラダイスと同じだと思っている。

だが、聖句をよく見ると、そうではないことがわかってきます。






<「パラダイス」は解読がいる>

まず、パラダイスという言葉は、一度だけしか出ていません。

イエスが十字架にかけられたとき、その左右に各々一人の罪人が十字架にかけられています。

そのうちイエスを受容した一人が「この人には罪がない」という。
イエスはそれを聞いて、「今日、あなたは、私と共にパラダイスにいるでしょう」といいます。
             (ルカ伝16:23)


このパラダイスについて、聖書では何も説明がありません。
そこで我々は~イエスを受容した人がイエスと共に行くのだから、きっといいところだろう、これは天国のことだろう~と漠然と思ってしまいます。





<イエスは「まだ父の元に昇っていない」>


だが、イエスは三日目に復活して、まずマグダラのマリアの前に現れています。

そして、マリアが狂喜して「先生!」とすがりつこうとするとイエスは言います。

「私にすがりついてはいけない、私はまだ父のもとに登っていないのだから」
                   (ヨハネ伝20:17)

父の元、とは天の御国です。
この時点でイエスは、天国に昇って地上に帰ってきてはいないのです。

となれば、イエスが、かの罪人を連れて行ったパラダイスは、天国ではない道理になります。

でも、十字架死の当日に「今日あなたは私と共にパラダイスにいるでしょう」
といった。
        (ルカ伝16:23)

だったら、イエスはすでにその罪人の霊を連れて、そこには行ってきていることになる。

そして三日目に復活して、こんどはマリアの前にいる。

繰り返しますが、パラダイスは天国ではないのです。






<宇宙の中のどこかには違いない>


では御国でなければ、どこか。
もう一度、聖書の空間理念を見ましょう。





この図で考えたら、それは、天国の下方の宇宙の中のどこかでしかありえないでしょう。

パラダイスは天国ではなく、宇宙の中のどこかにあるはずなのです。

もちろん、それは「いいところ」ではあるでしょう。

鹿嶋が推察するところ、それは「イエスを受け入れた人の霊が、最後の審判までの間に安息するところ」
ではないかな。




<宇宙には他の安息空間も?>

宇宙の中には、他にも推察される空間があります。

ルカ伝に記されている「アブラハムの懐」もそうでしょう。
貧乏人ラザロが死後いったと思われるところです。

これもなにか、「安息の空間」という感じがしますね。

ハデス(火のあるところ)もそうでしょう。

生前ラザロに哀れみを書けなかった金持ちの霊が、死後行ったと思われるところです。
これもルカ伝の同じ聖句箇所に記されています。
         (以上、「ルカ伝」16:19-31)

だが、このパラダイスと区別して天国の理念を、クリスチャンでさえ多くは抱いていない。

事程左様に、「天国」のイメージは人々の中では漠然としたままです。

(「極楽」のことだと思っている人もニッポンには沢山いるよ)


一つには、それ故に、「御国を来たらせたまえ」に続く聖句を、御国の属性だとイメージすることが難しいのです。

御国のイメージについては、もう少し考えてみましょう。








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「主の祈り」の再吟味

2017年12月23日 | 政治見識のための政治学




クリスマスですね。

霊感について考えているのですが、またまた、脇道にそれます。

いわゆる「主の祈り」についてです。



最近、カトリックからこれについて異論が出た、という情報を耳にしました。
中身はわからないのですが、これを「主の祈り」と呼んでいるのは間違いだ、ということかもしれません。

確かにそれはその通りです。

これは聖書ではイエスが「祈り方」として人々に教えたものです。
なのに「主の祈り」というと、それは「イエスが祈った祈り」という印象を大いに与えるのです。

これはまずい、ということなら、そのとおりなのです。




<別の吟味も必要>

だが、鹿嶋はこれについて、別の意味で吟味も必要だと思ってきました。

まずは、日本で邦訳されている、イエスの教えた祈り方を転記しましょう。



・・・・・・・・・・・・・・・
「天にまします我らの父よ。
 御名があがめられますように。
御国が来ますように。

御心が天で行われますように、地でもなしてください。
われらの日ごとの糧を、きょうもお与えください。

我らに罪をなす人を我らが許すように、我らの罪をもお許しください。

我らを試み(悪への誘惑)に合わせず、悪より救い出してください。

(天の王国と力と栄光は、とこしえにあなた様のものだからです。アーメン)
(マタイ伝 6:9-13)
・・・・・・・・・・・・・・・・・







<祈りの項目は独立箇条か>

ここで祈っている項目は、各々独立した願いとして祈られているように受け取っている人が大多数だと思います。

どうしてこういう風に並ぶのかわからないけれど、とにかく主イエスの教えた祈りだからそう祈る、とうけとっている。

教会の礼拝でみんなでこの「主の祈り」を唱和する場合には、まさに、そういう風景です。

















<天国がすべての属性を含んでいる?>

だが、この「祈りの聖句」にはもう一つの解釈も可能です。

それは「天の創造神王国が来たら」それに続く項目はオートマチックに実現される、~とする解読です。

そうすると、これらの項目はすべて、天国という空間の持つ属性という理解になります。

このことを明確に示すには、祈りは次のように書き換えた方がいいように思います。




・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
天にまします我らの父よ、天の御国(天国)に置かれた御名を天使があがめますように。

(ここまでは従来の邦訳文と同じです。次からが違います)

御国が来たらせられたら~
我らに日々の糧は与えられます。
我らぬ罪を犯す者を我らが許すように、我らの罪も許されます。
我らは試みに会うことがなく、この世の悪より救い出されもします。

なぜなら、御国と力と栄光は
 とこしえにあなた様のものだから、それは実現するのです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・




こちらでは、天国という空間は上記の各項目を属性として含んでいる、という天国認識があります。

すなわち、天の創造神王国では、食べ物は豊富で乏しいことは全くなく、人間に他者の罪を許す意識力が与えられ、かつ自らの罪は許される。

また、そこでは悪魔に試みにあわせられることもなく、すでに、悪魔の企みにはまっているならば、救い出される。

そういう属性を持った天国という空間の所有者は、父なる創造神よあなた様だから、これらはすべて実現する。

~そういう天国認識があります。





<「すべてを満たすパワー空間」を示唆する聖句>

はたして、どちらが妥当な解読か。

後者であると示唆する聖句は、たくさんあります。

+++

そもそも、イエスの宣教の第一声も「天の御国が近づいた」です。
彼は「だから、悔い改めなさい」と宣言しています。
(マタイ伝 4:17)

+++

また、イエスが福音(良き知らせ)として伝えている具体的な中身は、天の御国のことらしい、と解される聖句もあります。

マタイによる福音書(マタイ伝)では、著者マタイはこう記述しています。



・・・・・・・・・・・・
「それから、イエスは、すべての町や村を巡って、会堂で教え、御国の福音を述べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいを治された」
   (マタイ伝、9:35)
・・・・・・・・・・・・



ここでは「御国の福音」(天国についてのよきしらせ)とずばりいっています。

+++

天の御国の属性としての「力」を示唆する聖句もあります。



・・・・・・・・・・
「しかし、わたしが神の御霊によって悪霊ども追い出しているのなら、もう神の国はあなたがたのところにきています」
 (マタイ伝 12:28)
・・・・・・・・・・・




創造神の御国では、悪霊は留まることが出来ず、追い出されるというのです。

+++

この他、イエスが「天の御国」について説いた、というくだりは、繰り返し繰り返し語られます。
「天国、神の国、天の御国」という言葉はマタイ伝だけでも、2~30回出てくるのではないでしょうか。ルカ伝でも多いです。

+++

他方、旧約聖書には天国という言葉は一度も出てきません。

新約聖書でイエスが出現してはじめて、天国、神の国という言葉を述べるのです。
それを「良き知らせ」として伝えているのです。





これらのことから、天国は、食べ物は豊富で、人間の罪は許され、悪魔が試みにあわせて罪を犯させることもない~そういう属性を持った空間であると推定されます。

食べ物については、イエスが、わずかのパンと魚によって、5千人を食べさせたという記録もあります。

のみならず天国は良きものすべてを持った、素晴らしい空間なのです。

「御国を来たらせたまえ」はそういう素晴らしい属性をもった天の創造神王国の空間を、私達の周囲に来させてください、という祈りである可能性が大きいのです。










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霊感と聖句

2017年12月22日 | 政治見識のための政治学





前回、霊感を認識対象別に考えました。

物質、被造霊、創造霊、と大きな枠組みで考えました。

今回は対象を「聖句」に絞ってみます。





<聖句は霊的知識の文章>

聖句とは聖書の中の文章です。

そして聖書は他の書物にない特徴を持っています。
それは「みえない意識体の世界」である霊界のことをすぐれて重点的に述べています。

+++

ちょっと関連する日常感覚を引き合いに出してみましょう。

教会、寺、神社などは宗教の建物です。

そこは程度の差こそあれ、みな、外部の空間よりも、霊的です。

だが、各々の建物の中で感じられる雰囲気は、教会が最も霊的です。

賛美歌も読経や祝詞よりも、霊的な雰囲気が強いです。

+++

神社は基本的に葬式は請け負いませんので、仏式とキリスト教式の葬式を比べてみます。

すると、仏式は形式的なものが表立っている印象を受けます。

お坊さんの唱えるお経は、言葉の意味がよくわからないので、よけいにそうなります。

他方、キリスト教式の葬式での牧師の説教は、言ってる言葉はわかります。
そしてそれが霊的なことがらであることも感じられます。

歌われる賛美歌も、霊的な歌であることがよくわかります。

♫ 主よみもとに、近づかん・・・♫ 

            ~ですからね。


+++


それらは聖書のもつ知識が優れて霊的であることを反映しています。

聖書の独自な存在意義は、霊的な知識にあるのです。

もちろん、見える世界の事柄の知恵らしきものも述べていますよ。

だが、それも霊界のことを比喩で示しているとも解せることが非常に多い。

聖書は本質的には霊界のことを示す本なのです。

そして聖句はその中の文章ですから、聖句の認識には、霊感が不可欠な鍵になります。

(聖書を読む場合には、前もってこのことをしっかりと自覚して読むと効率的です)





<比喩表現が多い文章>


だが霊的存在そのものを言葉で述べても、話自体がチンプンカンプンで人間にはよくわかりません。

そこで、まずは人間の「目に見える」物質に投影させて述べることになる。

すると、話としてはまずはわかります。

そして次に、この話は何を示唆してるんだろう、と考えていかれるわけです。

聖句はそういう傾向の高い文章です。

+++

でも物質界に投影されたら、それはたとえ(比喩)となりますよね。

霊の事柄を、物質界のものにたとえて述べるわけです。

だが物質は多面体です。色んな面を持っています。

それらの面はすべてつなげられうる。
だから、多様な理解、解釈が可能になるんですね。

そこには霊的な繋がりを示す解釈も、「見える世界」の繋がりを明かす解釈もあるでしょう。

たともかく、聖句は基本的に多義的になる。

これは前々々回にも述べましたね。





<聖句解読>

その中で、最も妥当そうな解釈を探究していくのが聖句解読です。

聖句を理解した「わかった」という感覚が得られるときとは、その一つ選んだときですからね。

選んで、「これがこの聖句の意味だ」と確信したときだ。





<霊感は常時働く>

その際、解読者はどういう精神作業をするのでしょうか。

まず、あり得る複数の解釈をさぐりだしていきます。

そしてそれらを心に保留するでしょう。

そのうえで最も妥当な霊的な解釈、意味合いを感知しようとします。

その際、他の聖句との整合性を全ての解釈につき吟味します。

ここで論理という能力の助けを得ます。


+++

だが、これらすべての作業で、常時活躍するのが霊感です。

これは吟味の最中にも常時働きます。

かつ、最終的に妥当な解釈を感知もさせるのです。

これと同時に当該聖句が意識に留められます。
当然ですね。

全ての解釈は聖句と照応されるのですから。

そしてそこで霊感が協働し続けるわけです。




<聖句の瞑想時間>

また、こうした作業のあいだ、解読者はその聖句を心に抱き瞑想もします。

イエスが弟子たちに「私の言葉の中に住まうのなら諸君は私の弟子になる」と言った際の「言葉の中に住まう」というのもそれにあたります。

この黙想の間に霊感は動き出します。

この動きが出るまで聖句を瞑想します。

するとあるときいくつかの自分の解釈が霊感に感知されるのです。

感知されたら最も妥当なものを選び取ります。

ここで他の解釈を捨てます。

これが聖句解読の時間的過程です。

+++

この、結果的に選び取られた解釈、これを言葉で言えば教理です。

だがここで注意することがある。
この教理は、教理統一方式の教会での信徒たちのそれとは別物だということです。

教理統一方式では、その教理を絶対正統なものと与えられて「がぶ飲み」します。
だから聖句との照合のステップは一切入っていない。

そもそもこの方式を代表する教会は個人的に聖書を読むことを禁じています。





<盲信と自由吟味>


だから知力も霊感も働かせることがない。

この状態を別名「盲信」といいます。
英語ではカルトです。

+++

他方、自由吟味方式の教会では、この教理は教会員個々人が心に抱く“その時点での教理です。

この教理には、霊感が強く働いたときの感触が伴っています。

また、聖句の言葉それ自体も伴っています。

そして、生きていく中で、より妥当そうな解釈が浮上したら、謙虚に切り替える。

自由吟味者はそのために、常に聖句を心の中に住まわせ(abideさせ)て生きるのです。







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霊感と認識対象

2017年12月19日 | 政治見識のための政治学





前回、脇道に入って、富岡八幡宮事件の聖書視野からの理解など述べましたが、本筋に戻ります。

前々回に、「聖句は多義的、教理文は一義的」となるという、その構造のようなことを述べました。

そこにもどって今回は、「霊感」について考えてみたいと思います。




聖書という書物は、本質的に霊界の法則を述べた書物です。

その中の聖句も本質的に、霊的なことを示す文章となります。

ですから聖句吟味には霊感は不可欠となります。




<霊感とは>


霊界は五感認識を超えた世界です。

その世界を感知・認識する能力が霊感です。

日本では日常語ではこれを「第六感」とか言っていますね。

英語でもシックスス・センス(sixth sense)なんて言葉もあるようですね。

ただし、この英語は広く「直感(intuition)」をさすこともあるようなので、漠然とした言葉にも成っています。

日本でも、七感、八感などを加えて言う人もいます。
まあ、五感を超えた能力全般を漠然と言っているわけです。




=認識対象との対応で見ると=


そこでもう少し明確に、霊感をとらえられないかと考えました。

そしてそれは霊感という語を、認識される対象と対応させて考えるたらいいのでは、と思いました。

やってみますね。




<物質は素粒子>

まず、物質から。

量子物理学(量子力学)は、全ての存在(聖書では被造物)は、波動で出来ていることを明かしました。

これでいくと、いわゆる物質も波動が凝集してなる粒子(素粒子)で出来ていることになります。

だがこれは霊感による認識の対象ではありません。




<霊は超微粒子>

では、御使いや人間の霊などの、被造霊はどうか。

これも波動の凝集体である粒子でできていると考えられますが、その、粒子は素粒子より何億倍も小さい、超微粒子だとみるのがいい。

だから、この粒子で構成されている霊は、物質よりも遙か緻密に出来ているわけですね。

それ故、肉体のように、10年もすればまとまりを失って消滅する、ということはない。

いったん創られると、永続するわけです。


+++


この超微粒子のアイデアを鹿嶋は「サイ科学」という分野から得ています。

19世紀から西欧では心霊科学が盛んになってきました。

その流れで「サイ科学会」という学会も出来ています。

サイというのは、サイコロジー(心理学)のサイです。

この学会では、霊は「サイ粒子」という超微粒子で出来ていると考える。

それは素粒子の10億分の1というサイズだ、という仮説で、研究をしています。

ただし、サイ科学会では、鹿嶋の知る限りではまだ量子力学の知識は取りいれていません。

だから、凝集した超微粒子の周囲に、粒子に凝集しきらなかった波動が漂っている、というイメージはありません。

+++

鹿嶋は量子力学の存在論をベースに考えるようになってきています。

そこで、こうした超微粒子とその周りの波動とを認識する能力、これを霊感だとまず考えます。

そしてその認識は、自らの意識波動を霊の波動と共鳴させることで可能になると考えています。





<創造神(霊)は、波動の源>


さてこうなると、やはり、創造神(創造霊)も考えておかないといけませんよね。

聖書の世界観は、創造神をベースにして出来上がっていますので、不可欠な認識対象です。

そして聖書では、人間はそれを認知する可能性を持つことになっています。

+++

創造神は霊的存在です。

だが、被造物ではないのですから、被造霊ではなく、創造霊です。

創造神を、被造物のように、超微粒子で出来ているというように考えたらおかしいでしょうね。


ではどうイメージしたらいいか。

それは「波動の源」であり、自ら波動そのものである。

そして、被造界に波動を放射している存在と考えたらいいと鹿嶋は考えます。

+++

また、この波動の源を認識する能力も、また、霊感と呼んでいいと思います。

その認識方法も、被造霊のそれと同様だと考えるからです。

つまり、自らの波動を共鳴、共感させることによって、認識する。

被造霊である天使(御使い)や人間の霊と同様な方法と考えるので、これも霊感

としていいわけです。


+++

考察が深くなってきています。

こういう話は短く切らないとゴチャゴチャしてしまう。

今回はここまでにしましょう。








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富岡八幡宮事件を聖書の視野で見ると

2017年12月12日 | 政治見識のための政治学








富岡八幡神社で起きた肉親間の愛憎殺戮劇がテレビを賑わしていますね。

でも、何かわかりにくいところ、釈然としない点が心に残りませんか。

あれは、超安定的に得られる強大な利得権を肉親の間で奪い合う、骨肉の愛憎劇ですよね。

あの姉弟の間にも、幼少時までには人としての生来の肉親愛はあったでしょう。
だがその利得は宮司となった者が慣習上独占できるのですね。

またその支配権の継承は、血族の間だけに慣習的に承認されています。
世間の競争から守られています。

この利得はものすごく安定的でもあるのです。




<企業創業者の息子たちにも>


こういう関係は、企業創業者の息子たちに間にも見られるモノです。
だが企業はオープンな競争にさらされています。
神社の集金機構ははるかにもっと安定的です。

その安定的利権の巨大さが、肉親の情を圧倒するようになっていく。

成長するにつれて、利得権への欲望が、肉親の愛情を凌駕していく。

そういう人間関係の中で起きた事件なんですね。





<安定巨大利得の由来が説明できてない>

だけど、そういう利権が出来上がってきている構造を説明できるコメンテーターがテレビにはいないんだよね。

だから、何か漠然とした気持ちが、われわれ視聴者の間に残るんだ。


+++++++

この構造は、聖書の視野でみると、明瞭に浮上してきます。

鹿嶋は、これまでにも、神イメージの図をここにも掲載してきましたよね。

それをもう一度掲げましょう。







図の右側には在物神という神イメージが示されています。

人は自然なままで、神イメージを本能的に求めます。

神とは、「見えない影響者」です。

人間は自分の生活に、良き影響を与える「見えない存在」を期待し、また、「よからぬ影響を与える」かも知れない「見えない存在」をイメージして恐れるのですね。





<在物神>

創造神理念を知らない状態ですと、人はその影響者を「物質の中に内在する」とイメージします。

鹿嶋はそれらを一括して「在物神(ざいぶつしん)」と把握してきましたね。

物質とは、目に見える存在です。

これをみて人は、そこに内在する神をイメージ致します。

山道を歩いていて大木や巨岩出会うと、人はその中に「見えない影響者」をイメージします。

山にも、川にも、海にも、空にもその中に内在する見えない影響者をイメージする。

石や木を彫った像のなかにも神イメージを抱きます。

家の形に作った建物にも、人は内在する神イメージを抱きます。



    


<建造物のイメージ形成力>

そうした物質の内で、存在感・リアリティをとても濃く感じさせてくれる一つが、家の形をとった建物です。

ある程度大きな建物は、その中に神イメージを、人を包み込むような大きさでイメージさせてくれます。
またこのイメージは、山や海ほどに膨大でない、ちょうど実在感が薄れない大きさです。

そうした建物に対面するとと、人はその中に「見えない影響者」の感慨を、優れて濃く感じることが出来るのです。


だからその建物は多くの人民に常時的に礼拝されるようになります。

これが神社・神殿となっていきます。





<仲介者が出現する>


それに併行して、その建物の内にいるとイメージされる在物神と、交信できているような人物が現れます。

彼は、その神と人民たちとの仲介者となっていきます。

人民はその仲介者に、頼るようになります。
この仲介者が複数となり、彼らが階層を形成することもありますが、ともあれその頂点に立つのが宮司(ぐうじ)です。

+++

人々は、この仲介者に仲介代金を支払うようになります。

それに神様への捧げ物というイメージを混ぜ合わせて捧げます。
すると、出金の抵抗感は軽減します。

こうして自発的な動機が混ぜ合わさった出金の「集金するシステム」が出来ていきます。

すると、仲介者は、自分が目の前にいなくても、人民が建物の中にイメージする在物神に捧げ物をする仕組みも考案します。

それは社殿の前に器物(賽銭箱)を置くことでもって実現します。

こうすると人民は、常時的にお金を捧げるようにも成ります。

正月や祭りの日などには、これが結構多額な賽銭をうる自動的集金システムとなります。





<恐れ混じりになるのは>

さて「イメージ」とは広い意味の用語です。
在物神イメージは「感慨」という純粋に感性的な心理実体になります。

感慨はフィーリングであり、フィーリングは理念にはなりません。
感慨のままです。
だから、在物神イメージは在物神感慨ということもできます。

そして「見えない影響者」の感慨には、「祝福」(幸せをもたらす力)への願い、期待と、「呪い」(不幸をもたらす力)への恐怖~この二つのフィーリングが同居しています。

つまり、在物神崇拝では、「恐れ」に縛られた心理状態が併存するのです。




<創造神理念が投入されると>

だがここに「万物の創造神」というイメージ投入されたらどうでしょうか。

これは在物神とは一線を画する別ものです。

創造神というのは、物質の認知に伴う「感慨に先導される」ことが全くない神イメージです。
それは理念として導入される、理性的なイメージ体です。

だから、創造神理念ともいえます。





<自然発生しない理念>


この神理念は人の心理に自然発生はしないものです。
それは外部から投入されてはじめて存在するようになるものだ。

そしてそれを投入するのは聖書という書物です。

+++

ともあれこれは理念(概念)ですから、そこから論理的な思考を展開させる余地を持っています。

そもそも、「自分以外の万物を創造した神だ」というのがすでに「創造者」という属性の概念(理屈)を含めています。

他にも属性は考えられますよ。

例えば、万物の創造神なら空間的に無限の広がりを持つでしょう。

もし有限ならば、その外側のものは「オレが創った」とは言いがたいからです。

このように「空間的無限者」という属性概念をも創造神理念はすでに携えているのです。

同様な理屈で、創造神は時間的にも無限者となります。





<被造物への文句なしの上位者>


他の属性もありますよ。

「創造した側」だから「被造物」には絶対的上位者だというのもそれだ。

この感覚は、我々人間が日常的に抱く心理にすでに存在しています。

たとえば、テレビ受像機は人間が創造したものです。
これを、人間は好きなように使用し、使えなくなったら廃棄するでしょう。
それを当然なことのようにして行っているでしょう。

この行動にすでに、「創ったものは無条件に上位」という感覚が表れています。

聖書では創造神理念は、被造物である人間への哀れみも抱く存在となっています。

この心理は創造神が人間を創るとき「自分たちに似た形に創造しよう」としたことからも来ているかも知れません。





<究極の「見えない影響者」>

さて、この創造神理念が心に入ると、人の神イメージ世界は変化します。
この神が「究極の影響者」であると思うようになる。


もし、在物神が霊として存在していたとしても、それは創造された被造霊だからね。
創造神の統治下にある霊的存在だ。
そう意識されると、在物神への崇拝心は薄らいでいきます。

すると在物神感慨に混じり込んでいた「恐れ」(呪うこともあるという)の感情が希薄化し消滅します。




<創造神認知は人を自由にする>


新約聖書でイエスはそのことを次のように弟子たちに言っています~



・・・・・・・・・・・・・・
「もし諸君が私(イエス)の言葉の中に留まるならば、諸君は真理を知り、そしてその真理が諸君を自由にするであろう」
(ヨハネによる福音書、8章32節)
・・・・・・・・・・・・・・・




ここで「真理(truth)」とは「変わらざるもの」という意味です。

そして、究極の「変わらざるもの」とは、時間的無限者であり、無限の時間の中でそのままで存在する永遠者、である創造神以外に、存在しない。

論理的にそうなります。

他の存在である被造物には、そもそも、創られた時点という存在の出発点があります。
そこから存在を始めた、ということからして「変わらざるもの」ではありません。

さらに被造物は時と共に変化します。
変化する存在は、無限の時に流れの中で、別物になってしまいます。

つまりこの聖句は~

「私の言葉の中に住み留まれば人は万物の創造神を知ることができるよ。そうすれば人間の心から在物神イメージは希薄化し恐れは消滅する。恐れは人の心を縛り続ける力を持つからね。それが消滅するので、やっと自由になれるのだ」

~といっているのです。





繰り返しになりますが、創造神理念を知っていたからこそ、在物神イメージの特質も、これと照らし合わせて浮上しました。

それによってそもそも、神社なるものが何故あんなに強大で安定的な集金機構になるのか、が構造的に認識できた。

すると、日本では神社の支配権を持つことがどんなに大きな世的利益を生むか、がわかってくるのですね。






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聖句は多義的、教理文は一義的

2017年12月09日 | 政治見識のための政治学




先回、聖句自由吟味主義の思想を、ヨハネ伝1章の聖句を例にとって説明しました。

この話は、今少し深掘りするともっと面白くなります。


もう一度、聖句を掲げましょう。





・・・・・・・・・・・・
ピリポはナサニエルを見つけて言った。
「われわれは、モーセが律法の中で書き、預言したたちも書いている方に出会ったよ。
ナザレの人で、ヨセフの子イエスだ」
ナサニエルは彼に言った。
「ナザレから良きものが出ようものか」
     (ヨハネによる福音書、1章45-6節)
・・・・・・・・・・・・・





このナサニエルの言葉には、少なくとも二つの思いが想像できましたね。


一つは、「ナザレのような遅れた貧しい田舎村から、そんな優れたモノが出るわけないじゃないか」という思いでしたね。

今ひとつは「救い主は、ダビデの町、ベツレヘムから出るとされている」との聖書預言を踏まえての、
「 ナザレからそういう存在が出るはずがない」という思いでした。

そのどちらも「解釈」です。「教理」や「教義」も解読も同じ意味を持った別名です。





<聖句は多義的>

このように複数の解釈が可能なことを、「多義的」と言います。この場合の「義」は「意味」と同じ内容の言葉です。
上記の聖句では、「ナザレの田舎者だから」という意味解釈と「聖書の預言にないから」という意味との二つの解釈が可能になっていますよね。

そしてこのような多義的な性格を「聖句の文章」は、基本的に、持っています。




<教理は一義的>

反対に、一つの解釈を持つことを「一義的」といいます。
これは「解釈(教理)文」の特徴です。

解釈するというのは、「理解をする」「わかるようにする」と言うことです。

「わかる」という感覚は、意味を一つに絞ることで得られますからね。

そのためには、各々の解釈を他の箇所の聖句と照らし合わせて、その整合性を吟味したりすると有効です。

上記聖句の例でやってみましょうか。

+++

上記聖句のすぐ後に、こんな話が続きます。

~しかしピリポは「とにかく来て見てごらんよ」という。
「まあ、そんなにいうなら」、とナサニエルは友達ピリポに付いてイエスの方に向かっていきます。
するとこのナサニエルをみて、イエスがこんなことをいっているのです。



・・・・・・・・・・・・・・・・・
 「これこそほんとうのイスラエル人だ。彼の内には偽りがない」
     (ヨハネによる福音書、1章47節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・



このイエスの言葉は、「ナザレのような遅れた貧しい田舎村から、そんな優れたモノが出るわけない」という思いと、あまり繋がりがないように見えませんか。

他方「救い主は、ダビデの町、ベツレヘムから出るとされている」との聖書預言を踏まえての思いはどうか。

正統なイスラエル人は、常に聖書預言を通して歴史を見ます。

イエスは上記のナサニエルの言動を透視していて、彼にそれを見たのではないでしょうか。

だから「これこそまことのイスラエル人といった」
~という解釈の方が整合性が高いのではないでしょうか。

そこでこの二つの内で一つに絞るとしたら、後者の解読の方が有力な候補となるでしょう。

こうして他の候補を捨て去って、一つを選択していく。
これが解読です。

かくのごとくに多義的だった上記聖句は、一義的な解釈になるのです。

ともあれこのように、解釈をするというのは、「多義的な文を」「一義的にする」ことということもできるのですね。

+++

今回の話の主眼は以上にあるのですが、ここで一つ追加しておきましょう。


では、聖句は何で多義的なんでしょうか?




<聖句文は比喩表現だらけ>

色んな理由が絡み合っているのですが、一つは「比喩」(たとえ)で述べられている話がとても多いことでしょう。




<「見えない世界」の事柄記述が多い>

そうなる理由の第一は、霊界という「見えない世界」の事柄を述べているところがとても多いことでしょう。

聖書は詰まるところは霊界の事柄を知らせる書物ですからね。






<新約聖書>

新約聖書では、イエスが霊界の真理を語った話が非常に多いですよ。

その際、イエスは比喩を多用しています。

聞く人々は霊界のことをそのままいっても理解できませんからね。
これを見える物質界の事柄に投影して語るわけです。

そして別の者に投影して語るとは、すなわち、たとえ、比喩で語ることですからね。




<「女心と秋の空」>

そして比喩は必ず複数の解釈を可能にしますよ。

たとえば「女心と秋の空」ということわざのような文がありますよね。
これを聞くと多くの人は「ああこれは女性の心は瞬時に変わりやすい、といっているんだ」と思うでしょう。

だがそれは、そういう解釈が普及していて、常識化しているからに過ぎません。

原理的には、解釈は複数成り立ちますよ。

まずこれは女性の心を秋の空に喩えた(投影した)文ですよね。
けれど、投影された「秋の空」には色んな面がありますよ。

晴れた日には澄み切ったブルーになる、面がある。

白い雲が加わったらさら美しい、という面もある。

速やかに曇ったり、雨になったりする、という面はその内の一つですよ。
ほかにもあるでしょう。

この全ての面に女性の心は結びつけることが可能です。
こじつけと言われようと、とにかく、結びつけることが出来る。

このように、比喩表現は必然的に多義的になるのです。

上記の常識的解釈は、その内の一つがより広く普及しての結果であるに過ぎません。

比喩の解釈は基本的にいろいろに、つまり、複数出来るのです。




<旧約聖書>

旧約聖書となると、もう全体が本質的に比喩表現となりますよ。
それを示したのが、イエスのこんな旨の言葉です。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「聖書(旧約聖書)はわたし(イエス)私のことを述べた本なのだよ」
   (ヨハネによる福音書、5章39節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




聖書に関するイエスの言葉は、キリスト教ではもう文句なく受容すべき言葉となります。

だからこれは受容すべきですが・・・、だけど、旧約聖書にイエスという言葉(名)は一度も出てきませんよ。

それがイエスのことを言っているとなれば、これはもう、間接的に別の表現で言っているとしかなりません。

+++

「別の表現で言う」とはすなわち「比喩(たとえ)」でいうことです。
そして、それが詰まるところイエスのことを言っているとなれば、そこに至るには必ず比喩の解釈が入ることになります。

この場合は、「秋の空」のように、「これが投影スクリーンだよ」と明示されていて、「その心を見だしてください」とはなっていない。

比喩表現されたスクリーン自体を見つけ出す、という仕事も含まれていますので、解読は大変です。

が、ともあれこのように旧約聖書はすべて解読の必要な比喩表現にみちている、ということになります。

+++

このように、聖書の中の聖句は、色んな解釈が成り立つ、すなわち、多義的なんですね。

この聖句文の持つ多義性には、もっと含蓄があります。

だが今回はこの「多義的という特性」の指摘でもって終えましょう。









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自由吟味思想を知ろう!

2017年12月08日 | 政治見識のための政治学






創造神理念については、まだ追記することはありますが、同じテーマを続けると飽きます。
今回は話題を変えてみます。




<説教での解釈は間違いでは?・・・>

このところ、とある教会の礼拝に飛び飛びに出席しています。
最初は、一年程前か、次は数ヶ月まえ、そして1週間程まえ。
飛び飛びもいいところです。

そこの主管牧師さんは、鹿嶋のことを著書などでよく知っておられました。
鹿嶋が「深読み」した聖句解読などしていることも、知っておられた。

+++

説教が終わり、献金、祝祷などがなされると、礼拝行事は終わります。

牧師さんは、信徒教会員をはじめ出席者のところを回って、声をかけていきます。

教会を運営するというのもなかなか大変な仕事なんですね。

+++

鹿嶋の所に来られたとき、小さな声でボソッとつぶやいて離れて行かれました。

「・・・今日の説教は緊張しましたよ。先生がおられるんで・・・」

最初はお愛想かも知れないと思っていました。
たが、最近また同じようなことをささやいて行かれました。

「先生、緊張しますよ。“説教した解釈が間違っている”と思われているんじゃないかと・・・」





<自由吟味思想は日本に入っていない>

今回それを聞いて、鹿嶋は考えました。

「日本には、聖句自由吟味主義という思想は、今も全然入っていないんだなあ」と。

この思想を知っていれば、自分の解釈が究極「正しい」とか「間違っている」とかいう思いは生じないのに、と。 

+++

鹿嶋は、聖句自由吟味の思想と活動を初めて書物でもって日本に紹介しました。
ブログでは書いていましたが、紙の本で知らせたのは、初めてでした。

訳書『バプテスト自由吟味者』がそれでした。
その牧師さんも、最近入手しておられました。





だが、今回の「ささやき」で、確信しました。
もし読まれていたとしても、全然わかっておられないんだなぁ~と。

そしてあらためて悟りました。

聖句自由吟味主義というのは、具体的に「どんな風か」を示さないと、理解されないものらしいなあ~と

そこで今回は、例を一つ示してみようと思います。

「ヨハネによる福音書」第1章に記録されている話です。




<ナザレからいいものが出るはずないよ!>

イエスは宣教を始めるに当たって、12人の弟子を迎え入れていきます。

順番に選ばれていく弟子の内の、4番目はピリポです。

そのピリポが是非弟子に、と誘うのが友人のナサニエルです。

ナサニエルは結局は5番目の弟子になるのですが、当初、ピリポから話を聞いた時には次のように応じています。

聖句をみてみましょう~。



・・・・・・・・・・・・
ピリポはナサニエルを見つけて言った。
「われわれは、モーセが律法の中で書き、預言したたちも書いている方に出会ったよ。
ナザレの人で、ヨセフの子イエスだ」
ナサニエルは彼に言った。
「ナザレから良きものが出ようものか」
     (ヨハネによる福音書、1章45-7節)
・・・・・・・・・・・・・




このナサニエルの態度について、通常は、こんな解釈(説明)がなされています~。

「ナザレのような遅れた貧しい田舎村から、そんな優れたモノが出るわけないじゃないか」とナサニエルは思ったのだ~と。

韓国ソウルでかつて、人類史初の100万人教会を作ったと自認されていた超有名牧師さんも、そう説教をしておられました。




<旧約聖書の預言に照らしてみると>

ですけど、それが唯一の解釈ではありません。
次のような解読も出来そうですから。

つまり・・・ナサニエルは、聖書の預言を意識に於いてそういったのだ~と。

代表的預言の一つは「ミカ書」という旧約聖書のなかの書物の次の聖句ではないでしょうか。




・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだ。
だが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になるものがでる。
その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである」(ミカ書、6章2節)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・




 ここで、ベツレヘム・エフラテは、聖都エルサレムの西南方向8キロほどの所にある地です。
地図では、エルサレムのすぐ左下に当たります。

 この当時、寒村でしたが、かつてダビデ王が生まれた町として知られ、別名「ダビデの町」とも呼ばれていました。

この『ミカ書』での「支配者」とは「救い主」を意味しています。
旧約時代、「救い主」とはダビデ王のような強い指導者だと、イスラエルの民は思っていました。

つまり、優れたリーダッシップをもって民を導き、良き支配をする支配者だと考えていた。

(この救い主は実は「人類の罪の代償を創る方」だと明かされるのは、新約聖書の時代です)

『エレミア書』の次の聖句も、これを支持しています。



・・・・・・・・・・・・・
 「その日わたしは、ダビデに一つの正しい若枝を起こす・・・」(エレミヤ書、23章5節)。
・・・・・・・・・・・・・




そのダビデの子孫から、救い主は出ると預言しているのですね。

+++

ナサニエルは、そうした預言書をよく知っていた。

それを踏まえて「聖書に預言された救い主は、ダビデの町、ベツレヘムから出るとされている」

   ~と確信していた。だから・・・

「ナザレの大工の子だって? ナザレからそういう存在が出るはずがないではないか・・・」

~といったのだ、・・・とこういう解読もできなくはないのですね。

(こちらの解読の、聖句文脈的整合性を吟味すると、自由吟味活動の有様はさらに具体的になるのですが、長くなるので別稿で示します)




<究極の正解は「人間には」わからない>

 解釈はまだあるかも知れません。
だが、ここではこの二つけだとしたら、どちらが正解でしょうか?

その答えは「人間にはつまるところはわからない」となるでしょう。

なぜなら、究極の正解かどうかは、聖書にある全ての聖句と整合しているかどうかをみなければ言えません。

ところが、聖書の論述範囲は膨大で、そこに含まれる聖句の示唆する範囲は膨大です。

これらすべてを論理的に整合させて、その全体系を把握することなど、人間の短い生涯ではとてもできないことです。

だから、ナサニエルのこの言動の解読も、究極的には、どちらが正解かは言えないのです。

+++

これはナサニエルの言動に限ったことではありません。
一般的に、どういう解釈も、それが究極的に正しい、とは人間には言えないのです。

裏を返せば、どの解釈も「それは間違いだとの断定」は人間には出来ないことにもなります。





<聖句解釈自由の原則>


米国南部のバイブルベルト地域では、それを体験的にも踏まえたうえで、独自な方法をとっています。

(実際にはそれはキリスト教発祥の初代教会の方式でもあり、彼らはそれを精神的祖先から2千年にわたって継承してきているのですが)

+++

どういう方法かというと、教会はまず、教会員個々人に聖句解釈の自由を与えます。

個々人はそれを受けて聖句を自由に解読します。様々な解釈が成り立ってきます。彼らはそれらを入念に聖句と照合し、吟味します。

次いでその見解を自分が属する小グループに持ち寄って、相互吟味し合います。
それを通して、他者の解読にも教えられます。

だが、つまるところは、その時点で最も正しそうに思う解釈を見出す。

そしてそれを、その時点での自分の聖句理解として生きていくのです。

これは、後にもっと妥当そうな解読が浮かんだら、それに修正するという前提を含んでいます。

(だから彼らはいつも聖句を吟味しています)

そして、またそれを踏まえて生きていく。

有限な人間はそうやって生きていくしかない、~と彼らは確信しているのです。





<個人の自由吟味を認めるところでは “異端”という思想は出ない>



ここで知るべきは、「この方式では“異端”という言葉は出ない」ということです。

なぜなら、異端とは「正統(究極に正しい)」という考えがあって初めて出る思想です。

だが人間の解釈に絶対正統というのがあるとは彼らは認めない。

だから「異端」という思想は出てこないのです。


この思想、この活動方式がキリスト教の源流で、それは今も巨大な流れとなっている。

これを知ったら、前記の主管牧師さんも解放されるでしょう。

「これが今この時点での俺の解読だ。この解釈が絶対に間違いなどと言える人間は、この世にいないのだ」と確信してのびのびと説教されていかれるでしょう。

余計な懸念に知的エネルギーを使うのは、もったいないことなのです。





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