昨年の11月1日、私は以下の記事をブログにアップしていた。人の記憶は本当にあてにならないものである。その前日の2014年10月31日、長崎市長であった本島等氏が92歳で亡くなった。私は来年もまたこの記事をアップしようと当日は心に決めていたのだがねすっかり失念していた。
★長崎新聞の報道(11.1)
昭和天皇の戦争責任発言で右翼から銃撃され、全国に論争を巻き起こした元長崎市長の本島等(もとしま・ひとし)氏が31日午後5時27分、肺炎のため、長崎市内で死去した。92歳。旧五島北魚目村(現在の新上五島町)出身のカトリック信徒。自宅は長崎市下西山町7の1。葬儀は密葬で執り行い、お別れ会を後日、長崎市内で開く。
長崎市長に初当選したのは1979年。市長3期目の88年12月、昭和天皇が重篤な状態にある中、定例市議会一般質問に答え「昭和天皇の戦争責任はあると思う」と発言し、全国から抗議や称賛が殺到。当時顧問を務めていた自民党県連などは発言の撤回を要求したが、本島氏は「(撤回は)政治家の死を意味する」として応じなかった。発言から1年余り後の90年1月、市役所前で右翼団体幹部に銃撃されて瀕死(ひんし)の重傷を負い、その名が「平和市長」として国内外に知れ渡った。
この事件以降、過去の侵略戦争に対する反省とアジア諸国への戦後処理の不十分さを「平和宣言」などを通じて鮮明に主張。核兵器廃絶と同時に、アジアへの真の謝罪と和解の必要性を一貫して訴え、外国人被爆者への日本人と同等の援護も日本政府に求めた。5期目を目指した95年の選挙で、新人の伊藤一長氏(2007年に死去)に大差で敗れた。
かくれキリシタンの子孫として生まれ、受洗。貧しい子ども時代を過ごし、戦時中は陸軍に入隊、熊本県で終戦を迎えた。京都大工学部卒業後、長崎南山高教諭などを経て59年から県議に連続5期当選。自民党県連幹事長も務めた。市長時代には故秋月辰一郎氏らと長崎平和推進協会の設立に貢献し、初代会長に。市長退任後の97年、広島・原爆ドームの世界遺産登録に異議を唱えた論文「広島よ、おごるなかれ」で被爆者の被害者意識を批判。以降、原爆投下を「侵略と加害の帰結であり、仕方なかった」と言い続け、物議を醸した。
02年、日本の原爆・戦争被害だけでなく加害の立場も認めた平和政策が評価され、ドイツ政府の功労勲章一等功労十字章を受章。韓国の被爆者団体などが同年に創設した「韓日平和交流功労賞」も受賞した。03年に結成された「長崎の中国人強制連行裁判を支援する会」の代表としても活動をけん引した。
09年春、平戸市沖で沈没した巻き網漁船「第11大栄丸」の船体引き揚げを求める県民有志の代表として尽力。平和団体の各種行事に積極的に参加し、独特のユーモアと庶民派のイメージが市民に親しまれた。今年7月から体調を崩していた。
【http://blog.goo.ne.jp/shysweeper/e/354387e75f28449535c81ec9470ed161?utm_source=admin_page&utm_medium=realtime&utm_campaign=realtime】
★長崎新聞の報道(11.1)
昭和天皇の戦争責任発言で右翼から銃撃され、全国に論争を巻き起こした元長崎市長の本島等(もとしま・ひとし)氏が31日午後5時27分、肺炎のため、長崎市内で死去した。92歳。旧五島北魚目村(現在の新上五島町)出身のカトリック信徒。自宅は長崎市下西山町7の1。葬儀は密葬で執り行い、お別れ会を後日、長崎市内で開く。
長崎市長に初当選したのは1979年。市長3期目の88年12月、昭和天皇が重篤な状態にある中、定例市議会一般質問に答え「昭和天皇の戦争責任はあると思う」と発言し、全国から抗議や称賛が殺到。当時顧問を務めていた自民党県連などは発言の撤回を要求したが、本島氏は「(撤回は)政治家の死を意味する」として応じなかった。発言から1年余り後の90年1月、市役所前で右翼団体幹部に銃撃されて瀕死(ひんし)の重傷を負い、その名が「平和市長」として国内外に知れ渡った。
この事件以降、過去の侵略戦争に対する反省とアジア諸国への戦後処理の不十分さを「平和宣言」などを通じて鮮明に主張。核兵器廃絶と同時に、アジアへの真の謝罪と和解の必要性を一貫して訴え、外国人被爆者への日本人と同等の援護も日本政府に求めた。5期目を目指した95年の選挙で、新人の伊藤一長氏(2007年に死去)に大差で敗れた。
かくれキリシタンの子孫として生まれ、受洗。貧しい子ども時代を過ごし、戦時中は陸軍に入隊、熊本県で終戦を迎えた。京都大工学部卒業後、長崎南山高教諭などを経て59年から県議に連続5期当選。自民党県連幹事長も務めた。市長時代には故秋月辰一郎氏らと長崎平和推進協会の設立に貢献し、初代会長に。市長退任後の97年、広島・原爆ドームの世界遺産登録に異議を唱えた論文「広島よ、おごるなかれ」で被爆者の被害者意識を批判。以降、原爆投下を「侵略と加害の帰結であり、仕方なかった」と言い続け、物議を醸した。
02年、日本の原爆・戦争被害だけでなく加害の立場も認めた平和政策が評価され、ドイツ政府の功労勲章一等功労十字章を受章。韓国の被爆者団体などが同年に創設した「韓日平和交流功労賞」も受賞した。03年に結成された「長崎の中国人強制連行裁判を支援する会」の代表としても活動をけん引した。
09年春、平戸市沖で沈没した巻き網漁船「第11大栄丸」の船体引き揚げを求める県民有志の代表として尽力。平和団体の各種行事に積極的に参加し、独特のユーモアと庶民派のイメージが市民に親しまれた。今年7月から体調を崩していた。
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