
奥尻の流氷に浸かった女が海から氷上に這い出す。女は微笑を浮かべている。そんなファーストシーン。が、映像は反転し大災害の模様を写す。3.11かなあと思ったが、奥尻津波の様子である。
小説的である。原作があるのだから当たり前だが、それでもやはり小説的である。熊切は最近は脚本を書いていない。けれど十分映画作家的で作品も見ごたえがある。熊切は「演出オンリーの映画作家」という珍しい存在でもある。
原作モノを得意にするのだからその描く範囲は自由に広がり、他の映画作家のように自分に拘る必要もそれほどないのであろう。本作は前作「夏の終り」と較べ、随分と色彩が入り、彼独特の世界をあぶりだしている。
津波の死体置場の冷ややかな体育館で男と女は出会う。二人とも家族を津波で失った。男は女の手を握る。女も握り返す。女は思う。「これは私の男だ。」
ただ、この時、女はまだ年少の小学生だった、、。
男と女は家族のふりをして同棲している。ただ、女の成長を待って肉体関係は持っていない。けれどそういう自制もいつまでも続くわけはなかった、、。
何か源氏物語の光源氏と紫の上のような関係かなあとも思った。源氏は紫の上が幼児の時にさらって自分の館で育てている。そして成長した暁に妻にするのだ。
僕はこの二人は本当は家族なんか求めていなかったと思っている。二人の愛の成就を図るためには家族という形は安全で便利だった。ある意味家族ごっこはしていたかもしれないが、、。
でも、男と女が相手を求め一旦関係を結んだら、今までの10年間の歳月は逆に津波のように彼らを襲い、むしろ彼らの想像を超えて、強い愛のほとばしりを感得したのであろう。そうなると実の父であれ、社会的規則の執行者たる刑事でさえも彼らの愛の前にはだかる障害物にしか見えなくなる。
彼らの愛はそれぞれ行った殺戮の血の匂いと同化し、すなわちゴミ屋敷の異臭となれ果ててしまう。それでも彼らはこれからも愛を確かめて生きていくことだろう。
熊切は男と女の純粋な愛の形を見事に映像で表現した。愛は尽きつめていくと輝きだす。けれどいつかは塵のようにはかなく壊れていくのだろう。
恐ろしく醸成力の高いしかし醒めた男と女の愛の映像をしかと見た。ただこの映画は観客を選ぶのかもしれません。血の色の雨を降らして、ちょっと稚拙というか引きかけましたが、、。
本年屈指の収穫作であることには変わらない。
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