Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

残暑・秋暑し、秋暑‥

2017年08月25日 21時30分58秒 | 俳句・短歌・詩等関連
★吊革に手首まで入れ秋暑し     小路紫峡
★紙切って鋏おとろふ秋暑かな    片山由美子

 吊革に手首までいれて吊革にぶら下がる仕草。この乗客は暑さにまいっているのだろう。吊革にぶら下がるさまは夏や残暑の候に限らず、冬でも新年でも春でも見かける。しかし湿気の多い暑さに耐え、何とか秋口まで我慢したものの、ぶり返しの暑さにまいってしまったのでろう。電車の中で立っているのだから、それなりに混雑している車内、それも夕方の帰り際とは思えない。朝の通勤時か、仕事中のようすだと思う。車内のクーラーはきっと効いていない。あるいはお盆の帰省、家族サービスで疲れてしまった勤め人と想像を広げられる。
 長年使っていた鋏の切れ味のちょっとした変化に残暑の暑さを結びつけた。根拠はないが、どこかで納得してしまう。鋭利な切れ味の鋏も、暑さで刃がなまってしまった。冷たい光が刃には残されていない。それは多分鋏を使う人の疲れ、だるさの反映である。


今日も暑かった‥

2017年08月25日 20時55分40秒 | 天気と自然災害
 天気予報どおりとても暑い陽射しであった。しかし実際のところ最高気温は昨日よりも0.2℃低かったとのことである。
 このように高い気温の予報が外れるのはありがたい。予報どおり台風がきたり、悪天候となるのがありがたくないのと同じ心境である。悪影響の無い方に予報は外れてもらいたいものである。

 本日の午後は労働組合の会館の退職者会のコーナーの整理整頓日。事務局の3人で片付けを行った。何年かぶりなので書類がそれなりに溜まってしまった。机の周りと戸棚をきれいにして広めのスペースを確保できた。パソコンとプリンターを購入して事務作業ができるようにしていきたい。

 明日は夕方から退職者会のあるブロックの暑気払いにご招待を受けた。そのかわりといってはいけないかもしれないが、亡くなった方のミニアルバムを作成して持参することになった。参加人数分プラスαのミニアルバムはすでに出来上がった。アルバムといっても無くなった方が写っている写真を7枚ほど貼り付けてA5で6頁だけだが、それでも思い出にはなる。

髪の毛

2017年08月25日 09時40分17秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 横浜では昨日は34.8℃であった。本日は気温はさらに高くなるという予報が出ている。昨日1000円の理髪店に行った。あまりの暑さに思い切って短くしてもらった。左右と後ろは3ミリのバリカンで刈り上げるのはいつものことである。昨日は思い切って前と天辺もバリカンで借り上げてもらった。この部分は最大で10センチ近くあった。これを15ミリの長さに揃えてもらった。
 前と天辺は髪はまばらで、生えているのもぼ白髪で髪は細い。しかしこの長さでは横に寝ないので、短く刈った芝生のようにまっすぐ上に飛び出ている。とても上品とはいえず、美しくもない。そして汗が一瞬でもとどまることなくそのまま顔にながれてくる。かえって暑いのだそうだ。だが、気分的にはとても涼しく感じる。
 本当は全体を3ミリのバリカンで短くしてもいいのだが、それでは妻が嫌がる。嫌がっても短くしてしまえば、妻としてはどうしようもないのだが、そこまでは嫌われないように遠慮している。
 不思議なもので耳のすぐ上から後頭部にかけての一帯は髪の勢いは良いそうで、そこだけは伸びるのも早い。髪の伸び方にも場所によって差があると理髪店で云われた。まだ1000円の理髪店がないころに職場の近くの店での指摘であった。
 今回かなり短くしたのに、帰宅後も妻は何も言わない。髪を切ったことに気づいていないようだ。どうも私の髪の毛などまったく気にしてはいない、眼中にないように見える。


「書く」ということ

2017年08月25日 08時20分28秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 中学2年の後半になったとき、国語の教師が面白いことを言ったのを覚えている。「読んでいいと思った文章は、是非書き写してみる、声に出して読んでみるということをしてみたらいい発見がある」というのだ。
 その先生はたしか2学期の最後だったと思うが、クラス全員に課した作文のひとつを読んだ。その内容はもう忘れてしまったが、私の友人の作文であった。たかだか原稿用紙で2枚にも満たない作文の課題だった。しかし確かに中学2年の渡しにも過不足なくまとまった文章だったと記憶している。
 その国語の教師は「私も最初この作文はいいと思ったが、どこがいいと具体的にすぐにはわからなかった。だから全部書き写してみた。次に声に出して朗読してみた。ようやく、この作文のいいところが具体的にわかった」といって、その個所、また接続詞の使い方のポイントを指摘していた。
 私の文章が読まれなかったのは残念だった、という思い以上に私が毎日のように一緒に登下校している友人の文章であったことが、どこか誇らしかった。以来、教師の指摘した言い回しを真似してみたが、うまい作文には仕上がらなかったことも覚えている。
 しかしそれ以来気に入った文章、気になった文はときどきメモ用紙に移したりすることをしていた。メモをキチンとノートにとって保管するなどということはしなかった。今でこそすっかりなくなったが、裏に印刷をしていない新聞の折込広告紙をまとめたメモに書き散らして、すぐに捨ててしまう。それでも書き移すという行為には違いない。
 学生時代、就職して以降というのはそのような行為はすっかり忘れてしまい、「筆記する」ということから遠ざかったしまった。特にボールペンという力を入れないと書けない筆記具では指と手首に負担がかかって書くのがきらいになった。
 キーボードを使うワープロというものが登場して以降、「書く」(というよりも「打つ」)ということが楽になった。ワープロを購入して自宅で使うようになって、時々書き写すことを再びするようになった。ただし打ち出すことはほとんどなく、当時のフロッピーディスクにためておいてそのままにしておいた。
 多くの人は「「キーボードを打つ」と「書く」という行為は似て非なるものである」という。確かに漢字は書けなくなるし、脳の思考回路も違うのかもしれないが、それでも、いい文章の核となるところを再度追体験したりするのが簡単である。特にボールペンのように力を入れなくて済む。
 中学生のころは鉛筆や万年筆という力をそれほど入れなくとも書きつづけられた筆記具が多かった。今では力を入れなくとも文章を綴ることのできるキーボード入力は、指に優しい。長時間仕事で打ち続けることとの苦痛とはちがう。
 また、キーボードを打つ、ということは書くという行為よりは頭には入っていないのかもしれない。だが、他人の文章の秘密に触れ、その核心を追体験するという行為が楽にできるということは、とても楽しいことだとこの歳になって思えるようになった。
 ただし、「声に出して朗読する」ということが未だに私は不得手である。人前でしゃべるとは労働組合の役員としてそれなりの鍛えられ方をしたが、文学作品や詩などを朗読するのは、なかなかうまくできない。
 もうひとつ、書き写すことは出来ても、いい文章を自分で作るということはやはりまた違うことである、ということも理解した。いつまでたっても自分の文章はくどくて、判りにくい。うまくならない。このことは何とも致し方ない。情けない限りである。