本日の作業のお供はモーツアルトのピアノ協奏曲第11番と第12番。これまでと同様に内田光子のピアノ、ジェフリー・テイト指揮のイギリス室内管弦楽団の演奏。1988年の録音である。
第11番(K.413、1781~82)、第12番(K.414、1782)、第13番(K.415、1782~83)はザルツブルグからウィーンに出てきた時の初期の三つ子ともいうべき作品である。
大司教の蜚語という名の窮屈な生活から解き放たれ、25~27歳という時期にあたる。ウィーンで喝采を浴び、楽譜出版・演奏会などで音楽家として自立した生活の確保が可能であった時期である。
三つ子といってもしかし第11番と第12番は形式も雰囲気も似ているが、第13番は少し趣きが違う。モーツアルトとしてかなり大胆な冒険も盛り込んだ曲であるらしい。また第12番の第2楽章はバッハの旋律に由来するようで、バッハがモーツアルトにおおきな影響を与えた証左でもある。この曲はバッハに対する鎮魂歌であると思う。
昨日は国立近代美術館に出向いて、コレクション展ならびに「近代風景~人と景色、そのまにまに~奈良美智がえらぶMOMATコレクション」を見てきた。
惹かれた作品をいくつか。展示目録を見ながら近代美術館のホームページから取り出した。
・「眼のある風景」(靉光、1838)
やはりいつものとおりどうしても作品の前で立ちどまって見てしまう。戦前のあの時代を見つめる眼、あるいは作者を見つめる眼、時代は透徹した凝視を許さなかった。それでも見つめることを止めては芸術家ではないし、見つめられる視線を意識できなくても芸術家ではない、逼迫した緊張が伝わる。
・「残骸のアキュミレイション」(草間彌生、1950)
草間彌生の最初の個展で展示された作品とのこと。初めて目にした。目黒美術館でも1951年の作品を見たが、私にはこの時期の草間彌生の作品に惹かれる。
・「Work 84-P-1」(辰野登恵子、1984)
辰野登恵子の作品は惹かれる作品と残念ながらそうでない作品が、私には両極端である。作品を系統的に見ていないのが、残念である。気になっている画家である。
・「道路と土手と塀」(岸田劉生、1915)
岸田劉生のこの作品はいつ見ても惹かれる。画面左の白い塀、真ん中の道路、右側の建物の三つの要素が強弱無く並列していることに不思議な思いになる。どれかを強調しているのでなく併存していることを描き留めている。私は白い塀につかった絵の具が輝いているところにいつも惹かれるが、今回は右から左へ射す陽射しの強烈な強さと乾いた空気感も感じた。
・「アルチショ」(藤島武二、1917)
藤島武二は有名であるが、この画家も全体を見渡したことがない。しかしこのアザミ十数本と花瓶を描いた静物画に大いに惹かれた。少し乾いたようなアザミの花の色彩、枯れかかったアザミ、花瓶から垂れ下がったようなアザミ、咲き誇るアザミなどアザミの姿態はさまざまに乱雑に花瓶に挿してある。一方白っぽいカーテンのような背景、赤い縞模様のテーブル‥計算されつくした色面で構成されている。不思議な空間である。アザミの存在感がいい。
左下から右上の対角線に沿った構図にも拘わらず不安定で今にも動き出しそうな感じに見えた。花瓶の重みと重力の垂直方向の安定に抵抗するようにアザミが45度で右上に伸びている。左右の均衡が取れていないように見えるのは背景の黄色と黒の色面の対比のためと思われた。
・「ニコライ堂付近」(松本竣介、1947)
昨年近代美術館は松本竣介11点購入したとのことである。既存の作品は奈良美智の展示の方にあり、ここには新規収蔵品となったものが並んでいた。画像はまだホームページにはアップされていなかった。
・「雨霽(あまばれ)」(竹内栖鳳、1907)
竹内栖鳳は私はあまりなじめないのだが、この水墨画、惹かれた。左双の鳥の固まりは少し濃密すぎるが右双の鳥の飛び去る静謐感は惹かれた。