キアロスタミから見た日本というツールを通して現代を映す野心作だ。これは絶対にキアロスタミでないと撮れない彼独自の感覚が溢れている。しかし一方、全体的に彼一流の余裕を感じる作品でもある。
冒頭、どこからか聞こえてくる女の声。ケータイらしいが、それは映像に嵌まらない。画面外に居る女だ。しかし映像は延々と喧騒なバーの入れ替わり立ちまわる客などの姿をいかにも意味あるがごとく映している。
観客がいろいろ模索して少々疲れて来た時初めて女がケータイを耳に話をしているシーンが出てくる。この段階で観客はキアロスタミの企みに嵌まっていることに気づく。何と才気溢れる余裕のあり過ぎる映像であることか。
ざっとこの映画は全体にこんな風に、始まりもなく終わりもなく当然ストーリーもなく、まるで人生の一部をそそくさと切り取ったように東京のある一日半の日常を描き切る。
デリヘルで生活している優雅な自主性のない女子大生も、人生の黄昏になおかつ欲望を保とうとかすかな快楽を求めうごめいている老人も、仕事に対しては相当優秀だがすぐキレるアブナイ青年も、みんなその日をかろうじて生きているけなげな現代人なのである。
タクシーから見える東京の異様な風景美もアンチ日本人だからなせる技なのかと唸らせる凄腕の映像ぶり。これだけ固有の日本の日常を扱ってもいながら決して日本論になっていないところがキアロスタミの秀逸なところ。
映画に何ができるか。映画とは何か。まだまだ追及し模索するその姿勢に僕は感服する。これぞ秀作。
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