冒頭から秀逸な厳然とした映像を見せつけられる。自信があるんだろうなあ。そして愛のかけらもない人間どもの話が始まるのである。
こういう夫婦もいるんだろうなあ。実際そんな事件は毎日のように新聞を賑わせている。それが現代である。もはやこの荒野はむしばまれ、人間は彷徨うことすら忘れているかのようだ、と。
ええ、良ーく分かるような気がする作品です。けれど愛もないのにセックスだけは、し続ける人間はやはり本能だけは残り、かろうじて生を保っているということなのか。だいたい愛があるなんて思っているのは人間だけで、その他の動物たちは愛の概念はないという。
図式的で、シンメトリーな男と女を対角的に持ってくるこの方法はシャープ。この男と女はどうも不快で虫唾が走ると思っている皆さん。でも、これは我々現代人の生の赤裸々な姿なのだ、とズビャギンツェフは言いたいのです。
例えば、子供が行方不明で探し回っている時でも、子供が帰ってくるかもしれないマンションにはおらず、それぞれ愛人宅で過ごしている。僕にはこれが一番こたえた。
あと、ズビャギンツェフの厭なところは、死体検案の際、通常ならば自分の子供でなければ見せない感情を珍しくあの人間どもに現した部分。何か意味ありげで、そうだとも言えるので怖いシーンです。意図的ですね。
そして、今回気づいたのですが、どうもズビャギンツェフの映画は数学的です。あることがらを筋道を立てて論証する、すなわち証明の方法を採っている感がします。
このイメージは昔ベルイマンに多少感じていたが、ベルイマンはまだ愛を求める希求の思いがあった。ビャギンツェフにはそれがない。シャットアウトです。諦観を強く全面に出している。
でもねえ、何か、あのウクライナのビデオシーンにせよ、浅薄な気がしないでもない。ひょっとしたら、彼はそれほど人間を研究していない、つーか、本を読んでいないのかもしれないと思うのですよ。例えば文学的な深みがないような感じでしょうか。
でも、これほどシンプルな作風の映画作家も実のところ面白いと思っています。インテリでなくてもいいじゃあないか、とも思っています。
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