アンジェイ・ワイダ。作品は今も発表しているが、かのみずみずしさはとうの昔にチブルスキーと共に彷徨い去った、と思っていた。ところが、まだまだ映画に対する愛が充満しているのをこの映画で知ることになる。キアロスタミと同じく、、。
何か分からないが、中年女性のモノローグが続く。見たことがあるようで分からない風貌。物語後半になって彼女が「大理石の男」「鉄の男」で機関銃のように弁舌けたたましくまくし立て、長い脚で早足で闊歩していた女優だと気づく。もうその映画から30年以上。顔もふくらみ細型の風貌は肉も爛れ醜悪でさえある。
歳月だなあ。彼女と同じく僕も、ワイダも、30年という年月を重ねたのだ。彼女のモノローグは撮影監督たる夫の死病についてである。夫の死を案じながらも彼女は死について厭でも考えざるを得なくなる。
彼女は映画では医者たる夫から診察を受ける中年女性を演じている。余命幾ばくもないと診断する夫は彼女に何も言えないでいる。彼女は息子のような若者にあこがれる。そして年甲斐もなく娘のようにウキウキする。生のときめきである。ところが菖蒲を取りに若者が湖に入ろうとした時、急に沈んでしまう。
菖蒲という植物は生と死の二つの臭いを持っているという。先ほどまで生で溌剌としていた若者にも死が突然襲う。人間の生命とは一体全体そんなにはかないものなのだろうか、、。
映画はその撮影シーンから急にメイキングシーンに移行し、女優が死から逃避し、雨の中彷徨するシーンを捉える。グロテスクな水着姿をさらす彼女にカメラは優しくない。
彼女のモノローグも、死病に取り憑かれた女優の懊悩も、カメラを廻し演出するワイダもみんな死を意識している。そして突然何の前触れもなくこの映画は終わる。
死について主に書いた。この映画は死についての叙述が多いが、決して暗くはない。死と対応する生の燃えるようなみずみずしさも感じられる激しい映画なのである。生と死とは一体のものなのだ。死を描くということは生を描くことでもある、そんな映画の基本的姿勢から円熟のワイダの若い顔が垣間見えた。
秀作である。思いがけない拾いものの映画である。ワイダはまだまだいける。
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