イエスの弟子(使徒)たちの中で、ヨハネは特別な人でした。
彼は、『ヨハネの福音書』を書いていますが、学者的・神学的思考をする人でした。
その福音書には、イエスの言動の記録するだけではなく、彼自身の神学理論も書いています。
ヨハネの福音書のなかの聖句~
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「創造神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。
それは御子を信じるものが、ひとりとして滅びることなく、
永遠のいのちを持つためである。」
(ヨハネの福音書、3章16節)
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~は、有名ですが、これはイエスの言葉ではなく、彼自身の神学理論を記したものです。
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彼はイエスの言動を観察・記録するだけでなく、イエスという存在を存在論的・神学的に理解することを
切望していました。
たとえば、十字架上で息を引き取ったイエスの脇腹を、兵士が槍で刺す場面があります。
そのときイエスの身体から「血と水」が出ました。
彼はそれを自分は間違いなく見たのだ、と念を押すように書いています~。
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「・・・兵士のひとりがイエスの脇腹を槍で突き刺した。
すると、ただちに血と水が出て来た。
それを目撃したものがあかしをしているのである。
そのあかしは真実である。
その人が、あなた方にも信じさせるために、
真実を話すということをよく知っているのである。」
(ヨハネの福音書、19章34-35節)
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~ここでヨハネが「それを目撃したもの」というのは、自分のことです。
その「あかし」というのも、自分の証言です。
ヨハネは、自分でそう言っておいてさらに「そのあかしは真実である」と自分でダメ押ししています。
のみならず、「その人(実は自分のこと)が真実を話すということをよく知っている」
と、また自分で言っています。
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どうしてそれまでにしていうか。
この出来事が幻でなく、現実に起きた出来事である、ということを確かなものにしようとしたのです。
そのうえで「血と水がでたのはなぜか」を知ることを切望したからです。
(人間の身体なら、血だけが出ます)
(人間の身体なら、血だけが出ます)
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彼は、イエスとは、「イエスの身体とは何なのか」を、存在論的に知りたかった。
それを何年も考え続け、霊感を受けて、ついに答えをえました。
結論を、福音書を書く時点になって自らの福音書の冒頭に書きました。
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「はじめにロゴス(創造神の理法)があった。
ロゴスは創造神とともにあった。
ロゴスは創造神であった。
すべてのものは、この方によってつくられた。
このかたによらずにできたものは一つもない」
(ヨハネの福音書、1章1-3節)
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ヨハネは、イエスは「創造神の理法(ロゴス)の具現体」だと認識するに至ったのです。
そして、それは結果的に、今日聖書を読むものにとってのイエスの存在論になっています。
われわれ福音書を読むものは、これをベースにして、イエスという「存在」を認識して解読しているのです。
(そこまで考えないで福音書や『黙示録』を読んでいるものも少なくはありませんが)
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以上を心に留めて、天理教の教義を、今少し詳細に見てみましょう。
実は、天理教の教祖、中山みきは、信徒に親神を説明する前に、まず
「南無(なむ)天理王の命(みこと)」という言葉だけを唱えさせています。
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その意味は以下のごとしです~。
「南無」は「南無阿弥陀仏」の「南無」で「頼ります」という意味です。
「天理」とは(天の理法が具現した存在)です。
そして、その方は創造主(親神)であって、創造者はすべての被造物の上位の存在であるから、
一口に言えば、「王」です。
「命(みこと)」は、尊い方につける尊称で、「・・・様」と解していいでしょう。
つまり、
「南無天理王の命」は、「天理王様に頼ります」です。
教祖は最初に、「天の理法の具現体である、天理王様に頼ります」という言葉だけをまず信徒に、繰り返し唱和させよという啓示を得ているのです。
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これを、ヨハネのイエス認識とならべ比べてみましょう。
ヨハネは、イエスを「創造神のロゴス(天の理法)の具現体」といっています。
中山みきは、(親神を)「天の理法(天理)の具現体」だといっています。
両者はほとんど同質的な認識です。
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驚くべきことです。
一体、ヨハネより1800年も後の幕末の日本で、中山みきにこの認識を与えたのは、誰なでしょうか。
創造神なのか。 イエスなのか。 あるいは天使なのか。
そもそも、天理教とは一体何なのでしょうか?
聖書の福音とならべて、どう解したらいいでしょうか。
筆者鹿嶋が得た当面の考えを、心に浮かぶままに次回から記してみようと思います。
(続きます)