昨晩は上弦の半月、九日月ともいう。特に昨晩は薄曇りの空で朧に霞んで見えた。南風が吹き、生暖かい風に吹かれた夜の軽い30分ほどのウォーキングの間、月ばかりが気になった。今春、はじめておぼろ月を見たような気分になった。おぼろ月はいい。薄い絹のような布を通して見ているようで、南風のほのかな暖かさと響き合う。そして冬とは違って適度な湿度が体を包んでくれる。
さいわい花粉症ではないので、春の風に身を晒すことは問題がない。
★大原や蝶の出て舞ふ朧月 内藤丈草
★おぼろ夜のかたまりとしてものおもふ 加藤楸邨
第1句、内藤丈草のこの句、中学3年が高校1年の頃だったかに教科書ないし参考書で読んだ記憶がある。この朧月、私は満月だと感じた。朧の月なので満月でないと蝶が見えないはずだと思った。しかし当時いつも学校の帰りに一緒だった友人W君が三日月の方がいいと言った。三日月のあの形の周りを飛ぶ蝶の方が軽やかに見えるというのだ。三日月だとすると蝶は高く飛んで、月と蝶を同時に見る情景である。私の感じた満月ならば、月の灯りに照らされた蝶だから月と蝶は別々に見得ている。月あかりの中を蝶が飛んでいる。さてどちらがよりこの句のイメージに近いのだろうか。そこまで厳密でなくてもいいのかもしれない。若い頃の思い出である。
いつだったか、ずいぶん後になって夜に飛ぶのだから、現代で言えば蝶ではなく蛾ではないか、という指摘があるのを知った。だが果たして春の夜に蛾が飛ぶのか、というと心もとない。
蝶でも蛾でもないとすると、これは心象風景、あるいは実景とは離れた句になる。すると切れ字を持つ「大原」から、平家物語や謡曲「大原御幸」の建礼門院の隠棲の地を引き合いに出す鑑賞があることを知った。蝶と月は誰のことになるのか、想像が飛躍する。しかしこれは飛躍し過ぎないか。さらには蝶は遊女の喩え、というとらえ方があることも知った。遊女というのはあまりに穿ち過ぎでないか、と思っている。
第2句、「おぼろ夜」といって月という語がないが、これでおぼろに霞んだ月を指すこともある。好きな俳人の句である。何回か取り上げていると思う。「かたまりとして」をどのように受け取るのか、読む時々によって違うように受け取っているかもしれない。
むろん朧の月が、空との境界があいまいでもれっきとした月の存在感がある、というのである。同時に作者の心のうちに何かのイメージの確かな核をもった存在感のある事象・考えがあるのだろう。それを近いうちに他人に表明する決意なるものを感じ取ることもできる。ある決意、それは結構重たい決断なのかもしれない。
1973年の句で、10番目の句集「吹越」におさめられている。作者が68才になる年である。特に年表ではこの年に大きな事象は記載されてはいないが、秘めた何かを想像したくなる。なお、まったくの余談だが、奇しくも私も今年間もなく68歳になる。