★啄木が死んだこの頃の白つつじ 中塚一碧楼
★草に寝れば空流る雲の音聞ゆ 芹田鳳車
★船をのぼれば島人の墓が見えわたり 野村朱鱗洞
いづれも荻原井泉水が編集する新傾向俳句の「層雲」に掲載された句である。読みかけのままパソコンの横の棚に放置していた「俳句の変革者たち」(青木亮人、NHK出版、2017.4)所収。
今は新傾向俳句や自由律俳句はほとんど埋もれてしまい、尾崎放哉などが読まれ続けている以外はその成果は滅多に眼にすることもない。私もほとんど知らない。
ときたまこのような本に紹介されるのを目にするくらいだろうか。たまに見るということだけの理由ではなく、とても新鮮である。個人の心象風景にこだわり、そして定型にこだわらずに作る人の内的・個人的なリズムに重きを置いた作品におおいに惹かれる。
大正期初めの時代を踏まえつつ、味わいたいと思うがなかなか能力がない。
私の勝手読みのそしりは免れないと思うが、次のような感想をもった。
第2句、特に季節は限定する必要はない。季節ということに囚われずに、自己と観念が空という自然に溶け込んでいくようす、自然を前にさまざまな人間社会の軛を解き放ち、解体してく自己が感じ取れる。穏やかな風景や時間へのあこがれと解釈すると途端につまらなくなる。「雲の音が聞こえる」という不思議な感覚を手繰り寄せると、人間関係のわずかな綻びが次第に大きな軋轢となって自分を押しつぶそうとする、という強迫に近い観念が見えてくこないだろうか。
そんな思いは多分、「空流る」という表現から連なってくるリズムの綻びによるのではないか。6-5-8と読むか、6-8-5と読むか、6-5-5-3と4つの句に切るか、区切り方による逡巡と不可分ではないようだ。
音律と意味との不思議な関係がいつもこれらの句につきまとう。私はそれが好みでもある。
★草に寝れば空流る雲の音聞ゆ 芹田鳳車
★船をのぼれば島人の墓が見えわたり 野村朱鱗洞
いづれも荻原井泉水が編集する新傾向俳句の「層雲」に掲載された句である。読みかけのままパソコンの横の棚に放置していた「俳句の変革者たち」(青木亮人、NHK出版、2017.4)所収。
今は新傾向俳句や自由律俳句はほとんど埋もれてしまい、尾崎放哉などが読まれ続けている以外はその成果は滅多に眼にすることもない。私もほとんど知らない。
ときたまこのような本に紹介されるのを目にするくらいだろうか。たまに見るということだけの理由ではなく、とても新鮮である。個人の心象風景にこだわり、そして定型にこだわらずに作る人の内的・個人的なリズムに重きを置いた作品におおいに惹かれる。
大正期初めの時代を踏まえつつ、味わいたいと思うがなかなか能力がない。
私の勝手読みのそしりは免れないと思うが、次のような感想をもった。
第2句、特に季節は限定する必要はない。季節ということに囚われずに、自己と観念が空という自然に溶け込んでいくようす、自然を前にさまざまな人間社会の軛を解き放ち、解体してく自己が感じ取れる。穏やかな風景や時間へのあこがれと解釈すると途端につまらなくなる。「雲の音が聞こえる」という不思議な感覚を手繰り寄せると、人間関係のわずかな綻びが次第に大きな軋轢となって自分を押しつぶそうとする、という強迫に近い観念が見えてくこないだろうか。
そんな思いは多分、「空流る」という表現から連なってくるリズムの綻びによるのではないか。6-5-8と読むか、6-8-5と読むか、6-5-5-3と4つの句に切るか、区切り方による逡巡と不可分ではないようだ。
音律と意味との不思議な関係がいつもこれらの句につきまとう。私はそれが好みでもある。