先日、新作の映画を2本を見た。一本はカンヌ映画祭で最高賞のハネケ監督の「白いリボン」、片やあまり話題になっていない金子監督の「ばかもの」。
「白いリボン」は北ドイツ独特の陰鬱な空を暗示する人間の奥底にある悪を描いたものだ。これまでドストエフスキー然り、映画でも数々の映画作家が人間本来のどうしようもない暴力とそれに対する罪と罰そして救いを描き続けてきた。映像が白黒で内容が悪意の連続を描く怖い作品なのだが、撮影が素晴らしく沸々と蠢き始める人間の心理を静謐に映し出している。
まるで現代のベルイマンのような映画なのだが、不思議とこの映画、僕は若い時だったら絶賛したんだろうけれど、読後感はそれほどでもなかった。というのも、だからどうなの?というジレンマが残るのである。恐らく現代の人間の終末に近い現状を提起しているのであるが、解決は示さない。それは観客がそれぞれ受け止めて自分で処理しなければならないのであろう。
作品としても立派で、恐らく今年のベスト3に入るべき映画なのだろうと思う。でも、僕は少々気持的にはこの映画のこういう高踏的な見方が少々煩わしいのだ。
その映画を見た後「ばかもの」を見た。これは経験もない男女が本当の男と女の愛に目覚めるまでの10年の歳月をじっくり描いたものである。始まりは肉欲からの二人であったが、本当は生涯のかけがいのない赤い糸で結ばれた男と女であったのだ。
こういう純愛も古くから文学、映画では描かれていた。どちらかというともはや老域に達する私ごときがこういう若者の恋愛話にうつつを抜かしてはいられないのだが、「白いリボン」の高踏的な映画を見るにつけ、逆にこういうシンプルでストレートな話に気持ちが行くのである。
若い時は理が勝り、年老いては心が先行する。これはどの人間にも言えることなのでしょうか、、。最近の少々変わりつつある我が映画性向であります。
「白いリボン」は北ドイツ独特の陰鬱な空を暗示する人間の奥底にある悪を描いたものだ。これまでドストエフスキー然り、映画でも数々の映画作家が人間本来のどうしようもない暴力とそれに対する罪と罰そして救いを描き続けてきた。映像が白黒で内容が悪意の連続を描く怖い作品なのだが、撮影が素晴らしく沸々と蠢き始める人間の心理を静謐に映し出している。
まるで現代のベルイマンのような映画なのだが、不思議とこの映画、僕は若い時だったら絶賛したんだろうけれど、読後感はそれほどでもなかった。というのも、だからどうなの?というジレンマが残るのである。恐らく現代の人間の終末に近い現状を提起しているのであるが、解決は示さない。それは観客がそれぞれ受け止めて自分で処理しなければならないのであろう。
作品としても立派で、恐らく今年のベスト3に入るべき映画なのだろうと思う。でも、僕は少々気持的にはこの映画のこういう高踏的な見方が少々煩わしいのだ。
その映画を見た後「ばかもの」を見た。これは経験もない男女が本当の男と女の愛に目覚めるまでの10年の歳月をじっくり描いたものである。始まりは肉欲からの二人であったが、本当は生涯のかけがいのない赤い糸で結ばれた男と女であったのだ。
こういう純愛も古くから文学、映画では描かれていた。どちらかというともはや老域に達する私ごときがこういう若者の恋愛話にうつつを抜かしてはいられないのだが、「白いリボン」の高踏的な映画を見るにつけ、逆にこういうシンプルでストレートな話に気持ちが行くのである。
若い時は理が勝り、年老いては心が先行する。これはどの人間にも言えることなのでしょうか、、。最近の少々変わりつつある我が映画性向であります。
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