そういえばこんな詩を以前読んだことがあった。1945年秋、敗戦間もない焼け野原の東京を詠んだ詩である。1990年頃作品社の「東京詩集Ⅲ」で初めて目にした。とても平明な詩で、あまり印象には残らなかったが、どういうわけか頭の中に残っていて、忘れられない何かがあるように感じている。今でもとうしてこのような詩が、頭の片隅に残っているのかわからない。でも魅力的な詩である。
しかしいまから思えば、敗戦という時間の止まったままの東京の、これから貧しくとも逞しくも、そして悲惨と絶望と、山師的世界も含めた混沌が胎動を始める直前の何かが感じ取れる詩である。
一九四五年秋Ⅱ 中桐雅夫
夕焼けのなかの、
一枚の紙幣のような黒い青空
その麓まで、
あかく錆びた草が一面に繁茂し、
互いに絡みあって、風に身をよじらせている。
みにくい無数のちいさい穴を掘って、必死にかくれようとしている、
だが、風はなにものをも見逃しはしない。
見よ、この巨大な荒地を、
誰ひとり憩もうともせず、
ただ歩つづけているひとびとを、
たちどまると、そのまま息絶えるように思えて、
なえた足をひきずりながら、
乾いた唇をなめずりながら、
目的もなく、
ただ歩きつづけているひとびとの群れを。
聞け、吹きつのっている風の音を、
一九四五年秋の一日、
東京麹町区内幸町一丁目、
勧業銀行ビルの四ッ角に、
いま吹きつのっている風の音を、
それは、まるで世界の中心から発したもののように、
激し、激して、ついに俺を涙ぐませるのだ。
俺は、絶望の天に向かって、ゆるやかに投身する。
(「中桐雅夫詩集」 一九六四)
しかしいまから思えば、敗戦という時間の止まったままの東京の、これから貧しくとも逞しくも、そして悲惨と絶望と、山師的世界も含めた混沌が胎動を始める直前の何かが感じ取れる詩である。
一九四五年秋Ⅱ 中桐雅夫
夕焼けのなかの、
一枚の紙幣のような黒い青空
その麓まで、
あかく錆びた草が一面に繁茂し、
互いに絡みあって、風に身をよじらせている。
みにくい無数のちいさい穴を掘って、必死にかくれようとしている、
だが、風はなにものをも見逃しはしない。
見よ、この巨大な荒地を、
誰ひとり憩もうともせず、
ただ歩つづけているひとびとを、
たちどまると、そのまま息絶えるように思えて、
なえた足をひきずりながら、
乾いた唇をなめずりながら、
目的もなく、
ただ歩きつづけているひとびとの群れを。
聞け、吹きつのっている風の音を、
一九四五年秋の一日、
東京麹町区内幸町一丁目、
勧業銀行ビルの四ッ角に、
いま吹きつのっている風の音を、
それは、まるで世界の中心から発したもののように、
激し、激して、ついに俺を涙ぐませるのだ。
俺は、絶望の天に向かって、ゆるやかに投身する。
(「中桐雅夫詩集」 一九六四)