~~斉藤さんからメールでのコメントをいただきました。
許可を得て、ここに転載させていただきます。
春平太先生、みなさん、こんにちは、齊藤です。
ブログですと、その場で軽いコメントをつけるには便利ですが、
少し長くなると書きにくいので、ここはメールにします。
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Vol.13より
文書の間で、細部にわたったところの描写に多少の
不一致があるのは、それは自然なことなのです。
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Vol.14より
聖句の金網も、字面を絶対の真理としたら、焼け火箸の
ようになります。
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ではどうしたらいいか。内容のつながりを読みます。
そのつながりとは、別の言葉で言うと「本筋」です。
聖句には、細部において一致しないところがありますが、
ありがたいことに、本筋においては、信じがたいほどに
首尾一貫しているのです。
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たとえば、ルカ福音書14章25節から35節までなどは、
これを考えるいい例ではないかと思います。
最近、他で考える機会がありましたので、本MLでも紹介させて
いただきます。
まず、口語訳から引用します。
25:大ぜいの群衆がついてきたので、イエスは彼らの方に向いて
言われた。
26:だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも
捨てて、わたしのもとに来るのでなければ、わたしの弟子となる
ことはできない。
27:自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、
わたしの弟子となることはできない。
28:あなたがたのうちで、だれかが邸宅を建てようと思うなら、
それを仕上げるのに足りるだけの金を持っているかどうかを
見るため、まず、すわってその費用を計算しないだろうか。
29:そうしないと、土台をすえただけで完成することができず、
見ているみんなの人が、
30:『あの人は建てかけたが、仕上げができなかった』と言って
あざ笑うようになろう。
31:また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えるために出て行く
場合には、まず座して、 こちらの一万人をもって、二万人を
率いて向かって来る敵に対抗できるかどうか、考えて見ないだろうか。
32:もし自分の力にあまれば、敵がまだ遠くにいるうちに、
使者を送って、和を求めるであろう。
33:それと同じように、あなたがたのうちで、自分の財産をことごとく
捨て切るものでなくては、わたしの弟子となることはできない。
34:塩は良いものだ。しかし、塩もききめがなくなったら、何によって
塩味が取りもどされようか。
35:土にも肥料にも役立たず、外に投げ捨てられてしまう。
聞く耳のあるものは聞くがよい。
さて、26、27節は、まさに「焼け火箸」です。
ここだけを取り出してみますと、
世間と一切、縁を切って、決死の覚悟でついてこい!
とでも言うような調子でしょうか。
それに対して、28~32節は、建築費用の積算とか
軍事シミュレーションとかの話になり、要は、冷静に考えて
目標(敵)を知り己を知った上で、合理的に事を進めよと
言っているわけでして、まるで正反対の説教です。
そして、33節では、また「焼け火箸」的表現に戻ります。
「それと同じように」と言っても、どこがどう同じなのか。
さらに続く34、35節も、内容的にどうつながるのか、
首をかしげたくなります。
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こんな風に、字面から追っていみますと、それぞれの言葉は
確かに、それだけなら理解できるのです。
しかし、全然つながらないという印象を受けます。
それでは、本筋はどうなるのでしょうか。
わたしなりにトライしてみます。
まず、イエスは、創造主の御子ですから、イエスに従うということは
創り主のみこころに沿って生きることになります。
そのためには天の父なる存在がどんな方であるのか、どんな属性を備えて
いらっしゃるかを、理性にもとづき、よく知っておく必要があります。
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そもそも、創り主の前では、すべてが創られたもの、被造物でしかない。
自分自身がそうですし、周囲の人々、自分の持ち物一切そうなってしまう。
そして、被造物に心が奪われてしまう、つまり、イエスよりも、
それらに心がとらわれてしまっては、イエスに従うことはままならなく
なるでしょう。
マタイ17章37節に言われている通りです。
わたしよりも父または母を愛する者はわたしにふさわしくない。
わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。
そういう意味から、 ”財産をことごとく捨て切るものでなくては”、
イエスの弟子となれないということになります。
熱意や覚悟だけではなくて、冷静に考えた結果、そういうことになる。
たとえば、26、27節を受けて、熱意や覚悟だけでついてくる人なら、
「土台をすえただけで完成することができず、」 という羽目に
なりそうです。
また、32節については、相手が創り主であると知ったら、はなから勝負に
なりませんので、イエスにとりなしていただき、和解を求めることを
喩えているように思えます。
34節の「塩もききめがなくなったら、」云々とあるところはどうでしょうか。
”ききめのなくなった塩”というのは、創り主に全く心が向かなくなった
状態を指すのではないかと今のところ考えています。
そうなると手の施しようがない状態とでも言いましょうか。
そうならないため、イエスは、マルコ9章50節で、
あなた自身の内に塩を持ちなさい。
と警告されています。
わたしの考察は以上ですが、みなさんから、もう少し深い読み方、
本筋に近いヒントでもいただければ幸いです。
~~~鹿嶋も見解を記させていただきますね。
ここは聖書の鉄則「天(創主の統べ治める世界)と世(悪魔の支配する世界)とは絶対的対立関係にある」を下敷きにすると、すべて一つのことを言っているように解せそうではないでしょうか。
イエスにつくというのは天の論理で生きると言うことですよね。そこでイエスについていけば、いずれ、世と絶対的に対立するようになるわけです。
ここでは親も兄弟も「世の側で世的に生きている」ことが前提になっています。だから、いずれ親兄弟とも敵対関係にならざるを得ないわけです。
(徹底してイエスについていきますと、なんと、親兄弟もその人に対して、心の底でかすかながらも憎しみを抱くようになる、人間や世界はそうできているというのが聖書の教えるところです。これはですね、日本では聖霊を受けると体験する機会を持ちやすいのではないでしょうかね。牧師さんでさえ(受けられていない場合)対立してくることがある)
「俺についてくるなら、そういう風に、行き着く先を見通して、ついてきてくれ」とイエスはここでは本質を語っているんですね。
~~家を建てるとき、土台だけでなく、上物の費用も計算し尽くしてから建設にはいる、というものそうですね。
~~戦で相手と自分の力の差を冷静に読み、和解するのも、行き着く先を読み尽くしている例です。
~~で、最後の、塩味というのは、天の側についたときのその人の味わい、と言ったらいいでしょうか。イエスに付き従うというのは結局は、天の側に付くことです。そのときは塩味がある。しかし、そうできないで、「やっぱり世がいいわい」と世にもどっていく場合は、創主からしたら塩味(天の風味)がなくなる、ということですね。
~~ですから、ここは、天と世との絶対的な対立を背景に、イエスにつくというのは、天の側につくことだ、ということを、様々な面から言っている、ということになります。
~~これが鹿嶋の解読ですが、とにかく、こういう風に、互いに解読を提供し合って、検討し合うようなスモールグループが毎週教会でもてたら、ホントにいいですね。これなら知的なビジネスマンもあきれて帰ることなくなるでしょう。