Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

やはり空疎だった安倍首相挨拶

2017年08月09日 22時50分46秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日の長崎市の平和記念式典で、安倍総理は次のように述べた。

 「真に「核兵器のない世界」を実現するためには核兵器国と非核兵器国双方の参画が必要です。わが国は非核三原則を堅持し、双方に働き掛けを行うことを通じて国際社会を主導していく決意です。そして昨年12月、ここ長崎で開催された、核兵器廃絶に向けた国際会議での真摯(しんし)な議論も踏まえながら、核拡散防止条約(NPT)発効50周年となる2020年のNPT運用検討会議が意義あるものとなるよう積極的に貢献してまいります。」

 いつも思うのだが、次の点が不明である。
1.この「非核三原則を堅持」は「法制化」することで諸外国の信用が得られるものではないのか
2.「双方に働き掛けを行うことを通じて国際社会を主導」という「主導」という上から目線のことばは諸外国に信用されないのであらためるべきである。
3.さらに「具体的にどのように、どの国に働きかけ、どのような反応があったのか」明確ではないので、明らかにする義務が政府にはある。
4.「核拡散防止条約(NPT)発効50周年となる2020年のNPT運用検討会議が意義あるものとなるよう」おこなうという具体的な「貢献」が何ら示されていない。

 具体性のない提案は実に空疎なことばの羅列でしかない。だれもそれを信用しない。安倍総理のことばが「軽い」「空虚だ」といわれるのは、いつも具体帝がなく、そして行ったことを平気で無かったことにするからである。
 具体的で、責任ある言動こそ、政治家が信用される最低限のことである。


長崎に原爆が落とされた日

2017年08月09日 20時12分28秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日、長崎に原爆が落とされた日である。以下のようなブログを見た【⇒http://blog.goo.ne.jp/rurou_2005/e/ae459f91e2969b410dcd32a325e2c1d5】。
 私のブログにリンクの貼ってある「言葉の泉一粒の種から言の葉が茂ることを願って」というブログである。
 是非お目とおしを。

2017年長崎・平和祈念式典 平和への誓い

2017年08月09日 12時20分53秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
「核は人類と共存できない。戦争被爆国として果たすべき責務も忘れてはならない」

★長崎・平和祈念式典 平和への誓い 深堀好敏さん

 原爆が投下された1945年8月9日、私は16歳。爆心地から3・6キロ離れた長崎県疎開事務所に学徒動員されていました。11時2分、白い閃光(せんこう)と爆発音を感じ慌てて机の下にもぐり込みました。夕方、帰宅命令が出て、私は学友と2人、金比羅山を越えて帰ろうと山の中腹まできたところ、山上から逃げてくる多くのけが人に「山の向こうは一面火の海だから…」と制止され、翌朝、電車の線路に沿って歩き始めました。長崎駅の駅舎は焼け落ち、見慣れた町並みは消えてなくなり、別世界に迷い込んだようでした。ようやく辿(たど)りついた山王神社近くの親せきの家は倒壊していました。その中で家の梁(はり)を右腕に抱きかかえるような姿で18歳の姉は息絶えていました。あの時、私が無理をしてでも家に帰っていれば、せめて最期に声をかけられたのではないかと、今でも悔やまれてなりません。そのあと大学病院へ向かい、さらに丘を越えると眼下に浦上天主堂が炎上していました。涙があふれ出るとともに怒りを覚え、「ああ、世界が終わる」と思いました。ここ平和公園の横を流れる川には折り重なって死体が浮いていました。私は、三ツ山に疎開していた両親に姉の死を報告し、8月12日、母と弟と3人で材木を井桁に組み、姉の遺体を荼毘(だび)に付しました。その日は晴天でした。頭上から真夏の太陽が照りつけ、顔の正面からは熱気と臭気がせまり目がくらみそうでした。母は少し離れた場所で地面を見つめたまま、ただ祈り続けていました。

 たった一発の原子爆弾は7万4千人の尊い命を奪い、7万5千人を傷つけました。あの日、爆心地周辺から運よく逃げ延びた人々の中には、助かった喜びも束(つか)の間、得体(えたい)のしれない病魔に襲われ多くが帰らぬ人となりました。なんと恐ろしいことでしょう。私は「核は人類と共存できない」と確信しています。2011年3月、福島第一原子力発電所の事故が発生し国内の原発は一斉に停止され、核の脅威に怯(おび)えました。しかし、リスクの巨大さに喘(あえ)いでいる最中、こともあろうに次々と原発が再稼働しています。地震多発国のわが国にあって如何(いか)なる厳しい規制基準も「地震の前では無力」です。原発偏重のエネルギー政策は、もっと自然エネルギーに軸足を移すべきではないでしょうか。戦後「平和憲法」を国是として復興したわが国が、アジアの国々をはじめ世界各国から集めた尊敬と信頼は決して失ってはなりません。また、唯一の戦争被爆国として果たすべき責務も忘れてはなりません。

 私は1979年、原爆で生き残った有志6人で原爆写真の収集を始め、これまでに様々な人たちが撮影した4千枚を超える写真を収集検証してきました。原子雲の下で起きた真実を伝える写真の力を信じ、これからも被爆の実相を伝え、世界の恒久平和と核廃絶のために微力をつくすことを亡くなられた御霊の前に誓います。

 2017年(平成29年)8月9日          被爆者代表 深堀好敏


今年の長崎平和宣言

2017年08月09日 12時10分00秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
「(日本政府の)核兵器禁止条約の交渉会議にさえ参加しない姿勢を、被爆地は到底理解できない」

★長崎平和宣言「ノーモア ヒバクシャ」

  この言葉は、未来に向けて、世界中の誰も、永久に、核兵器による惨禍を体験することがないように、という被爆者の心からの願いを表したものです。その願いが、この夏、世界の多くの国々を動かし、一つの条約を生み出しました。
 核兵器を、使うことはもちろん、持つことも、配備することも禁止した「核兵器禁止条約」が、国連加盟国の6割を超える122か国の賛成で採択されたのです。それは、被爆者が長年積み重ねてきた努力がようやく形になった瞬間でした。
 私たちは「ヒバクシャ」の苦しみや努力にも言及したこの条約を「ヒロシマ・ナガサキ条約」と呼びたいと思います。そして、核兵器禁止条約を推進する国々や国連、NGOなどの、人道に反するものを世界からなくそうとする強い意志と勇気ある行動に深く感謝します。
 しかし、これはゴールではありません。今も世界には、15,000発近くの核兵器があります。核兵器を巡る国際情勢は緊張感を増しており、遠くない未来に核兵器が使われるのではないか、という強い不安が広がっています。しかも、核兵器を持つ国々は、この条約に反対しており、私たちが目指す「核兵器のない世界」にたどり着く道筋はまだ見えていません。ようやく生まれたこの条約をいかに活かし、歩みを進めることができるかが、今、人類に問われています。
 核兵器を持つ国々と核の傘の下にいる国々に訴えます。
 安全保障上、核兵器が必要だと言い続ける限り、核の脅威はなくなりません。核兵器によって国を守ろうとする政策を見直してください。核不拡散条約(NPT)は、すべての加盟国に核軍縮の義務を課しているはずです。その義務を果たしてください。世界が勇気ある決断を待っています。
 日本政府に訴えます。
 核兵器のない世界を目指してリーダーシップをとり、核兵器を持つ国々と持たない国々の橋渡し役を務めると明言しているにも関わらず、核兵器禁止条約の交渉会議にさえ参加しない姿勢を、被爆地は到底理解できません。唯一の戦争被爆国として、核兵器禁止条約への一日も早い参加を目指し、核の傘に依存する政策の見直しを進めてください。日本の参加を国際社会は待っています。
 また、二度と戦争をしてはならないと固く決意した日本国憲法の平和の理念と非核三原則の厳守を世界に発信し、核兵器のない世界に向けて前進する具体的方策の一つとして、今こそ「北東アジア非核兵器地帯」構想の検討を求めます。
 私たちは決して忘れません。1945年8月9日午前11時2分、今、私たちがいるこの丘の上空で原子爆弾がさく裂し、15万人もの人々が死傷した事実を。
 あの日、原爆の凄まじい熱線と爆風によって、長崎の街は一面の焼野原となりました。皮ふが垂れ下がりながらも、家族を探し、さ迷い歩く人々。黒焦げの子どもの傍らで、茫然と立ちすくむ母親。街のあちこちに地獄のような光景がありました。十分な治療も受けられずに、多くの人々が死んでいきました。そして72年経った今でも、放射線の障害が被爆者の体をむしばみ続けています。原爆は、いつも側にいた大切な家族や友だちの命を無差別に奪い去っただけでなく、生き残った人たちのその後の人生をも無惨に狂わせたのです。
 世界各国のリーダーの皆さん。被爆地を訪れてください。 遠い原子雲の上からの視点ではなく、原子雲の下で何が起きたのか、原爆が人間の尊厳をどれほど残酷に踏みにじったのか、あなたの目で見て、耳で聴いて、心で感じてください。もし自分の家族がそこにいたら、と考えてみてください。
 人はあまりにもつらく苦しい体験をしたとき、その記憶を封印し、語ろうとはしません。語るためには思い出さなければならないからです。それでも被爆者が、心と体の痛みに耐えながら体験を語ってくれるのは、人類の一員として、私たちの未来を守るために、懸命に伝えようと決意しているからです。
 世界中のすべての人に呼びかけます。最も怖いのは無関心なこと、そして忘れていくことです。戦争体験者や被爆者からの平和のバトンを途切れさせることなく未来へつないでいきましょう。
 今、長崎では平和首長会議の総会が開かれています。世界の7,400の都市が参加するこのネットワークには、戦争や内戦などつらい記憶を持つまちの代表も大勢参加しています。被爆者が私たちに示してくれたように、小さなまちの平和を願う思いも、力を合わせれば、そしてあきらめなければ、世界を動かす力になることを、ここ長崎から、平和首長会議の仲間たちとともに世界に発信します。そして、被爆者が声をからして訴え続けてきた「長崎を最後の被爆地に」という言葉が、人類共通の願いであり、意志であることを示します。
 被爆者の平均年齢は81歳を超えました。「被爆者がいる時代」の終わりが近づいています。日本政府には、被爆者のさらなる援護の充実と、被爆体験者の救済を求めます。
 福島の原発事故から6年が経ちました。長崎は放射能の脅威を経験したまちとして、福島の被災者に寄り添い、応援します。
 原子爆弾で亡くなられた方々に心から追悼の意を捧げ、私たち長崎市民は、核兵器のない世界を願う世界の人々と連携して、核兵器廃絶と恒久平和の実現に力を尽くし続けることをここに宣言します。
 2017年(平成29年)8月9日             長崎市長 田上富久

横浜に高温注意情報

2017年08月09日 09時40分57秒 | 天気と自然災害
 昨晩台風5号の影響で出ていた波浪・強風注意報が解除したばかりだったが、今朝5時前に横浜市の防災メールが着信。「神奈川県に高音注意情報が発表」とあり、「横浜では8時から21時まで30℃以上になり、最高気温は36℃」との内容であった。
 さらに7時に「熱中症予防情報」が着信。「原則運動中止、予想最高気温36℃」となっていた。
 気象庁のデータを見ても横浜では8時には30.2℃となっており、13時間以上も30℃を超えるらしい。我が家もすでにクーラーのスイッチをオンにした。

 さて、我が家のセキセイインコは、朝がベッドから起きてくると「ギギギギッ」と強いだみ声を出す。早く籠をベランダに出せという催促である。ベランダに出すと「ヒヨヒヨ」とやさし気な声で鳴き始める。要求する時と、要求がかなった時の鳴き声の落差が大きい。これが妻に言わせると「カワイイ」らしいが、私に言わせると「わがままタイプ」で「気が強すぎる」ように思える。
 このセキセイインコは水浴びが好みである。いつものとおり、手ですくった水をかけてやる。この水浴びが好きなようで、水を用意して持って行くと上の止まり木にいそいそと登ってきて、早くかけて欲しいという仕草をする。ときどきは100円ショップで購入した象の形の小さなジョーロでかけてやるが、これはあまり好みではないらしい。手を水に浸して弾いてやるのが一番うれしいようだ。
 この後、籠についた水をふき取ろうとすると、ティッシュペーパーに噛みついてくる。綱引きのようにするのが楽しいようで、毎朝の日課である。ちぎれたティッシュペパーは飲み込まずすぐに捨てるので成り立つ遊びである。昨年急死した雄のセキセイインコはこの紙を食べてしまうので、この遊びは厳禁であった。
 ベランダに籠を出すときはエアコンの室外機の上に籠を置いている。室内でクーラーを使うときは籠は室内に入れる。室外機の音と振動と熱とで、鳥にはよくない環境となってしまう。室内に入れられるのはあまり嬉しくないようだが、文句は言わない。