昨日読み終わった「自分の中に歴史をよむ」(阿部謹也、ちくま文庫)。歴史家としての著者の歩みやこれから歴史に携わろうとする若い人向けの部分(前半)を省くと、後半の第6章から第8章が核の部分にあたりそうである。
人間と人間の関係について、「モノを媒介として結ばれる関係」と、「目に見えない絆によって結ばれる関係」のふたつから成り立っているとしたうえで、古代・中世と現代では人間の在り方大きく異なっている、と指摘する。その例として、時間と空間が現代では均質で一元的であるものの、古代・中世ではそれは自然を含む「聖なる場」と家族や村という共同体の「日常の場」とでは違っていると考える。
それを「大宇宙」「小宇宙」としている。
この古代からの共同体と自然の関係を大きく変えたのがキリスト教という一神教で、11世紀から12世紀にかけてこのキリスト教の教義が、社会の下層まで浸透し、キリスト教的世界観が、古代・中世初期の自然が人間社会を支配する世界秩序が崩壊したと指摘している。逆に言うとこの時期を境に日本とヨーロッパ、あるいはイスラム圏およびキリスト教圏とが、他の世界秩序と大きく違った秩序を形成した、ということになると思われる。ここに人間世界の共通性が初めて崩壊したのではないか、という結論まで私は飛躍してもいいような気がした。同時にこの時期、中世から近代への以降の過程で、旧秩序・旧世界観に属していた遍歴の民、「大宇宙」の領域で生きてきた人々が「大宇宙」と「小宇宙」の一元化にともなう新しい秩序では賤視されていったという。
この指摘はとても刺激的である。ただしこの差別といものが、日本の社会でも現代までも存続して強固な構造を今でも持ち続けていることについては、今ひとつ私にはわからないところが残った。引き続きこの著者の著作を読みながら読み解いていきたいと思う。
もうひとつ記述がある。これは昔から私も同感であったし、多くの方が指摘していることである。再度自分への戒めとしてもここに引用しておきたい。
「教師はときどき、自分よりははるかに潜在的能力のある生徒に出会うことがある。そのようなとき、その生徒の能力を生かし、伸ばそうとするのが教師の勤めですが、必ずしもすべての教師がそのようにできるわけではありません。時には教師はその生徒に恐れをいだき、自分が他の生徒の前で馬鹿にされるのではないかと感じます。そのようなとき教師はその生徒を恐れながら、抑え込もうとします。ルールや礼儀をふりかざして、率先して生徒のイジメをすることがあるのです。」
これを教師一般で普遍化してしまえば、学校の先生にとても失礼である。「教師」を企業や職場の「上司」「先輩」、「生徒」を職場の「部下」や「光背」に置き換えるとそれは現代の日本の企業そのものの縮図である。年功序列を否定し、「能力主義」の企業社会を言い募りつつ、現代の日本の企業の在り方は、阿部謹也が引用した「教師と生徒」の関係でしかない。とても先端の人間関係には行きついていない、いびつな社会構造である。ブラック企業の蔓延は他人ごとではない。前近代的な日本社会の底の浅い社会の縮図であることを考えた方が良い。
同時に私も含めてこのような関係にふと入り込んでしまう恐れも十分ある。つい地域での会議でも若い人のひとことに過剰に反応してしまう自分がある場合を誰しも否定できない。
常に自分を客観的に見つめる視点が欲しいものである。