クロード・モネに「かささぎ」(1869)という私の好きな作品がある。2014年9月にこのブログで取り上げた。オルセー美術館展(2014、国立新美術館)で展示されていた。
そこで「かささぎの止まっている木の枠は、手前の農園と向こう側の道を仕切る門であろう。かささぎが人工物である門に止まっている。しかし仕切られている門の手前と向こう側には人の歩いたような跡がある。早朝に、すでに人が一仕事を終えた痕跡がこの絵にはある。人はいない風景画であるが、人の労働や活動の痕跡を何気なく描き込むことで、動きが暗示されていないだろうか。何かしらのドラマも潜んでいるとの暗示を感じる」と私は記した。この最後の「ドラマ」が何か暗いものを暗示しているような気分は確かにあった。
太陽の光のの明るさとは正反対の何か不吉なものを感じた。それを雪と太陽光が隠してしまってわからなくなっているものとは何だろうか。そんなことを考えていた。
そんなおり、「怖い絵」(中野京子、角川文庫)を書店で立ち読みしていたら、ブリューゲルの「絞首台の上のかささぎ」(1568)を取り上げていた。すぐに購入して喫茶店で続きを読んでみた。
そこではかささぎがヨーロッパでは「偽善」「魔女」「悪魔鳥」「盗み」「おしゃべり」「中傷」そして「密告」などの暗喩となっているとのことが述べられていた。
中国・朝鮮半島・日本では反対に鳴き声が好まれ、幸福・吉報を呼ぶ鳥とされた。
フリューゲルの頃のネーデルランドでは宗教改革の嵐の中やスペインの支配を受けることで、魔女狩りや異端審問が激しかった。この作品についてブリューゲルがつ前の夕言で「かささぎによって口煩い人々を表し、絞首台に送った」と述べているというエピソードがあるらしい。小池寿子は「かささぎは中世以来、悪魔や魔女に使える不吉な鳥とされるか、ここでは絞首台やかささぎ、右手前の牛の頭蓋骨などが死の脅威を感じさせる。‥身近な暮らしとそこにひそむ不安を広大な自然と共に描いた」と記している。(ブリューゲルへの招待、朝日新聞出版、2014)。
モネがかささぎにどのような意味づけをしたのか、これはわからなかった。フリューゲルの時代からひきづる不吉なものの暗示として描いたか、あるいは新しい美術の新しい表現の一環としてそのような古い観念から脱却した、「かささぎ」を描きたかったのか、それは今のところ不明である。
私は「かささぎ」は黒と白の鳥であるが、モネの作品では黒い鳥として描かれれている。そこからカラスを連想した。日本でも「カラス」の取り扱いはなかなか微妙である。古事記のころのカラス天狗のイメージ、和歌の世界からはカラスは決して「雅」なものではなかったが、芭蕉が「枯枝に烏のとまりたるや秋の暮」で新しい俳諧の世界にカラスを位置づけ、絵画では暁斎が「カラス」で一世を風靡した。明治以降「七つの子」の童謡に歌われたようにカラスは郷愁を誘うイメージだったが、高度成長時代の都市化の進展で一気にゴミをあさる悪者のイメージが定着して今ではすっかり悪者・嫌われ者の扱いになっている。このように鳥のイメージは大きく変わるものである。
モネとフリューゲルの描いた「かささぎ」、それぞれに重要な意味合いがあるようだが、特にモネは果たしてどのようなイメージでかささぎを描いたのであろうか。とても気になってきた。