ソクーロフの「太陽」と同じく天皇の肉声の見事さを貫く秀作である。ラストの10分間、マッカーサーと天皇ヒロヒトとの会見がそれまでのすべてを伏線にしてしまうほどの映画的醍醐味と人間天皇としてのほとばしる感動に酔う。
この映画のミソはマッカーサーの部下フェラーズから見た戦後処理の日本の現実であろう。複眼的に見せたため客観的な視点が出来得たと思う。これはよかった。
大体この手の映画で多く描かれていた日本のぎくしゃくした捉え方がほとんどなく、それどころか今や日本人にも不可解な天皇制の精神性にまで言及しており、そのアメリカ・日本双方のフラットで公平な描写に僕はまずかなり驚き、そして安心もしたのであった。
でも、フェラーズの個人的な恋愛話はちょっと浮いた感もあったかなあ。全編をたどる暗い時代の描写が多いことから映画的には彩りとしては必要だったのかもしれないが、、。
日本人キャストの初音映莉、羽田昌義はアメリカ在住の俳優なのだろうか、初々しくもあり、しかも重要な役柄に彼らを起用したことはかなり作品に重圧感を与えていた。
でもやはりこの作品のすべてはラストの10分間だろう。天皇ヒロヒトの発する「責任はすべて自分にある。国民に対する配慮をお願いする。」。この言葉は身震いするほど感動的だ。もちろんマッカーサーもこの人間的な天皇を知り、理解し、彼自身一番感動したのではなかったか。そんなことが伝わるシーンであった。
恐らくこの映画、アメリカ人にはかなり物足りないものになったであろうと想像する。何故なら、くしくも天皇エンペラーの精神性を戦後60年になって勝利者アメリカ人に啓蒙したのであるから。
かなり僕はこの映画、気に入っています。さすが「真珠の耳飾りの少女」を撮った監督だけのことはあります。秀作です。
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