こういうみんなが知っている事故を映画化する意義はどこにあるのか、をずっと考えていました。だいたいイーストウッドはもう余裕だから、作りたい映画しか作らないんだよね。そんなイーストウッドの心境を探ると、、。
映画はそりゃあイーストウッドにしてはコンパクトだけど、さすがの映画構成を見せてくれる。2時間弱、「気持ちとしては一気」だからすこぶる秀逸な映画であります。また単なる事故もの映画にしていないのは冒頭からの描写で分かるところであります。
観客はあの事故の数分間の様子をどうしても見たいわけです。でも映画はそのシーンはしばらくお預けです。それより、瞬時に名判断をした英雄を犯罪者に仕立てる世の仕組みについて問うているわけです。これほどまでに形式を重視するアメリカン民主主義の危機についてです。
左エンジンが作動していたはずだ、という委員会の指摘は、あの機長をしてひょっとしたらという気持ちを一瞬思い起こさせたのかもしれない。けれども彼は瞬時にそれを否定する。自分自身の数十年の歳月、経験、人生そのものが彼を真実の追及に迫らせてゆく。ここに至る彼の信念が一つの見どころでしょう。
そして公聴会。まるでゲームを解析するかのような安易な発想。これが現代の真実なのである。有用な知力は無駄に使用されている。
そしてあの数分間の再現もさすがと思わせる映像でした。作品的には寸分の狂いもない完璧な映画です。でも、僕的には、ちょっとイーストウッド的色彩や味わいに達していない気もしないではない。しかし、まあ、あまり文句を言えない映画ではあります。
一つだけつっ込みを上げたいのは、公聴会で機長が指摘してから、左エンジンの性能検査の結果を知るところとなるが、だいたい公聴会前にそもそも左エンジンのことは調べておいてしかるべきことなのではないか。(ここは事実がどうなのか実際分からないんですが、不思議でした。)そうすると公聴会なんて不要なんだけど、、。
イーストウッドの才能をしかと確認した映画でしたね。秀作です。
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