ジョー・ライトでなきゃこの映画見てませんって。現代におけるアンナの意味合いを考えるに、とかこんな古臭い題材をどう料理するの、というのが多少の興味でした。で、ライトはこれを劇中劇でうまく逃げたんだね。
映画的にもやはりこの手法は面白いんだよね。アンナの話は架空であり、しかも劇中劇=ミュージカルのようなモノ。それほどシリアスに構えないでも見られます、と。うーん、そうすると安心かな。
映像は、それはそれはうっとりするぐらい美しい。甘美だ。甘美過ぎる。はるかかなた向こうの世界の貴族の生活。舞踏会。めくるめく麗しい。女性が見たらまさに夢の世界だろう、に、、。
ところが合点私は男です。きれいだけれど、何か距離を置いて見ている自分。ダイジェストだからかアンナの年齢もはっきりしないまま、映像を見ているのだ。原作では恐らくまだ二十歳過ぎぐらいの年齢設定ではなかったか。だから男と女の情念の世界にはまり込むのではなかったか。
映画は劇中劇という設定を採っているにもかかわらず、恐らくトルストイが理想とする若いカップルを描いたのだろう真面目リョービンの部分が少々鬱陶しい。
と言ってアンナの部分もただただ肉欲に溺れているだけのようにも取れ、身勝手な女だと思う。夫との年齢差はあるのだろうけれど(ジュード・ロウのあまりの老けように驚くばかり。)夫は大人で立派に描かれている。結婚生活をしていて、どれほどの不満があろうか。
一方不倫行動を起こしながら男の子は捨てがたいわ、不倫の末産んだ女の子はほったからし(のように見えた)だの、どう考えても彼女の行動には肯けない人がほとんどではないか。自分でしたことぐらいは自分で始末しろ、と大声で言ってやりたい気分にもなる。
恐らく高級貴族だからの悲劇ではないだろうに(下層の市井の人々だって、会ってその日から欲望の赴くまま不倫の世界へ、なんか認められるわけがない、と思う。社会という規制空間の中で生きるにはそれなりのルールがあるのではないか。)
ああ、それなのに、最後は夫カレーニナが我が息子と不倫の末産み落とした女の子と草原で戯れているところで終わる。何なんだ。この終わりは。
アンナの現代的意味も何も描かれないまま、劇中劇=紙芝居は終わって行く。きらびやかな夢想花も映画のジ・エンドと共に消え去って行く。
女性はきらびやかな宝塚的世界に一瞬耽溺することも可能だろうが、男の我はいかにすべきか。一体全体ライトはアンナを題材に何を言いたかったのだろうか、、。彼におけるアンナの現代的意義は何だったんだろうか。
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