Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

明日からは‥

2016年07月24日 22時14分02秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日は休養日。落ち着きのない日常から少しは回復しているであろうか。朝の内、中桐雅夫の詩から受けた印象を、頓珍漢を承知で多分誤読もあるかもしれないと思いつつ、綴ったのち、早くも昼寝。
 午後からは荷物持ちとして買い物につきあい、往復約7000歩ほど。8キロ程の買い物袋を持たされた。野菜ジュースとヨーグルトと果物など水気の多いものを中心に運ばされた。車がない分、人力での運搬が我が家の習いである。

 横浜市域の最高気温は27.7℃であったらしい。朝から曇り空、例年よりもかなり遅い梅雨明けになりそうである。そろそろ夏に行く山の確定をしておきたいもの。昨晩、鈴鹿山脈の登山地図を眺めていたが、昨晩の気分ではもう少し別のところも検討してみたい。
 同時に明日からはこれまで読んでいた読書の継続を再開してみたい。疲れだ私の頭に文章が入って来るであろうか。

 明日は昼から退職者会の幹事会。

茨木のり子「歳月」

2016年07月24日 19時28分33秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
  歳 月

真実を見極めるのに
二十五ねんという歳月は短かったでしょうか
九十歳のあなたを想定してみる
八十歳の私を想定してみる
どちらかがぼけて
どちらかが疲れはて
あるいは二人ともそうなって
わけもわからず憎みあっている姿が
ちらっとよぎる
あるいはまた
ふんわりとした翁と媼となって
もう行きましょう と
互いに首を絞めようとして
その力さえなく尻餅なんかついている姿
けれど
歳月だけではないでしょう
たった一日っきりの
稲妻のような真実を
抱きしめて生き抜いている人もいますもの



 詩集「歳月」は作者の亡くなった2006年の翌年に刊行されている。1975年に亡くなった夫の死後に書き溜めたと思われる相聞歌である。この詩は詩集「歳月」の最後に掲げられた詩。「花音朗読コンサート#12」でも最後に朗読が行われた。妻はこの詩がいたく印象に残ったようだ。
 私が定年を迎えて、妻と家での食事の機会が増え、夕食後の会話の時間が増えるにしたがって、この詩に登場するような会話の機会が増えている。おそらく他の家庭でも同じような会話は、程度の差はあれ、また内容に差はあれ、存在することは確かだと思われる。特に子どもが独立して別の場所で家族を構成している場合は間違いなく、このような会話は存在しているはずだ。
 この種の会話はいつも同じような道筋や通過点を経て、同じような結末で終わり、その都度の進展はない。お互いの老いを確認し、現時点での結論に至らない着地点をお互いに再確認して会話は終わる。いつも同じ話を繰り返し、未解決なことが明日以降も続く生活の出発点でもある。それは自らの人生の現時点の追認でもある。
 傍から見れば滑稽なようでいて、本人たちはそのときは滑稽とは思っていない。しかし時々そのような会話自体を、滑稽なものとして笑い飛ばすこともまた必要である。それは片方が先にこの世からいなくなっている場合も続いている。それが当然のことのように。夫婦というものはそのようなものであるらしい、ということを了解したのは、つい最近のことである。


中桐雅夫「一九四五年秋Ⅱ」‥感想

2016年07月24日 12時15分00秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 昨晩取り上げた中桐雅夫の詩「一九四五年秋Ⅱ」について補足すると、私は「確信と、希望」‥私は、不安と、怖れ、生きていることへの嫌悪を嗅ぎ取った。多分それは私の思い込みがそちらに偏っている証左かもしれないとおもいながらも‥。
 第一連の「みにくい無数の虫」、「あかく錆びた草」は、第二連のよろよろと歩きつづけるひとびとの喩えだと思うが、乾いた風と日に照らされた、嵐の前の静寂と混沌を感じた。
 8月15日を経て、9月に降伏文書調印、アジア各地の日本軍の降伏、マッカーサーの東京進駐と戦後処理が開始され、息をひそめてその動静を多くの人は見つめていた。一方で日々の暮らしの窮迫は進み、生きるための格闘と混乱が噴出してくる直前の東京の景色、景観だと思う。
 最後の一行「絶望の天に向かって、ゆるやかに投身する。」が私にはわからなかった。それは詩人がどのように何に、絶望したのか、その絶望がどのような根拠での絶望か、判らなかったからであり、そして今でもわからないところがある。
 1919(T8)年生まれの詩人は、徴兵忌避の目的に日大に入り、新聞社の政治部記者になるものの、結局1942年23歳で応召させられ、戦後「荒地」の同人となっている。
 その思想については私が勉強していないのがいけないのだが、不明のまま、あの一行のことは放置し続けている。
 私は、あの戦争に邁進した国家や軍部に対する幻想や思い入れからは遠い人であったとは思う。同時に1945年の秋の時点で、政治家や思想家やマスコミの変わり身の早さ、自己保身の「みごとさ」をまだ体験していないような気もする。
 人々の生活を巡る混乱とたくましさとをつぶさに観察をしているわけではない。応召してどこに配属されたかは分からないが、軍隊内部の人間の在り様におおきな絶望の根拠があるのだうろか。市井の人々のわずかな在り様に戦後の混乱を見通したのだろうか。
 1951年生まれの私にはまだまだ分からないことばかりである。

 2014年3月に私は「中桐雅夫という詩人は死を誠実に見つめ続けて表現した人ではないか。ポツダム宣言受諾・無条件降伏という事実によって1945年に敗戦を迎えたという、時代を真正面から体験してそこにこだわりながら詩という営為を続けてきた詩人である。死についての感覚はとても暗く、そして切実な体験なのであろう。この自分が抱え込んだ死のイメージにこだわる姿勢、死を引きずることをやめることができない、ある意味ストイックな生き方にたじろぎながら、私はどこかでこのような世界を絶えず反芻しながら生きてきたように思う。そんな原点に近い像が、この詩から得られたといえる。私の出発点だったのかもしれない」と記した。
 中桐雅夫の詩に色濃くにじむ「死」のイメージと、「絶望」のイメードとがどこで繋がるのか、その「絶望」がどのようなものか、多分それは中桐雅夫を理解することだけではなく、私なりの戦後の像の作り上げになるのだと思う。