文化と人命に不寛容の宗教と、非文化的で声高に排他性を掲げる政治が、世界中でとめどもなく人命を奪っている。日本の政治にも不寛容で他者に極めて攻撃的な政権与党が多数を占めている。
武力を伴う不寛容な信仰という共同幻想の解体には、軍事力の行使を前面にすればするほど、報復の連鎖を止めることはできないことはわかり切っている。しかし当面の処方箋がないことに多くの人は対抗すべく軍事力の行使に期待を寄せてしまう。果たしてそれは根本的な解決なのか、当面の一時しのぎにすらならないのではないかと、疑うことから始めたい。軍事力が政治の前面に出てくることに、私は極めて大きな疑問符をつけたい。
戦争に対して軍事力という名の抑止力は本当に抑止力なのか。もう一度1945年8月の敗戦に至った経緯と、その後の混乱した社会、敗戦後の出発となった新しい政治制度の出発の時を思い出す夏としたいのだが‥。日本国という国に生きた大半の人が過ごした敗戦後71年という時間、私たちの生きたこの71年の出発点、原点を真摯に顧みたいものである。
政治というものは、絶えず現在に起きる事象への即座の対応が求められる。だが、その処理能力だけを求めると理念なき政治となる。現実への即時対処能力と、理念との狭間でいかに悩むか、政治的な理念と不即不離、理想からは大きく踏み外さない現実対処能力をいかに発揮するか、政権担当者の力量=政治力が問われると私は思う。
政治の理念、近代国家ではその大きな柱は、国家という権力機構が市民を支配したり指導したりするのではなく、市民が国家をコントロールするということである。そのためのシステムがさまざまに模索され、現代の立憲主義や基本的人権や三権分立や地方自治制度などがつくられてきた。この流れを否定するのではなく、この流れの上に立って将来を見据える政治理念を見たいものである。残念ながら日本の政党はそのような力量を見せてはくれないようだ。想定する他者への攻撃、あるいはあたかも一枚岩の集団かのような「官僚層」「利権集団」などという仮想敵をつくることで自らの影響力の拡大だけをはかる政治集団ばかりが、日本だけでなく世界を覆っている。
政治家も、政治家を選ぶ選挙権者も、現実対処ばかりに目を奪われると、理念・理想・信念を忘却する。人は忘却が得意である。しかし忘れてならないものがあるはずである。
現在の社会の在り様を見ていると、他者の痛みに共感できない生き方、他者の痛みにさらに塩を塗るように攻撃的となる発言が、恥ずかしげもなく繰り返し行われている。これは加害者へのエールでしかない。ヘイトスピーチも表現の自由だと言い募る発言、DVやパワハラ・セクハラ・ブラック企業などでの被害者に「なぜ逃げない」「なぜ会社を辞めない」「被害者にも原因」という暴言に等しい発言は、想像力の欠如を自ら公言しているのと同じである。たぶんそれは自らがそのような加害の立場に無意識のうちに立っていることに無自覚なのである。
私もひょっとしたらそうであるかもしれない、といつも自問自答することでしか、それは回避できない、と私は思う。またそのように生きてきたつもりだ。そのような生き方を教わってきた。それもまた敗戦後71年の手放してはいけない優れたもののひとつだと思う。
武力を伴う不寛容な信仰という共同幻想の解体には、軍事力の行使を前面にすればするほど、報復の連鎖を止めることはできないことはわかり切っている。しかし当面の処方箋がないことに多くの人は対抗すべく軍事力の行使に期待を寄せてしまう。果たしてそれは根本的な解決なのか、当面の一時しのぎにすらならないのではないかと、疑うことから始めたい。軍事力が政治の前面に出てくることに、私は極めて大きな疑問符をつけたい。
戦争に対して軍事力という名の抑止力は本当に抑止力なのか。もう一度1945年8月の敗戦に至った経緯と、その後の混乱した社会、敗戦後の出発となった新しい政治制度の出発の時を思い出す夏としたいのだが‥。日本国という国に生きた大半の人が過ごした敗戦後71年という時間、私たちの生きたこの71年の出発点、原点を真摯に顧みたいものである。
政治というものは、絶えず現在に起きる事象への即座の対応が求められる。だが、その処理能力だけを求めると理念なき政治となる。現実への即時対処能力と、理念との狭間でいかに悩むか、政治的な理念と不即不離、理想からは大きく踏み外さない現実対処能力をいかに発揮するか、政権担当者の力量=政治力が問われると私は思う。
政治の理念、近代国家ではその大きな柱は、国家という権力機構が市民を支配したり指導したりするのではなく、市民が国家をコントロールするということである。そのためのシステムがさまざまに模索され、現代の立憲主義や基本的人権や三権分立や地方自治制度などがつくられてきた。この流れを否定するのではなく、この流れの上に立って将来を見据える政治理念を見たいものである。残念ながら日本の政党はそのような力量を見せてはくれないようだ。想定する他者への攻撃、あるいはあたかも一枚岩の集団かのような「官僚層」「利権集団」などという仮想敵をつくることで自らの影響力の拡大だけをはかる政治集団ばかりが、日本だけでなく世界を覆っている。
政治家も、政治家を選ぶ選挙権者も、現実対処ばかりに目を奪われると、理念・理想・信念を忘却する。人は忘却が得意である。しかし忘れてならないものがあるはずである。
現在の社会の在り様を見ていると、他者の痛みに共感できない生き方、他者の痛みにさらに塩を塗るように攻撃的となる発言が、恥ずかしげもなく繰り返し行われている。これは加害者へのエールでしかない。ヘイトスピーチも表現の自由だと言い募る発言、DVやパワハラ・セクハラ・ブラック企業などでの被害者に「なぜ逃げない」「なぜ会社を辞めない」「被害者にも原因」という暴言に等しい発言は、想像力の欠如を自ら公言しているのと同じである。たぶんそれは自らがそのような加害の立場に無意識のうちに立っていることに無自覚なのである。
私もひょっとしたらそうであるかもしれない、といつも自問自答することでしか、それは回避できない、と私は思う。またそのように生きてきたつもりだ。そのような生き方を教わってきた。それもまた敗戦後71年の手放してはいけない優れたもののひとつだと思う。