7月25日にBunkamuraザ・ミュージアムで開催している「ベルギー奇想の系譜」展を見てきた。ヒエロニムス・ボスやブリューゲルの説話や諺などに基づく作品は解釈が難しい上に理解が出来ないところも多く苦手である。いつも挑戦しても途中に投げ出してしまう。ブリューゲルの他の作品では当時の習俗を丹念に描いた作品は見ごたえもあるし、構図など面白いものもたくさんあるのだが‥。
今回も「奇想」ということで、敬遠しかかったが楽しめたこともまた事実である。惹かれた作品、気になった作品を取り上げてみる。
この展覧会は、
1.15-17世紀のフランドル美術
2.19世紀末から20世紀初頭のベルギー象徴派、表現主義
3.20世紀のシュルレアリスムから現代まで
という構成になっている。前後期で1点が入れ替わるのでいづれも132点が展示されている。
1と2との間の18世紀~19世紀後半までがすっぽりと抜け落ちているのは気になるが、理由は定かではない。
やはりヒエロニムス・ボス(1450?-1516)の作品から始まる。ボスの作品は1点、そしてボス存命中の工房と思われる作品が1点。ボスの作品は、有名な「トゥヌグダルスの幻視」(1490-1500)。
ヒエロニムス・ボスの影響はこの地方ではとても大きかったようで、死後も多くの版画や模倣作がつくられている。ヨーロッパのキリスト教以前の信仰や死生観、自然観に基づく説話や習俗や民話は、人類が生存しているどこの世界でも共通であるはずだが、豊かな伝承が拡がっていたのであろう。
この作品は「トゥヌグダルスの幻視」という位階巡り説話に基づくらしい。放蕩の騎士トゥヌグダルスが仮死状態を体験し、地獄と天国に導かれ恐ろしい懲罰を目にして、目覚めた後悔悛するというもの。怠惰・大食・貪欲などが描かれているが、特徴的なのは人を責めさいなむ怪物の形。この説話と怪物の在りようが、キリスト教的世界が上から覆いかぶさったヨーロッパ地域の信仰や死生観・自然観を反映している。中世以前には色濃くこれらの世界が人々を支配していたはずだ。だからこそ共感を得て、広まったのだと考えられる。絵画の伝統におおきな影響を与えたのだと思う。このような絵画を見ると、ルネサンス期、宗教改革期というのは、中世的世界とキリスト教世界観が人々の具体的な生活にまで降りてきて、そのの中で葛藤した時期なのかと私は感じている。
また燃える都市が右上に描かれている。旧約聖書のソドムの火災やそれを逃れたロトと娘との話、というのが大きな影響を与えているらしいが、このことについてはまだよくわからないことがある。
こちらはピーテル・ブリューゲル(父)の原画に基づく版画。「大きな魚は小さな魚を食う」(1557)。ブリューゲルの作品は、農民画家、第二のヒエロニムス・ボス、ネーデルランドの諺の世界と分類されるという。農民の具体的な世界を描いた作品以外にはボス流の怪物などが登場し、当時の人びとを律した観念の世界が描かれている。しかし人文主義者などとの交流も深く、古い世界観、それに覆いかぶさって生きてきた古いキリスト教世界から自由な世界に移行していくようだ。
この「大きな魚は小さな魚を食う」はわたしたちの諺に移すと「弱肉強食」が近いのかもしれないが、それだけではなさそうだ。この絵を見ると手前の船に親子三代が描かれ、祖父らしき人物が孫に「見てごらん」(ECCE)と呼び掛けている図となっている。
様々な解説を読んでいるが、未だにわからないことがいくつもある。腹を人間よりも大きなナイフ(世界の象徴である地球儀が描いてある)で割いている人物は甲を被り武装した兵士のようでもある。この世の法則を守る保安官(宮田光雄)という指摘もあるが、なぜ裸足なのか。左手上の魚を咥えて運ぶ足の生え魚はなぜ人間ではないのか(梯子を魚を背負って昇るのは人間なのに)、空を飛ぶ魚は何を象徴しているのか、右側の魚を釣る人物はどうして怪物のような姿に近いのか、右下の魚の上の貝殻は何を象徴しているのか‥疑問がいつもついてくる。
「ボスの作品には、人類の罪に対する厳しい髪の裁きという地獄図絵の暗さが強く刻印されていた。ブリューゲルには、人間の底知れぬ堕落につしての驚愕にもかかわらず、諦念や絶望ではなく、ユーモラスな笑いへ誘うかのような趣もある」(宮田光雄)という指摘がある。
ボスの作品にはキリスト教以前の観念が、社会を規定するオドロオドロシイものとして人々を支配していた。しかしブリューゲルには現実の世界を捉える思想を模索しようと新しい思想を摂取しようとしたらしい。中世的な世界を支配していた観念を相対化しようとする考え方への共感もあったのかもしれない。それが時代の推移というものなのだろう。
ブリューゲルの作品の大きな特徴として、中心がない、あるいは主役がいない、という点が挙げられるという。私も同意見である。有名な「死の勝利」「十字架を担うキリスト」「子どもの遊戯」「農民の婚宴」などどれもが中心はない。「雪中の狩人」も左手前の三人の狩人と猟犬が主題と言えるかもしれないが、画面全体に占める割合は少ない。それよりも俯瞰的に見える村や湖上で遊ぶ人々のようすも等価であるし、遠景の冬山の景色も見逃せない。
この「七つの大罪」シリーズのどれもが、題は七つの罪が挙げられているが、作品自体は中心を持たない。そしておどろおどろしさよりもどこか箱庭的で童話的なところがある。特に建物については今でも絵本の世界に通用しそうである。これが「ユーモラスで笑いへ誘う趣き」という指摘に頷く要因である。描かれている人間や怪物も笑いを誘う者もある。描かれているものの意味は分からないが、不思議な作品だといつも思う。
ルーベンスの原画に基づく「救世主イエスのモノグラムが現われた煉獄」(1610-40頃)。ルーベンスの絵画はキリスト教絵画しか知らなかったが、このような作品があることは初めて知った。動的でおおきく捩れた人体像の新約聖書に基づく多くの作品は見てきた。ここでは上部に描かれた太陽のような記号がキリストの象徴である。それを救いへの希望として見上げているのであろうか、煉獄の火に苛まれる人間の顔のリアリティに驚いた。同時に煉獄・地獄という概念を具体的に視覚化するにあたって、ボスやブリューゲルの作品世界とは違う世界に基づくイメージのように思えた。どこに断絶があるのか、わからなかった。