セリフの徹底的排除、動かない長時間のワンカット、聞こえてくる本来劇映画では排除される街中の日常音(騒音も交じる)、そして最後にミンリャンは映像の本質論を唱え、観客に映像を見続けることの忍耐力と想像力を導く。
今までの作品のように、現代人の孤独とか、よそ者意識の追及とかそういう括りでは本作を語ることは困難だろう。
映像はロングショットが多用され、実に街中で日常に僕らが風景(他人)を見ているそのままが映像に映し出されている。それらは当然、ロングショットである故、人々が何を言っているのか分からないいつもの日常光景でもある。そしてロングショットが急に人間に近づく。僕らは人間の表情をつくねんとみる。
本作の流れの中心は映像である。常時降っている雨、そして河の音。そうここに存在するのは水、水、水だ(まるでタルコフスキーみたい)。そして一方音といえば、街中の騒音と人間の鼾と苦しげに聞こえる息の音。
無駄なものをどんどん切り捨てていくと映画ってこうなるのかな。
ミンリャン、最後の作品と言う触れ込みだが、彼は最後に観客に「映画とは一体全体さてそもそも何なんだろう、映画で何ができるのだろうか」と問いかけて終わる。
映画って、そう何なんだろう、、。
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