Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

中原中也「一夜分の歴史」

2016年07月12日 22時14分12秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
  一夜分の歴史

その夜は雨が、泣くやうに降つてゐました。
瓦はバリバリ、煎餅かなんぞのやうに、
割れ易いものの音を立ててゐました。
梅の樹に溜まった雨滴(しづく)は、風が襲ふと、
他の樹々よりも荒つぽい音で、
庭土の上に落ちてゐました。
コーヒーに少し砂糖を多い目に入れ、
ゆつくりと掻き混ぜて、さてと私は飲むのでありました。

と、そのやうな一夜が在つたといふこと、
明らかにそれは私の境涯の或る一頁であり、
その私も、やがては死んでゆくといふこと、
それは分り切つたことながら、また驚くべきことであり、
而(しか)も驚いたつて何の足しにもならぬといふこと‥‥‥
--雨は、泣くやうに降つてゐました。
梅の樹に溜まった雨滴(しづく)は、他の樹々に溜つたのよりも、
風が吹くたび、荒つぽい音を立てて落ちてゐました。



 「未完詩編Ⅲ」から。
 以前もしるしたとおり、「その私も、やがては死んでゆくといふこと、それは分り切つたことながら、また驚くべきことで‥」という心的に重い「納得」ということが、「梅の樹に溜まった雨滴(しづく)は、風が襲ふと、他の樹々よりも荒つぽい音で、庭土の上に落ちてゐました」という風な自然現象によってもたらされるのだという。
 このような心性は取り立てて日本的というよりは、自然との対話によって生を生きながらえてきた人類の、古代的な心性として一般化できるのではないか、と私は考えてきた。
 さまざまな人知を超えた自然現象に自然の生命体の発現を見る心性が、一神教としてのキリスト教的な一元的な世界観の前に押しつぶされながらも、人々の意識の下に残っている自然に対して畏敬と怖れに基づく世界は、伏流水のように湧き出てくる場面はありうる。
 日本でも、ヨーロッパの世界がなだれ込んだ近代という時代を経ながらも、さらにヨーロッパ的近代の底の浅さ故に、自然に対する心性が強く残っていた可能性はある。近代的な言語感覚に強く彩られながらも、そして近代詩の豊穣の世界にも、中原中也のような自然に対する古くからの心性に依拠する精神が強く表れたいるのだと私は思っている。
 それが中原中也の詩が戦後も、そして多分現代にも繰り返し再評価される根拠だと思う。

 だが気をつけなければいけないのは、この自然に対する畏怖や怖れという心性が、政治的な理念や言語とたやすく慣れて結託することは許されることではない。逆にこの心性を扱えずに、ヨーロッパ的な近代にぶら下がる政治的理念や言語は、かならずこの心性に返り討ちに合う。戦後日本の不幸は、この心性とヨーロッパ的政治理念とが、保守と革新、復古と進歩という構造に並列してしまったこにあると思う。このことを超える政治思想・理念がこれからどのように作られるのであろうか。
 こんなことを40数年間、思い続けている。


書類作成に振り回された午後

2016年07月12日 18時53分03秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 昼間、外はかなり暑かったが、18時過ぎには25℃で風は3メートルと表示されていた。風が心地いい。風はもう少し強めでもいいかもしれない。

 午後からは年金の手続きのために区役所・市役所を巡ってきた。戸籍謄本はこれから戸籍のある自治体に郵送で請求する書類を作成。明日手数料込みで郵送するところまで漕ぎつけた。

 区役所を出てからコンビニのイートインコーナーに坐って、紅茶のペットボトルで一息。ここのコンビニのイートインコーナーは広いので小学校帰りの親子の待ち合わせ場所となっている。さすがに小学生は騒がないが、親に同行してきている入学前の子どもが駈け回って、大騒ぎなので、とうとう半分残して退散することにした。困ったものである。

 明日朝早めに、郵便局経由ででかけることにした。明日の天は朝から雨模様。傘が手離せないようだ。明日は一日出かけるので、読書も音楽鑑賞も出来ない。

頭の夏バージョン

2016年07月12日 10時42分49秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 昨日は横浜駅で1000円の理容室で髪の毛をカットしてもらった。左右と後ろは3ミリのバリカンで、前と天辺は9ミリのバリカンで、短くしてもらった。見た目は五分刈りと同じ。98%は白髪なので、このように短くするとほとんど髪の毛があるようには見えないのが悲しいといえば悲しい。

 このようにしてほしい、と伝えたところ店の人から「本当に刈ってしまっていいのですか?元には戻りませんよ。刈ってから元のように戻せとおっしゃっても無理ですよ」と云われて思わず苦笑い。「毎年の夏バージョンですからご心配なく」と伝えた。
 先に「元に戻りませんよ」と言ってから「元のように戻せと言われても‥」と続いたので、余計に私は傷ついて、半ばはムッとした。逆ならまだ柔らかい指摘なのだが‥。そのために「なかなか生えてきませんよ」というのが強調されたように聞こえた。確かに前と天辺は伸びる速度は遅い。左右と後ろは元気が良く、太いのだが、それ以外は細いし弱々しい。そのうち毛穴も閉じてしまいそうである。しかしあからさまに指摘されると普段気にしていなくとも、あえて指摘されたくはない。養毛剤を使用するほどの色気はとうになくなっている。
 まぁ店員悪気はなかったようなので、笑ってごまかした。

 このように短く刈り込んでしまうのはもう10年以上しているはずだ。一番初めに別の店員に言われたのは「夏だからといって短く刈りこむとかえって暑いですよ」ということだった。確かに直接陽があたり、汗が皮膚を伝ってすぐに顔にたれてくる。髪の毛が陽をさえぎらず、汗も溜めることはない。しかし風が吹いた時の気持ちの良さには代えられない。

 定年退職後からは野球帽をかぶるようにしている。頭頂部が一番髪の毛がうすいので直に日があたり、帽子をかぶらなかったら山ですっかり日焼けしてしまった。日焼けして分厚く剥けた皮膚が枕を汚して、妻に怒られた。枕と布団に黒く剥けた皮膚が散乱していた。人前に出られなくて野球帽を被ることにした。それが帽子をかぶり始めたきっかけである。それまで帽子はほとんど被ったことはない。すぐにどこかに置いてきてしまう。
 半世紀以上の習慣でようやく眼鏡と時計と財布、四半世紀の習慣で携帯電話と定期・財布だけは忘れないようになった。だが、60歳を過ぎて新たに身につけるものを置き忘れないようにできるとは思いもしなかった。
 確かに今でも野球帽はときどき置き忘れてしまう。組合の事務室やその傍の飲み屋ならばすぐにそれは出てくるが、それ以外の居酒屋などではまず戻ってこない。だから安い野球帽しか手に入れない。小さめだが100円ショップで購入したものも愛用している。