Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「山頭火句集」を読む

2019年04月12日 12時01分20秒 | 読書
 種田山頭火という俳人は、初めから5・7・5という日本語のもつリズムについてのこだわりを持っていなかったのではないか、そして「起承転結」の「転」「結」という展開にこだわることがその発想にないのではなかったのか、と感じた。今のところその感想のまま読み進めている。韻律、ないしリズムや、叙述に展開をもたないという、詩というものがもつ二つの基本を端からこだわることを拒否をしている、ともいえた。私の詩のイメージがその出だしから比定されている。そのような地点で「詩」というものが成立するのか、という疑問を持ちながら、その軌跡を追っている。

 任意に5句ほどを取り上げてみた。いづれも二つの文章、発想をつなげた叙述の世界である。このふたつの世界から何かしらの別の余韻が生ずる効果を狙っているのかというと、それについても作者自身はこだわっていないように見える。否、端からそのようなことを放棄していると思われる。

★しとどに濡れてこれは道しるべの石
           ⇒梅雨に濡れ標に垂れる鳥の糞
★炎天をいただいて乞ひ歩く
           ⇒炎天をのせ乞食(こつじき)の脹脛
★鴉啼いてわたしも一人
           ⇒旅の果てからすもひとり山桜
★生死(しょうじ)の中の雪ふりしきる
           ⇒雪の夜の生死の中や草鞋編む
★落ちかかる月を観てゐるに一人
           ⇒落ちかかる月とふくろう影ふたつ

 多分最初の句では、「しとどに濡れる」と「道しるべの石」という実景があったとして句稿にはこのふたつが綴られていた、と考えることもできる。私はこの二つをどう結び付けて、何かの結論めいた「転」ないし「結」を求めて一つの世界を作ろうとする。もうひとつは季節感である。短い俳句に一つの世界を現出させるには、季語という言葉に張り付いて世界の助けが必要となる。
 私なりにこの句稿から俳句を作ろうとすると、「しとどに濡れ」から取りあえずは「梅雨」を想定してみた。そして「しとどに濡れ」が冬の寒さや夏の夕立ちの世界ではなく、梅雨時のじめじめして着物が体にベタっとつくような否定的なイメージを持ってくることにした。
 次に道しるべが濡れている、ということをもう少し限定しようと思い、都会ではなく山道、ないし人里離れたさびしい暗い道を想定し、鳥の白っぽい糞を道しるべに添えてみた。糞と云えば美しくはないが、黒っぽく濡れた石の道標に白い糞が梅雨時の陰鬱な天気の中で少しだけ明るく目立つ雰囲気を持ってきた。
 そして私なりに俳句の命と思われる5・7・5のリズムにこだわって語を整えてみた。これはじめのイメージの操作と同時並行で進める。
 以上の結果として、「梅雨に濡れ標(しるべ)に垂れる鳥の糞」という句を作ってみた。

 むろん季節や場所は山頭火の当初の見た目、あるいた発想とは違っているかもしれないので、当然にも他の句が想定されてしかるべきだ。その前提の上に立っての私なりの句のイメージと対比してみたかったのだ。

 他の4つの句についても同様の操作をしてみた。この際、私の句の良し悪し、出来栄えは問わないで欲しいのだが、少なくとも私のような方向での「作為」は行われていない。
 ただし「しとどに濡れ」と「道しるべの石」という文を記した時点で、語調は山頭火なりに整えられている可能性は強い。また「これは」という言葉が大きなポイントとしたと思われる。何の変哲もない路傍の石が実は「道しるべ」の大切な石だったと知ったときの感動がそこに籠められている、ということばできる。
 山頭火の作為・感動が「これは」ということになるが、私はこの限定が寂しい。もうひとつ飛び超えたいのである。

 「転」ないし「結」のためにはもうひとつのイメージが必要である。そのイメージは作為によってつくらなければならいない場合もあるし、またその場で目にした景物や体験に含まれている場合もある。それは意識的に見つけることに大きな労力が必要となる。またイメージを言葉で定着するには語を削り、そして磨きださなければ表れてこない。これは5・7・5というリズムを整えるのと同時並行の中で洗い出すことが必要である。
 5・7・5のリズムに整えようとする努力と体内リズムとの兼ね合いから、例えば6・7・4に削り出す場合もあるし、6・6・5になる場合もある。5・7・5とのせめぎ合いやそこから離れようとする斤力との葛藤もまた俳句の生命でもあろう。

 こんなことを考えながら「山頭火句集」を読んでいる。