終日曇り空であったが、寒くはなかった。最高気温は正午前の19℃であった。
午後から20日(土)の退職者会の総会の準備のために、買い物や配達依頼をしてから、組合の会館へ。若干の準備作業をしてから帰ってきた。
後は爽快の議案書の印刷・製本が残っている。金曜日がその作業日である。
夕食後、こんな詩を思い出した。思い出したのはいいが、本棚の何処を探したら元の詩が出てくるか途方に暮れていた。さんざん本をひっくり返しているうちに、ようやく「鮎川信夫著作集第1巻」の中に見つけた。1973年8月の発行となっている。学生時代に2500円という大金を払って購入していた。この第1巻は詩集なのだが、拾い読みした記憶は残っている。
いくつかの詩が私の心に響いた。「アメリカ」「風景」「1948年」「秋のオード」「行人」「繋船ホテルの朝の歌」「橋上の人」「神の兵士」などに印がついている。心の片隅のどこかに記憶していた。購入した1973年は私が大学に在学して4年目、学部の学生であった。どうしても馴染めず、学部に在籍していてもほとんど配属された研究室に顔を出すこともあまりなく、顔を出しても美味しくもないインスタントコーヒーを飲んで一時間ほどで抜け出して、仙台の街中を彷徨する毎日だった。学校での疎外感が募るばかりでひたすらもがいていた時分である。
ただし授業以外、研究室での課題以外の本は実にたくさん読んだ。その中の一冊である。この詩のことが心に残っていた理由はわからない。本当にふと、心に浮かんできた。
夕陽 鮎川信夫
夏草のうえの屋根が
すっかり見えなくなった
さっきまで子供たちが戸口から顔を出していたのに
みんな見えなくなってしまった
わたしの背後で
町はだんだん小さくなってゆく
なにもかも光と影のたわむれにすぎない
ほそい声で虫がないている
なんだってはじめからやり直したりするのか
思出の片隅でじっとしていればよいのに
さあ丘をのぼるとしよう
この夏さえすぎれば
また冷たい風が吹いてきて
わたしの心をいたわってくれるけれど
空を追いつめて ここまでくると
これはもう丘とはいえない
高いところへ追いつめられて
さらに高い頂きから
より高い青空の窪みへ落ちてゆく
ああ 虚心の鏡に映る
いちばん深い青空よ
これは爽快だ わたしにも
とおくて近いこんな夕陽が沈みつつあったのか
この詩は、鮎川信夫が1952年に作った詩の中におさめられている。この詩の「夕陽」という題名も不確かであった。「こんな詩があったな」くらいに心に浮かんできた。しかしめくってみると「サイゴンにて」の次に鉛筆でチェックがこの詩の題名のところにもついていた。確かにこの詩が心に浮かんだ詩であった。
読み易かったからか、意味が通じたからか、ただ46年前の鉛筆の跡を懐かしく思い出した。
この詩の最後の「より高い青空の窪みへ落ちてゆく/ああ 虚心の鏡に映る/いちばん深い青空よ/これは爽快だ わたしにも/とおくて近いこんな夕陽が沈みつつあったのか」に印がついている。こんな風な表現ができることが羨ましかったのだろうか。
もう一度、この著作集第1巻を読み返してみたくなった。解説は「鮎川信夫の詩」と題した大岡信、「ゆたかな地平線とくるしい黙祷」と題した渋沢孝輔である。
【追記】
・1973年8月は第4次中東戦争をきっかけとした異常な物価高騰の直前であった。インフレに対する切実感はなかった。当時仙台での学生のアルバイトは肉体労働で1500円を少し上回りかけ、軽作業のアルバイトで1200円であったから、2500円という本の定価はアルバイト二日分であり、極めて高価であった。2019年の現在でも2500円の本はおいそれとは購入できない。美術展の図録に相当する。
・就職してから購入した、復刻本の「荒地詩集」「詩と詩論」にはこの詩は含まれていない。わたしが1971年か72年に初めて目にした鮎川信夫の戦争を色濃く引きづった詩とはおもむきの違う一面に新鮮な印象を受けたと思う。
午後から20日(土)の退職者会の総会の準備のために、買い物や配達依頼をしてから、組合の会館へ。若干の準備作業をしてから帰ってきた。
後は爽快の議案書の印刷・製本が残っている。金曜日がその作業日である。
夕食後、こんな詩を思い出した。思い出したのはいいが、本棚の何処を探したら元の詩が出てくるか途方に暮れていた。さんざん本をひっくり返しているうちに、ようやく「鮎川信夫著作集第1巻」の中に見つけた。1973年8月の発行となっている。学生時代に2500円という大金を払って購入していた。この第1巻は詩集なのだが、拾い読みした記憶は残っている。
いくつかの詩が私の心に響いた。「アメリカ」「風景」「1948年」「秋のオード」「行人」「繋船ホテルの朝の歌」「橋上の人」「神の兵士」などに印がついている。心の片隅のどこかに記憶していた。購入した1973年は私が大学に在学して4年目、学部の学生であった。どうしても馴染めず、学部に在籍していてもほとんど配属された研究室に顔を出すこともあまりなく、顔を出しても美味しくもないインスタントコーヒーを飲んで一時間ほどで抜け出して、仙台の街中を彷徨する毎日だった。学校での疎外感が募るばかりでひたすらもがいていた時分である。
ただし授業以外、研究室での課題以外の本は実にたくさん読んだ。その中の一冊である。この詩のことが心に残っていた理由はわからない。本当にふと、心に浮かんできた。
夕陽 鮎川信夫
夏草のうえの屋根が
すっかり見えなくなった
さっきまで子供たちが戸口から顔を出していたのに
みんな見えなくなってしまった
わたしの背後で
町はだんだん小さくなってゆく
なにもかも光と影のたわむれにすぎない
ほそい声で虫がないている
なんだってはじめからやり直したりするのか
思出の片隅でじっとしていればよいのに
さあ丘をのぼるとしよう
この夏さえすぎれば
また冷たい風が吹いてきて
わたしの心をいたわってくれるけれど
空を追いつめて ここまでくると
これはもう丘とはいえない
高いところへ追いつめられて
さらに高い頂きから
より高い青空の窪みへ落ちてゆく
ああ 虚心の鏡に映る
いちばん深い青空よ
これは爽快だ わたしにも
とおくて近いこんな夕陽が沈みつつあったのか
この詩は、鮎川信夫が1952年に作った詩の中におさめられている。この詩の「夕陽」という題名も不確かであった。「こんな詩があったな」くらいに心に浮かんできた。しかしめくってみると「サイゴンにて」の次に鉛筆でチェックがこの詩の題名のところにもついていた。確かにこの詩が心に浮かんだ詩であった。
読み易かったからか、意味が通じたからか、ただ46年前の鉛筆の跡を懐かしく思い出した。
この詩の最後の「より高い青空の窪みへ落ちてゆく/ああ 虚心の鏡に映る/いちばん深い青空よ/これは爽快だ わたしにも/とおくて近いこんな夕陽が沈みつつあったのか」に印がついている。こんな風な表現ができることが羨ましかったのだろうか。
もう一度、この著作集第1巻を読み返してみたくなった。解説は「鮎川信夫の詩」と題した大岡信、「ゆたかな地平線とくるしい黙祷」と題した渋沢孝輔である。
【追記】
・1973年8月は第4次中東戦争をきっかけとした異常な物価高騰の直前であった。インフレに対する切実感はなかった。当時仙台での学生のアルバイトは肉体労働で1500円を少し上回りかけ、軽作業のアルバイトで1200円であったから、2500円という本の定価はアルバイト二日分であり、極めて高価であった。2019年の現在でも2500円の本はおいそれとは購入できない。美術展の図録に相当する。
・就職してから購入した、復刻本の「荒地詩集」「詩と詩論」にはこの詩は含まれていない。わたしが1971年か72年に初めて目にした鮎川信夫の戦争を色濃く引きづった詩とはおもむきの違う一面に新鮮な印象を受けたと思う。