フェルマン・クノップフ(1858-1921)の作品をもう一度見てみたい。今回19点もの作品が展示されていた。
私は、クノップフの作品は「見捨てられた街」という人のいない静かな街角というよりは、「死」が佇み、水にひたひたと覆われてしまいそうな街の一角を思わせる絵が好きだ。実際の作品を見たわけではなく、多分講座の中で紹介を受けたように記憶している。
前回この「ボストン美術館の至宝展」では、「ブリュージュにて、聖ヨハネ施療院」を見た時に「見捨てられた街」を思い出した。ともに1904年、画家の46歳の作品である。これも運河らしい水に覆われて「死」にゆく街の一角に思えた。しかし他のクノップフの作品はラファエロ前派の作品の影響が極めて濃厚な女性像が並ぶ。絵の雰囲気は似ているが、街の風景の作品と女性像の作品を貫くものは何なのか、解らないままである。
《見捨てられた街》
《ブリュージュにて、聖ヨハネ施療院》
「見捨てられた街」はクノップフが幼い頃住んでいたブリュージュという町に住んでいた。しかし描かれた街は思い出や懐かしさから程遠い。「ブリュージュにて‥」という作品も草も木も、そして鳥も犬・猫も、まして人間もいない。生あるものはまったく排除されている。時というものも喪失しているようだ。
ブリュージュは中世からルネサンス期にかけて国際貿易港として栄えたという。港湾に土砂が堆積し港の機能が無くなり廃れた。そんな街に住む妻を亡くした主人公が妻の俤にすがりながら町を生けるしかばねのごとく彷徨するという小説「死都ブリュージュ」。この小説に感銘を受けてこの時期に描いたらしい。
中野京子は「怖い絵」で次のように記している。「クノップフは六歳下の妹を生涯愛し続け、彼女が結婚して去って行くまで、異常なほどの執着で彼女の顔を描いた。‥妹が生まれたのはブリュージュだった。彼女に去られ、「死都ブリュージュ」を読んだあと、クノップフはこの町がにわかに特別な存在となった。‥小説の主人公にとっての亡妻と、クノップフにとっての妹は、おそらく同じ存在だったのだろう。」「この絵の何か怖いかといえば、思い出に囚われたまま滅びてゆこうとする人の心が伝わってくるからだ。‥過去の遺物がすでに死を内包しているのはわかっても、それでもどうしようもなく恋着し続ける。そんな死に取り憑かれた人の心が伝わってくる。‥それにしてもその死の、なんと甘美なことか!」
この中野京子の評が的を得ているのか、判断はわからない。しかし「見捨てられた街」という作品が「死」を建物の中に秘めていること、その「死」とともに永遠に忘れさられてしまいたいという甘美な意識は伝わってくる。
このクノップフという画家が内向的な思いを生涯のどこで手にしたのかはわからないが、少なくとも40代中半までそれを抱き続けていたことは確かだ。この時点でもこの画家にはすでに生活の匂いが希薄なことがわかる。
「ベルギー奇想の系譜」展の図録には「19世紀末ようやくブリュージュは再発展を始めるが、画家は変貌を嫌い、町を通るときにはサングラスをかけてできるだけ見ないようにしていた‥。表現したかったのはその静けさそのものであった‥。動きのない水は、と時が止まっていることを象徴している。」と記されている。
中野京子は「妹の存在」に踏み込んでこの「静かさ」あるいは「死の内包」のイメージの根拠を求めているが、解説ではそこまでは踏み込んでいない。
私は「妹の存在」だけではないもの、「妹の存在」が契機であったかもしれないがそれを「甘美な誘惑」として画家に強いた内的な何かが、あると思える。それが何かがわからないもどかしさがある。自分に即して考えても同じである。
私が周囲の人間にのぞみたいのは、私の死後には私の存在そのものを静かに忘れ去ってほしい、ということだ。それはとても強い願望である。何を胸に抱えてそれを祈ったらよいのか、いつも考えている。同時にそんなふうになった自分はどこでそのような観念に取り憑かれたのか、自分でもわからない。
さて、二つの作品を見比べると、「見捨てられた街」の方は圧倒的に空の占める空間が大きい。「ブリュージュにて、聖ヨハネ施療院」には左上の建物の屋根の上に微かに空があるはずだが空としては描かれていない。運河に映った建物群からは空も描かれてしかるべきだが、運河の暗い色に空は映っていない。
空のある分、建物の内向きのベクトル、建物に内包される何ものか、が暗示されている。「見捨てられた街」の方が私は完成度は高いのかと感じている。また建物から何かしらの物語を感じる。また海から海水が広場に広がってきているように見える。この浸食する海水は、そのまま水没し時が建物内部を侵食しつつも永遠に忘れ去られる人間の存在した「何か」を呼び覚ましてくれる。