Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

横浜市域の避難勧告は解除

2017年08月01日 21時40分48秒 | 天気と自然災害
 現在土砂災害警戒情報にともなう避難勧告はすべて解除された。
 注意報はすべて解除であるが、大雨(土砂災害)警報は継続している。レインアイよこはまで見ると現在三多摩地域で降っている弱い雨の区域が次第に南下してい。しかし5ミリ未満の雨の区域となっており、それほどの強い雨はない模様。

 私の住んでいる区域ではいったん雨が上がった。近くのドラッグストアに明日の朝食用の食材を購入してきた。しかし先ほどまたほんの少しだが、降り始めている。明日は曇の予報で最高気温が27℃と低い。いつの間にか夏がどこかに行ってしまった感じだ。

雨はおさまる方向に‥

2017年08月01日 18時54分00秒 | 天気と自然災害
 横浜市域の強い雨の区域は次第に南下して今は千葉県の房総半島の南部に移っているようだ。雨は横浜市域の中では強いところでも時間雨量20ミリ未満の標示となっている。雷鳴も今は聞こえなくなった。歌仙の水位も15時過ぎに境川水系などで避難判断水位を超えたところがいくつかあるものの、今はすべて氾濫注意水位以下となっている。
 しかし横浜市でも瀬谷区の一部で床下浸水の被害が出ている。
 ひどい雨も雷の区域も一応は通り過ぎたようにも思う。しかし大雨・洪水警報は解除にはなっていない。土砂災害警戒情報も避難準備・高齢者等避難開始情報も解除になっていない。

「ベルギー奇想の系譜」展から -2-

2017年08月01日 16時18分59秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 展示はルーベンスの版画の次は急に19世紀に飛ぶ。ベルギーは1830年に近代国家としての独立を果たす。フランスの象徴主義の影響下、「中世からルネサンスにかけて北方美術が好んで取り上げたきた骸骨たちの舞台の近代的な再生」(図録解説)が行われたと記されている。



 この作品は「舞踏会の死神」(フェリアン・ロッブス、1865-75)。ちょうど日本では江戸幕府が解体し明治の時代が始まったころである。カトリックの多数派の国ベルギーではキリスト教的な制約を超えた市民的自由が希求される中で、ボスやブリューゲル的な世界が注目を浴びたということなのだろうか。あまり単純化はしたくはないが‥。この作品の白い着物はカトリックの司祭がミサで着る服らしい。それを骸骨が着用して舞踏会に現われたという想定らしい。下に出た細い足が妙に艶めかしい。教会の権威に対する揶揄といえそうだ。ロップスの作品は11点ほどある。絵画としての評価はさまざまであろうが、とても強烈な風刺画である。



 ウィリアム・ドグーヴ・ド・ヌンク(1867-1935)の「運河」(1894)。運河の手前の岸に等間隔で並ぶ7本の樹と画面の右三分の二に描かれた浮かび上がる煉瓦の建物と左側の名にもない空間が印象的である。縦42センチ余、横122センチ余という大胆な構図で、そして草を表現する緑と運河の深い青、レンガ色、黒い樹木という配置にも魅せられた。煉瓦の建物の窓ガラスは割れて、灯りもなく廃墟である。
 「人間的なものの欠如」「当時の社会事情の反映」「時代を超えた神秘的な悲しい雰囲気」と解説に記されている。私は当時の工業化の非人間的な労働と資本の競争の残酷な結果を、醒めた諦念で見つめた作品に思えた。一見非現実的に見える風景が、現実のものであるというアイロニーを感じてはいけないのだろうか。私はこのような作品が実に背後には人間的な感情に裏打ちされた作品に思える。



 ヴァレリウス・ド・サードレール(1867-1941)の「フランドルの雪」(1928)。これは高低差はないが、ブリューゲルの「雪中の狩人」(1565)を思い起こさせる作品である。ブリューゲルの作品から人間をはじめ動く動物をすべて取り去った時の静寂の世界である。しかし人の住む家は丹念に描かれている。印象的なのは沈む夕日である。朝日とは思えない。どんよりと暗く沈んだ空が画面善意の6割以上を占めている。
 これがベルギーの冬の空なのだろうか。太陽の下には村の家々ではなく街の混みあった家並みのような描写がある。そこも静まりかえっている。他の作品が展示されていないので、よく分からないが、このような風景画にとても惹かれる。この静寂に画家がこだわったものは何なのだろうか。気になる。



 ジェームス・アンソール(1860-1940)の「キリストのブリュッセル入城 1889年マルディ・グラの日」(1898)。不思議な色彩感覚と人物造形のアンソールの水彩画。
 画面の真ん中に、キリストのエルサレム入城になぞらえてキリストの格好をしたアンソールが描かれている。しかし画面手前の人びとの視線はキリストなど見ていない。仮面をかぶっている。マルディ・グラとは謝肉祭の最終日の祭りが催される日。キリストの栄光と同じく、アンソール自身はブリュッセルに迎えられたものの実際は無視と無理解という扱いを迎える。
 しかしこのように自己顕示が強い人というのはとても付き合うのは苦労をする。アンソールという人、なかなか難しい人であったようだ。の人の作品もブリューゲルに似て中心性の希薄な作品が多いようだ。



 ポール・デルヴォー(1897-1994)の「女性と骸骨」(1949)。この作品は初めて目にした。インクと水彩の作品。背景の壁が着色され、主題である女性と骸骨は淡彩である。
 艶めかしい裸体の女性像が頻出する作品群の中で、着衣の、それも着飾ったような女性像は珍しい。座ってはいないが骸骨の手も女性像と同じような手の仕草である。悩みは同じなのであろうか。
 人間を透写してもその思考の内部は見通せない。悩みなど空虚なのかもしれない。あるいは死の前にはすべて無効という諦念なのだろうか。骸骨と女性にはなんの接点も関係もなさそうである。しかし何かを考えているということは共通している。



 ルネ・マグリット(1898-1967)の「夢」(1945)。昨年のルネ・マグリット展でも展示されていたと思う。宇都宮美術館所蔵作品である。マグリットの作品には影がこのように同じ向きのものがある。鏡像もこのように描いたものが確か存在したように記憶しているが確かなことはわからない。
 実は私は小学生の時、鏡像はどうして左右対称なのか不思議でしようがなかった。どうしてこの絵のように映らないのか。左右が見た目と変わらない方が自然ではないか、とずいぶん悩んだことがある。そんなことを思い出させてくれる作品である。

 デルヴォーやマグリットの作品がボスやブリューゲルの作品や思想とどのように換券するのか、交わるところがあるのか、私にはよくわからないまま、展示室を後にした。共通点に「死の匂い」がある、「メメント・モリ」の警告がある、とのことであるらしい。しかしそれだけならばすべての絵画がどこかでつうじているという、一般化でしかない。ここまで現代へ引っ張ってくると、もうわからなくなるばかりであった。

横浜市全域に土砂災害警戒情報

2017年08月01日 16時11分36秒 | 天気と自然災害
 横浜市全域に15時38分、土砂災害警戒情報がもたらされた。がけ崩れの危険が高まっているとのことである。
 先ほどからスマホのメールには横浜市から参加に防災メールが届く。川崎・横須賀・鎌倉・藤沢・逗子の各市でも土砂災害警戒情報が出ている。
 さいわい私の住む地域はがけ崩れの恐れはないことになっているが、横浜はがけ地が多い。何事もなければいいのだが。

大雨(土砂災害・浸水害)・洪水警報

2017年08月01日 14時52分25秒 | 天気と自然災害


 横浜市域には14時過ぎに大雨(土砂災害・浸水害)警報が発令となった。14時45分現在では西部の泉区・戸塚区・栄区に時間雨量80ミリの区域が停滞している。
 横浜市のホームページの容量が小さいのだろうか。レインアイよこはまの画面が表示されるまで時間がとてもかかるようになった。アクセスが集中しているらしい。以前から指摘されているがなかなか改善されないようだ。
 強い雨の区域は西から東にながれながら、わすがずっ南下している。

 我が家のある団地の上空では雷がひっきりなしになっている。稲光はまだ感じないが、尾とは鮮明で近くで鳴っているようだ。雨は20ミリ未満の標示であるが、実感としては30ミリを超えていそう。これはなかなか強烈な雷雨が続きそうである。

 15時前に洪水警報も加わった。

 同時に旭区の一部の地域に=「避難準備・高齢者等避難開始」が発令された。(14時51分)

再び大雨・洪水・雷注意報

2017年08月01日 13時54分37秒 | 天気と自然災害
 横浜市域には大雨・洪水・雷注意報が出ている。そしてつい先ほどから弱い雨が雨が降り始めた。次第に大粒になりつつある。
 予報では雷を伴い、かなり強い雨が降るらしい。レインアイよこはまを見ると現在は横浜市域の北部に時間雨量換算で80ミリ以上の雨の区域があり、さらに藤沢市付近から横浜市西部に同様の区域が迫ってきている。雨の区域は西から東にながれている。

 今雷が鳴った。今日は一日閉じ籠りになるのだろうか。

「ベルギー奇想の系譜」展から -1-

2017年08月01日 11時48分16秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
   

 7月25日にBunkamuraザ・ミュージアムで開催している「ベルギー奇想の系譜」展を見てきた。ヒエロニムス・ボスやブリューゲルの説話や諺などに基づく作品は解釈が難しい上に理解が出来ないところも多く苦手である。いつも挑戦しても途中に投げ出してしまう。ブリューゲルの他の作品では当時の習俗を丹念に描いた作品は見ごたえもあるし、構図など面白いものもたくさんあるのだが‥。
 今回も「奇想」ということで、敬遠しかかったが楽しめたこともまた事実である。惹かれた作品、気になった作品を取り上げてみる。
この展覧会は、
1.15-17世紀のフランドル美術
2.19世紀末から20世紀初頭のベルギー象徴派、表現主義
3.20世紀のシュルレアリスムから現代まで
という構成になっている。前後期で1点が入れ替わるのでいづれも132点が展示されている。
 1と2との間の18世紀~19世紀後半までがすっぽりと抜け落ちているのは気になるが、理由は定かではない。



 やはりヒエロニムス・ボス(1450?-1516)の作品から始まる。ボスの作品は1点、そしてボス存命中の工房と思われる作品が1点。ボスの作品は、有名な「トゥヌグダルスの幻視」(1490-1500)。
 ヒエロニムス・ボスの影響はこの地方ではとても大きかったようで、死後も多くの版画や模倣作がつくられている。ヨーロッパのキリスト教以前の信仰や死生観、自然観に基づく説話や習俗や民話は、人類が生存しているどこの世界でも共通であるはずだが、豊かな伝承が拡がっていたのであろう。
 この作品は「トゥヌグダルスの幻視」という位階巡り説話に基づくらしい。放蕩の騎士トゥヌグダルスが仮死状態を体験し、地獄と天国に導かれ恐ろしい懲罰を目にして、目覚めた後悔悛するというもの。怠惰・大食・貪欲などが描かれているが、特徴的なのは人を責めさいなむ怪物の形。この説話と怪物の在りようが、キリスト教的世界が上から覆いかぶさったヨーロッパ地域の信仰や死生観・自然観を反映している。中世以前には色濃くこれらの世界が人々を支配していたはずだ。だからこそ共感を得て、広まったのだと考えられる。絵画の伝統におおきな影響を与えたのだと思う。このような絵画を見ると、ルネサンス期、宗教改革期というのは、中世的世界とキリスト教世界観が人々の具体的な生活にまで降りてきて、そのの中で葛藤した時期なのかと私は感じている。
 また燃える都市が右上に描かれている。旧約聖書のソドムの火災やそれを逃れたロトと娘との話、というのが大きな影響を与えているらしいが、このことについてはまだよくわからないことがある。



 こちらはピーテル・ブリューゲル(父)の原画に基づく版画。「大きな魚は小さな魚を食う」(1557)。ブリューゲルの作品は、農民画家、第二のヒエロニムス・ボス、ネーデルランドの諺の世界と分類されるという。農民の具体的な世界を描いた作品以外にはボス流の怪物などが登場し、当時の人びとを律した観念の世界が描かれている。しかし人文主義者などとの交流も深く、古い世界観、それに覆いかぶさって生きてきた古いキリスト教世界から自由な世界に移行していくようだ。
 この「大きな魚は小さな魚を食う」はわたしたちの諺に移すと「弱肉強食」が近いのかもしれないが、それだけではなさそうだ。この絵を見ると手前の船に親子三代が描かれ、祖父らしき人物が孫に「見てごらん」(ECCE)と呼び掛けている図となっている。
 様々な解説を読んでいるが、未だにわからないことがいくつもある。腹を人間よりも大きなナイフ(世界の象徴である地球儀が描いてある)で割いている人物は甲を被り武装した兵士のようでもある。この世の法則を守る保安官(宮田光雄)という指摘もあるが、なぜ裸足なのか。左手上の魚を咥えて運ぶ足の生え魚はなぜ人間ではないのか(梯子を魚を背負って昇るのは人間なのに)、空を飛ぶ魚は何を象徴しているのか、右側の魚を釣る人物はどうして怪物のような姿に近いのか、右下の魚の上の貝殻は何を象徴しているのか‥疑問がいつもついてくる。
 「ボスの作品には、人類の罪に対する厳しい髪の裁きという地獄図絵の暗さが強く刻印されていた。ブリューゲルには、人間の底知れぬ堕落につしての驚愕にもかかわらず、諦念や絶望ではなく、ユーモラスな笑いへ誘うかのような趣もある」(宮田光雄)という指摘がある。
 ボスの作品にはキリスト教以前の観念が、社会を規定するオドロオドロシイものとして人々を支配していた。しかしブリューゲルには現実の世界を捉える思想を模索しようと新しい思想を摂取しようとしたらしい。中世的な世界を支配していた観念を相対化しようとする考え方への共感もあったのかもしれない。それが時代の推移というものなのだろう。
 ブリューゲルの作品の大きな特徴として、中心がない、あるいは主役がいない、という点が挙げられるという。私も同意見である。有名な「死の勝利」「十字架を担うキリスト」「子どもの遊戯」「農民の婚宴」などどれもが中心はない。「雪中の狩人」も左手前の三人の狩人と猟犬が主題と言えるかもしれないが、画面全体に占める割合は少ない。それよりも俯瞰的に見える村や湖上で遊ぶ人々のようすも等価であるし、遠景の冬山の景色も見逃せない。

   

 この「七つの大罪」シリーズのどれもが、題は七つの罪が挙げられているが、作品自体は中心を持たない。そしておどろおどろしさよりもどこか箱庭的で童話的なところがある。特に建物については今でも絵本の世界に通用しそうである。これが「ユーモラスで笑いへ誘う趣き」という指摘に頷く要因である。描かれている人間や怪物も笑いを誘う者もある。描かれているものの意味は分からないが、不思議な作品だといつも思う。



 ルーベンスの原画に基づく「救世主イエスのモノグラムが現われた煉獄」(1610-40頃)。ルーベンスの絵画はキリスト教絵画しか知らなかったが、このような作品があることは初めて知った。動的でおおきく捩れた人体像の新約聖書に基づく多くの作品は見てきた。ここでは上部に描かれた太陽のような記号がキリストの象徴である。それを救いへの希望として見上げているのであろうか、煉獄の火に苛まれる人間の顔のリアリティに驚いた。同時に煉獄・地獄という概念を具体的に視覚化するにあたって、ボスやブリューゲルの作品世界とは違う世界に基づくイメージのように思えた。どこに断絶があるのか、わからなかった。