鹿島春平太チャーチ

「唯一の真の神である創造主と御子イエスキリスト」この言葉を“知っていれば”「天国での永生」は保証です。

Vol. 21 「百ゼロ思考」

2005年12月07日 | 「考える宗教」へ



 聖書はかくも素晴らしい討究素材であり知力向上教材なのに、信仰者になっても聖句の門に踏み込まない人が内村、新渡戸らの例外を除けばほぼ皆無なのはどうしてでしょうか。今日からは、どうして日本人はそうなるか、を考えましょう。


                   


 実は門前均しをする人にも、門の入り口で「こんな本には真理はないよ」と叫んでいる人にも、両者に共通したものがあるのです。

 それは、ものごとを100%とゼロ%とで考える習性です。英語ではこれを「オール・オア・ナッシング」の考え方と言いますから、鹿嶋は日本語の名前を付けましょう。

 曰く・・・・「百ゼロ思考」
 でも、日本語の語感としては「ゼロ百」の方がいいかな? まあ、両方使うことにしましょう。

+++

 日本人には歴史的に、この思考方式に縛られる人が多いのです。この考え方の対極にあるのは、「確率思考」です。ものごとを、百かゼロかで考えるのでなく、何パーセントかと可能性を考える考え方です。

 宗教分野ではとりわけ、この「百ゼロ思考」にひとは縛られやすいです。そこにはみえない世界の論理が含まれていますし、この論理が中核になっていますからね、宗教では。

 だから「お前は信じるのか信じないのか」と問う。あるいは自分に対しても「私は信じようか信じないでおこうか」と自問する。そうなりやすいです、宗教では。

 だけど、この分野にだって確率思考は出来ますよ。みえない世界の論理に対してその「確からしさ」を問うということは可能です。あるいは洗礼を授けられて「あなたは信仰者です。おめでとう、おめでとう」といわれても、「いまこの論理に対する私の信頼感は何パーセントくらいかなあ・・・」と考えることは出来る。

+++

 聖書という書物が「創主からの真理のメッセージを記した本」といわれても、「人間が文字で記録したのだから、100%それを記録出来てることはないだろうな・・・」とか「人間が受信したんだからまあ、その何パーセントかを含んでいるだろうなあ・・・」と考えることは出来ます。

 こういうと「不信仰者!」とか「異端!」とかいう金切り声がニッポンキリスト教の方から飛び出しそうですが、まあ、好きなようになさればいいでしょう。だけどあなたと私との違いは、信仰者、不信仰者という「百ゼロ」の違いではありませんよ。


                    


 あなたと同様に私も、聖書という書物に信頼を置いているのです。同じ信頼者ですよ。ただ、あなたの思考法が「百ゼロ方式」であって、私が「確率方式」であるだけですよ~~鹿嶋はそう考えています。

(続きます)


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Vol.20 「国も企業もスモールグループ制で強くなる」

2005年12月06日 | 「考える宗教」へ




<歴史が示すもの>

 スモールグループの聖書討議方式が盛んになる地域では、
人民の知的レベルが急上昇し、精神も活性化するようです。


                              



 学問芸術の花が開き、発明発見が相次ぎ、国力も上昇し、結局最強の国となる。
18世紀の英国であり、20世紀以降の米国がそれであるようにみえます。

 どの国でも、活力があって強い国になりたいでしょう。
人類もそういう社会にあこがれるでしょう。
その秘訣は技術的には、意外に簡単だったようです。
それは、スモールグループでの聖書討議会が自然に作り上げていくようです。

<QCサークルもスモールグループ活動>

日本企業のQCサークルは、スモールグループ活動の「もの作り版」です。

職場のもの作りの場に、米国南部の聖書探求方法を援用したものだとみることができます。
それによって、日本の企業人に知的活力が成長することを理解できます。

 実は、トヨタ方式の力の源もここにあります。
だから従業員の知的活力世界一の企業になったのですね。

 だけどこういう機会は、トヨタという会社に入った人だけに与えられますよね。
またテーマが自動車生産作業に関わることに限られます。社会のみんなに、ということにはなりません。


                  


 聖書のテーマは、生きとし生けるものみんなにとって基本問題であるモノです。
人間なぜ生きるか? 自分はどうしてここにいるか? 死んだらどうなるのか? 
みんながエンジョイしうるのはやはり、聖書サークルでしょうね。

       (続きます)

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Vol. 19 「聖書以上の素材はなさそう」

2005年12月05日 | 「考える宗教」へ
~~「鹿嶋春平太チャーチ」にようこそ。

 一つの殻、一つの解釈に結果的に閉じこもってしまうことにならないで、
かつ、互いに他者の見解に対する意見を双方向的にやりとりできるには、
6人ぐらいの小グループが最適である~~前回、そう申しました。


                          

 ではそのときに素材とすべき最適な書物は何か?
 それは聖書だろうと鹿嶋は判断しています。

 毎回、色んな角度から見解を取り交わせるには、そういう検討が可能になるには、
そういう条件を持った素材としての本が必要です。
そして、一つの本の多くの部分で、解釈が様々に出て、
しかも、それらが似たようなものでなく、互いが驚くほどに予想外で、
かつ、各々にもっともな筋が通るものであることが必要です。

 鹿嶋にはそういう書物は、聖書以外にみあたらないのです。

 この書物をスモールグループで討議しあう。
一つの正しい解釈を得ることを目的としないで、結論めいたことに至らないままで会を閉じる。
そういう知恵のものに、自由に討議する場を持つ。

 ~~これが人間の知性を活性化する最高の方法であって、
これ以上に人の知性を活性化する方法はないように感じます。


(続きます)

                     

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コメント4:「ルカ伝の斉藤解読」

2005年12月04日 | 「考える宗教」へ
~~斉藤さんからメールでのコメントをいただきました。
許可を得て、ここに転載させていただきます。


                                 


春平太先生、みなさん、こんにちは、齊藤です。


ブログですと、その場で軽いコメントをつけるには便利ですが、
少し長くなると書きにくいので、ここはメールにします。



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
Vol.13より

文書の間で、細部にわたったところの描写に多少の
不一致があるのは、それは自然なことなのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

             

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
Vol.14より
聖句の金網も、字面を絶対の真理としたら、焼け火箸の
ようになります。
  ・・・・・・・・
ではどうしたらいいか。内容のつながりを読みます。
そのつながりとは、別の言葉で言うと「本筋」です。
聖句には、細部において一致しないところがありますが、
ありがたいことに、本筋においては、信じがたいほどに
首尾一貫しているのです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

                



たとえば、ルカ福音書14章25節から35節までなどは、
これを考えるいい例ではないかと思います。
最近、他で考える機会がありましたので、本MLでも紹介させて
いただきます。

まず、口語訳から引用します。

25:大ぜいの群衆がついてきたので、イエスは彼らの方に向いて
  言われた。
26:だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも
  捨てて、わたしのもとに来るのでなければ、わたしの弟子となる
  ことはできない。
27:自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、
  わたしの弟子となることはできない。

28:あなたがたのうちで、だれかが邸宅を建てようと思うなら、
  それを仕上げるのに足りるだけの金を持っているかどうかを
  見るため、まず、すわってその費用を計算しないだろうか。
29:そうしないと、土台をすえただけで完成することができず、
  見ているみんなの人が、
30:『あの人は建てかけたが、仕上げができなかった』と言って
  あざ笑うようになろう。
31:また、どんな王でも、ほかの王と戦いを交えるために出て行く
  場合には、まず座して、 こちらの一万人をもって、二万人を
  率いて向かって来る敵に対抗できるかどうか、考えて見ないだろうか。
32:もし自分の力にあまれば、敵がまだ遠くにいるうちに、
  使者を送って、和を求めるであろう。

33:それと同じように、あなたがたのうちで、自分の財産をことごとく
  捨て切るものでなくては、わたしの弟子となることはできない。

34:塩は良いものだ。しかし、塩もききめがなくなったら、何によって
  塩味が取りもどされようか。
35:土にも肥料にも役立たず、外に投げ捨てられてしまう。
  聞く耳のあるものは聞くがよい。


                


さて、26、27節は、まさに「焼け火箸」です。
ここだけを取り出してみますと、
世間と一切、縁を切って、決死の覚悟でついてこい!
とでも言うような調子でしょうか。


                

それに対して、28~32節は、建築費用の積算とか
軍事シミュレーションとかの話になり、要は、冷静に考えて
目標(敵)を知り己を知った上で、合理的に事を進めよと
言っているわけでして、まるで正反対の説教です。

そして、33節では、また「焼け火箸」的表現に戻ります。
「それと同じように」と言っても、どこがどう同じなのか。

さらに続く34、35節も、内容的にどうつながるのか、
首をかしげたくなります。


+++


こんな風に、字面から追っていみますと、それぞれの言葉は
確かに、それだけなら理解できるのです。
しかし、全然つながらないという印象を受けます。


それでは、本筋はどうなるのでしょうか。
わたしなりにトライしてみます。

                


まず、イエスは、創造主の御子ですから、イエスに従うということは
創り主のみこころに沿って生きることになります。

そのためには天の父なる存在がどんな方であるのか、どんな属性を備えて
いらっしゃるかを、理性にもとづき、よく知っておく必要があります。


+++

そもそも、創り主の前では、すべてが創られたもの、被造物でしかない。
自分自身がそうですし、周囲の人々、自分の持ち物一切そうなってしまう。
そして、被造物に心が奪われてしまう、つまり、イエスよりも、
それらに心がとらわれてしまっては、イエスに従うことはままならなく
なるでしょう。

マタイ17章37節に言われている通りです。

  わたしよりも父または母を愛する者はわたしにふさわしくない。
  わたしよりもむすこや娘を愛する者は、わたしにふさわしくない。
  
そういう意味から、 ”財産をことごとく捨て切るものでなくては”、
イエスの弟子となれないということになります。 
熱意や覚悟だけではなくて、冷静に考えた結果、そういうことになる。

たとえば、26、27節を受けて、熱意や覚悟だけでついてくる人なら、
「土台をすえただけで完成することができず、」 という羽目に
なりそうです。

また、32節については、相手が創り主であると知ったら、はなから勝負に
なりませんので、イエスにとりなしていただき、和解を求めることを
喩えているように思えます。

                    


34節の「塩もききめがなくなったら、」云々とあるところはどうでしょうか。
”ききめのなくなった塩”というのは、創り主に全く心が向かなくなった
状態を指すのではないかと今のところ考えています。
そうなると手の施しようがない状態とでも言いましょうか。

そうならないため、イエスは、マルコ9章50節で、
  
  あなた自身の内に塩を持ちなさい。

と警告されています。

                  

わたしの考察は以上ですが、みなさんから、もう少し深い読み方、
本筋に近いヒントでもいただければ幸いです。








                         


~~~鹿嶋も見解を記させていただきますね。

 ここは聖書の鉄則「天(創主の統べ治める世界)と世(悪魔の支配する世界)とは絶対的対立関係にある」を下敷きにすると、すべて一つのことを言っているように解せそうではないでしょうか。

 イエスにつくというのは天の論理で生きると言うことですよね。そこでイエスについていけば、いずれ、世と絶対的に対立するようになるわけです。
ここでは親も兄弟も「世の側で世的に生きている」ことが前提になっています。だから、いずれ親兄弟とも敵対関係にならざるを得ないわけです。

 (徹底してイエスについていきますと、なんと、親兄弟もその人に対して、心の底でかすかながらも憎しみを抱くようになる、人間や世界はそうできているというのが聖書の教えるところです。これはですね、日本では聖霊を受けると体験する機会を持ちやすいのではないでしょうかね。牧師さんでさえ(受けられていない場合)対立してくることがある)


 「俺についてくるなら、そういう風に、行き着く先を見通して、ついてきてくれ」とイエスはここでは本質を語っているんですね。


~~家を建てるとき、土台だけでなく、上物の費用も計算し尽くしてから建設にはいる、というものそうですね。

~~戦で相手と自分の力の差を冷静に読み、和解するのも、行き着く先を読み尽くしている例です。


~~で、最後の、塩味というのは、天の側についたときのその人の味わい、と言ったらいいでしょうか。イエスに付き従うというのは結局は、天の側に付くことです。そのときは塩味がある。しかし、そうできないで、「やっぱり世がいいわい」と世にもどっていく場合は、創主からしたら塩味(天の風味)がなくなる、ということですね。


~~ですから、ここは、天と世との絶対的な対立を背景に、イエスにつくというのは、天の側につくことだ、ということを、様々な面から言っている、ということになります。

~~これが鹿嶋の解読ですが、とにかく、こういう風に、互いに解読を提供し合って、検討し合うようなスモールグループが毎週教会でもてたら、ホントにいいですね。これなら知的なビジネスマンもあきれて帰ることなくなるでしょう。


                       

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コメント3:「聖句の探求とは (SAITOH)」

2005年12月03日 | 「考える宗教」へ

~~「鹿嶋春平太チャーチ」にようこそ。

本日は斉藤さんからいただいていた「聖句の探求」に関するコメントを、ここに転載させていただきます。

なかなか考えさせられるコメントですね。


                              


春平太先生

聖句を探求する姿勢、方法を明確にしていただきありがとうございます。

前提として、聖書という書物全体に、創造主の発信したメッセージが織り込まれているという「信頼」がなければならないということがよくわかりました。

「信仰」というより、むしろ、日本語だと「信頼」の方が近いという指摘も納得できます。


+++


創造主への「信頼」はもちろんなのですが、わたしは、もう一歩進んで、すべてを大いなる仮説と考える姿勢もあるのかなと考えています。 

聖書には、創り主の発信したメッセージが詰まっているという仮説に立って、それの検証を進める態度です。

つまり、聖句の探求は、仮説を立証するための検証作業ということになります。
不完全な形で随所に埋め込まれている聖句を、聖書のあちこちをひっくり返しながら拾って、つき合わせて、創り主の伝えようとしたメッセージ、真理の全体をつかもうと試みる作業ですね。


                      


なにやら、思考実験とも、論理思考トレーニングとも、壮大な推理小説を読むようなイメージともいえるでしょうか。

~~とても健全で、かつ知性活性化に有効な試みになると感じます(鹿嶋)。
  
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Vol.18  「聖句探求と小グループ討議の関係」

2005年12月02日 | 「考える宗教」へ

聖書ほど多様な解釈が生まれうる本は、他にないんではないかと思います。

 たとえば旧訳聖書の創世記(3章21節)に、「エデンの楽園を出て行くアダムとイブに、創造主は革の衣を作って着せた」という記述があります。

 これがどういう意味をもっているかは、いろいろ考えられます。


                              

第一は簡単で「これは創主の人間への愛を示している」というもの。
 この解釈は日本で一番多く、99%がこれではないでしょうか。

+++

第二は「以後、二人には獣性が表に出てくることを創造主は示した」というものです。

 罪を犯してその霊が力を失ったアダムとイブには、肉体の欲求・衝動が霊の力を上回るようになりました。従来は、霊に活力があったので、肉体の欲求は霊の要求に従属していたわけですが「今後はそうではなく、動物と同じように、肉体の欲求が前面に出るよ」と創主が示した、というものです。

+++

第三は「将来、人間のために将来(イエスによって)血が流されることを、予表した」
というものです。

 つまり~~動物の皮を着せるには、動物を殺さねばなりませんよね。で、動物を殺して皮をとれば、血が流れます。それが「将来、イエスが現れて、人間の罪の効力を消すために、血を流すことを早くも予表している」~~といいうわけです。ベニーヒンはこういう解読をしています。

+++

この3つは、各々もっともだと筋が通ります。しかも互いに大変離れた距離にある。すりあわせ照らし合わせれば、ある見解が他の見解を間違いだと論理的に悟らせてくれるようなものでもなさそうです。

 だから、一人で聖書を読んでいると、その一つにとどまりやすいです。一生その一つの解釈に留まることも多いでしょう。

 その場合、解釈者は独りよがりになりやすいです。独りよがりは、独善に通じやすく、さらには傲慢につながりやすいです。

+++

 でもこれを救う方法もあります。それは複数で集まって、見解を提供しあえる場を作ることです。こういう場で互いの意見を持ち合えば、複数の見解を同時にみんなで知りあうことが出来る。

 その際、ただ他者の見解を知るだけでなく、互いに議論を交わせたさらにいいですね。そうすると、個々の解釈を深く認識することが可能になります。

 それを可能にするのは、数人程度のグループでしょう。経験的には6人くらいが最適なようです。そうすると、聞きっぱなしの一方通行ではなく、意見を交わしうるようになるのですね。

 これを米国の南部ではスモールグループと呼んで、実行しています。

+++

 ただし、ただ少人数で集まればそれでいいというものでもないようです。複数の解釈を平等に知れるようにするためには、みんなが自由に発言できるようにしないと難しいです。そしてそのためには、討議で正しい解釈を一つに定めることを目標にしないことが肝要です。

 一つに定めようとすると、実際の話、それでもって他者を裁いてしまうことになりやすいのです。それが予想されると、メンバーは自分の意見を出せなくなります。
また、裁くまでには行かないにしても、見解を一つにしぼることを目的にしても、徐々にある一つの意見を退けていくことになる。この過程をとるとやはり、各々の解釈を自由に披露するのに障害がでるのですね。


                     

 そこで、ルールを作ります。
会が終わった時点においても、正しい一つの解釈がえられることを求めない。
会が終わりに近づいても、結論めいたことは言わない。
複数の意見が併存した状態のままにして、会を閉じる。
          ~~こういうルールです。

 ~~米国南部では、もう慣習的になっていますのでこれは暗黙のルールでしかありません。ですけれども、初めてする地域では明示した方がいいような感じがします。

(続きます)

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Vol.17 「青年よ大志を抱け!」

2005年12月01日 | 「考える宗教」へ


 日本の福音活動の多くは、門前ならしであることを示してきました。
 だがどの世界にも例外はいます。


                                 


 「青年よ大志を抱け」で有名な、クラーク博士の門下生はそれでしょう。
 内村鑑三、新渡戸稲造、矢内原忠雄らはその系統で、彼らはスモールグループでの聖書解読を活動の中核に据えました。

 たまたまクラークのもとにこういう才能が集まった?
そんなことないでしょう。

 聖書の解読議論をグループで続けると、信頼感(信仰)のみならず、知性が急速に活性化するのです。その結果こういう才能として花開いているのです。



                     

 彼らをこのスモールグループ手法に導いたクラークとはどういう人でしょうね。その米国での福音履歴に鹿嶋はとても興味を覚えました。で、情報収集にちょっと努めたのですが、いまのところわかっておりません。

 アメリカの有名人と日本の有名人とはちがうんですね。(邦訳聖書を作ったヘボンもアメリカでは平凡な一宣教師みたいですしね)

 聖句探求主義の土壌から出た人に違いない、との確信は持っていますけれど・・。
 ご存じの人おられましたら、教えてください。


(続きます)
                     
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Vol.16 「“信”なくば立たず」

2005年11月30日 | 「考える宗教」へ

チャーチにようこそご訪問下さいました。

 前回の続きです。
 聖書は「本筋を読む本」です。
    文脈と言った方がいいかな? とにかくそういう本です。

                              


 本筋の骨子がある程度把握できたら、それが聖霊と共鳴するのを待ちます。その共鳴によって感知されたもの、霊感でキャッチされたもの、それが人間が聖書に求める絶対の真理なのでしょう。

+++

本当にそんなものに出会えるか?
 それはもう、各々やってみなければわかりません。
 
 わからないにもかかわらず「やってみる」なんて出来るか? 「そこに真理がありそうだ」という信頼感があるときにはそれは可能になるでしょう。その感覚が出発点においてなければ成り立たない。

 まさに「信なくば立たず」です。


                       

 その信頼感が世に言う「信仰」の実体だと鹿嶋は思います。
 信頼は出発点では、「聖書に対する信頼の感覚」です。そういう感覚をもっていて聖句の門の内側で活動していると、それは深まり成長していくんですね。

(続きます)
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コメント2:くりまんサンからも

2005年11月29日 | 「考える宗教」へ

~~斉藤さんのコメントのページに、くりまんサンからもコメントが入りました。

 「読む人いないのでは・・・」と心配していたところに、「読んでるよ」との信号が二人もの人から入ると、単純な鹿嶋はまるで一グループの同志がいたような気になりました。

 くりまんサンには、以前に了承いただいておりましたので、これも本文に転載させていただきましょう。


                              



Unknown (くりまん) 2005-11-28 20:24:58

こんにちは。いつも更新を楽しみにしております。

 日本の多くの教会において、「証し」は信じて受洗した時のものを歌手の「一発ヒット曲」のようにその後何年も語り継いでいく傾向にあるように思います。

 一部の教派においては、救いをうけた後の「聖霊のバプテスマを受けた証し」や「癒しの証し」等がみられますが、現状ではこれらを堂々と証しするのは、牧師さんに遠慮してむずかしいのではないのでしょうか? 

+++

 そこで救われた後の証しは、教会内での活動をとおしてのものや、日常生活において「神を意識した出来事」などのあたりさわりのないものが中心になっているように思います。これらのものは「証しをするための」証しのようなものも多く、「神は付け足し」のようです。

                             


 救いを受けた後、牧師さんを含めて、何を追及したらよいのかわからず、社交サロン化してしまっている教会が多いのではないのでしょうか? 

~~う~ん、言われて気づきました。意図的ではない、「何を追求したらよいのかわからないから・・」だったのですね。これを誰かが明確に示さなければなりませんねえ。


                    


 私自身、未信者だった頃、罪責感の中で苦しそうに祈っている先輩方を見た時、「救われるのは死ぬ間際でいいや~」と思ったものでした・・・(苦笑)。

~~う~ん、これもまた痛烈。「痛烈大賞コンテスト」もうけたら、斉藤さんとトップを争いそうだなあ・・。(鹿嶋)


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コメント1:”証しゴッコ” に絶句

2005年11月28日 | 「考える宗教」へ

~~本日も「鹿嶋春平太チャーチ」にようこそ。

斉藤さん、というかたから、Vol.2「門前活動に留まってしまう」についてのコメントをいただきました。
読みやすくするために、本文の方に表示させていただきます。
ご本人からの了承を得ています。

 理屈っぽい話が続きますので、読む人なんかいないのではないか、と懸念しておりました。読んでくださっている方がおられると知って、ほっとしました。
 

                              


春平太先生

ついて行くだけで息を切らせていますが、読んでいることを知ってもらうため、たまには感想ぐらい書くようにします。

”証しゴッコ”と言い表されていますが、これ、強烈ですね。なんとなく、教会の実情が想像できてしまう気がするのです。

+++

もともと、わたしは、”あかし”というのは、洗礼の儀式で行われる、大学で言えば卒論発表にあたるようなものだと思っていました。

研究者の道を歩む人なら、卒論は、研究の出発点でして、ゴールではありません。 それと同じく、受洗することは、どう考えても信仰のゴールではなくスタートなのですから、それ以降は、ゴールを目指して進まねばならないはずです。

ところが、自分がスタートしたあと、すぐ観客席に戻って後続の人たちがスタートするのを観戦したり、あるいは、次の人が無事にスタートできるためのお手伝いに走り回ったりしていたらどうなるでしょうか。

なんだか滑稽を通り越した図式ですが、本人は、決してふざけているわけでなく、大真面目でやっているだけに笑う気にはなれないのです。

+++

ある人から聞いた話を思い出しました。
冗談かどうかわからないのですが、死ぬ間際になってから、病床洗礼を受けて、人生の一発逆転を狙うような考えの人がいるそうです。 

もしも、受洗することを、あたかもゴールだと考えてしまうなら、それで何の問題もないことになります。

                    

 
もしかして、洗礼を受けられた周囲の方々のその後の様子を見て、これだったら後回しにしてもかまわないだろうと思われたのかもしれませんね。

~~う~ん、この最後の一文も、鹿嶋に劣らず強烈だなあ・・・(春平太)。
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Vol.14 「字面は焼け火箸にもなる」

2005年11月27日 | 「考える宗教」へ



 前回、真理とは言葉の外枠をガイドにして感知される霊であると言いました。

 なのに、聖句という言葉の字面が、絶対の真理とするとどうなるかを、今回は考えましょう。


                              

 言葉は、外枠としての金網でしたね。これ自体を真理だと見なすと、その金網が真っ赤に熱せられたような状態になるのです。

 かな(金)火箸、というのをご存じですか?
 火のついた炭などをつかんで取り出したりする時に使う、金属で出来た箸です。
 これを火の中に入れておきますと、熱くなって真っ赤になります。

 これを「焼け火箸」といいます。
 もう熱くて使えません。距離を置いて見ているしかない。
 触ったらやけどして、水ぶくれになります。
 もう、怖くて触れない。

 たとえば、前述したイエスの言葉ですね。「もし右の眼が罪を犯したら、その眼をえぐり出して捨てなさい・・・・」云々の命令の言葉。これなど字面のみをとったら、焼け火箸ですよね。

 聖句の金網も、字面を絶対の真理としたら、焼け火箸のようになります。
 真っ赤に燃えた焼け金網になる。
 一度触ったらもう、怖くて触れなくなります。

 字面を絶対真理としたら、聖句はそういうものになってしまいます。
 そうなると、もう聖句の門の中に踏み込んでいこうという気にならなくなります。

+++

 ではどうしたらいいか。内容のつながりを読みます。そのつながりとは、別の言葉で言うと「本筋」です。聖句には、細部において一致しないところがありますが、ありがたいことに、本筋においては、信じがたいほどに首尾一貫しているのです。

 それを見つけ出そうとしていくのです。その際、留意すべきことがあります。それは「個々人が、各々のペースで、各々の回路で探り出していく」ということです。

 聖書の世界は飛び抜けて深いです。みんな、そういう個々人ベースでしか「納得ある理解」には至れないのです。これについては後にもう少し詳しく考えましょう。

    (続きます)

                    


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Vol. 13 「基本骨子は一貫している」

2005年11月26日 | 「考える宗教」へ


 「鹿嶋春平太チャーチ」へようこそ。

今日はこれまでの話をまとめてみまましょう。

                              
        


 鹿嶋は、聖書に人間の言葉で記されている聖句は、外枠であり金網でしかない、と考えてきました。

 もちろん、その金網は、天の創主の思いにかたどられた独特の形状を持っています。そして、その金網は永遠不滅のもので出来ています。形状も変化しないし、不滅です。

 けれども、外枠はやはり、中身の霊を霊感でもって認知させるためのガイド(案内)であり「手がかり」なのです。

 絶対の真理の本体は、その中身の霊である聖霊なのです。そしてそれは、雰囲気という「気」としてのみ感知できるものです。

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 それが雰囲気(より正確にはオーラ)として霊感の豊かな人に与えられた。あるいは言葉で与えられることもあった。が、ともかく旧約の預言者や新約の使徒たちはそれをキャッチしました。 そして文字に書き留めました。

 だけど、彼らの霊も、この世では肉体の中に閉じこめられている霊です。
 罪を犯す前の「はじめのアダム」は、肉体の影響を受けないほどに強い霊でした。だが、「あとのアダム」やその霊を受け継いだ人類の霊からは、力が減退しています。

 だから、霊感でもって受信すると言っても、やはり、多少のバイアス(ずれ)が生じる。これは自然な、法則通りなことなのですね。

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 言葉の限界もあります。

 創造主からのメッセージには、言葉として与えられていないものもあります。映像(まぼろし)もその一つで、「ヨハネの黙示録」などではそれがたくさんあります。

 そういう言葉でもって受けていないものについては、ヨハネは言葉にする必要がありました。

 人間の言葉は有限です。
 霊感を言葉に置き換える能力も、有限です。
 そういう文書が集めて納められたのが聖書です。文書の間で、細部にわたったところの描写に多少の不一致があるのは、それは自然なことなのです。

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 けれども、なんともありがたいことに、それらは細部においてでした。基本的な骨子においては、驚くほどに一貫して矛盾がありません。

 「旧訳聖書はわたしについて預言したもの」というイエスの言葉に立って解読していくと、終始一貫筋が通っていきます。

 そして、それえを手がかりにして、その中身のオーラ(霊)を感知できるときが来ると、聖書は「わかって」きます。この霊(聖霊)が、絶対の真理の本体なのです。
字面ではありません。字面は外枠の金網です。


                    

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Vol.12「“聖霊のバプテスマ”の構造」

2005年11月25日 | 「考える宗教」へ


 聖書では、人間は本来、聖霊の感触を心の最深部で渇望しているものだ、という人間観です。

 これを受け入れますと「人はイエスの言葉の中身が一つわかると、さらに欲しくなる」という道理になりますね。

 これが御言葉(イエスの言葉、創主からの言葉)への「飢え渇き」です。

 これが増すと、人間は、イエスの言葉がもっと欲しくなります。

 学ぶと心に抱く言葉の数が増していきます。

 それがまた、外側の聖霊と共鳴すれば、イエスの言葉で出来た共鳴箱が、その人の意識の中に増えていくことになります。


                                      


そうしていると、驚くべきことがおきると、聖書は約束しています。

 そういう人間の心には、あるとき、聖霊そのものが内にはいる、と。

 これが聖霊のバプテスマです。

<風のような聖霊>

 これがまた、画期的な事件なのですが、その前にそれ以前の状態について考えます。

 通常この地上にきている聖霊は、風のようにきて風のように去ることを繰り返しています。

 ニコデモというユダヤ教の僧侶に、「風は目に見えない。それはどこからともなくやってきて、どこかわからないところに去っていくよね。だけど、我々には風が存在するという感触は確かにあるよね・・・」という主旨のことを、イエスは教えています。

 この風は、聖霊のことをたとえていっています。

 そうすると、人間の外側から働きかける聖霊も、働きかけては去っていくことになりますね。

 もちろん、きて働いて欲しいときは、祈れば答えてくれる可能性もあります。

 けれども、人間、クルマの運転してるときもありますし、お金の計算しなければならないときもあります。

 この世で肉体を持って生きている間は、二十四時間一秒も絶え間なく聖霊を祈り求めることは、実際の話、出来ません。

 で、聖霊は、去っていくこともあるのです。

 そして去っていったら、イエスの言葉で出来た共鳴箱は共鳴しないという通りになります。

 そうなったら、イエスの言葉から得られる実感が、消滅します。

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 ところが、聖霊は、人の心の内に入ってしまうこともある。
そして聖書では一旦入ったら、もう出ないと約束しています。

 すると、その人の内では、イエスの言葉が常時共鳴するようになります。

 「聖霊を受けたらイエスの言葉が突然よくわかるようになった」という証言をよく聞きますが、それが理由です。

 飛躍的にわかるようになる。
 そうすると、「御言葉への飢え渇き」も飛躍します。
 従来とは比較にならないほど、イエスの言葉をその人の霊が求めるようになるのです。

       (続きます)


                  


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Vol.11「イエスの永遠の言葉が“わかる”とは?」

2005年11月24日 | 「考える宗教」へ

 イエスはまた、「この天地が消滅しても、わたしの言葉は消滅しない」といっています。


                                      


 この場合まずは、イエスの言葉の金網は、金かプラチナかダイヤモンドか、とにかく頑丈なもので出来ているとイメージしたらいいでしょう。

 鉄もダイヤモンドも物質ですから、時間がたてば風化して消滅します。
 イエスの言葉の外枠の網は、そういう物質を超えた永遠不滅の存在ですが、我々はイメージとしては物質に投影するしかないですからね。

 まあ、このへんはしかたないです。

 鹿嶋個人は、言葉は霊が凝固したもの、あるいは、凝固した外枠的部分、というイメージを持っています。すると、イエスの言葉は聖霊でしたから、聖霊が凝固した外枠的部分となる。

 聖霊が凝固するなんて変かもしれませんね。
 では、こうしたらどうでしょう。
 聖霊は、なにか永続するものでその外枠を形成することが出来る、とか・・・。

<イエスの言葉を解するとは?>

 ともあれ人間は、イエスの言葉を、まず、この外枠の金網として受信します。

 そして、それをはき出さないで、心に保っているとある時(さらに、その中身が知りたいと祈っているともっと早くに)その空洞が、外にきている聖霊と共鳴します。

 共鳴箱のように、共鳴します。

 そのとき、我々はイエスの言葉の意味が「わかった」という感触を持ちます。

 その感触を、霊感によって得るわけです。


(続きます)

                    

   
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Vol.10「“イエスの言葉は霊であり、いのち”とは?」

2005年11月23日 | 「考える宗教」へ


 鹿嶋春平太チャーチへようこそ。

 言葉は金網、中身は気(霊)と前回に申しました。
これを基礎知識として、いよいよ聖句について考えていきましょう。


                              
 

 気は霊ですから、それを感知する能力をである感性を、霊感ということも出来ます。
ここでも霊感というと、多くの日本人はギョッとしますけれども、なんのことはない、感性と実体は同じです。

 感性でつかむものは、気であって、それは霊と言われているのと同じです。
 で、その霊を感性で認知するのですから、霊感といってもなにも不思議はないのですね。

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 さて、懸案の聖句です。
イエスは「わたしの言葉は霊であり、また、いのちである」と言いました。
「鹿嶋春平太チャーチ」の基礎知識からしますと、これの意味するところは、次のように考えられます。

<イエスの「言葉は霊」とは?>

 イエスはいま、人間の使う言葉を使って語っています。
 そして、その言葉を構成するのは、外枠としての金網です。

 そして我々が言葉を使うときには、金網には中身が入っていることもありますし、入っていないこともあります。霊(思い)がこもっていない空虚な言葉をはくことが、我々人間にはあるのですね。

 だがイエスの場合はそうではありません。イエスは「自分が語っているとき、この言葉は中身も完全に入っている」といっているのです。

 中身とは霊(思い)でしたね。
だが、イエスの場合はそれは常に「天からの思い」です。
イエスの「自分は父なる創主から受けたことをそのまま語っている」という言葉からすると、そうなりますよね。すると、イエスの思いは「天の創造主からの思い」でありますから、これすなわち、聖霊となります。

 こうして「私の言葉は霊」とイエスが言っている霊は、「聖霊」のことだとわかってきます。

<「言葉はいのち」とは?>

 で、聖霊はいのちエネルギーを創造主から100パーセント受け、かつそれを放射していますよね。だから、実質的には、創造主と同じく、いのちエネルギーの源泉なのです。

 そこで「イエスの言葉は聖霊という中身を常に持っている」ということは「いのちエネルギーで常に満ちている」ということにもなります。

 だから、「イエスの言葉はまた、いのちでもある」ということになるのですね。

  (続きます)

                    



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