Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

期日前投票

2016年07月05日 21時24分32秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日は参議院選挙の期日前投票を行ってきた。最近は常に期日前投票で済ませている。会場の出入り口にはNHKの出口調査員が1名立っていた。しかし出入り口が五つもある庁舎でひとりというのはいいかげんなものである。その内二つの出入り口の利用者が多いが、二つとも別の鉄道駅に近いので、利用者は半々。結構いいかげんな出口調査である。他のマスコミはまったく姿が見えなかった。もっとも誰がいようと私は、調査には応じるつもりなどない。
 仕事がらいつも投開票事務に従事させられてきた。開票作業の始まる前に、「出口調査により当選確実」などを報道される昨今、開票事務に従事する作業者に対して極めて失礼で、やる気を失せさせる報道だと私は思っている。そのような報道が大手を振ってまかり通るならば、開票事務そのものが意味の無い行為、不必要と言っているに等しい。せめて選管の第一回中間発表後にしてほしいと思う。
 選挙を報道の競い合いのゲームにしてしまった功罪は大きい。もともと選挙なんてものはその程度のお祭り、と言ってしまえばそうかもしれないが、今の政治の危機的な状況、戦後政治理念の否定につながる状況からすれば、そうも言ってられない。選挙という権利行使に対抗する政治行動が具体的に力を持ちえない以上、棄権はできない。


「伊東マンショの肖像展」(東京国立博物館)

2016年07月05日 20時55分40秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
         

 本日「ほほえみの仏像」展を見終わった後、「特別公開 新発見!天正遣欧少年使節 伊東マンショの肖像」展を見てきた。
 天正遣欧使節(1582(天正10)~1590(天正18))についてはこれまで詳細については不明の点が多いとは聞いていた。明治維新後の1873(M6)年に岩倉具視がイタリアを訪れた時に、1613(慶長13)年の伊達政宗の慶長遣欧使節団の文書とともに天正遣欧使節団の文書と出会い、知られるようになったという。そして一昨年2014年に正使のひとり伊東マンショの肖像画が発見された。
 解説によるとルネサンス期の高名な画家ヤコボ・ティントレット(1519-94)の筆になるものらしい。1585年の作成と云われるこの肖像画からするとほぼ丸3年をかけてたどり着いたイタリアでの顔だちということになる。13歳で九州を出立しているので16歳くらいの顔である。この肖像画の印象だけからすると極めて知的な顔だちに見える。また大変大人びていると思う。苦労と覇気を感じる。16歳で私もこのようなキリッとした顔でありたかったと、半ば羨望気味にこの肖像画を見た。さらに想像力をたくましくすると、織田信長の肖像画といわれる信長の顔にも似ているように私は感じた。


「微笑みの御仏-二つの半跏思惟像-」(東京国立博物館)

2016年07月05日 18時28分46秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
   

 本日は曇り空、時折微かに雨粒が落ちてくる中、東京国立博物館で「微笑みの御仏-二つの半跏思惟像-」展を見てきた。
 ともに有名な像であるが、中宮寺の方は7世紀のもので木製、像高126.1センチ。韓国のこくほう78号は6世紀のもので、83.2センチで銅製。中宮寺のものには光背がついている。
 中宮寺のもの宝冠は無く、二つの球形に結った髪が特徴である。
 韓国の国宝78号は、中宮寺のものに比べて身体も腕も相対的に細く、背中が丸い。猫背に近いかもしれない。造形的な曲線がとても美しい。中宮寺のものは実際の人物像よりはずっと細身であるが、韓国のものよりはふっくらした印象で顔は長い。背中は現実の人間の背中に近い形と思われる。
 頬にあてた右手の指日本は中宮寺のものは軽く中指が頬に降れている程度だが、韓国の国宝78号は中指が頬を押している。
 右足首に置いてある左手は中宮寺のものは左ひざに中指が届いているが、韓国の国宝78号は膝にとどいていない。
 組んでいる左足の裏側を見ると中宮寺のものの足の方がどちらかというと実際の足裏に近いが、韓国のものは足の指がかなり長く、また足裏の筋肉が強調されて盛り上がっている。
 一番目に着く顔は、中宮寺のものは目も口元も水平に近い。しかし韓国のものは細く切れ長で釣りあがっており、顔全体は少し丸みを帯びている。唇の厚みはうすく水平である。目が釣りあがっているのに、微笑みはともに優しいのは、不思議である。
 どちらが好みかはそれぞれだと思う。
 韓国のものは三国時代の高句麗の仏像の影響が強いらしい。中宮寺のものよりは仏像の規範に近い造形と云えるかもしれない。

 どちらの像も見飽きることはないし、両者を見比べていて優劣は付け難い。これだけ人に安ど感を与え、惹きつける力をもった像というのも珍しいのではないだろうか。信仰心というもとはとても対極にある私でも、いつまでも見ていたいという気持ちになる。
 図録は300円と1000円の2種。本日は300円の図録を購入したが、どちらも写真の出来はなかなかだと思えた。

      

        

スマホに照らされた幽霊

2016年07月05日 00時49分05秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 久しぶりの深夜ウォーキングは50分でちょうど7000歩、23時35分に戻ってきた。時間8400歩だからいいペースで歩くことが出来た。見通しの良い高台から南西の空にさそり座のアンタレスと土星、少し離れて火星、西の空に牛かい座のアルクトゥールスを見ながら歩いた。天頂付近にこと座とベガ、とはくちょう座とデネブを確認したけれど、上を見ながら歩くわけにはいかず、一瞬だけ。東と南の空は港と横浜駅方面の明かりで相変らず見にくい。

 ウォーキングをしながら多くの仕事帰りの人とすれ違ったが、この時間に独り歩きの半分以上が女性、そして独り歩きは男性の方が年齢ははるかに高い、ということに気がついた。暗いので明確に断定できないが、女性は20代から30代が多いように見えた。若い女性の方が多いということに今まで何十年も深夜のジョギングやウォーキングをしてきたのに気がつかなかった。

 夜遅くまではたらく女性が増えたことは確かだ。しかし深夜に行きちがった女性と同年齢と思われる男性が少ない。彼らはまだ仕事なのか、あるいは仕事帰りのアルコールグループなのか。
 そして一番気になったのは、歩いている若い女性のほとんどが、深夜にもかかわらずあまりに無防備で危険なスマホ歩きだという点。

 多分この常習者は躓いたり、車や自転車にぶつかって怪我をしたり、ひったくりにでも会わない限り、注意してもやめることはないのではないか。あるいはそんな事態になっても続けるかもしれない。そして対向者がいつも道を譲らなくてはならない。まさに殿さま、王様の道行である。

 深夜にスマホの液晶で照らされた顔は、例えようなく不気味である。江戸時代に描かれた提灯や行灯に浮かび上がる幽霊のように見えていることは、本人たちは気がついていない。