ここ40年、元号はほぼ使ったことはない。少なくとも自分が書く文章では自分から元号は使わない。生年月日を聞かれても元号は使わないし、記載しない。
別に西暦が正しいとは言わない。この西暦起源だってキリスト生誕という言い伝え自体が怪しい。利点は世界的に流通している範囲が広い。すくなくとも天皇という一人の人生に自分の人生の段階や、世界で起きている事象をあてはめるということはない。1868年以来5人の天皇の代替わりのたびに面倒な計算をしなくて済む。元号の切り替え時には一年の間に二つの元号が混じるなんていう面倒はない。
他人の頭の中が元号で整理されているか、西暦で整理されているか、どちらかを使い慣れているか、わたしには興味はまったくない。それぞれが使いたいものを使えばいいと思っている。人に元号を強制しなければいいのだが、これに固執する人が多いことが問題である。
私は生れは1951年、昭和で言えば26年である。1975年頃までは、「戦後〇〇年」という表現が主流だったと思う。私はこちらの方がずっと身近に育った。こちらの方が、当たり前の時代だったと思っている。戦後歴、元号、西暦の三つの時代表記が混在していた。考えれば日本は不思議な国である。
少なくとも私は私は元号は使うことはまずない。これまでもこれからも。
別に西暦が正しいとは言わない。この西暦起源だってキリスト生誕という言い伝え自体が怪しい。利点は世界的に流通している範囲が広い。すくなくとも天皇という一人の人生に自分の人生の段階や、世界で起きている事象をあてはめるということはない。1868年以来5人の天皇の代替わりのたびに面倒な計算をしなくて済む。元号の切り替え時には一年の間に二つの元号が混じるなんていう面倒はない。
他人の頭の中が元号で整理されているか、西暦で整理されているか、どちらかを使い慣れているか、わたしには興味はまったくない。それぞれが使いたいものを使えばいいと思っている。人に元号を強制しなければいいのだが、これに固執する人が多いことが問題である。
私は生れは1951年、昭和で言えば26年である。1975年頃までは、「戦後〇〇年」という表現が主流だったと思う。私はこちらの方がずっと身近に育った。こちらの方が、当たり前の時代だったと思っている。戦後歴、元号、西暦の三つの時代表記が混在していた。考えれば日本は不思議な国である。
少なくとも私は私は元号は使うことはまずない。これまでもこれからも。