Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

久しぶりの晴れ

2017年08月21日 23時57分45秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 作成中の退職者会ニュースの約45%が出来上がった。明日一日と水曜日の午後までに何とか仕上げなくてはいけない。ギリギリである。
 毎回のこととはいえ、いつもギリギリでないと出来上がらない。現役時代の仕事のようでもある。

 二日続けてかなり歩いたので本日は距離も時間も早さも少な目に歩いた。しかし暑さがもどり、汗の量はあまり変わらなかったかもしれない。
 夜のウォーキングも少しだけ。夜空には久しぶりに雲があまりなかった。ところどころに星を見たものの、ちらっと見ただけで気にせず歩いた。

 この我が家のパソコン、相変らず、画面の展開が遅くなったまま改善しない。しかも時々画面が固まってしまう。長時間使っていると次第に頻繁に固まってしまう。変な変換結果が勝手に確定してしまう。使いづらいこと甚だしい。友人から Microsoft Edge がおかしいというアドバイスがあるが、どうしたら元に戻るかはわからないという。

噴水

2017年08月21日 22時04分27秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 昨日ウォーキングの最中に横浜美術館の前を通ると、いつものように噴水で多くの子どもたちが遊んでいた。この水は消毒していません、と表示があるが、だからといって遊ぶのをやめる子はいないし、止める親もいない。

 噴水の句は難しい、といわれる。

★噴水のしぶけり四方に風の街     石田波郷
★噴水の内側の水怠けをり       大牧 広
★崩るると見せて噴水立ち上がる    成井 侃


第1句、「風の街」というのがいい。このような爽やかな風景の一方で、今では大きな高層ビルの下に公園に噴水が設置されているところが多い。夏のビル風にあおられて噴水の水が霧のように舞っている。仕事で行き交う歩行者には迷惑施設でもある。ただし見学者である私のような者には、涼しさを呼び込むようで面白い。時々小さな虹もできる。ビル風を計算に入れないセンスの悪い噴水でも、そのマイナスイメージで楽しむことは出来る。
第2句と第3句、これはじっと執拗なくらい観察した句だな、と思う。ただし内側の水も丸いおおらかな光を発するという働きはしている。内側の水と外側に飛び散る水滴の光の違いをキチンと読みこんでいると感じた。「崩るる」と見せるのは外側、立ち上がるのは内側。

他人と自分の時間

2017年08月21日 11時43分29秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 新聞の原稿作りをしているが、訃報から作り始めた。訃報を書くということは、気は進まない。しかも来月号には訃報がふたつ掲載される。退職者会の新聞なので、訃報が多いのはある意味ではやむを得ないことはわかっているが、私が新聞を編集し始めて前号に続いて訃報が掲載されるということ、しかもふたつというのは初めてである。

 訃報を短い文章で過不足なく書くということはとても難しい。いかにその方をよく見ていなかったか、ということを自覚する過程でもある。
 人は他人を見るとき、その人の顔の向こう側に自分なりに勝手に作り上げたイメージを貼り付かせてしまう。その時点で客観的事実についても間違いもあるし、前後の脈絡に関係なくたった一言から受けた印象を付加して作り上げたイメージも貼り付ける。
 濃密な時間を共にすることがあれば少しずつそのイメージを改善していくこともできるが、たいていの場合は一度出来上がったイメージはなかなか作り替えることは難しい。上書き指定っても、付き合いが少し疎遠になっただけで、薄皮はすぐにはがれ、核になっているもとのイメージだけが記憶の底に横たわっている。あとから上書きされたイメージというのは余程強烈なインパクトがないと核の部分に接着しないという特性があると思う。
 特にそのかたが歩んだ時間と私たちがその人をとおして体験した時間は違う。遺族や、特に親しかったかたとのこの体験の差はおおきい。ヘタな訃報を書くと短文とはいえ、異議申し立ても出てくる。「その程度の差は編集者の判断だ」と言い放つことは少なくとも訃報に関しては難しい。
 そうなのだ、人は他人をほとんど理解していないのだ。人は孤独に、自分の時間を抱きしめて死んでいく。その人の体験した時間はその人のものでしかない。そしてその人の死とともにその体験した時間は消滅する。当たり前といえば当たり前のことだあるが‥。